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歌洗う姫と物怪の少将  作者: 夜宵氷雨
第3章 火の粉は我が身に降りかかる
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摂政

 宣耀殿は、ひっそりと静まり返っていた。日頃は、誰かしら宣耀殿の曹司を使う女房や女官が残っているが、誰もいない。季姫は、まだ皆が戻っていないのかと思ったが、それにしては、時間が経ちすぎている。少し嫌な予感がした季姫は慌てて着替え、裳唐衣まで身につけて正装すると、足早に常寧殿に向かった。

 季姫の姿に気付いた他の女房が、音を立てないよう静かに動き、少しだけ場所を空けてくれる。その心遣いに、季姫は軽く頭を下げると、自分も音を立てないように注意して、少し空いた空間に座った。

「太后殿、困りますなあ。今上があのような有様では」

 御簾の降りた常寧殿の南廂に、先程紫宸殿で見た、基経が座っている。基経は、皇太后である高子に対して、丁寧ながらも、随分とくだけた物言いをしている。

「多少のことは、元気があってよいではないか。万が一にも、今上のお身体が弱くては、皆が不安になりまする」

「しかし、畏れながら、お戯れが過ぎるというのも、皆に不安を与えますぞ」

「ならば、兄上からご諌言くださいな。こうして、ようやくお出ましくださったのですから……」

「あれだけの騒ぎになれば、さすがに見過ごすこともできませんのでな。よもや先日の件、この基経の耳に入っておらぬとでもお思いか」

 基経は、高子とは同母兄妹ではあるものの、口調に反して、二人の間に流れる空気は、ただ、ひたすらに冷たい。冷たく、殺伐としている。互いに、足下を掬われぬよう、用心して話していることがわかる。

「たまたま、御前で事件が起きたというだけであろう」

「そう思えばこそ、静観しておりましたが……こうも続くと、さすがに出張らぬわけには、参りますまい」

「今上は、ほんに摂政殿を頼りにしておられる。せっかく、こうして出仕してくださったのじゃ。ゆるりと過ごされよ」

 高子は、基経を労う言葉を掛けた。しかしそれが、本心からもののではないことなど、基経は承知しているし、高子もまた、基経が信じるわけがないと、決めてかかっている。それでも、相手を気遣う言葉を言わなければ、話が進まないのだ。

「これはこれは、ありがたいお言葉。しばらくは、後宮か内裏におりましょうぞ」

「藤典侍のところにでも?」

 ほんの少しだけ、基経が頬を緩めると、高子の鋭い口調が、御簾の中から飛んでくる。高子は、先程の騒ぎを見ていない。だから既に、基経と淑子が会っていると知らないのだ。

「さすがに太后殿、お見通しであられるか。典侍殿も、我が妹には変わりませぬゆえ、こうして後宮に参ったからには、顔を見ぬわけにはいきませぬ」

「わたくしを除け者にして、何やらお二人で、企みなどなさらなければよいのですが……」

 高子には、最近特に親しい二人、同母兄基経と異母姉淑子の二人が、共に手を取って、この内裏での権勢を握ろうとしているように見えて、面白くない。

 しかし基経は、そんな高子の言葉を、さらりと躱す。

「何か、ご心配をおかけしておりましたら、申し訳ございませぬ。何、他愛もない話で、女房共にも、いつも笑われております」

 苦笑いを浮かべる同母兄を、なおも鋭い高子の言葉が問い詰める。

「そのお言葉、どこまで信じてよいのやら」

「太后殿のご随意に。では、これにて」

 しかし基経は、それ以上言い逃れするでもなく、また一向に慌てる様子もなく、余裕のある表情で、退出の意思を示した。

「摂政殿。ご苦労であった」

 高子が、嫌みをたっぷり含んだ労いの言葉をかける。

「そうそう。本日、畏れ多くも今上を唆したあの三名については、内裏への出入りを厳しく禁じましたゆえ、ご安心めされよ」

 立ち上がり、廂から簀子縁に出た基経は、高子のいる身舎に掲げられた御簾に向かって、この日の騒ぎを、自身が収めたのだと、伝える。

 基経が常寧殿から退出し、その気配がなくなる頃、御簾の中から、高子が投げつけた扇が、廂に転がり出た。


 翌十七日。この日もまた、予定されていた行事が中止となることが決まっている。豊明節会(とよあかりのせちえ)である。豊明節会は、新嘗祭に続いて行われる行事で、帝が臨席し、酒が振る舞われるものである。

 ただ、節会自体は中止となったが、親王や公卿、五位以上の位を持つ貴族達は、節会が行われる場合に準じて、禄を賜っている。中止されたのは、行事そのものであり、それに応じて得られる、上級貴族達の特権だけは、いつも通り与えられることになるのだ。

 紫宸殿の東側、宜陽殿へと続く回廊には、左近衛の詰め所である左近陣座がある。左近陣座は、近衛達の詰め所であるが、紫宸殿に近いことから、公卿達の控えの場として使われる。だから公卿達は、今日の特権を得るため、左近陣座に集まっている。


 そこから、紫宸殿の南庭を挟んで反対側、西側にある校書殿に、二人の人物が現れた。

 相変わらず女嬬の姿をした季姫と、文章生の貫之である。

「そんなに、簡単に話してくれるかな」

「だから、兄様にお願いしているのです。私は素性を明かすわけにはいきませんし、兄様なら、間違いなく紀氏ですから、説得力もあります」

「まあ、どうせ僕も頼まれてるしね。やるだけやってみるよ」

 校書殿は、季姫がよく訪れる場所だが、この日の目的は違った。

 その東廂に、こちらは右近衛の詰め所である右近陣座があるのだ。益が殺された時、駆け付けたのは右近衛府の者達であった。だから、何かを知っている者がいないか、少しでも詳しい話が聞けないかと、訪ねてみたのだ。

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