盗聞
綾綺殿までたどり着くと、ちょうど今上と定省王が、その南にある、宜陽殿に向かうのが見えた。宜陽殿は納殿とも呼ばれ、累代の宝物が納められている蔵がある殿舎である。二人が、その蔵に入るのを見た季姫は、身をかがめて欄干の下に入り込み、ちょうど、蔵の床下辺りに潜り込んだ。
今上と定省王が、二人で話す……もしや益の事件のことではないかと、季姫はこっそり聞いてみることにしたのだ。
「あれから定国は、どうしてるの?姿を見ないけど……」
「藤非職殿ですか?物忌と称して、邸に籠もっているようです」
二人の潜めた話し声は、幸い、辛うじて聞き取れる程のものであった。
「本当に大丈夫?益のことで、定国がみんなに咎められたりしないよね」
今上の言葉に、季姫は自身の予測が間違っていなかったことを確信する。あの事件の時、やはりもう一人が、その場にいたのだ。そしてそれは、非蔵人である藤原定国であったのだ。定国が、物忌として引きこもっているという情報に、季姫は三条に頼んであるはずの、小一条殿への訪問が、未だ適っていないことを、思い出す。いつも機敏で、高子の命令は絶対遵守する三条にしては珍しく、この件にしては、仕事が遅いのだ。おそらく、相手の弁の君から、いい返事がもらえていないのだろう。
「お任せください。今上のその御心を、無下にするような真似は致しませぬ」
「そう、ありがとう。定省は、やっぱり頼りになるね。前から思ってたけど、朕なんかより、よっぽど帝に向いてると思うんだよね」
二人しかいない、という気楽さからなのか、今上は耳を疑うようなことを言った。思わず声を出しそうになった季姫は、慌てて自身の口を塞ぐ。
頭上から、同じく驚きを含んだ定省王の、珍しく感情のこもった声が聞こえる。
「今上。仮にも、そのようなことを仰ってはなりません」
「ごめんごめん。みんなの前では、絶対に言わないから、安心して?」
その発言が、どれほど大きなものであるのか、知ってか知らずか、今上は、かなり軽い調子で、定省王に謝る。
定省王は、今上の言葉の意味に、やや言葉を振るわせて、それを諫めた。
「この場とて、誰が聞いているか、わかったものではございません」
「大丈夫だよ、こんな場所だから。それにみんな、さっきの騒ぎで一杯一杯だろうし」
全く懲りる様子のない今上に、定省王が、ため息を吐くのがわかった。
「どなたが引き起こされたのですか、その騒ぎは」
「だからこうして、定省とゆっくり話せるんじゃないか」
「今上……」
「それで、どこまでわかったの?益が言ってたことって」
今上の口調に、真剣さが加わる。ここからが本題、ということなのだろう。しかし定省王には、今上の問いに答える用意が、まだ無かった。
「申し訳ありません。まだ、何とも……ただ、益殿は、今上にお仕えする前、宇治にいたとか。実はその頃、同じく宇治で育ったのが、藤非職殿であることがわかりました」
「そうなんだ?二人は、その頃から知り合いだったの?」
「それを、調べています。それと、少し気になる人物が……」
「気になる人?」
「先ほどの、山井です」
思わぬところで出てきた自分の名に、季姫は、再び声をあげそうになり、そして再び、慌てて口を塞いだ。定省王が、やたらと自分を追求するのは、単純に行動を怪しんでいるのではなく、また、高子の動きを探ろうとしているわけでもなく、何か理由が、それも、季姫が全くあずかり知らぬ理由があってのことなのかと、耳をそばだてた。
「母上の女房って言ってたよね?」
「はい。今上は、先ほど山井の顔をご覧になられましたか?」
「うん。でも、あんまり覚えてないよ」
先程、季姫に顔を見せるよう言ったのは、今上だったはずだ。それは何のためだったのかと、季姫は頭を抱える。
「そうですか……」
今上の言葉に、定省王は珍しく、やや落胆の色を見せる。
「山井の顔がどうかしたの?」
「いえ、それでしたら何でもございません。まだ、裏を取っておりませんので。ただ、あの山井の素性は、調べてみる価値がありそうです。はっきりしたことがわかれば、ご報告申し上げます」
結局、定省王が季姫の何を、どういう理由で気にしているのか、はっきりしなかった。しかし定省王は、『顔』が問題だと言っている。
思えば仁寿殿で遭遇した時、まともに顔を合わせているが、定省王が少し、驚いた様子を見せていた。あの時は単に、清められる前のあの場に、人がいたことを驚いたのだと思ったが、それも、別の理由からだったのかもしれないと、季姫は思い至る。
季姫を、どこか別の場所で見かけているのか、それとも、よく似た誰かを知っているのか……しかしそれが、益の事件と一体どう関わっているのか、当の季姫には、皆目見当もつかない。
「それじゃあ朕も、機会があったら山井の顔を見ておくよ。何か、気付いたことがあれば、君に言えばいいんだね」
「そうして頂けると、助かります」
今上にじっと顔を見つめられるのは、さぞかし緊張するだろうと、季姫は嘆息する。
扉が開く音が聞こえ、続いてすぐ、微かに頭上の床板がきしむ音がした。二人が、蔵から出たのだ。床のきしむ音が消えた後も、季姫はしばらくその場にとどまり、二人の気配が完全に消えてから、そのまま床下を進んだ。そうして、二人の足音が去った方向とは、別の場所から表に出ると、何事もなかったかのように、宣耀殿に戻った。




