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「ふう…」
視線を本から窓の外へと移すと、私はため息をついた。
「お疲れでしょう、お茶になさいますか」
「…お願い」
すかさず声を掛けてきた侍女に答えて、私は机からソファへと移動した。
ようやく庭を散歩出来るくらい歩き回れるようになり、お医者様から許可が出て新年度から学園に通う事になった。
とは言っても、私には記憶がない。
当然一年間学んだ事も忘れてしまっているので、テオドーロと一緒に一年生からやり直すことになった。
ちなみに学園は三年間で、パトリックはこの春から三年生になる。
記憶はないけれど会話が出来るように、文字も読む事が出来た。
私が失った記憶は自身の事と家族や身の回りの事。
それからこの世界の地理や歴史といった事で———何故か数学は、学んだ事以上の事を理解していた。
…多分それは、私の中にあるアレクシアではない誰かの記憶にあるものなのだと思う。
私が知る数学の知識には、本にはないものもあったから。
本に書かれている文字も、読めるし理解出来るけれど、記憶の中には全く別の文字も何種類かある。
それらの文字は家の書庫にある外国語の本の中にはなかった。
今もこの国の歴史書を読んでいたのだが、知らない名前や地名ばかりで遠い異国の物語を読んでいるようだった。
私にアレクシア以外の記憶がある事は、誰にも言っていない。
上手く説明できないのと…これは誰にも言わない方がいいと、その記憶が言っているような気がするのだ。
学園が始まるのは三日後。
正直、とても不安だ。
学園には学年は変わるけれど知った者も多くいるだろうし、彼らと会った時にどう接すればいいのか分からないし、どう思われるかも気になる。
授業について行けるか、立ち振る舞いは大丈夫かなど…不安な事は沢山ある。
学園には私の記憶喪失の事は伝わっており、テオドーロと同じクラスになるよう配慮してもらったから安心していいと、父は言っていたけれど。
———そのテオドーロとの関わり方にも不安はある。
彼が義弟であり、私に家族とは異なる好意を抱いているらしいと…知ったけれど、それを本人に確認する勇気はなかった。
もしも聞いてしまったら…取り返しのつかない事になりそうだと、頭のどこかで警告する声が聞こえるようだった。
だからテオドーロには極力姉らしく振舞おうと意識した。
彼の過保護な態度と過剰な接触の仕方は「シスコン」だと思う事にした。
———本人の前でその言葉を言ったら意味が分からなかったらしく、首を傾げていたけれど。
そう、私の話す言葉には他の人たちには伝わらないものがあるらしい。
皆は記憶がないせいで意味不明な言葉が出るのだと思っているようだが…それらはおそらく、私の中の別の記憶が持つ言葉だと思う。
私のテオドーロへの態度が変わった事に、彼は不審がったが…私が彼に慣れてきたからだと思ったようだった。
相変わらずパトリックへの攻撃的な態度は変わらないが、これから姉弟としての関係を壊さないように、仲良くしていけたらと思っている。
記憶が戻る気配は全くない。
本当に忘れ去ってしまったのか、何かのきっかけで思い出すのか———
そして私の中にある、アレクシアではない記憶は…誰のものなのか。
香りの高いお茶を飲みながらぼんやりとそれらの事を考えていると、廊下から走るような音が聞こえてきた。