刹那的トリップ
「悪魔の至福」
地平線の向こうに太陽が沈んでいく頃には、一日が終わる。山本は特に感傷に浸ることもなく、現場監督の作業中断の声で小型のユンボから降りた。現場監督の男は特に山本に注意を払うまでもなく、他の作業員と同様に日給が入った封筒を無造作に渡した。明日も現場入りするのか、と聞かれ、そうだと答えるころには男の興味は次の作業員の返事に向いていた。
この仕事を続けて五年になる。五年前商社に勤めていたころには、こんな仕事に就くとは全く想像すらしていなかった。大手の商社に入社できた上、思いのほか仕事が自分に向いていたのか、瞬く間に同期からも上司からも一目置かれる商社マンとして活躍していた。人生は順風満帆だったのだ。あの女に会うまでは。
駅の高架沿いには屋台の飲み屋が数件ぽつりぽつりと明かりを灯し始めている。仕込みの最中らしいおでんの匂いがどこからともなく鼻先にたどり着き、足を止めかけたが先約があったことを思い出し、歩みを進めた。
雑居ビルの二階は雀荘となっていて、暇を持て余した山本のような人間がよく安い発泡酒とともにマージャンを打っていた。入り口から一段上がった畳敷きのスペースの上に雀卓に見立てた長机に数人が群がっている。畳の上に上がるということで皆靴を入り口付近で脱ぐのだが、他人に配慮するものはないので、かかとを踏みつぶされ汗や泥などの何とも言えない臭いにおいのする靴がぽっかり口を開けていくつも転がっている。山本はそれらの靴をそっと中央に寄せて端の方に靴をそろえておいた。畳の上に立つと、ちくりとした痛みが右足の土踏まずから走る。おおよそ手入れのなされていない黄ばんだ畳だからささくれ立っているのだろう。山本の靴下はよれ、使い過ぎて擦り切れていることもあってこういうことはままあった。
「おっ、来てくれたんですか」
山本の存在に気が付いたのか、今日の呼び出しの張本人、堀井はひょうきんな笑みを浮かべた。笑うとえくぼが浮かぶ、三十半ばの男で、ちょうど山本と年が近いということもあってすぐに話が合った。堀井も山本のように一時期は大手の会社勤めをしていたこともあって、根っからの土木作業員の大雑把な性格がどうも受け入れられない山本にとっては、唯一腹を割って話せる仲間と言えた。
「なんですか、話って」
大事な話がある、と思わせぶりな言葉を残し、堀井が先に仕事に行ってしまったこともあって今日一日ずっともやもやしていた。そんな山本の反応を楽しそうに見ていた堀井は、先ほどまで見物していたマージャン卓から紙コップを右手に持って群れから離れた。山本の肩を抱くと、部屋の隅に山本を連れ、誰にも見られていないことを確認すると、耳元にそっと告白した。
「あなたの同期から連絡があったんですよ。山寺という男で、なかなか上質なスーツにイタリア製の革靴で、ここのビルの一階に訪ねてきたんです。そんな恰好をしてこの辺りをうろつく人間はなかなかいないですからね。いたとしてもロクな連中じゃありません。でも彼はそんな類の人間にはとても見えなかったので、私が思い切って話を聞いたんです。すると、あなたの同期にあたり、同じ職場に働いていたと」
そこで一旦話を区切ると、紙コップの酒を一口飲んで山本に目をやった。山寺は本当にお前の同期なのかと問われ、確かに覚えがあると返すと、満足げに何度も顎をさすった。
「本当なら幸いです。その山寺が言うことには、近いうちに結婚をするから、山本にも一声かけてほしいということと、何やらあなたに話があるということで、近日中にまた連絡をするといって連絡先を残していきました。一応、あなたと全く無関係の人かもしれないのでそれぐらいで話を切り上げましたが」
そういうと堀井はだらしなく緩んだグレーのジャージのポケットを探り、破れた紙の一部を山本に渡した。くしゃくしゃに丸まったそれを丁寧に引きのばすと、確かに連絡先が書かれている。
「それにしても、改まって話をするとは、何の用だろうな」
「さぁ……。詳しくはわかりませんが、儲け話と言っていきました」
儲け話か。山本はかつての同期であった山寺のことを思い浮かべながら、堀井に礼を言い、その場から離れた。よりにもよって、あの山寺が結婚するとは。そしてそれをわざわざ俺に報告しに来るとは……。堪らず口元をゆがめた。何かの嫌がらせだろうか。そうとしか思えない。なぜなら俺は山寺に恨まれるようなことしかしていないからだ_____。
2
前にも言ったとおり、俺はピンからキリまである商社マンの中ではずば抜けて成績が良かった。なぜかは分からないが、俺の手にかかると仕事の効率はほかの社員の倍は進み、報酬もそれ相応にあった。こういうのをまさに天職と呼ぶのかもしれない。ただ、若かったこともあり、自分にうぬぼれてしまったことが唯一の失点だと今になって考える。同じ職場の山寺は俺と並んで軒並み成績が良かったが、俺の方がわずかに上だった。同じ「山」が入ることもあって、職場では冷やかしを受けることも沢山あったが、その多くは「山寺は山本を追い越すことができず、可哀そうだ」といった山寺に対する中傷めいたものだった。本人がそれをどう思っていたのかは知るところではないが、少なくとも持ち上げられた自分は悪い気はしないし、俺自身も山寺が惜しい逸材であるということに異論はないのでそのままにしておいた。
____あの女に出会ったのはちょうどその折だった。佐々木美怜、ちょうど務めていた商社の真向かいにある総合病院で看護師をしている女だった。肌が異常に白く、瓜実顔の美人だった。手足が細く小柄で、何の邪気もなくよく笑った。よくブランドものの服を好み、出費も派手そうに思えたが、それさえ除けば素晴らしい女に違いなく、もし出会うタイミングさえ早ければ自分の恋人にしてやったくらいの美人ではあったが、残念ながら山寺の彼女として紹介を受けた。
なんだか調子が狂うようになったのはこの頃だった。栄養失調、睡眠不足、成績不良。要因は沢山あったように思えたが、何かにつけて俺に会いたがる佐々木美怜の影響が一番大きかったような気がする。邪気のない、純粋な女と見受けられたのは最初だけで、そのあとは徐々に性悪女の本性を現すようになっていった。例えば、手作りのお弁当を差し入れとしてわざわざ二つ持ちこんだり、俺の話を聞くたびに顔をほころばせてみたり……。ある時は三人で食事に行った帰りに何気ない風を装って、山寺の知らぬところで腕を絡ませてきたり……。今となっては危険な女として一歩退くこともできるが、当時のうぬぼれも手伝って、山寺には悪いとは思いながらも、この女はどうやら山寺よりも自分に興味があるらしいと気づいた。この時期、自分にうぬぼれていたこともあって、この女が自分にしてくるわざとらしい好意も優越感に浸る一つのスパイスにしていた。
だから、美怜が早々と山寺に見切りをつけ、俺と恋仲になったのは別におかしなことではなかった。遅かれ早かれいずれはそうなっていただろうことだ。悪いなと山寺にそのことを報告し、その焦燥した面持ちを見て初めて悪いことをしてしまったと胸が痛んだ。だがその後俺の昇進が決まり違う部署に配属されたこともあって、山寺と込み入った話をする都合もつかず。それを皮切りに山寺と話すことはなくなっていった。
山寺から離れ、俺のものになった美怜はどんどんと欲にまみれて言った。いつも食事に行く場所はもっと豪華なレストランがいいと駄々をこね、プレゼントはブランド物でないと受け取らなくなった。そんな美怜の変わりように最初は嫌気がさしたものの、願いをかなえるたびに大きく目を見開き笑顔を見せる彼女に満更でもなくなってしまった。そんな我儘に付き合っていくうち、少しずつ貯金は削られていったがその分満たされてもいた。
そんな調子で美怜の主管のもとトントン拍子に結婚の話が進んだ。風のうわさで山寺が親戚の保証人になっていたため借金を肩代わりせざるをえず、首が回らなくなり会社を辞めたと聞いた。聞くところによれば会社にまで取り立て屋が来たという。なんだかいよいよ山寺に合わせる顔がないと思いながら他人事のように同情していた矢先、自分の身にも同じことが降りかかった。親父が亡くなったのだが、その際に隠していた想像以上の借金の存在が明らかになったらしい。当面は母がパートをして今まで稼いだお金を当てるから心配せずとも好いと連絡が来たが、どう考えてもそんなお金では解決できそうもないと踏んだ俺は自分から美怜に別れを切り出した。借金があると告白した男には未練がないらしく、美怜はあっさり別れを受け入れ去っていった。その後は今までの貯金を借金にあてどうにかやりくりできたのだが、母が心労たたって倒れ、その介護のために会社を辞めざる得なくなった。こうして五年間は日雇いなどの薄給で食いつなぐ日々を送っている。
__そんな俺に、話があるとは。
儲け話とは聞かされたが、まさかあの山寺が俺に金を工面するとは到底思えなかった。
3
堀井の言った通りすぐに連絡が来た。呼び出されたのは神戸の夜景が一望できる豪華絢爛なホテルの最上階だった。美怜と何度か足を運んだことはあったが、店の予約だけでも一苦労だったうえ、夜景が一望できるような特等席を予約するには到底手が届かなかった。まさかこんなホテルのレストランを借金を抱えた山寺が予約できるとは到底思えなかったので、おそらくは結婚相手の女性が相当な資産家ではないかと考えた。壁が薄く雨漏りもするようなアパートに五年も暮らしていた自分が、よもやこんな場所に呼ばれるとは思いもしなかった。かろうじて家に置いてあった一番上質な、かといってフォーマル過ぎないカジュアルダウンした上品なスーツ一式があったので、それを着ていくことにした。
4
「紹介するね……。とはいってももう知っているか。ハハハ、この度僕の妻となりました、美怜です」
目を疑うとはこのことだ。淡いピンクのカクテルドレスに身を包み、山寺に寄り添うように隣に現れたのは美怜だった。どの面を下げて、とは思ったものの当の本人である美怜は気にするそぶりもなくこちらに会釈をした。豊かで艶やかな黒髪を編み込み、アップにしている。ティファニーの時計に、シャネルのバックを右肩から下げていた。ホテルのエントランスからエレベーターに乗り込むまで、山寺と腕を組んだままだった。
この女の図太さにはしてやられた。五年ほどたっても、彼女の姿かたちは別れたままの同じ美貌を保ったままで驚く。ただ近くで観察してみると、どうやら肌の衰えは隠しきれないようで、最後に会った時より化粧が濃くなっていることに気づいた。詳しくは分からないが上品な香水のにおいがする。ドレスにしろ、アクセサリーにしろ、俺と別れる前よりも身に着けているものがいいものになっていた。俺は美怜がどういう算段で山寺とよりを戻し、俺の前に現れたのかを考えてみた。
……全く分からない。
もともと、不思議な女だったのだ。かつては、いくら彼女が俺の金目当てで近寄ってきたとはいえ、恋人同士だった。それなのに話す内容はほとんど俺のことで、自分のことは極端なまでに話したがらなかった。唯一彼女が自分のことを俺に語ったとするなら、それは仕事場の話だ。だがそれも、今勤めている病院への愚痴でしかなく、ありふれたものだった。
「いつ山寺とよりを戻したんだ」
エレベーターに乗り込むや否や堪らず詰問してしまう俺の姿を見、美怜は口元に手をやってくすくすと笑う。手首は細く、白かった。
「それはお食事を楽しんでからの、お楽しみ。今日は随分と良いレストランを取ったんだからね」
そういって山寺の表情を覗き込むと、彼はとても満ち足りた幸福そのものと言った表情で彼女に微笑んだ。なんだかその姿がやけに恐ろしかった。そばで女神のように微笑む美怜が、まるで悪魔さながらに彼をそそのかし、搾り取ろうとしているのに当の彼はその仕打ちを喜んで受け入れている……。二人の様子はそんな風に見て取れた。
やがてエレベーターは最上階に到着した。美怜は手慣れた様子で何やら受付で話していたが、こちらを振り返ると「行きましょう」と先頭を取って歩いた。丸い円卓には皆細かな細工が施された白のテーブルクロスが引かれ、小さなドライフラワーが中央に飾られている。シャンデリアはその円卓の頭上で各々煌びやかな光を放っており、夜景が一望できるフロアとあって上質な茶色のカーテンは閉められている。ホテルが辺りを高層ビル街に囲まれていることもあって、墨塗のように真っ黒な闇夜に青白い光を放ついくつもの建物がぼんやりとそれぞれの形を浮かび上がらせており幻想的だった。そのちょうど眼下に人の交通の流れがあたかも宝石さながらに鑑賞できる特等席に彼女が足を運んだときは、流石に驚いた。一体この二人は俺の知らぬ間にここまでの席を工面できる金を手に入れることができたのか。
5
「今日はわざわざ僕たちのためにありがとう」
五年前から変わらぬ声でそう呼びかけられ、幾分か山本は戸惑った。自分は山寺からは恨まれるようなことしかしていないはずだ。すると山寺はそんな心の内を読み取ったように続けた。
「過去は過去。もう終わったことだ。君も随分苦労したんだろう? 聞いているよ」
そのタイミングで食前酒をどうするのかを聞かれたので、美怜がお勧めのものを選び、それにつられて皆同じものを選んだ。運ばれてきた血の色さながらのワインを注いでもらい、グラスの足を軽く持ち上げて乾杯の意を示した。
一皿目は野菜のスープだ。上品な手つきで何度もスプーンを口元に運んでいた美怜はふと主催者側意識を取り戻したのか「食事を楽しんでね」と一言こちらに行った。二皿目のサラダ、フロマージュといった前菜の後、舌平目のムニエルが運ばれてきた。それを楽しむ間、自然と話の内容は二人の関係になった。
「さっきも言っていたけど、一体二人はどうやってよりを戻したんだ?」
そう尋ねると山寺は美怜の顔をちらりと見た。美怜はその視線に気づきながら一口ワインを飲んだ後、唐突に申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんなさいね。本当は結婚なんて真っ赤な嘘なの。確かに私たちは特別な関係だけど……、それはあくまで私が作り上げる至福の歯車に過ぎないの」
至福? 歯車? 唐突に理解のできない単語が並び混乱した。一体彼女は何を言っているのか。
山寺の方をむくと柔和な表情のまま美怜だけを見つめている。その瞳が人形のように空虚なことに気づき、ぞっとした。
「人はね、美味しい食事や恋人、家族との時間を持つとき、それは何にも代えがたい至福だという人が多いらしいの」
皿が下げられ、いよいよメインディッシュが運ばれてきた。カモのコンフィだ。オレンジソースがかかっていて色彩が奇麗だ。
一旦ナイフとフォークを手にした彼女はその両手首を皿の両端に伏せ、先ほどの会話の続きを話し始める。
「でも、私は違うの。こんなにおいしそうなものを見て、実際に食べてみたところで幸せにはなれない……」
俯きながら皿を覗き込む表情があんまりに悲しそうなので、堪らず大丈夫ですかと心配してしまった。彼女はそのまましばらくじっとしていたあと、気が変わったのかナイフを肉の筋にそって切り始めた。山寺は終始変わらず食事を楽しみながら、彼女を見つめて微笑んでいる。不気味な二人だ。
「それには私の生い立ちが関わっているのかもしれない。私は一般の家庭よりのずっと貧しい家庭で、絵にかいたような貧乏人だったから」
切り取った肉を頬張りながら微笑む。あなたも聞き役に徹していないでどうぞ召し上がって、冷めてしまうから。あたかもそういうような微笑に促されるままカモの肉を口に運んだ。久しぶりに食べる上質な肉だ。こんなに素敵な晩餐はここ五年でまったくない。こんな贅沢をしていいのか不安にもなる。なんだかこれが最後の晩餐になる気がした。
「父はトラックの運送をしていたの。朝から晩までトラックでものを運んでた。何を運んでいるのかは全く教えてくれなかったけど、とにかく父のおかげで私たちは生きていくことができた。高校の時、病弱だった姉がなくなって、父はその葬儀のためと言ってトラックで沢山ものを運んでいた。でも姉がいなくなった重圧に耐えきれずにその仕事はやめてしまった。私はちょうど大学生になって、看護師を目指して専門学校に通っていたの。だから私が生計を立てるようになった」
彼女が貧乏だとは到底思えなかった。だってすでに山寺に紹介されたときには何十万とする高価なブランド物の衣服を着こなしていたから。そしてそれは、看護師の給料だけでは手が届かないようにも思えた。大方男に貢がせたのだろうとは思うが。
「……それから専門学校の先生が通じている大学病院に研修に行くことになってね。研修と言っても病院だから、毎日当たり前のように人が死ぬの。どんなに手を尽くしても駄目な時がたくさんあって、心が折れそうだった。今をこんなに生きたがっている人がいるのに、それができないなんて」
その気持ちは理解できた。日雇い暮らしが続くとどうにも体を壊しがちになる。だが病院に行くような金もなく、結局は死んでいく人たちをたくさん見てきたからだ。医療関係に従事しているとその気持ちはこんなものではないだろう。
「でもある時、私が患者さんの容態の変化に気づいてお手柄だった。一命をとりとめたのね。でも、私はその病院の院長に呼び出された。彼はこういったの。正直にいうとあの患者はどう見ても長くはない。だから研修生に看させておいて、見過ごさせている。ここには身寄りのない人間ばかりだから訴えられることもないし、そうなっても研修生相手では罪は軽くなる。……生きる命と生きられない命は選別させられるんだよ。君ならわかっているだろう? 君の父は僕が頼んだ運び屋なのだから」
すっかりカモのコンフィを飲み込んでしまった後、急に背筋にうすら寒いものが走った。皿が下げられる。次はデザートだろうか。
「その時に今までの謎が全部一気に解けたの。院長は合法に、時に違法に臓器を輸送させていたの。まだ生きる見込みのある患者を生かすために……。父はその運び屋だった。だからトラックの輸送だけで一家を支えていられたのね。でもお金のために姉の臓器をすっかり売ってしまった後、罪悪感でやり切れずにその仕事はやめてしまった」
ビロード色のガラスコップに桃のシャーベットが盛られ、運ばれてきた。何か食べていないと恐ろしいことになりそうで、銀のスプーンを取ると少しばかり掬って口に運んだ。冷たいシャーベットが舌先の体温でゆっくりと崩れていく。桃の甘さが口の中で粘つくように広がった。
「その院長の意見の半分に私は賛成で、半分は反対だった。だってそうでしょう。いくらドナーが少ないからって身寄りのない人から奪い取るように次の命につなげるなんて……」
美怜はシャーベットを掬おうとして、やや躊躇ったようだった。スプーンを手に取ったまま、思案している表情を浮かべている。少し下を向いて、下唇をかんでいた。何を考えているのだろうか。俺は言いようのない不安が切実に迫っている感覚に襲われた。彼女が何かを言う前に、この席を立って立ち去ってしまいたい。彼女がこれから発する言葉を聞いてしまえば、もう元の生活には戻れないと思ったから……。美玲はふと下を向いていた顔を少しばかり上げた。俺と目が合う。その瞳が爛々と輝いていることに気が付いて、ぞっとした。
「だから、私は志願制にしたのよ」
彼女が何を言っているのか一瞬分からなかった。
「あくまで自分の周りにいるひとたちに聞いて回るの。みんなが納得していれば、それは幸せでしょう? そして余ったお金を私は自分のものにした」
はっとした。彼女が美貌を保っているのも衣服が取り立てて優れているのもすべて、そのお金の力によるというのか。その途端に、彼女と言う女が持つ欲望と言うものに戦慄させられた。この女は、救われる命のために他人の命を奪うことを心から批判していたわけではない。むしろ院長から話を聞かされるうちにこれは使えそうだ、と踏んだに違いないのだ。己の美しさを利用し、またその美貌を保つためにはそれなりの金が必要だった。そのために山寺や俺は利用された。他にも利用された男はいるに違いない。自尊心と優越感が満たされるなら、彼女はそれで満足だったのだろう。だが、そのうち彼女は男に金を貢がせることにはすっかり飽きてしまった。だから、新たな楽しみを求めていた。それが院長の話を聞くうちに、これは新たな楽しみになると考えたのだ。
「おなかが満たされて、ぼんやりしてきたでしょう」
唐突に彼女がこちらをむいてこんな質問をした。確かにおいしい食事で腹は随分膨れた。
「あなた、隠しているようだけど、もう借金で首が回らないんでしょう? あなたのお母さまから聞いたわ」
気が付けば全身に温かな毛布が掛けられている錯覚を起こした。ぼんやりと、視界に繭がかかって来る。
「大丈夫よ。山寺君も同じだから。大丈夫、いらない臓器だけを出すの。死にはしないのよ。彼もすぐに慣れたわ。不便なのは最初のうちだけなの」
山寺がなぜ借金を完済できたのか、そしてこの場所になぜ俺をよんだのかはっきり分かった。復讐だ。この悪魔のような美女の手を借りた復讐。
「お酒が入って、酔いが回ってきたでしょう?大丈夫、あなたもまた、至福の歯車となるの……。世界中の人を救うのよ」
最後に捉えたのは爛々とした悪魔の瞳で、その後はすっかり視界は黒くなって何も見えなくなった。