心、ここにあらず
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
なんだかんだで、夏休みももう二週間程度しか残っていないねえ、こーちゃん。いやはや休みに入る前はめちゃんこたくさんあるイメージだったのに、こうして終わりが見え始めると「ああ、あっという間だったなあ」って、強く感じちゃう。実際のところは、振り返る時間が早いだけなのだろうけどね。
休みを終える直前になると、ふっと空しく感じられる時があるんだよねえ。明日にはゆっくり寝てられないなあとか、この休みの過ごし方で良かったんだろうかとかさ。
どんな終わりが控えているにしても、僕たちは自然とその先のことを考えてしまう、防御機構が備わっているんじゃないかなあ。将来、起こり得ることと、過去を振り返って解決策を探ろうとしてしまうこと。楽しいことなら、待ち遠しくて仕方ないだろう。
ただそれも行き過ぎると、厄介なことを招いてしまう場合もあるらしいんだ。僕も小さい頃に、ちょっと不思議な体験をしたんだけど、その時のことを聞いてみないかい?
小学生のある年。
僕は終業式が終わった翌日、家族と一緒に、あるバーベキュー場に行くことが決まっていた。我が家で行われる毎年の恒例行事で、川で捕まえた魚をその場で調理できるというのが、ウリだったよ。
同じ場所じゃなかったけれど、アウトドアのバーベキューに出かけるというクラスメートは何人かいる。お互い、「楽しみだねえ」と話していたが、数日後に事件が起こった。
友達が話していたバーベキュー場のひとつ。そこで行方不明になっていた女子学生が見つかったという話が、学校でされたんだ。
2日前、学校を出て友人たちと別れた後の彼女は、家に帰らず、そのまま行方をくらませてしまったらしい。一切の連絡を取ることもできなかった。
彼女が発見された時、バーベキュー場は定休日で人が少なかった。更に、現場のすぐ近くには車のタイヤ跡が残っており、これの運転手が彼女をさらって、置き去りにしたと考えられている。
「みんな。大丈夫だと思うけど、知らない人の車には乗らないよう、気をつけましょう」
先生が伝えたいことはこれだったのだろう。僕が個人的に気になっている女子学生の現状とか、車の追跡や特定の情報については教えてもらえなかった。
件のバーベキュー場に行く予定だった子も、この事件のせいで親が計画を取り止めるかもって、不安げな顔をしてたっけなあ。
そしてバーベキューまであと4日と迫った、下校時のこと。魚とりシミュレーションを頭の中で繰り返す僕の前で、すれ違うように車道を走っていたタクシーが不意に停まった。車体は黄色く、気持ち小さめのサイズだ。
ドアが自動で開く。ガードレールのすき間から広がるそれは、ちょうど行く手を半ば遮る壁のごときポジションを得た。助手席側の窓も開き、中の運転手さんが声をかけてくる。
「ボク、タクシーに乗らないかい? 今だったらタダにしておくよ」
さすがの僕も怪しいと思ったよ。手をあげていない客に対し、タクシードライバー自らが押し売りとは、熱心に過ぎる。ガソリン代も馬鹿にならないだろうに。
これ、乗り込んだら最後、先に聞いたような事態に陥るかもしれない。
「いえ、だいじょぶっす。間に合ってますんで」
つつっと、開いたドアの脇をすり抜けていこうとする。少し離れてから振り返ると、ドアが閉まるところが目に入り、そのまま発進。この時はただ「妙な人もいるもんだな」程度にしか、考えていなかった。
翌日。その日の僕は、昨日にも増してバーベキュー場のことしか考えていなかったよ。登下校中はおろか、授業中ですらぼーっとしちゃって先生に注意されるくらいだったねえ。
当の僕の意識は、例のバーベキュー場脇、魚を手づかみできる小川へと向いている。イワナやニジマスを岸の近くなど、動きづらいところへ追い込んで捕まえるのが、僕の常套手段だった。
中腰のままじっと彼らの動きを観察し、必要に応じてそうっと移動をしながら、彼らを誘導していって……。
気がつくと、すでに学校は終わり、僕自身は正門を出ようとしているところだった。いつ授業が終わり、先生がどんなことを話して、友達とやり取りしたかが、まるで思い出せない。目が覚めた後で、見た夢を掘り起こそうとした時に似ている。
考えかけていたところに、今度は昨日とは逆。道路の左側を歩いていた僕を追い越したタクシーが、唐突に停まってドアの壁を作ったんだ。
車体も同じ黄色。そして届いてくる声も、おそらく昨日と同じドライバーのものだ。
「タクシー乗ってもらいたいんだけど、いいかな?」
願望丸出しな言い草だ。僕の返答も変わらず、また開いたドアのすき間を抜けて、通ろうとしたんだ。
だが、今度はタクシードライバーが急に車体をずらし、僕の進路を完全にドアで塞ごうとしてきた。のんびりしていたら確実に足止めされていただろう。
僕はドアをかわして逃げ出したものの、今度のタクシーはじっとしない。ドアを閉めなおすや、僕を追いかけてきたんだ。目の前のT字路上部に掲げられた、赤信号も無視してさ。
道路沿いに直進したんじゃ、勝負は見えている。僕はT字路の曲がり角にある某企業の駐車場のフェンスをよじ登り、敷地内を横切りだした。
タクシーは入り口まで遠回りをせざるを得ない。入ってきた時には、もう僕は反対側のフェンスをよじ登り終わっていた。ここから先は、自転車がかろうじて通れるくらいのあぜ道が続く。入り口は駐車場横手の用水路との間だが、あのタクシーの車幅では、侵入は不可能。
背後ではタクシーが腹立たし気なエンジン音を響かせつつ、猛バック。タイヤを鳴らしながら距離を離していくが、昨日みたいに逃げ去ったりしない。周囲を走り回りながら、あぜ道の途切れ部分を探しているように感じられた。
僕は走って逃げるふりをしつつ、民家そばの小屋の影に隠れる。エンジン音を頼りに、あぜ道出口へ向かうのを確かめてから、裏をかいて元の道へ。再びタクシーに出くわすことなく、真っすぐに家へと戻ることができた。
――今度、見かけたら、ナンバーを控えておこう。このおかしな追いかけっこを止められるかも。
そう頭の片隅で思いながらも、僕の意識はすぐにまた、件のバーベキュー場へ移っていく……。
また記憶が飛んだ。
今度の僕は、家から1キロほど離れた、車も通れる大橋の上に立っていた。それどころか、自分は両手と右足を欄干にかけて、そのまま飛び降りようとする態勢。周囲はすでに夜だった。
大橋の高さは十数メートル。真下は石だらけの河原と来た。おまけに身体が勝手に動く。この姿勢から上体を倒し、頭から落ちていかんばかり。止めようとしても聞いてくれない。
キイイ、と背後で甲高いブレーキ音と、ドアが開く音。コツコツとアスファルトをこする靴の音がして、すぐに僕の身体は背後から抱きすくめられた。落ちかけていた身体は欄干から引きはがされ、ほどなく乱暴に後部座席へ転がされてドアを閉められる。
運転席側のドアも開く。席へ着いてハンドルを握った彼は、「出るぞ」と短く告げて車を発進させる。その声は紛れもなく、昨日、今日と僕に声をかけ続けてきたドライバーのものだった。
僕の身体はまた勝手に動く。車の外へ出たがっているようだがドアロックを外さず、ウインドウにごちん、ごちんと頭をぶつけ続けたよ。すれ違う車の一部の運転手は、目を丸くして僕の顔を見てきたのを覚えている。
タクシードライバーさんは無視して飛ばしていき、高速道路に入ると、車体が許す最高速度でどんどん突っ走った。やがて下りるインターチェンジの名前がちらりと見えて、「あっ」と思う。
ここは、僕がイメージしていたバーベキュー場の最寄りだ。
「そうだ。今、このタクシーはボクの考えている場所へ向かっている」
ドライバーさんは心を読んだかのように、そんな言葉を口にした。
「あまりにどこかへ行くことを楽しみにすると、まれにこんなことが起こる。行きたいあまり意識のみが出かけてしまい、身体を置き去りにすることがな。
置いていかれた身体はすき間だらけ。そこへ良からぬものが入り、我がものにしようとするんだよ。本人の意に背いてね」
国道を脇へ逸れた。件のバーベキュー場が2キロ先にあることを示す、看板が立っている。
「先日の女子学生もそうだった。彼女の場合はだいぶ性質の悪い奴に入られたらしい。一度は送り届けたはずなのに、勝手にあそこへ戻ってしまった。心が身体を完全に取り戻すまで、大事ないといいんだが」
そして車はついにバーベキュー場へ。ドライバーさんは確かに察しているらしく、いつも魚をつかみ取りする、川幅3メートル、水深は足のすね程度という小川の近くで車を停めた。
ここまで窓にぶつかり続けてた僕の頭が、ぴたりと止まる。その視線の先には、川の中にひとりだけ、中腰になりながら流れをじっと見つめる影があった。
それは紛れもなく僕。川の中で獲物を静かに待ち構える、何度も想像した自身の姿だった。
何をするべきか、すぐに分かる。僕はドライバーさんがドアを開けてくれるや、その背中へ突進する。これほどバタバタと音を立てているにも関わらず、もう一人の僕はピクリとも動かない。
ジャンプ一番、僕は僕へとぶつかっていく。でもそこに衝撃はなくて、ざばんと水しぶきがあがっただけ。もう一人の僕はもはやどこにも見えなくなっており、足元からはじわじわと夜の川の冷たさが這い上ってくる。
身体もすでに勝手に動く気配はない。僕の指示に従ってくれる。何度か手足をぶらぶらさせて異状がないことを確認していると、ドライバーさんが「帰ろう」と促してきた。
どうにか夜が明ける前に、家へ帰ってこられた僕。ドライバーさんは「将来を気にするのもいいが、目の前のこともしっかり考えな」と、手を振りながら車を発進させる。
そのナンバープレートには、いかなる文字も数字も入っていないことに、僕はここで初めて気がついたんだ。