教育
今回の文章、要約しまくりです
単語の細かい解説は、また後日行います。
与えられた夢しか見れない人達へ
どうも、省油です。
最近、私が通っている学校の先生から、こんな依頼を受けました。
「英語の授業をもっとwonderfulなものにするために何が必要だと思いますか?」
それを語るにはまず、「教育」というものについて説明しなければならない。
教育。
日本人ならば小さい頃から聞かされ続けた単語。誰もが一度は「教育って何ぞやぁ~!」「勉強ってする意味あるのかぁ~?」と思った事だろう。教育とは、一体なんなのか。
個人的な意見としては、教育とは人間が持つ能力の強化を行う為の一つの手段だ。して、その能力とは
確実性のある物事・基準を記憶、把握する「知識力」
物事・基準を主に用い、自分の意見(物事)を作り出す「想像力」
物事の始点を探しだす、またその行動の原動力となる「疑問力」
他人と共存するために自己を開示する「自己主張能力」
この四つであり、これらをまとめて「総合力」とする。
これらの能力は、そのまま「レポート作成に必要な能力」となる。ある一つの物事に対し疑問を抱き、解決するために確定している基準や知識を用いて思考錯誤し、自分なりの意見を確立させまた確実性を高める。ある程度出来上がったものを共存と更なる向上の為に他人に向けて公表する。この一連の自発的な行動の総称がレポート作成であり、大学生に必須の能力と言えよう。
レポート作成能力は、「個」を確立するために、また今現在社会で一番求められている能力である。精神的成長にはこれらの能力強化が必須となる。
では、現在の日本が掲げている教育とはどのようなものか。
授業。語学では文法や単語、数学では数式、他の教科では熟語を暗記する事を中心に行っている。所謂inputに焦点を当てた授業展開だ。詳細は、語学では「自分の意志をどれだけ伝えられるか」ではなく「単語や文法パターンをどれだけ覚えられるか」が基準となって成績がつけられる。文化的交流の前提条件に評価基準とした扱いを求め過ぎた結果、意思疏通手段の一である言語の「手段」と「目的」が逆転してしまった。
テスト。試験とは本来対象者の総合力を計るものである。語学では自己主張や要約、世界史は歴史年表の連結、倫理では「問い」に対する答えの主張、その他教科ごとにあったものが主体となる。が、語学も世界史も倫理もその他も出題内容の殆どが「授業の復習」で終わっている。稀に上記のような問題を導入する教科もあるが、割合は復習:活用で9:1である。復習は知識力の強化しか行わない。
課題。課題とは本来授業だけでは足りない人向けの補充要素、サポートのような存在である。が現状は、評価基準の一つとして扱う体制に変えてから、個人のプライベート時間をも縛る程の規則となった課題という概念は、見事なまでに形骸化してしまった。「両者にとって時間の無駄」と言われるほどに強制の制約が絡まった課題の内容は、本来の目的で作られており、知識力以外の能力の強化に割り当てる時間が失われる結果だけを生み出した。
また、2006年にデューク大学が発表した論文では、「小学生に課題を出すとデメリットしかない・中学でも効果は期待できない・高校なら少し期待できるが2時間以上は無意味」と述べられている。誤訳だなんだと騒ぐ奴もいるが、課題が原因で勉強が嫌いになった人が大勢いることもお忘れなく。学問は好奇心で成立する一種の娯楽、そこから好奇心を取り除いたら一体何が残るというのか?
このように、日本の教育は面白い程に知識力の強化に傾倒している。これは教育方針が、知識力がより要求されていた1940年代から殆ど変更が加えられていない事が原因として挙げられる。
この方針が適応された環境下での優秀な人材とは、所謂頭でっかちのことであり、日本人の殆どが使用しているスマホで代替えが効く社会不適合者のことを指す。
また日本政府が、半不変適存在である知識を常変動する人間に無理矢理詰め込もう、と組んだ教育方法が非常に厄介である。
それが[政府が決めた基準を元に個体ごとの個性を壊して平均化する]というものである。この方法を忠実に実行しているのが義務教育過程担当の教員達であり、彼らは常日頃から子供の夢の破壊作業に勤しんでいる。
またこの教育方法には、
日本人の90%が患ってるとされるである「ネガティブシンキング」
戦国時代にて生まれた発想「弱点対象の焦点集中」
「大人」達による基準のこじつけ「普通・当たり前・常識・正義」
非人間による対人間用進化阻害兵器「恥じらい」
国公式の過小評価を主な効能とする能力低下剤「礼儀」
これらの要素が後押しとなっている為、より実行に移しやすくなっている。
現在の日本教育を一言で表すのならば
「32bitPCを原型から改造し、お掃除ロボットを大量生産する8bit機械中枢」
と言えるだろう。
「英語の授業をもっとwonderfulなものにする」ためには、受講者に意欲を持たせるような内容にすればいい。一番楽なのは、[受講者の利益になる]ようなカリキュラムを組めばいい。
語学は意思疏通手段の一であるということを認識してもらうために、自己紹介/お題に対する自分の意見の作成と、それの共有を頻繁に行ってもらう。英語の場合、ここに英訳のプロセスを挟むだけでよい。
重要なのは、英訳の際、英語翻訳サイトを最大限に活用してもらう事だ。英語翻訳サイトで翻訳した英文と原文を照らし合わせ読解させるというプロセスを行い、「どうしてこのような文になるのか」を自分が作成した文章で考察する時間を設けるためだ。自分が良く使う文法や文章の特徴を押さえることで、より効果的に文法や単語を習得できるという実践形式だ。最終的に英訳をせずとも「文法構成を考えずに」英語で主張できるようになるのが目標である。
前提条件として受講者が[満足に自己主張ができる事]が求められる為、母国語の問題や他の能力値の強化不足なんかにも対処しなければならない。
自分の何を強化したいのか。
基準が曖昧な限り、人間は成長しない。
自分には何が必要か。
自分で決断できるだけの脳を持たせるために、教育がある。
少なくともそれは、我々を殺すための道具ではない。
悲痛の叫びを、どうか聞いてほしい。




