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一ノ谷の合戦の義経は卑怯か? 鵯越の崖を逆落としって、本当にあったの?

 これは、源平合戦でもかなり有名な戦いですね。

 京の西南に位置する福原に布陣した平家は、東に海、西に山を控えた細長い土地で源氏と相対します。

 その陣地の北東部「生田の森」で、義経の兄である源範頼みなもとののりよりが主軍を率いて開戦。

 激闘の中、別動隊の義経が崖の上から、平家の本陣めがけて急襲する「鵯越ひよどりごえの逆落とし」を仕掛けて本陣は壊滅。

 平家の敗軍は、東の海から船で逃れ、更に西、四国の方へと追いやられる…というもの。


 ここで確認したいのは、1.逆落としが本当にあったのか 2.あったとして、義経がやったのか 3.別人が逆落としをしたのなら、義経は何をしたのか、です。


<そもそも逆落としはあったのか>

 源平合戦の後年書かれた『吾妻鏡』と『平家物語』には逆落としのことが書かれています。

 ほぼリアルタイムで書かれていた『玉葉』には書かれていません。

 2対1で「あった」のかというと、そういうわけにもいきません。

 どうもその類似性から、『吾妻鏡』は『平家物語(鎌倉時代にはその原型ができていたと思われる)』を参考にして書かれたのではないかと思われる部分もありますし、リアルタイムの『玉葉』をないがしろにもできないからです。

 また、義経自信の報告では「一ノ谷の西ノ口から(普通に)攻めました」ともあり、逆落としという劇的な奇襲については全く触れられていません。

 さらに、逆落としについての「鵯越の真下の本陣を攻めた」と取れる『平家物語』の記述ですが…Googleマップでも見てみると分かるのですが、鵯越と一ノ谷の平家本陣はかなり離れています。この辺も『平家物語』の怪しいところ。

 鵯越ではなく、本陣真上の鉄拐山てっかいさんから逆落とししたんじゃないかとか、今と当時では地名が違うんじゃないかとか、様々な説が出ているのですが。

 「あったのか?」と言われれば「怪しいんじゃないかなあ…」という答になってしまいますね…。


<逆落としがあったことにしよう!>

 仮に、そういうことにしてしまいましょう!

 で、これは義経がやったのか? …といえば、前述の報告などから、義経がやったという確証は得にくいです。

 そこで、史料によって逆落としの実行者は別れていますが、ここでは多田行綱ただゆきつなという人だと仮定します。

 兄・範頼が大手の軍として生田の森で戦っている間に、義経は横に長い平家の陣地の西ノ口(西側のはじっこ)から攻め立てます。こっちも守っている平家軍がいるので、これが奇襲と言えるかどうかは微妙なところ。

 そして、やや西ノ口よりの山の上、ほとんど切り立った崖から多田さんが逆落としをして、手薄な中央辺りの本陣を攻めます。

 混乱した平家は海へと敗走。


<一ノ谷の義経、何が「卑怯」?>

 …ここまでを振り返ってみて、義経に「卑怯」なところがあるでしょうか?

 多田さんとは途中まで行動を共にしていたようなので、奇襲の指示をしたのは義経かも知れません。

 しかし先程触れたように、奇襲は当時特に問題視されていなかったとすれば、卑怯でもなんでもありません。というより、奇襲で本陣を落とされるのを防ぐために、平家は山(崖)のすぐ傍に本陣を置いたのでしょうし。奇襲がその上を行っただけです。

 また、この逆落としをした人数についても史料で割れていて、「本当にこんな少人数で本陣なんて落とせるのか?」とか、色々疑問のつきない一ノ谷なのです。


<停戦協定中に攻撃した義経?>

 一ノ谷合戦の頃、平家の頭領の平宗盛たいらのむねもりは、朝廷の後白河法王に停戦の申し入れをしています。

 つまり一ノ谷の平家は油断して、武装解除状態だったともとれるのです。

「そこを攻めるなんて、汚い! やっぱり義経は卑怯なだけで、軍略家として優れてなんかいない…」というのもよく聞くようになりました。

 しかし、義経の軍は別動隊です。本軍は範頼が率い、その進発は頼朝の意向を受けたものです。

 それに、平家も「布陣」していた以上、この協定とは別に戦いの準備をちゃんとしていたとも考えられます。

 平家、源氏、朝廷に、それぞれどのような情報がもたらされていたのかは分かりません。しかし、少なくとも「義経が卑怯」と義経個人にレッテルを張ることは不可能です。


<義経の軍略の評価は、奇襲によるものではない(…と思う)>

 誤解されている場面をよく見るのですが、義経を「軍略の鬼才」とか「戦の天才」とか評価している人たちというのは、自分も含め、「一か八かの奇襲を成功させまくってスゴイ」と言っているわけではありません。

 むしろ凄いのは、そのための発想と下準備です。

 一ノ谷(福原)は、北東の先に京都があります。

 義経が、一ノ谷の西ノ口を目指して別動隊として進んだルートは、平家軍が一ノ谷を西側(源氏メイン軍の範頼がいるのとは逆側)から出た場合、京都へ上洛することができる道でした。

 義経はこのルートを押さえて一ノ谷の西へ回り込むことで、平家の「退路=京都への進軍路」を塞いでいたのです。実際、この大事なルートに置かれていた平家の軍と戦って勝利し、義経は西ノ口へとたどりつきます。

 そして、東の範頼と西の義経が、陣地の両端を塞がれて挟撃される形になった平家を海へと追い出すのです。これで、平家の京上洛ルートは断たれました。


 この作戦が一ノ谷の劣勢の中で明らかになった時、平家に走った動揺はどれほどのものだったでしょうか。

 この計算と実行力が、義経が評価されている軍略です。

「奇襲だけの一発屋」のように義経を揶揄する方は、こうした義経の一面の評価が不充分なのではないかと思わざるを得ません。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] >朝廷の後白河法王に停戦の申し入れ 「法王」は「法皇」の誤字かと思われます。 [一言] 資料によって見え方が変わるのが面白いですね。
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