ネット上でよく言われる「当時のルール」って本当なの? …誰も知らない「当時のルール」、あった? なかった?
<誰も知らない「当時のルール」>
まずは、とにかくこれです。
「義経は当時としてはルール違反の行動(奇襲)をした」
「義経の奇襲という行為は、当時は卑怯な行いで、武家の作法を無視したものだった」
「当時から義経は卑怯者として身内からも悪評があった」
これはもう、アンチ義経の得意文句です。
「~らしい」とかではなく、言い切っていることも多いコレ。
この「当時のルール」とは、1.どんなものか。2.実際にあったのか。3.本当に源平合戦当時に遵守されていたのか。
この三点について見ていきます。
1.「当時のルール」とはどんなものか
アンチ義経含め、多くの場合に言われる、中世日本における合戦のルールとはおおむねこういうものです。
①戦の場所と時間をあらかじめ決める
②その場合の互いの使者を傷つけない
③当日は鏑矢(放つと笛みたいに音が鳴る矢)で戦の開始を双方に合図する
④大将同士で名乗り合い、一騎討ち
⑤矢や組み打ちなど、全体の合戦に移行する
これらが前後することもありますが。
これらのルールが、概念として存在したことは先達の研究からして確かだと思いますので、否定しません。
しかし、どの程度守られていたか(特に戦場やその装備も発展・変化していく平安末期)は不明です。
また、書き手の主張が取り入れられた単行本や論文ではなく、より正確かつ客観的に書くことが求められるであろう中世辞典のような本を開いてみると、その多くに「あくまで概念として理想化されたもので、実際にはさほど守られていなかった」と書かれていることが多いのです。
<「奇襲」は当時、卑怯だったのか?>
アンチ義経の言い分は「これらのルールを守らない義経の奇襲は卑怯だ。勝って当たり前だ。勝つために手段を選ばなかっただけで、英雄などではない」というものがよく見られます。
しかし、義経の親世代の戦乱である保元・平治の乱では、平清盛や源義朝(義経や頼朝の父親)が、午前四時とかに夜襲を仕掛けています。
してるじゃないですか奇襲…!
なかったんじゃないですかルール…。
これらは軍記物語(≒小説)である『保元物語』『平時物語』によるものなので史料と言えるかは微妙ですが、それを言ったら『平家物語』の義経の奇襲だって同じなので…。
「夜襲や奇襲の存在する、当時の武家は嫌い」なら分かるのですが、「奇襲をするから義経は卑怯」というのはどうなのでしょう。
まるで奇襲をしたのが義経だけであるかのようです。
<「名乗り合い」「一騎討ち」って、言うほどしてたのか?>
また、名乗り合いからの一騎討ちについても、平安末期の源平合戦においてはあまり見られません。
平治の乱では平重盛と源義平が一騎討ちしてますが乱戦の最中ですし重盛は自分からは名乗ってないし(この話が創作っぽい(建物の構造から考えて無理がある)上に、この戦い自体がクーデターみたいなものなので合戦とは言いがたいですが、他に一騎討ちってあったかなあ…)。
頼朝・義経世代では一ノ谷の合戦において、熊谷直実と平敦盛が波打ち際で戦ってますが、これもほぼ勝負がついた段階での行き掛かり上です。戦の開始段階で上記の「ルール」が展開したのかは不明です。
なお、このシーンについて「一ノ谷で、源氏(義経)は卑怯にも奇襲したが、平敦盛は武家らしく名を惜しんで、名誉のために叶わぬまでも直実に向かっていった。武士としての質に雲泥の差がある」という話もネット上で見たことがあります。
しかし『平家物語』では敦盛は名乗ってませんし(持っていた笛で身元が判明する。名乗るのはもっと後の時代に成立したとみられる『源平盛衰記』)、何が名誉なのかよく分かりません。無理がありすぎます。
それに、この辺の「名乗り」は名誉というより、戦後の論功交渉のためのように思えるのですが…。
<史料に見当たらない「ルール」>
とにかく、史料からは、先程の「当時のルール」を守っている人が、源氏にも平家にも見当たらないのです。
鏑矢くらいは放ってたりしますが、味方に向けての合図のためということもあるでしょうし。
義経がらみの戦いは義経が奇襲するからルール通り始められないという側面はあるかもしれませんが、一ノ谷では最初から奇襲したわけではありません(そもそも奇襲したかどうかも不明。後述します)。
「当時は守るのが辺り前のルールだったからわざわざ書いていない」という可能性もあり得ます。しかしそれなら、義経の奇襲について、もっと世間や敵方、あるいは筆者から「卑怯」とそしる声があっても良さそうなものですが、どの史料にもそんな声はありません。敵からすら(実際にリアルタイムで敵のそうした声を聞いていなくても、本当にルール違反なら筆者が言わせそうなものです)。
<まとめ。「義経の何が『卑怯』だったのか?」>
これらを勘案すると、下記のような推量となります。
「当時から奇襲や夜襲は戦の手段としてあった」
「義経はそれ(奇襲)を、非常に効果的に(ズルいと見えるくらい上手く)運用した」
「奇襲の禁止を含め、アンチ義経のいう『当時のルール』は、実際の戦場ではさほど重んじられていなかった」
そうすると、義経の何が「卑怯」だというか…ということになります。
「いや、『当時のルール』は源平合戦の際、義経以外は遵守していた」というのであれば、その根拠が必要です。
私は、それが提示されたところを見たことがありません。
アンチ義経の言う「当時のルール」は、その人たちの頭の中に、幻想としてしか存在しないのです。
「昔の日本の戦争は、儀礼やルールがあって美しかった」という話も何度か聞いたことがあります。
私には、合戦の何が美しいのかよく分かりませんので、価値観にも差があるわけですが。
「人間同士が知と力を使って、死に物狂いでぶつかり合うことの美」は分かります。鍛え上げられた格闘技はいつの世も人々を魅了しますし。
しかしここで言う「美しい」とは、命のやり取りをする場でお偉い様(貴族でも武士の頭領でも)が決めたルールとやらの、形式を守ることが美しいというのです。
人間同士の極限の戦いとは全く違う美です。
その美学(「当時」まで巻き込んでの)の犠牲にされる有名人は、気の毒でしかありません。