新たな声と身体
意識が戻ってから4日。今日からようやく声が出せるという事で、俺と女医は病室でボイストレーニングをしていた。
「ゆっくりでいいから声出してみて。」
「……うっ…あっ…わたっ…わたしはっ…」
途切れ途切れながらも声を出す事ができた。その声はまだ掠れているが、明らかに今までの俺の声より高い。
「ほら休んじゃダメ!ちゃんと声出せるまで練習しないと、アンタ一生そのしゃがれ声で生きなきゃなんないのよ?」
「……あかさたな……あいうえお……こんにちは……ありがとう……」
「そうそういい感じ!ほら、自己紹介して。あなたの名前は?」
「…たなべ…」
「違う!!もうアンタはその名前を捨ててるの!名前はこれでしょ!」
「ふっ!ふくもと…ひな…です…」
「よかったよかった!可愛い声じゃん!!」
ようやく滑らかに声が出せた。その声は、自分の声とはとても思えない、甘く、優しく、可愛らしい幼さの残る柔らかな声。確かに、あの少女の声とほぼ同じだった。
「おはようございます…ただいま…これ…あれ…」
どんな言葉を発してもこの声が出るので、違和感を感じずにはいられなかった。
「それで、俺はいつ退院できるんですか?」
「こら!その声でそんなしゃべり方しちゃダメ!」
「は、はい…」
うっかり素で話してしまい女医に怒られる。
「まだ骨盤が完成しきっていないからちょっとずつしか歩けないけど、傷口も塞がってきてるし、シャワーでも浴びる?」
女医が提案した。確かに2週間以上も風呂に入らなかったので、身体が少し臭ってきている。気分転換も兼ねてシャワーを浴びる事にした。俺はベッドからゆっくりと起き上がり、手摺を持ちながら一歩ずつ歩き始めた。まだ脚が少しずつしか前に進まない。手摺伝いに歩いて行き、シャワー室に入った。
寝間着を脱いで裸になり、鏡の前に立った。そこに写っていたのは、まだ幼さの少し残る高校生くらいの女の子。背の高さといい、あの時見た少女と雰囲気が全く同じだった。ただ、胸はそこまで大きくなく、身体の数カ所に衣服のように縫い目が走っていた。
下の方に目をやると、今まで20年以上苦楽を共にしてきた"あるもの"が跡形も無く消え、代わりに薄めの毛と今まで無かったものが埋まっていた。男だった頃、"あるもの"を気にした事は数える程しか無かったが、いざ無くなってしまうと何か寂しさを感じる。本来、少女の裸体を見た途端本能的な興奮が起こるのだが、この身体が自分のものであると思うと、興奮どころかなんとなく薄気味悪さすら感じる。
シャワーを浴びて、身体を拭いた。今までより何倍も伸びた髪の毛の乾かし方に手間取り、女医に手伝って貰った。
ベッドに戻ると、女医が陽菜ちゃんの事について色々話してくれた。
「陽菜ちゃんは両親との3人暮らし。杉下電器の部長の父と系列の工場の元従業員の母の間に産まれたの。頻繁に旅行へ行ったりと家族の仲は非常に良かったらしいわ。」
「へぇ、一人っ子……」
5人兄弟の俺には、一人っ子の生活の想像がつかない。
「つい3週間前まで平和に暮らしてたんだけど…2月24日に、フランスで飛行機の墜落事故があったでしょ。」
「えっ…それって…」
「そう。墜落した飛行機に、景品のペア旅行券で欧州に来ていた陽菜ちゃんの両親が乗ってたの。」
「うわあ……なんて気の毒……」
想像以上のいたたまれない事実に、俺も心を痛めた。
「もう高校も決まってたんだけど、陽菜ちゃんはそれから自暴自棄になって、家に引き籠るようになったらしいわ。で、ネットでたまたまこの事業を見つけて今に至るわけ。」
「…酷い…酷すぎる……」
自分の事じゃ無いにも関わらず、あまりの不憫さに涙が止まらなかった。流石の女医も辛そうな顔をしている。
「……で、昨日お見舞いに来たのが、母親の妹、ようは叔母と幼なじみの友達。叔母は31歳、全日本航空の国内線CAなんだけど、亡くなった両親の代わりに陽菜ちゃんを引き取る事になったの。そして、あの幼なじみの名前はユキノちゃん。あの娘は陽菜ちゃんが引き篭っていた間、ずっと心配して連絡を取ろうとしていたらしいわ。」
「はあ……」
遂にはろくな相槌すら打てなくなる程気分が沈んだ。陽菜ちゃんが人生を投げ出した理由が痛い程分かる。
「ごめんね、こんな重苦しい話して。だいぶ心痛めてるようね。私が居ても迷惑だろうし、今日は独りにさせてあげる。じゃあね。」
女医が部屋から出ると、独りになった病室には何とも言えない雰囲気が漂った。「福本 陽菜」として、陽菜ちゃんの辛い過去も責任を持って死ぬまで背負う覚悟を決めた。