「陽菜」として産まれた日
……目が覚めた。俺は何処かに寝かされていた。視界はぼんやりとしていて、まるで金縛りのように身体のどこに力を入れても動かない。鼻と口には呼吸器のような物がつけられ、枕元からは等間隔で機械音が聴こえてくる。これらから察するにここは病室だろう。
俺は今置かれている状況を把握する為に憶えている限りの事を思い出そうとした。確か俺は、女の子を助けようとしてダンプカーに跳ね飛ばされたはず…という事は、なんとか一命を取り留めたという事か?よかった…助かったんだ……
しかし、余程の重傷を負ったのか身体は動かず、声も出ない。もしかしたら、死ぬまでこの状態が続くかもしれない。命が助かってもそんな状態で一生暮らすのは嫌だし、それならむしろ殺してくれとも思った。
何度も身体のあちこちに力を入れ、ようやく上半身の一部を少し動かせるまでになった。右を向くと、眼鏡のようなものが見える。右手に力を入れ続け、ゆっくりと動かした。長い間動かしてなかったせいか、関節がポキポキと鳴る。
眼鏡を取って、かけた。視界がクリアになり、ここが病室である事を確認した。枕元に置いてあるデジタル時計を見ると、「3月19日(金) 11:45」と表示されていた。事故に巻き込まれたのは、確か3月5日。って事は、2週間も意識を失っていたという事になる。あの事故の大きさを段々と実感していった。
しばらくすると、誰かが病室に入ってきた。見ると、30代くらいの背の高い女医だった。
「あら、起きたのね。」
声を出そうするも、全く出ない。
「あぁ、そうだった。声まだ出ないんだった。かなり大掛かりな手術だったもんねえ。よく生きてたよ。ずっと心配してたけど、意識あって本当によかった。」
2週間も意識を失い、生死を彷徨う程だったという事は、よほどの大怪我だったのだろうか。
「あっ、そうだ。手術がどれだけ大規模だったか見せてあげる。ほら。」
そういって、女医は手鏡を俺の顔の前に差し出した。それは、到底信じる事のできない光景だった。
鏡に映っていたのは、あの時俺が助けようとした女の子の顔だった。何度も顔を触ったり、動かしたりしたが、鏡に映る顔もまた同じ動きをする為、これが今の自分の顔だという事がわかった。
「びっくりした?あの時助けようとした女の子と入れ替わっちゃったのよ。まあ、入れ替わったというのはウソで、大量の女性ホルモンを注射して骨格や身体つきを変形させて、顔も整形して皮膚も張り替えてあの娘の子宮と女性器を移植したの。だから生理も来るし子供も産めるわよ。久しぶりのものすごい大手術で私もホントに緊張したわ。生理大変だけど頑張ってね。」
女医は淡々と話していたが、俺には全く受け入れる事が出来なかった。そもそも、なんでこんな事になったのかすらもわからなかった。
ん?待てよ…そういえば事故の直前、コンビニにあった気味の悪いアンケート……確か「人生をやり直したいですか」とかいう内容で、俺はフザケて「はい」と回答したな……まさか、あれが原因か?
「なんであんたがこんな格好してるか教えてあげようか?何故かと言うと、あんたコンビニでアンケートやったでしょ?そこで人生をやり直したいって答えたでしょ?だから人生をやり直すチャンスを与えたの。但し、全くの別人としてね。」
俺には難しすぎて理解出来ない。アンケートに『人生をやり直したい』と書いたのと、あの少女と入れ替わった事になんの関係があるのか。
「正直に言うと、あれはアンケートなんかじゃなくて、『人生をリタイアしたい人』が『人生をやり直したい人』に自分の存在を譲渡して代わりに生きてもらう為のものなの。で、なんであの娘なのかというと、あんた、アンケートに『15歳』って答えたでしょ。人生をリタイアしたい人リストに登録されている中で15歳で同じ身長の子があの娘しか居なかったの。だからもし仮にリストに15歳の男の子が居れば、その子と入れ替わっていたけどね。」
詳しい説明をされても、まだ理解出来ない。
「人生をやり直したい人は一からやり直せるし、人生をリタイアしたい人は存在を消す事なくリタイア出来るし、win-winでしょ?これは私たちが去年から秘密裏にやってる事業で、あんたでもう6人目。」
ようやく理解出来たが、受け入れる事は出来なかった。そもそも、人生をリタイアしたい人は、世の中での存在も一緒に消すと思うが…
「あの娘は即死。人生をリタイアして安らかに天国へ旅立ったよ。でもね、世間ではあんたが死んだ事になってる。怒るかもしれないけど本当にごめんね、勝手に殺しちゃって。」
…いやいやいや冗談じゃない。何勝手に殺してるの。そこまでして人生をやり直す事など一切望んでいない。つまり、俺の家族や友人ともう二度と会う事が出来ないのか。世の中から存在を抹消され、忘れられていくのか。頭の中に数え切れない程の不満が浮かんだが、声が出ないので何一つ言う事が出来ない。
「そりゃあ勝手に存在を消された事に不満がいっぱいあるのは分かるけど、もう手術もしてしまったし、あのアンケートも同意書みたいなものだから、同意しちゃった以上あの娘として新しい人生を歩んで。」
いくらなんでも無茶苦茶すぎる。これじゃあ詐欺も同然だ。女医の凛とした顔を見ると余計に腹が立ってくる。
「あと、この事は絶対誰にも言っちゃダメ。百歩譲って正体バレても何故こうなったか正直に説明しちゃダメ。やってる事は背乗りも同然だから法律に引っかかるし、バレたら事業が成り立たなくなるから。わかった?」
全く望んでいない事を一方的に決められ、口止めまで要求されるなんて到底納得する事が出来ない。声さえ出せれば……下半身が動けば……悔しさと腹立たしさで涙が止まらない。
「とにかく、あの娘の為にも現実を受け入れて。ほら、テレビでも観てゆっくり頭冷やしなさい。」
そう言って、女医はテレビを点けてそのまま部屋から出て行った。もう時刻は正午。テレビには観衆の黄色い声に包まれながらサングラスの男性が登場するシーンが映っていて、これが現実に起きている事だというのを改めて思い知らされた。