第三話 常人の壁
第一次演習、上笠修也、水無月蓮華対佐治大和、佐治夏海の戦いは佐治姉妹の圧勝となった。実践を積んできた人間と一般人の戦い。当然といえば当然の結果だ。
「大丈夫かっ?!」
蓮華をおぶって池から上がった夏海に大和が駆け寄ってくる。その顔はとても不安そうでさっきまでの凛とした姿やその身から溢れ出ていた殺気は微塵も感じられなかった。
「ええ、気絶しているだけよ。心配いらないわ」
夏海は泣きそうな子供をあやすように優しい声で言う。
「そっちじゃない。お前だ!怪我は無いのか?」
後輩の心配をする優しい先輩だと思ったら違っていたようで、ただ妹が怪我をしていないかだけが気がかりな心配性な姉だったようだ。
「そっちなの……。この子の心配をしてあげてよ。癇癪まで起こして、とても辛そうだったし」
「す、すまない。だが、夏海のことだ、悪いことにはならないだろう」
大和は夏海の事を全面的かつ無条件に信頼しているようだ。安城兄妹も同じように、兄弟姉妹、ましてや双子の間柄ならば当たり前なのだろうか。
とはいえ、過度な信頼故に後輩を蔑ろにするというのは無責任と言わざるを得ない。
「いつも言っているけど、私だってミスをするの。今回は大丈夫だと思うけど、万が一の事もあるんだから気は抜かないように」
夏海が大和を嗜める。その言葉に大和はすっかり萎んでしまった。
「大和の方は大丈夫?怪我しているみたいだけど」
「この程度はかすり傷だ。唾でも付けておけば治る」
夏海が大和の肩や脚を見て心配そうに言うが、大和は心配させまいと強がっているわけでもなく平然とした様子で正直に答える。
「ん?へぇ~、不思議なものね」
少しずつずり落ちてきていた蓮華を背負い直す為に蓮華の太腿に触れたことで何かを疑問に思った夏海が呟いた。
「何がだ?」
「蓮華ちゃんの体、全然濡れてないのよ。ついでに私の背中もね」
夏海の言うように蓮華の体はまるで今までのことが無かったかのように水滴の一滴たりとも付着していなかった。
おそらく、蓮華の水への恐怖が無意識に体から水を遠ざけたのだろう。その証拠に蓮華の体に接触していない部分の夏海の体は水に濡れたままだ。
「上笠くん、よね。私はこの子を医務室へ運ぶから大和と一緒にさっきの所まで戻っていてもらえるかしら?」
夏海に敗れた時のまま座り込んでいた修也の元まで来て夏海が言った。
しかし、大和も怪我をしているのに医務室に一緒に行くのではなく、修也の監督を任せる。その行動は不可解だ。
監督が必要なのだろうが、それは夏海が引き受け、大和が蓮華を運べば万事解決なのだが、そう出来ない事情があるようだ。
「はい……」
惨敗によってすっかり意気消沈してしまっていた修也は疑問を感じる余裕も無く、辛うじて返事をしただけだった。
「道は覚えているわよね?絶対に大和の向かう方へは行かないようにお願い」
修也はまるで理解できていなかったが、夏海はそれだけ伝えて演習場から出ていった。
「さて、私達も戻るとしよう」
「すみません。もう少しだけここに居させてください」
戻るように促した大和に修也が懇願した。
「わかった。体を冷やさない程度の時間までだからな」
それからしばらくの間、修也はその場に座り込んだまま自分の情けなさを噛みしめていた。
「第二演習場、準備はよろしいですか?」
第一演習場での演習が終わって数分後、今度は第二演習場に設置されたスピーカーから路乃の声が聞こえてくる。
「あれ?もう終わったんスか?姐さん達ってば新人にも容赦無いんスから」
声のしたスピーカーの方を見上げながら矢澄川小太郎が言った。
第二演習場にいるのは寺岡共輔と舘照美、そして演習相手となる矢澄川小太郎だった。
第二演習場は第一演習場と異なり、まるで闘技場のような場所だった。辺りに障害物は無く、高い壁に囲まれ、その上には観客席と思しき椅子が大量に設置されている。
「相当ヒドイ目に合されたんだろうなぁ……俺もされたかったッス~」
小太郎は恍惚の表情を浮かべて言った。どうやら本物のドMと見て間違いないようだ。
「…………」
共輔も照美もすっかり引いている。今に至るまで一言も会話を交わさない程に警戒をしている。しかし、その行動すらも一つのスパイスとして受け取る小太郎には逆効果だった。
「さて、準備するッスかね」
そう言うと小太郎は来ていたジャケットとTシャツを脱ぎだした。
「なっ!?」
「きゃっ!」
更なる変態的な行動に共輔は愕然とし、照美は両手で自分の目を覆った。
「ん?おかしいッスね……」
小太郎はジャケットを脱いだ後、Tシャツを頭に引っ掛けた状態で異変に気付いた。長い鎖を付けたままTシャツを脱いだのだから、当然鎖がTシャツに引っ掛かり、小太郎がTシャツを脱ぐのを邪魔していた。
「あぁ、これも邪魔になるッスね」
そう言って小太郎は首輪から鎖を外す。鎖はジャラリと音を立てて地面に落ちた。
邪魔になるというならば、首輪も相当邪魔だと思うのだが、小太郎はまったく外そうとしない。
「よし、オッケーッス」
バサッと音を立ててTシャツが地面に脱ぎ捨てられる。
小太郎は上半身裸に首輪。足元には脱ぎ捨てられたジャケットとTシャツと鎖。どこからどう見ても変質者だ。
その小太郎の上半身は割れた腹筋、盛り上がった上腕二頭筋等、なまじ鍛えられている分変態的なのが残念で仕方ない。
「あ、あれ……」
共輔は小太郎の体を見て更に驚く。
共輔を驚かせたものは鍛えられた筋肉ではなく、その体に刻まれた無数の傷だった。
それは歴戦の戦士たる証なのか、それともそういうプレイで付いた傷なのかわからない。普通なら格好いいはずなのに残念だ。残念すぎる。
傷は古い切り傷、新しめの切り傷、火傷痕、真新しい蚯蚓腫れなど様々だが、中でも目を引くのは右肩にある何かに穿たれたような形をした古傷だった。傷はとても大きく、その時の出血を想像するだけでも、血に耐性の無い人なら卒倒してしまうだろう。
「先輩も結構やんちゃしてきたんスか?」
「お?わかるッスか?こう見えても喧嘩は嫌いじゃないッスよ」
初めて共輔が小太郎と言葉を交わす。一言目にして話題が噛み合う。共輔も生傷の絶えない生活を送っていたことから、意外にも息は合うのかもしれない。もっとも、こんな変態と一緒にされては共輔も迷惑だろうが。
「それでは第二演習場、演習開始します。3、2、1、開始!」
スピーカーから開始の合図が聞こえる。しかし、ここでも初手から動く人間はいない。いや、一人だけいた。照美だ。
「う、うぅ……」
今にも泣きだしそうな程に怯えて後退りしている。喧嘩なんてしたことのないのだから仕方ないのだろうが、最初から戦意喪失とはこの先が不安になる。
「よしっ」
掛け声と共に小太郎が身を屈め、息を大きく吸い込む。
突撃を仕掛けてくるのではと考え、共輔は身構える。
瞬間、
「アオオオオオオオオン!!!!」
小太郎のまるで遠吠えのような声が辺りに響く。その声に共鳴するように演習場全体がビリビリと震える。
「嘘だろ……」
二度目の驚愕。共輔は自分の目を疑った。吠える小太郎の体が見る見るうちに変わっていく。
等身が全体的に高くなり、体のあちこちが毛深くなっていく。脚は人間のそれよりも細長く伸び、上半身は多くの傷を覆い隠すように荒い毛並に包まれる。
手から伸びる爪は元よりも遥かに長く、あらゆるものを引き裂けるかのように鋭くなった。最後まで人の面影を残していた顔までも毛に覆われ、ゴキゴキという音が聞こえてくるような程に異様な変化を遂げる。鼻先は伸び、それに応じて口も大きくなる。その口からは鋭い牙が覗く。眼光はもう人間のものとは思えない程に鋭く、まさしく獣のそれだった。
「グルルルルルル……」
人間の面影を完全に無くし、変わり果てた小太郎が唸る。いや、もう小太郎ではないのかもしれない。共輔と照美の前に立つその生物は、かつて幻獣や妖怪として『ワーウルフ』や『狼男』と呼ばれ恐れられたもの、そのものだった。
「グォウッ!!!」
狼男が共輔と照美に向かって吠える。空気が震え、それと同時にそれだけで人を殺してしまいそうなまでの殺気がビリビリと伝わる。
「ひぃ!」
既に限界に近い段階まで怯えていた照美はその姿を消した。耐え切れなくなり逃げ出してしまったようだ。
共輔はというと、今まで感じたことの無い恐怖で膝が笑ってしまっている。そこら辺の不良の発する殺気なんて無いも同然。こうして己を殺し得る存在と対峙して初めて思い知る。自分がどれ程甘い世界で過ごしていたのかを。
狼男はじっと共輔を見据える。まるで獲物を狙う獣の様に。その目は血に飢え、今にも共輔の喉元に食らい付こうとしているようだ。
共輔は震える足を必死で動かそうとするが、ピクリとも動かない。
逃げ出したいという気持ちから体の重心が後ろへと引かれる。動かない足に対して体が先走り、バランスを崩す。それによって反射的に右足が後ろへ引いた。やっとのことで一歩だけ退く事が出来た。
しかし、共輔の足が動くと同時に狼男が駆け出す。どうやら獲物が自分から動くのを待っていたようだ。
狼男の瞬発力は驚異的で、瞬く間に共輔の目の前まで迫る。
「ガウ!」
狼男が吠えると同時に鋭い爪の生えた太い腕が共輔に向かって振り下ろされる。しかし、共輔の足は動かない。
「くっ」
共輔はその爪で引き裂かれ死亡ないし、大怪我をする事を覚悟した。
しかし、狼男の腕は共輔から人一人分横にズレた位置へ振り下ろされた。空振りの所為で勢いを失ったのか、狼男の腕はそのまま力無く地面を殴りつけた。
「え?」
何故狼男が狙いを外したのか共輔にはさっぱりわからず、思わず声が出てしまう。
すると、その声に狼男の耳がピクリと動いた。
共輔は咄嗟に口をふさいだが、もう遅い。
どうやら狼男は共輔の声を聴き、居場所を探り当てたようだ。
狼男は振り下ろした腕をそのまま声の聞こえた方、共輔のいる方へ向かって振り回した。
共輔は咄嗟に振り返り、腕を交差させ、狼男の豪腕を受ける。どうやら予想外の事態で硬直は解けたようだった。
「ぐぅ!」
共輔が苦痛の声を漏らす。狼男の豪腕は両腕のクッション如きで受けられる程弱くなく、そのまま共輔は数m後方まで吹き飛ばされた。
「がはっ」
共輔は地面に背中を打ち付け、肺の中の空気が吐き出されて息が苦しくなる。
身動きが取れない共輔に対して狼男が追撃をする為に迫る。途端、共輔の姿が右に1m程ズレた。
そのまま共輔を狼男が殴りつける。狼男の剛拳は確実に共輔の頭を捉えていた。しかし、その攻撃はまたしても外れ、地面を叩く。
狼男が攻撃を繰り出した先は、共輔の実際の位置の1m程左。まったく違う場所を攻撃しているのだから当たるはずが無い。
「クゥ~ン」
何度も地面を殴った所為で、狼男は痛そうに手を擦っている。
これを好機と見た共輔は決死の反撃に出る。等身の高くなったその体躯は、比較的長身の共輔すらも軽く超える。よって共輔でも懐に潜り込むのは容易かった。
「おらっ!」
共輔は渾身の力で狼男の鳩尾辺りに拳を叩きこむ。拳は狼男の腹に深く入り、確実に打撃を与えたと見られる。
「カハッ」
狼男は苦しそうに息を吐き、蹲った。どうやら狼男にも攻撃は通用するらしい。
(よしっ!このまま……いや、このまま相手のリーチ内にいるのはマズイか)
共輔は追撃をしようかと思ったが、冷静になり一度距離を取る。
「グルルルルル……」
狼男が唸りながら立ち上がる。どうやらさっきの一撃で狼男を怒らせてしまったらしい。
それと同時に共輔も拳を上げてボクシングのような、見様見真似のファイティングポーズを取る。
そして、共輔がこの演習場で初めて(・・・)能力を使用する。狼男の目の前に共輔の分身が現れる。
「ガウ?」
急に分身が現れたことで狼男は戸惑い、反応が遅れる。
「オラオラオラオラオラオラァ!!!!」
その隙に共輔が何度も拳を振るう。それと同時に分身も拳を振るい狼男の腹目がけて連撃を叩き込む。しかし、今度は強靭な腹筋に阻まれて攻撃が通らない。
その間に狼男は共輔の分身に反撃を繰り出す。しかし、その攻撃は分身をすり抜けてしまった。分身はそこに映し出された幻の様にユラリと歪んで消えた。
「よし、今のうちに」
共輔は少しでも狼男と距離を取ろうと駆け出す。狼男の間合いに本体がいるのはマズイと判断してのことだ。
逃げ出そうにも周りは壁に囲まれていて限度がある。素早い狼男はすぐに共輔を追いかける。
「そらっ」
共輔は軽く跳躍し、振り返りながら拳を振るう。それと同時に狼男の目の前に共輔の分身が現れて狼男の顔目がけて拳を振るう。
狼男は見事な瞬発力でその攻撃を避けたが、走る勢いは失われてしまい、共輔との距離が開く。
共輔の見事な戦法。これはかねてから不良共に追いかけられた際に利用していた方法だ。もちろん不良は狼男程強くないので拳をまともに食らい、後ろを走る奴ら共々ノックアウトという具合だ。
「よしよし」
共輔は気分良さげに逃げ続けるが状況はまったく好転していない。未だに狼男に与えた打撃は鳩尾の一撃だけだ。不意打ちだったのもあったのか二度目の分身による腹への連打は防がれている。他に打撃を与えられなければ勝機は無い。
体勢を整えた狼男がまたしても共輔を追いかける。
「そらっ」
共輔は味を占めたのかもう一度同じ方法で迎撃を試みる。しかし、狼男が同じ轍を踏む事は無かった。当然だ。
目の前に現れた分身が拳を振るう瞬間、狼男の姿が消えた。違う、狼男がいた場所には同じ毛並をした狼がいた。狼男は完全な狼へ姿を変え、共輔に迫る。その狼は狼男の姿の時など比較にならない程速く、分身が消える間には既に共輔の元へと辿り着いていた。
その狼は再度狼男へと姿を変え、止めとなる鋭い爪の一撃を共輔へと繰り出そうと腕を振り上げる。人よりも素早い狼男と並走していては振り切れない。共輔は今度こそ終わりだと確信し、己の姿が血に染まる事を想像した。
しかし、共輔の想像するような事態は起きなかった。
狼男は腕を振り下ろす瞬間、爪が当たらないように拳を握り、そのまま拳で共輔を殴りつけた。
共輔はそれを左腕で受けるが、その程度ではクッション足り得ず、拳をほとんどまともに食らい吹き飛ばされ、壁に激突した。
「がはっ」
二度目の背中を強打。またしても肺の中の空気が吐き出され、息も絶え絶えになりながら地面にずり落ちる。
「まだまだぁ!!」
幸い大きな怪我は無く、戦闘は継続可能。体のあちこちが痛むが、共輔は立ち上がろうとする。
そこに狼男が歩み寄る。まだ立ち上がろうとする共輔の頭を押さえ込み、地面に無理矢理座らせる。
「くっ……ぐぅ、ハァ……」
既に抵抗できる程の力を残していない共輔は成す術無く地面に座らされ、壁にもたれかかった。
今までは喧嘩で無双と言える活躍を見せていた共輔だが、人外である狼男を相手にまるで敵わなかった。
共輔を撃破した後、狼男はスンスンと鼻を鳴らして何かの匂いを探っている。
じりじりと歩いていき、演習場の一画で立ち止まった。そして、その場でパチンッと猫騙しをした。
「ひあっ!!」
猫騙しした先から女性の悲鳴が聞こえた。
その場の空間が歪み、へたり込んだ照美が姿を現した。照美は逃げ出したわけではなく、姿を隠しながら共輔をサポートしていたのだ。
もしもの時、男よりも女の方が胆が据わっていると言われているのも頷ける。動けなかった共輔に対して、照美は自分の姿を隠し、共輔の像を歪めて意図的にズレた位置を攻撃させていた。
これも戦線離脱によって自分が攻撃されないという安心感と共輔を守りたいという優しさによって成せた事だろう。
「じー……」
狼男の瞳がじっと照美の目を見つめる。恐怖から照美の瞳が濡れていく。そして、
「ぁ、ぁ……ふぇ……うぅ、グスッ……ふぇ……」
耐え切れずに泣き出してしまった。
戦場では泣いたところで加減はされない。それどころかいい的だ。しかし、今回は演習。対人なら効果覿面だろう。
「ちょ、ちょっと!どうしたッスか?」
狼男が急に人語を話し始める。
狼男はしゃがみ込み、宥めるように照美の頭を優しく撫でる。ふさふさの毛皮も相まって効果はありそうだ。
「グスッ……」
「ほーら大丈夫ッスよ。悪いことしないッス」
まるで子供をあやすように声を掛ける。どうやらこの姿になっても人間の意識はちゃんとあるようだ。
それから、照美が泣き止むまで小太郎は頭を撫で続けた。
「すみません、ご迷惑をお掛けしました」
照美は泣き腫らした目を擦りながら謝る。
「いやいや、気にする事無いッス。俺が少し調子に乗りすぎたのが悪いッスから」
その言葉に反応して顔を上げる照美。
「ひっ」
しかし、そこにいたのは先輩ではなく、狼男だった。
「ん?ああ、まだ解いて無かったッス」
そう言うと、狼男の姿は見る見るうちに元の小太郎の姿へと戻っていった。
「よし、それじゃ、彼氏さんを運ぶッスよ」
「か、彼……えっ!?」
突然の言葉に照美の顔が真っ赤に染まった。
「ぜ、全然そんな……違うんです……」
照美が必死で否定する。しかし、決して嫌な様子ではなく、むしろ共輔に対して申し訳ないといった考えのようだ。
「そうだったッスか?新人は男三人と女三人、確実に全員それぞれ付き合ってるって噂だったんスけどね……」
どんな時代、どんな場所にもそんな拙い噂は絶えないようだ。女性もそれなりにいるようだし、そういう話が出るのは不思議ではない。
「それじゃ彼氏さんじゃない人を運ぶッス」
こんな様子では小太郎は照美の言葉をちゃんと理解しているのかわからない。この先変な噂が立たないか心配になる
二人は座り込んでいる共輔の元へやってきた。途中、小太郎は地面に脱ぎ捨ててあったTシャツとジャケット、鎖を拾っていた。
「お疲れ様ッス。彼氏さんじゃない人のパンチ、効いたッスよ」
小太郎が共輔に手を差し伸べる。
「彼?まぁいいや。先輩の攻撃もかなり効きましたよ」
小太郎の呼び方に疑問を持ったようだが、それを無視して小太郎の手を取り、立ち上った。だが、足元がふらついてまともに立っていられない。
「おっと、彼女さんじゃない人はそっち側と頼むッス。高さは俺が合わせるんで大丈夫ッスよ」
小太郎は共輔の左腕を自分の肩に回させ、反対側を照美に任せた。
「大丈夫です。一人で歩け――」
「ダメッス。たとえ疲れているだけでも俺はやめないッスよ。これは演習。相手を労うのは当然ッス」
共輔が小太郎の手助けを断ろうとするのを小太郎が遮った。
それを聞いて共輔は素直に小太郎と照美の肩を借りることにした。
「寺岡さん、ごめんなさい」
歩き出してすぐに照美が共輔に謝った。
「あ?なんで謝ってるんだ?」
「だ、だって、私……怖くて、逃げて……その所為で寺岡さんが」
当然といえば当然の事だ。照美は無傷。対して共輔はズタボロ。照美のような性格の人間が引け目を感じないはずが無い。
「あぁ……それか……」
共輔はどう言ったものかと悩んでいる。共輔は照美の活躍を知らない。本当に逃げ出したと思っていたのだ。だからこそ、照美を傷つけない言い方を模索していた。
「俺が攻撃した時は全部確実に彼氏さんじゃない人がいる場所を狙ったッス。わざと外した時なんて一度も無いッスよ」
小太郎は照美の能力によって攻撃位置をズラされた事を直感的に察していた。しかし、あくまで大まかに。正確な能力の把握はまだ出来ていない。それでも、今まで神判者を相手取って戦ってきただけはある。いい洞察力だ。
「てことは……」
共輔が小太郎の言葉で察する。
(いる場所にいない。いない場所にいる。あるはずのものが消えているってことは……照美の能力か)
「お前が助けて――」
「関係ありません。逃げたのは本当。私だけ怪我をしていないのも本当ですから」
照美はすっかりネガティブな思考に陥ってしまった。こうなってしまった照美は頑固なもので、一向に折れる気配はなかった。
照美のこの点の克服はまだ先になりそうだ。
「寺岡共輔の戦闘能力は悪くありませんね。矢澄川小太郎は生身の人間にはめっぽう強いので相性を考えても善戦したと言え、それなりの肉弾戦は出来そうです。一方舘照美は論外。ずっと陰で震えていただけですね」
路乃が分析する。照美の悪さが目立ったことで、路乃の目には共輔が良く見えたようだ。だがその分析は能力の本質が見えておらず、お粗末極まりないと言えるだろう。
「照美の能力はカメラには映らないか」
そんな路乃を見かねてか、村田がぼそりと漏らした。
「え?舘照美は能力を使っていたんですか?」
「おそらく、小太郎は意図的に外したんじゃなくて、小太郎には攻撃した位置に共輔が見えていたんだろう」
「つまり、対象者が認識する像をズラす。もしかして、舘照美の姿は矢澄川小太郎には見えていなかった、と」
「そうだろうな。姿を隠せるのは、精々一方向からのみ。こうして後方のカメラからは容易く撮影されるわけか」
「報告から想像していたよりも穴の多い能力ですね。てっきり完全に姿を隠せるものかと」
どうやら照美の能力の確かな性質は、路乃どころか、村田の耳にすら入っていなかったようだ。神殺しの情報とやらも完璧ではないらしい。
「だとしても、舘照美の戦闘能力は皆無と言えます。班を工作班に異動させるべきでは?」
「いや、ダメだ。根本となるこのチームは変えられない。上からの命令なんでな」
「はぁ……」
村田の説明に対して路乃はまるで納得していないようだが、分析を続ける。
「寺岡共輔の能力は拡張性のある能力だと思えます。操作系程では無いでしょうが。どうします?」
「そうだな、肉弾戦が基本になるから戦闘班の方面がいいかもな」
「わかりました。そう通達しておきます」
修也や蓮華に対して意外と好評価と言えるだろう。しかし、結果は負け。まだまだ課題の残る結果となった。
「最後になります。第三演習場、準備を始めてください」
最後に残ったのは安城兄妹と陽本圭のいる第三演習場。
第三演習場は他の演習場とは一線を画す不思議な場所だった。
「じゃあ俺はここで待っているから、二人は中でスタンバイしてくれ。準備が完了したら合図を」
圭が入口の方を指し示し、二人に指示する。
「はい、わかりました」
烈也の代わりに穂波が返事をして烈也を引っ張っていった。
二人が向かう先、それは五階建ての廃ビルだった。
第三演習場は廃ビルを保管し、それをバトルフィールドとしている。第一演習場同様にフェンスに囲まれており、定期的な点検や内部や外周に取り付けられた監視カメラで安全性もバッチリ。建造物への侵入の訓練もできるというとても有用な施設となっている。
「それでは、私は内部を把握してきます。兄さんはどの階で待ち受けますか?」
廃ビルに入ってすぐに穂波が烈也に聞いた。既に監視カメラの存在に気付いているようで、いち早く知っておきたいようだ。
「お前の指示を仰ぎたい。供しよう」
「ありがとうございます」
打ち合わせなんてしなくても、二人の間で役割は決まっている。戦闘は烈也、援護及び参謀を穂波。お互いの能力を深く理解し合っているからこそ取れる体制だ。
穂波は部屋のドアを一つ一つ開けながら内部構造を頭の中へ叩き込んでいく。その後ろを烈也が付いて行く。散歩をする妹と見守る兄。周りの風景が廃ビルでなければ、微笑ましい光景だっただろう。
「はい、それでは合図があり次第こちらへ知らせてください」
路乃が圭からの通信を受け、指示を伝える。
「それで、陽本圭を第三演習場に配置してよかったのでしょうか?」
路乃が横に立つ村田を見上げて訊ねる。
「何の問題がある?」
「何のって、制圧戦は彼の十八番ですよ?覚えていますよね?一昨年の事件の事」
「いや、覚えていない」
村田は何故が自信満々で答える。どうやら本当に覚えていないようだ。その様子に路乃も頭を抱え、ため息を吐く。
「神判者の立てこもり事件です。一昨年の夏頃の」
「あぁ……なんとなく思い出してきた。んで、詳細は?」
この顔はまったく思い出していない顔だ。それで詳細を話させるだけ話させておいて、それも覚えすらしないのだろう。
「……一昨年の八月十九日から二十日にかけて起きた事件です」
路乃もそれを理解しているようで、少し躊躇いながらも説明を始める。
「ビルに神判者が三人の人質を取って立てこもりました。世間的に公開はされていませんが、事件を起こしたのは木城智弘。年齢は当時十九歳。能力は紙を鋭利な刃物にする能力。変化系に分類され、触れている物のみの適応でその場にあったコピー用紙を利用しました。動機は就職の――この辺りは余計ですね」
犯人のデータを参照していた路乃が話題を戻す。
「事件発生の翌日、やっとのことで警察から要請があって陽本圭、矢澄川小太郎、佐治大和、佐治夏海の四人を派遣。現場へ到着後、制圧作戦へ参加。ビルの見取り図を確認した直後、陽本圭が単騎で突入。怪我人一人出さず、僅か五分足らずで制圧」
「能力の相性が良かったんだろ」
路乃の説明に対して、妙に否定的な村田。圭に対して不満でもあるのだろうか。
「それもあるでしょうが、圧倒的な理解力。空間把握能力とでも言うのでしょうか。ビルの内部構造から人質と犯人のいる場所の把握、安全な突入経路の算出。カリキュラムで基本は教えてありますが、それらを瞬時に行って見せたのは天性の才としか言えません」
路乃は圭を手放しで褒める。これが当然の反応だ。人質がいるからと間誤付いていた警察と違って、即刻行動に移し、理想を実現して見せた圭は称賛に値する。
「そんなもんかねぇ……」
村田は未だに納得していない。圭に対してほとんど興味を示していないようにも見える。本当にヒドイ上司だ。
「さて、もうすぐかな」
待っていた圭が呟く。既に五分が経過しているのだが、そんな事は塵ほどにも気にしない様子で、とても寛容な面が垣間見える。
そんな時、圭の近くに転がっていた小石がパンッと小さく音を立てて弾けた。
「お?これが合図か。路乃さん、合図が来ました。号令をお願いします」
烈也のサインを察した圭が路乃に通信を入れる。
「はい、わかりました。それでは」
路乃が返事をして圭との通信を切る。その直後、スピーカーから同じ声が聞こえてきた。
「それでは、第三演習場、演習開始します。3,2,1、開始!」
その合図と同時に、耳に付けていた通信機の電源を切って駆け出す圭。他人の干渉は無い状態で戦おうという事のようだ。
「開始の合図です」
穂波が手元の携帯端末に向かって話しかける。
「ああ、指示を頼む」
スピーカーから烈也の声が聞こえてくる。これはお互いの携帯端末を穂波の能力で通話状態にしているからだ。普通の通話と違って一般の回線を介さないので、盗聴の危険性がまったく無いのが利点だ。
「はい、それでは――」
穂波は烈也の返事を確認し、携帯端末を見て絶句する。
玄関ホールを映した監視カメラの映像が携帯端末に映っており、そこを圭が猛スピードで走っていくのが見えたのだ。
穂波は即座にカメラを切り替えて圭を追う。圭は入口の近くにあった階段を駆け上がっていく。その階段は上の階へ向かう最短ルート。やはりここも完璧に内部を把握しているようだ。
「大変です。今、兄さんのいる四階に向かって真っ直ぐ進んでいます」
穂波が慌てて烈也へ現状を伝える。しかし、そんな事をしている間にも圭は階段を上っていく。
「二階――三階――四階、到達します」
対策を講じる前に圭が四階に辿り着いてしまう。
しかも、圭は五階まで上がらず、四階を捜索し始めた。ベテランの嗅覚とでもいうのだろうか、的確に烈也のいる階を見抜いている。
(マズイ、このままじゃ兄さんが)
焦る穂波だが、時既に遅し。
「見つけた。やっぱここだったか」
「っ!」
圭が一室に潜んでいた烈也を見つける。圭の行動に応じて見つからないように行動するはずだったのだが、その作戦は破綻してしまった。
烈也は袋の鼠。だが、対策はしてある。
「ふんっ」
烈也が力むと同時に圭の足元に転がっていた三つの石が破裂する。烈也の能力は危険。下手をすれば人を殺せてしまう能力。それを惜しみなく使うということは、烈也は本気で向き合う気のようだ。
しかし、その石の破片は圭には当たらなかった。
突然、圭の周りを炎が取り囲み、その熱風で弾けた小さい破片はすべて吹き飛ばされてしまったのだ。
その炎はすぐに消え、部屋には圭だけが残っていた。
「はぁ……はぁ……気合入れ過ぎた……ん?どこ行った?」
炎で視界を奪われていたわずかな間に、圭は烈也を見失っていた。しかも、一階から四階まで駆け上がり、さっきの発火によって更に酸素を奪われ、息も絶え絶えになってしまっていた。
部屋の中に烈也の気配はない。入口は一つにもかかわらず、烈也はこの部屋から姿を消した。
「ん?」
部屋を見渡した圭が何かに疑問を持った。それはあからさまに開け放たれた窓だった。
「これは……」
入口から真っ直ぐに見てはわからない死角にロープが下ろされていた。そのロープは上りやすいように一定間隔で結び目が作られている。そのロープの吊るされている元を目で辿り、
「なるほどね」
圭は得意げな笑みを浮かべる。その目は完全に烈也の行動を見透かしているようだった。
その頃、烈也は穂波の指示の元、ビル内を走っていた。
「何故かこちらの居場所がバレているようです。一か所に留まらず、的確に死角を突きましょう」
穂波は監視カメラの映像を確認する。圭の姿は四階のカメラに確認出来た。体力が戻らないようで、壁にもたれかかって息を整えていた。
「陽本さんはまだ四階にいます。今のうちに対策をしましょう」
穂波の指示で烈也は廊下のあちこちに石を撒きながら歩いていく。しかし、手持ちの石も数は多くない。もしも石が無くなれば非常手段に出る必要が出てきてしまう。それまでに決着を着けなければならない。
穂波が監視カメラの映像を見ていると、圭がついに動いた。さっきまで烈也がいた部屋に留まっていた圭が窓の方へ近寄っていく。そして窓から身を乗り出し、監視カメラの範囲から外れてしまった。
「あっ、これだから安物は……兄さん、陽本さんが監視カメラから外れました」
穂波が愚痴を溢しながら烈也に警告する。
穂波は文句を言っているが、そもそも演習場とはいえ、廃ビルの内部に設置されているカメラに可動式や360°撮影可能のような良い物を使うはずが無く、内部を撮影する為のカメラが外を映しているはずも無い。そして、このビルのカメラに外壁部分を映すカメラは無い。圭もそれを知って窓から外へ出たのだろう。
あまりにもいいように振り回されていて穂波にイライラが募る。
その時、烈也の歩く前方のドアが勢いよく開いた。
「ふふん、見つけた」
そのドアの陰から圭が姿を現した。
「なっ!?」
「嘘っ!?」
突然の事に烈也も穂波も揃って驚く。しかし、驚いた理由は突然だったからだけでは無かった。自分達の作戦が完全に見透かされてしまっていたからだ。
烈也が今いるのは三階。上の階に上がったように偽装したのだが、それを見透かされて目の前に圭が現れた。
窓の外に吊り下げられていたロープ。これに結び目を作り、上の階に上がりやすいようにする。このロープの長さは逆に下の階へ行くには短い。無理をすれば不可能ではないが、難しい長さにする。
これらを使って簡易的に偽装したのだが、簡単すぎたのだろう。しかし、素人考えで咄嗟にその場にあったロープだけでやったにしては十分な出来とも言える。
「偽装工作としては完璧じゃない。ハッキリ言ってお粗末だ」
圭が辛辣な言葉を並べる。真面目な二人はこれもまた教訓と真摯に受け止める。
「だが、実践が未経験だったことを加味するならば、及第点だろう。練り上げた妹さんも、それを信じて実行したお兄さんも」
圭が拍手して二人を褒める。
「兄さん、立ち向かうだけ不利です。退きましょう」
烈也の右耳に付けたコードレスイヤホンから指示が聞こえる。それを聞いて烈也は踵を返して走り出した。
「そうそう、逃げてよ。その方が燃えるからさ」
圭は楽しそうに笑って烈也を追いかける。
烈也は石を撒いておいた廊下へ圭を誘導する。そして、圭が石の横に差し掛かる瞬間、転がっている石に目を向ける。それと同時に破片が飛び、圭を襲う。
「くっ」
圭は先程のように火を発生させず、石の方へと背を向け、破片を背中で受ける。
「ん?」
その一部始終を見ていた穂波が疑問を覚える。
(さっきのように熱風で弾けば……もしかして、発火をするのを躊躇った?)
「兄さん、少しだけ対峙してみてください。確かめたい事があるんです」
「わかった」
穂波の言葉を受け、烈也はその場に立ち止まり圭を待ち受ける。
廊下の角を曲がって、圭が烈也と対峙する。
「もう逃げないのか?追っている方が、気が楽なんだが」
圭が烈也に一歩、また一歩と近づいて来る。
「攻撃を仕掛けて炎の発生をさせてください。おそらく、発火にはリチャージが必要なんだと思います」
「了解」
指示通り攻撃を仕掛ける為にポケットから石を取り出して振りかぶる烈也。
「させるかよっ」
圭が烈也の手を指差す。すると、指差した先、烈也の手元から突然発火した。
「くっ」
火の熱によって烈也が石を取り落す。石はカツンと音を立てて足元に転がった。
「兄さん、大丈夫ですか!?や、火傷、すぐに冷やさないと」
心配の余り、穂波が取り乱す。
「それより、発火させたぞ」
「そ、そうでした。今のうちに近づいてください。リチャージを終える前に」
烈也に叱責され、平静を取り戻した穂波が次の指示を出す。
「了解」
それだけ言って烈也が圭に向かって走っていく。
「お?真っ向勝負か?」
内心嫌そうにしながらも、圭は身構える。
「ふんっ」
近づいて早々に烈也が先手の右ストレートを繰り出す。
「おっと、危ね」
圭は余裕綽々といった様子でそれをかわす。しかし、かわした先へ向かって烈也は左のボディブローを放つ。
圭はそれを両手で受け止め、数歩下がって距離を取る。
「近接なんていつ以来だろうな。いつもは他の奴らに任せっぱなしだし」
圭はまだまだ飄々としている。実際、圭の所属する班は小太郎、大和、夏海、どれも他の演習場の戦い方を見るに近接型ばかり。炎を使って中距離で戦える圭がわざわざ敵に近寄る機会も少ないだろう。
「ふっ」
ペラペラと喋っている圭に対して、烈也はまるで言葉を発しない。元々喋る方ではないのだが、今回はそれに加えて余裕が無い。若干押しているとはいえ、気は抜けない。
圭の顔目がけて烈也の拳が迫る。その寸前、烈也の目の前に小さな炎が現れた。
「ぐっ」
手の次は目だ。手の時程近距離ではないが、それでも怯ませるには十分だった。
烈也が左手で顔を押さえて体勢を崩す。圭はその隙を見逃さなかった。
「そーらっ」
圭は烈也の左襟と右袖を掴み、そのまま烈也に背を向ける。そして、烈也の足を払った。
背負い投げの体勢だ。次の瞬間、烈也の体は宙を舞い、冷たいコンクリートの床へと叩きつけられた。
「がはっ」
烈也が苦しそうな声を出す。烈也のイヤホンから穂波の叫ぶ声が聞こえてくる。
「さて、終わりかな」
圭が烈也の横にしゃがみ込んで言う。
「くっ」
烈也の顔が悔しそうに歪む。同時に鋭い目つきで圭を睨むが、当然怯まない。
「悔しいだろうが、これが現実だ。ま、今回は俺の十八番の制圧戦だったし、十分戦えた方だと思うぞ」
圭は位置的にも立場的にも烈也を見下して言った。
しかし、烈也は野心的な眼をやめなかった。
「ん?」
圭が烈也の手の動きに気付いた時にはもう遅い。烈也の放った石が圭の眼前にまで迫っていた。この位置で石が炸裂すれば、流石の圭もただじゃ済まないだろう。
「これはハッタリ」
だが、石は圭によって容易く叩き落とされてしまった。
「確かにいい判断だ。この手段なら敵を確実に仕留められるだろう。だが、諸刃の剣だ。お前もただじゃ済まないぞ。演習でするような事じゃないし、お前の目から恐怖が消えていなかった。それじゃ人は殺せない」
圭は烈也の耳に付けたイヤホンに手を伸ばした。
「お兄さんは倒したぞ。妹さんはどうする?」
「私に直接的な戦闘能力はありません。兄さんが敗れた時点で詰みです」
圭が話しかけると、すぐに穂波が言葉を返した。
「賢明な判断だ」
そう伝えてイヤホンを烈也の胸の上に置き、立ち上がる。そして自分の通信機の電源を入れ直す。
「安城穂波が降伏しました。演習終了です」
それだけ言うと、また通信機の電源を切った。
その直後、開始時と同じように路乃の声が響く。
「演習の全過程が終了しました。残念ながら出てしまった怪我人は医務室へ、それ以外は玄関ホールまで戻ってください」
「よし、それじゃ戻るか」
「……ありがとうございます」
放送を聞いた後、圭は烈也を引っ張り起こしてやった。
「思っていたよりもアッサリ負けたな」
路乃の分析よりも先に村田が口を開いた。
「それは合わせるカードが悪かったんですよ。地形相性の時点で陽本圭に有利な条件でしたから」
村田の言葉に対して路乃が冷静に切り返す。
「そんなもんかね」
「そんなものです」
村田は納得していないようだが、路乃はそれを無視して分析を続ける。
「イマイチ見る機会が少なかったですが、安城烈也の能力は十分完成されていると思えます。石ではなく、鉄やプラスチック、針を仕込んだ玉等、破裂時の殺傷能力の高い物を利用すればより強力なものになるかと。安城穂波の方はシステムに隠蔽の痕跡が残っています。監視カメラのシステムへ侵入。しかし、何故か防衛システムに感知されていません。それに侵入した痕跡を綺麗に消しています。ハッカーとしての才は破格と言っていいかもしれません。彼女、こちら側に異動出来ませんかね」
珍しく路乃が褒め倒している。おそらく、相手が強敵の陽本圭だったことで甘めの評価になっているのかもしれない。
「それはダメだ。さっきも言っただろう」
「残念です。彼女がいれば私達の負担も大きく減るでしょうに」
路乃は至極残念そうだ。
「だが、あいつはしばらくお前の元で教育してもらうかもしれんから覚悟しておけ」
「本当ですかっ?よし、私の仕事を代われるくらいに立派に育てて見せますよ」
「やっぱりやめておくか……」
「そ、そう言わず、お願いしますよ……」
相変わらず、この二人は変な会話を展開している。路乃も真面目なのか不真面目なのかわからない。
再び、玄関ホールへと集められた面々。先輩達の方は全員集まっているのだが、新人で集まったのは修也、照美、烈也、穂波の四人だけであり、蓮華と共輔は医務室で休んでいる。
「怪我人は二人。怪我はさせないようにと言ったのに……」
路乃は頭を抱えてため息を吐いた。
「怪我はさせてないッスよ?あちこちが痛いってだけッス」
「私も怪我はさせていない。気絶こそさせたが……」
小太郎と大和が言い訳をする。もちろん、こんな小学生のような屁理屈が通用するはずも無く、
「血が出るような外傷は無くとも、痛いのは打撲という立派な怪我です。それに、二人目の怪我人はあなたですよ?佐治大和さん」
二人に向かって路乃が責めるような強い調子で答える。静かにではあるが、かなり怒っているようだ。
「えっ?そうなんスか?」
「何っ?私が怪我をしていると?」
路乃の言葉に二人が反応する。さっきの言葉からしても、この二人の知能はほとんど小学生レベルであることが判断できる。
「いいから、矢澄川さんは佐治大和さんを連れて医務室へ行ってきなさい。それと、寺岡さんに対してお詫びをしておくようにっ!」
路乃はビシッと二人を叱りつけて医務室へと向かわせた。
このやり取りを見るに、路乃は根っからの委員長気質のようで、小太郎も大和も彼女には逆らえないようだ。
「路乃、そろそろいいか?」
「あっすみません、つい……」
村田が路乃へ声を掛け、路乃は申し訳なさそうに後ろへ控えた。
それに合わせて村田が歩み出て、咳払いを一つしてから話を始める。
「今回、お前らの戦闘能力を見る為に演習をしてもらった。知っているかもしれんが、神殺しにとって神判者との戦闘行為は避けられない。もっとも、そうならないようにするのが一番だが、己を特別だと思い込んだ人間は他人の言葉に耳を貸さない傾向がある。そうなれば最後は実力行使だ」
演習が始まる前の村田とはまったく異なる、神殺しの指揮官としての顔をしていた。
その厳格な表情と言葉に修也達の間により一層、緊張が走る。
「能力を使用すれば人を殺すのは容易い。だが、お前らもまだその手を血に染めたくは無いだろう?なら、強くなれ。敵に手心を加える余裕が出るくらいにな。でなけりゃ、死ぬぞ……」
修也達の頭の中を『殺す』や『死ぬ』という物騒なワードが廻る。
先程の演習で先輩達が見せた殺気。それは修也達にわからせる為のもの。先輩達は半分お遊び、圭に至ってはほぼ完全にお遊びでしかなかったのだ。
ならば、本当の殺気とはどんなものか、それに直面した時に自分は動けるのか。そんな心配が頭の中に浮かぶ。
「くっ、ふふっ……だぁはっはっはっはっは!!!」
シリアスな雰囲気に呑まれていた修也達をよそに、村田が突然笑い出した。
「いやぁいいねぇ、若造の顔が不安で一杯になるってのは」
「ハァ!?おっさん!俺らをからかってたのかよっ」
村田の言葉に修也が怒る。それもそうだろう。ここまでされて、冗談ですじゃ済まされない。それほどまでに修也達は覚悟をさせられたのだから。
「いや、スマンスマン。しばらくは死ぬなんて事にはならない。そもそも、経験の浅い新人にそんな案件を任せられるかってんだ」
村田の言う事はごもっともだ。優秀な先輩がいるのだから、修也達の出る幕は相当訓練を積んでからになるだろう。
そんな単純な答えも出ないほど緊張していた気持ちが一気に緩み、修也達の顔に少しばかりの笑顔が戻る。
今はこうして笑っていられるのが一番だ。しかし、相当お気楽な人間でなければ気付いている。村田の言葉に含まれている、いつか修也達も戦う運命にある事。それがそう遠くない未来である事を。
ここではそれに気付いていないのは、すべて村田の悪ふざけだと思い込んでいる修也と共輔、可能な限り戦いたくないという思いから、無意識に戦う未来から目を背けてしまっている照美だけだった。
「それじゃあ、今日のところはここまでだ。説明事項は追って連絡する。それぞれ圭と夏海が寮まで案内するから付いて行くように、じゃあな」
そうとだけ言って村田は手を振りながら奥の方へと行ってしまった。
「それじゃ、男共は俺の方に付いて来い」
「女子はこちらへ」
圭と夏海がそれぞれ先導して寮へ案内する。修也達も玄関ホールに置きっぱなしになっていた荷物を持って続いた。
一歩先を歩いていく圭に荷物を引っ提げて修也と烈也が付いて行く。
その途中で圭が不意に口を開いた。
「男子寮が西、女子寮が東、間にはさっきの建物、本館。これだけで察せる情報は?」
突然な上に質問の意義がわからない。この質問で圭はいったい何が伝えたいのだろうか。
修也も烈也も、この質問の意味がわからないようだ。
「サッパリです。どういう意味なんですか」
早くも諦めた修也が圭に聞いた。特に深い意味なんて無かったつもりだった。
「君達はそれでも男か?」
それなのに、性別の真偽を問われてしまった。
「いや、男ですけど……」
「なら、これくらい朝飯前だろう」
圭はさも当然のように言っているが、修也も烈也もわかっていない。
「女子寮に行こうとしても無駄だってことだ。途中にいくつもの監視カメラが取り付けられている。夜中なんかにそれに映れば警備員が飛んでくる」
至って真剣な顔で言っているが、言っている内容がしょうもない。意外と茶目っ気のある人物なのかもしれない。
「あの、別に行こうなんて思いませんけど」
「なにっ?!」
修也の言葉に何故か圭は声を荒げる。
「その歳で、しかも神殺しに所属する女子を見たか?佐治姉妹に路乃さん、新人の三人だってそこらのアイドルより全然可愛い。そんな状況で風呂の一つでも覗きたいと思わないのか?」
急に圭のテンションがおかしくなる。もしかしたらこれが本性何だろうか。
「いや、別に思わないです」
「君はっ?!」
修也が当然のように否定。その所為で矛先は烈也へと向く。
「思わない、です」
修也に続いて烈也まで否定すると、圭は目に見えて落ち込んでしまった。
「おっかしいな……将樹の時は上手くいったのに……」
圭が何やらブツブツと呟いている。
「何がおかしいんですか?」
「いや、年頃の男はこういう話題を好むと思っていたんだが、本当は違うのか?」
「うーん……俺らは珍しく興味が無いだけで、もう一人いた男の共輔なんかは好きだと思いますよ」
修也が珍しくフォローをする。そういう事はめんどくせぇと言ってしなかったのだが、圭にはどこか、そうさせる素質があるのだろう。
「そう、だよな?よしっ、打ち解ける為の次の一手を考えるとするか」
そう言って圭はまた歩き出した。
圭は打ち解ける為の会話として女子寮がどうのという話題を選択したようだ。それを本人に話してしまう辺り、圭は根っからの正直者で、真面目な性格な事がわかる。
「名札が掛かっていない部屋は空き部屋だから、好きな部屋を選んでいいわよ。中はホテルと同じでシャワーもお手洗いもあるから、自由に使ってもらって構わないわ。それと、お風呂は部屋のを使ってもいいし、夕方の五時から夜の十一時までなら一階の大浴場を使ってもいいわよ。洗濯物はロビーに一報入れれば、部屋にまとめてあるのを持って行って洗ってくれるし、自分で洗いたいならランドリーコーナーがあるからそこを利用してもいい。生活においてなんの不自由も無い場所だから満喫してね」
夏海がスラスラと説明していく。
聞く限りでもこの上ない好待遇だと言えるだろう。
「窓ってありますか?」
「ええ、各部屋に大きな窓と小さな窓が一つずつ。大きな窓の外はベランダもあるし、洗濯物には困らない。小さな窓以外に換気扇もあるから換気も十分。長いカーテンも付いてるし、真っ暗にするのも可能ね」
「そ、それはよかったです」
照美にとって部屋の明暗は大問題。真っ暗な部屋でなければ寝られない。それに照美は暗い部屋の中で過ごしてきただけあって、暗い部屋の中での娯楽しか知らない。
「あの、インターネットは?」
「もちろん無線で繋がるわよ。路乃さんが繋いでる独自回線だから、通信速度は快適なんてレベルじゃないわね」
これだけは譲れないといった様子の穂波が質問するが、その答えは穂波が想像していたよりも遥かにいいものだった。
「ただ、一つだけ注意。パスワードは設定されていないけど、路乃さんが把握していない端末でアクセスした場合、その端末のデータが強制的に吸い出された挙句、その端末は機能停止っていうね。近くに住んでた人がアクセスしてこうなったっていう噂だけどね」
あまりにも恐ろしい仕打ちに穂波はもちろん、照美も背筋が凍る。
「でも大丈夫。所属メンバーの携帯端末は基本的に把握してるから。いつの間に把握されたのかはさっぱりだけど」
「それでも、十分です。いえ、持て余しそうなくらいにいい所ですね」
照美と穂波もあまりにも快適そうな環境に目を輝かせている。
「さて、もうすぐ晩御飯だし、食堂まで案内するから三十分くらいしたら下のロビーに降りてきて頂戴」
そこまで説明した夏海は自分の部屋へ帰っていった。
「さて、舘さんはどの辺りにしますか?」
「へっ?!わ、私は、その……余った所で……」
急に声を掛けられて焦る照美。見た目で判断するのもどうかと思うが、穂波もそれほど社交的なようには見えない。そんな人物から声を掛けられれば照美で無くとも驚くだろう。
「その余っている部屋が多いから聞いているんです」
見事に言葉の隙を突かれて怯む照美。
「じゃ、じゃあここに……」
照美は咄嗟に目の前にあった名札の掛かっていない部屋を選んだ。
「それでは、一旦お邪魔します」
穂波は照美を押し退けて、照美の選んだ部屋へ押し入った。
「おぉ、想像していたよりも豪華ですね……」
穂波は豪華というが、普通のビジネスホテルと大差無い。明らかに穂波の感覚が麻痺している所為だろう。
「あ、あの……この部屋がいいなら私が移りますから」
いきなり部屋に押し入られて戸惑う照美。いや、このような仕打ちをされれば、ほとんどの人が戸惑うだろう。
しかし、これも一つの策略の為。穂波は照美を自分の部屋に招くのは困難だと判断し、無理矢理照美の部屋へと押し入った次第。この策略自体、今のうちに実行する必要があり、部屋を選んですぐならば、照美の荷物も置かれていないので比較的失礼にならないという考えのようだ。もっとも、急に押し入る時点で相当失礼なのだが。
「いえ、その必要はありません。それよりも、少しだけ待っていてください」
穂波は一度携帯端末の画面を確認した後、照美をベッドへ座らせて部屋を出た。その瞬間、目の前を歩いていた人物とぶつかりそうになった。
「うわっ、びっくりした」
その人物は蓮華だった。あれからすぐに医務室で目を覚まし、特に外傷も無くただ気絶していただけなので、医務室に泊まりはせずに寮へと案内された後、自身の部屋を決める為にこの部屋の前を通りかかったのだ。
「ジャストタイミングです。こちらへ」
「は?ちょっと、何なの?」
穂波が待っていましたと言わんばかりの勢いで蓮華を部屋へ連れ込む。
「ふっふっふっ……これで役者は揃いましたね」
蓮華を部屋の奥へと押しやった後、穂波は後ろ手に内鍵を掛けて退路を塞ぐ。
「い、いったい何が始まるんでしょうか……」
「おふざけなら付き合わないわよ?」
怯える照美と威圧する蓮華。しかし、穂波はそのどちらも気にせずに仕切り始める。
「第一回!新人女子の恋バナ大会~!」
演習では冷静な指揮を執り、常時口数の少なかった穂波からは想像できないほどポップなタイトルコールだった。
「…………」
「…………」
気まずい沈黙が部屋に満ちる。さっきまで敬語だった相手が、こうもあからさまにキャラ崩壊すれば反応に困るというものだ。
「……いえーいとか、無いんですか?」
「いや、あまりにも急だったから……」
穂波はこういう場に慣れていない。いつもはもっと威圧的な行動を取っていたからだ。しかし、今回は今までの学校だけの付き合いと違って長い付き合いになると考えた穂波はこうして無理にテンションを上げたのだが、裏目に出てしまったようだった。
「コホン、それではいつもの調子に戻して始めます」
ほんのりと顔を赤くした穂波が一度咳払いをして、本題へと入り直す。
「先程宣言した通り、俗に言う恋バナをしようと考えています」
「まぁ知り合ったばかりの女子の話題としては無難な方じゃない?」
比較的そういった話題に適正のある蓮華が判断するのだからある程度は信用できるだろう。少なくとも照美や穂波よりは。
「では早速、単刀直入に皆さんはどなたが好みですか?」
穂波が鋭く切り込む。
「うーん、あんたのお兄さんは格好いいけど不愛想よね。共輔……だっけ?アレはちょっと暑苦しい。矢澄川とかいう首輪男は無理。陽本って先輩は比較的マトモかしらね」
男共の批評をする蓮華は一段と口が悪かった。まさに一刀両断。言葉の切れ味は女子の中でも随一かもしれない。
「おや?上笠さんのお名前が聞こえませんでしたが」
蓮華があえて避けた名前を穂波が丁寧に拾い上げてしまう。
「なっ!?あ、あいつなんて論外に決まってるでしょ!私をブスと言い捨てた男なんて初めてだわ。目玉と脳みその腐った男に用は無いの」
さっきの男達が一刀両断なら、修也は八つ裂き、もはや細切れにまでされてしまっている。ここまで言われると、いくら修也が悪いといえ、不憫に思えてくる。
「初めての相手は上笠さん、と」
「ちょっ?!変な風に言わないでよっ!まったく、あんたがそんな際どいネタまで手を出すとは思わなかったわ……」
「すみません、つい」
冷静な穂波が『つい』なんていうあいまいな理由で動くわけがない。その理由は至極単純。兄を侮辱した罪は羞恥で償ってもらおうという話だ。
「次に舘さんはどうでしょうか?」
「わ、私は……その……」
照美は手を顔の前で合わせてもじもじしている。その目は確実に恋する乙女のそれであることは、素人目で見てもわかるほどにわかりやすい。
「お相手、いるようですね」
「い、いや、その……違――くは……無いです、けど……」
照美も嘘を吐けない性質。いや、自分の気持ちに嘘を吐きたくないと言った方が正しいだろうか。
「兄さん」
穂波の言葉に照美は少しだけ、それでもしっかりと首を横に振る。
「クソ男の上笠」
今度は蓮華が言う。手前に女子らしからぬ汚い言葉が付属する辺り、蓮華は修也の罵倒を相当気にしているようだ。
それに対して照美はブンブンと首を大きく横に振る。
蓮華にはヒドイ言われ様。そして、照美には全力否定。二人の心中を知らない修也がこのことを聞いたら膝から崩れ落ちるだろう。
「陽本さん」
また照美は弱く首を横に振る。
「首輪の変態」
もはや元の名前すら含まれない人が出てしまった。どうやら蓮華は修也の名前を口にするたびに機嫌が悪くなるようだ。
そして何故か、照美は一瞬躊躇った後で首を横に振る。この一瞬の躊躇いにはいったい何の意味があるか、蓮華にも穂波にもわからない。
二人は最後に残った名前を、口を揃えて言う。
「「寺岡共輔」」
その名前を耳にした途端に照美は顔を耳まで真っ赤に染めて俯いたが、姿を隠してしまうことは無かった。
「まぁバレバレよね」
「はい、舘さんが彼を見ていない時の方が短かったようにも思えます」
どうやら他の女子には既にバレていたようだ。というより、佐治姉妹や路乃を含めて女子は皆察している。鈍感な男共が誰も気付いていないのが情けないほどだ。
自分でも無意識のうちに共輔を視界に収めていた事を知って照美は更に赤くなる。
「うぅ……で、でも、なんというか――変な感じなんです」
「変な感じ?」
照美から発せられた意外な言葉に蓮華も穂波もハテナを浮かべる。
「その、今までは消えてしまいたいって思った時は、すぐに能力で消えることができたんです。でも、寺岡さんの前だと、消えてしまいたくなっても消える事が出来ないんです」
照美の意味深な暴露だが、どこかおかしな話だ。
「消えたいけれども消えられない。本当に消えたいと思ったのですか?」
「はい……寺岡さんに見られると恥ずかしくて……」
そこまで照美が言ったところで二人は完全に察した。
(これ、自分が恋しちゃってるのがわかってないやつだわ)
(普通の消えてしまいたいと寺岡さんの消えてしまいたいは完全に別物の感情ですね。だから能力が正確に作動しなかったのでしょう。心の底では見つめていられたいから)
だが、二人は決して口にしない。この感情は自分で気付くことに意味があるからだ。
「それに関しては追々考えればいいんじゃない?」
「いっそのこと、実験と称して寺岡さんと二人きりになってみるのはどうでしょうか?」
「なななっ??!!は、はぅ……」
穂波の冗談を真に受け、照美はより一層顔を赤くした後、放心してしまった。
「さて」
これ以上ないほどに照美をいじめ終えた穂波は、携帯端末の画面に映った時刻を確認して立ち上がる。
「そろそろ夕飯のようですね。ロビーまで降りましょうか」
穂波は二人の横を何食わぬ顔でスタスタと歩いて玄関の鍵を開ける。
「ちょっと、まだあんたのを聞いてないけど」
さっきの仕返しと言わんばかりに蓮華が食い付く。
蓮華は何かしらボロが出るのを期待したが、穂波はドアノブに手を掛けたまま振り返ってさらりと答える。
「私は子供の時から大切な人を思い続けるくらい一途なんです」
それだけ言って、穂波はドアを開けて出て行ってしまった。
その穂波の言葉は嬉しそうに弾んでいるようだが、何かを諦めたような寂しさを含んでいるようにも思えた。