表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/12

もひとつの小石(後篇)

閉店後、客が去った静かな店内を、彼は一人、掃除する。


いつものことだ。

ただ、いつもならぞんざいに、適当に、だらだらとやっていた掃除だが、この夜は違った。

彼の母親がそうするように、床の隅々から、丁寧に掃き清め、テーブルや椅子の一つ一つを、力を込めて雑巾で拭いていく。

しっかりと力を込めて拭いたテーブルや床は、力を込めた分だけ、照りを増して光輝く。


彼の心には確かな一つの決心があった。


「ただただ、あり余る時間を潰すだけの人生。」


それだけのはずだった。

そう思って、死んだふりをしていた。

いや、実際に死んでいたのだ。

だが、どうしようもなくそわそわする。

心がざわめく。


厨房で、一本一本丁寧に包丁を研ぐ父親をちらっと見る。


この日、父親の知らなかった一面を見た。

いや、いつも見ていたはずなのに、気づこうとしていなかった一面を見た。

今、彼には、そんな父親に伝えなくてはいけないことがある。

だが、なかなかそれが出来ないでいた。


父親に声を掛け、ただ話しかければそれで良い。

そんなこと簡単なはずだった。

それが、いつの頃からか出来なくなっていた。


・・・話したって何も変わらない。また明日からいつものうんざりするくらいの退屈な一日が始まるのだ。


いつもそう思って、言いかけては諦めていた。

でも、この日は、どうしても諦められない。

またやってくるだろう、

いつもの明日に、

いつもの自分に、

もはや耐えられる気はしなかった。


まず、一言、声を掛ける。


今の彼にはそれが精一杯だ。


刃も折れ矢も尽きたはずの彼の心に、たった一つ残った、虫けらほどの、わずかばかりの情熱のカケラ。

これが尽きれば、本当にもう何も残らない。

その最後のカケラを、最後の希望の一粒を拾い上げて、彼は、今、一歩前に踏み出した。


「おやじ、あのな・・・」


緊張で声がかすれる。


「ん?」


父親は、包丁を研ぐ手を休めない。


「あのな・・・」


彼は、この夜起こったある一つの出来事を、どうしても伝えたかったのだ。

彼の心を、人生を、決定的変えることになるであろう、ある一つの出来事を伝えたかったのだ。

そして、それが、今の彼にすがることのできる最後のチャンスだった。


「えっと・・・ほら、あの目の悪いお客さんが帰った後、お会計したお客さん、

 一番奥のカウンター席に座っていたおばさん、おばあさん?」


見慣れない客であったが、でも微かにどこかで会ったこともある気もしていた。


「ああ」


父親は、相変わらずそっけない。


「その人が、ありがとう、って・・・ 言ってたよ」


レジの時である。

お釣りを渡そうと、その客の顔を見た時、突然言われた。


「そうか」


慣れた手つきでリズミカルに包丁を研ぐ父親。


「目に涙、一杯ためながら、ありがとうございました、って・・・何度も頭を下げて」


彼は動揺した。

彼女の澄み切った、真剣な眼差しに、

そして、そのありがとうの言葉に、

激しく動揺した。


その客が去った後、いつまでもそのことが頭にこびりついて離れない。

今となれば、一つの予測はあった。


「・・・そうか」


父親が包丁を研ぐ手を休め、ゆっくりと彼の方を振り返る。


「もしかして、あの人・・・」


「お袋さんだ。目の見えない息子が心配で、内緒で見守ってたんだろう」


・・・やっぱり

やっぱり父親は知っていた。

知っていて、全て黙って見守っていた。

恐らく友人達も気づいていた。

そして、やはり黙って見守っていた。

彼と、その息子の本人だけが、気づいていなかった。


「俺、今まで人にありがとう、なんて言われたことなかったから、

 なんて言って応えたらいいのかわからなくて」


・・・くそっ!と思う。


「何も言えなかった。」


何か掛けてやる言葉はなかったものか、

何か気の効いた、励ましの言葉みたいなものは思い浮かべられなかったものだろうか、

せめて、あの眼差しに応えてやることはできなかったものか、

いつも、後になって、そんなことに気づいて、

そして後悔する。


「そうか」


父親は静かに、うなずいて答える。


「大学出てから、ほんっと、くそみたいなことしかしてなかったから、

 だから、あんな風にありがとうなんて人に言われたこともないし、言ったこともなかった」


今、悔しくてたまらない。

何もかも諦めきっていた。

仕方ないと自分で自分を勝手に見限って、何も周りが見えていなかった。

見ようとしてこなかった。

そんな今までの自分が、悔しくてたまらない。


・・・悔しいなんて気持ち、一体いつぶりだろうか


「なあ、親父・・・」


ふと顔をあげたとき、

そこに真剣な眼差しで彼を見つめる父親が居た。


二人の視線がぶつかる。


もう目をそらしてはいけない。

もう逃げてはいけない。

この視線は、今はとても痛いけど、

耐えられないほど痛いけど、

それでも、真っすぐ受け止めなくてはいけない。


その真剣なまなざしを、真正面で受け止めた時、

きっと彼にも、「次」がやってくる。

そして、彼は、まっすぐ父親の目を見つめ返した。


「お、おれにも出来るかな?」


また失敗するかもしれない。


「ほんっと、俺なんてただのクズだけど、

 今は、ぜんっぜん何もできないし、

 ほんっと、クズだけど・・・」


それでも、もう一度、


「おやじみたいな仕事、俺にも出来るかな?」


もう一度、自分を信じたい、と心の底から思うから、

変わりたいと思うから、

だから、今こそ、その為の第一歩を言葉にするのだ。


「俺も、おやじみたいになりたい」



一寸の静寂のあと、


父親は、ただ一言、力強く答えた。



「おまえはクズなんかじゃない。


 俺の息子だ」



今、もう一つの石ころも止まった。




おしまい

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ