Act 17. 兄と妹
三人の背中を見送り、元の迷子と化した私はため息をついて、己の左手を眺めていた。
冷めやまぬ熱を抱えたまま、かすかに震えている―――長いブランクか、喜びにか、それとも両方か、私には判別がつかなかった。
結局、自戒していたにもかかわらず、楽器を弾いてしまった。
ルイは助かったからいいじゃないかと思いながらも、心の何処かで兄に申し訳なくなる。
兄は私に音楽をやめろといったわけじゃない。
事故の後、ヴァイオリンから遠ざかった私を、それとなく音楽の道に戻そうとしてた。
数年して、私の左手が完全に日常生活に支障がなくなると、何かの景品であたったから、なんて、アホみたいな言い訳しながら、私の使っていたのと同じメーカーと型の新品のヴァイオリンを持って帰ってきたことすらあった。中古ですら、馬鹿みたいに高いのに。
私はすごい運だね、なんて、ここぞとばかりに兄の心遣いも分からない馬鹿な子供のふりして、これを売って京都に家族旅行に行こうよ、とやけにはしゃいでみせた。
聡い兄は言外の私の拒絶を感じ取ったようで自嘲的に瞳を細めて、それ以上何も言わず京都の旅行を手配した。
傷ついたかもしれないが、一瞬だ。
受け取って、演奏する日があるかもしれないなんて、妙な期待はさせなかった。
それのほうが、よほど残酷だ。
私がヴァイオリンを再開すれば、兄の苦しみは永遠だ。
安心していい。もう忘れていい。何事もなかったかのように、日々を楽しく過ごしてくれればいい。
子供の頃、私は誓った。
家族が笑って過ごせるんだったら、私はどんなことだってしよう―――私の持っているものが、妨げるのなら捨てよう、と。
なにかに固執して、家族の笑顔を奪いたくない。
私の存在が家族を笑顔にさせられなくたって、せめて悲しませたりしたくない。
ヴァイオリンを始めていなければ、母は私をヴァイオリン教室に行かせなかっただろうし、恩師に会う事もなく、きっと大会なんかにでることはなかった。大会に出なければ、入賞することなんてなかったから、興奮して姉が一緒にいるのに、周囲への警戒を怠るなんて、馬鹿な真似は絶対にしなかった。
だから、あの日以来、私はきっと執着心というものを切り捨てた。
その象徴がヴァイオリンだった。
人助けだったし、ヴァイオリンじゃなかったとはいえ弾いたという事実に―――自分にがっかりする。
もう完全に自分の心にはないと思ってた。
墓場の中まで持っていこう。
今日、私はヴァイオリンを弾いてない。演奏などしなかった。それでいい。
周囲には他人ばかりだったし、今度会ったときにルイにはそれとなくお願いしよう。きっと彼女は私が演奏したことを内緒にしてくれるだろう。
ふと、急に太陽が翳って、顔を上げて、ぎょっとした。
「ミコ」
探してもらおうと、待っていたけど、このタイミングでは最も現れてほしくなかった男。
相変わらず胡散臭い笑顔の兄だった。
+ + +
はっとして、停止した思考を再起動させる。
ルイ達が去るのをまっていたかのような絶妙さで、現れたからといって先ほど曲を聴いてたと決め付けるのは尚早だ。
演奏している姿を見てないなら、わかるまい。
あの楽器はヴァイオリンに近いが、同じ音をしているわけではない。
ブランクもあるから、腕も鈍っている。
気を取り直して、遅かった事を詰って、誤魔化そう―――ってか、二人だけ?姉いなくない?
口を開こうとした刹那。
「一曲目も素晴らしかったが、二曲目もさらによい演奏だった、ミィコ殿」
あん?
兄の隣にいたジークが瞳を細めて、満足げに何度も頷いている。
いっきょくめもすばらしいが、にきょくめは――――いや、頭の中で反芻しなくたって、意味は理解しているが、心が受け付けない。
ぎ、ぎぎ、ときっと油の切れたロボットみたいに、太陽を背にした兄に視線を戻す。
兄は変わらず、歯の光りそうな爽やかな笑顔。
いつもと一緒で、苦しそうでも、悲しそうでもなく、普通だった。
むしろ細められた瞳は、僅かに温かい色すら浮かんでいるように思える。
地面に座り込んでいる私に手を差し伸べられた。
「まぁ…楽器も違うし、長いブランクもあるから、あんなもんだな」
兄の様子を伺いながら、おずおずと戸惑いながら手を伸ばす。がっちりと、手を掴み引き起こしながら兄はからかうように喉で笑った。
あんまりにも昔と変わらず、ごく自然に馬鹿にするもんだから、私も自然に悪態をついた。
「失敬な。音痴に賛否されたくないし」
「あ、音痴を舐めるなよ?いざとなったら、罵声でワイングラスだって割るぞ?」
んなもん、できるか!お前は、どんなソプラノ歌手だよ!
起き上がると、MP不足のせいか、眩暈が起きて足元がふらふらする。
兄が、『よっ』という掛け声と共に私を肩に担いだ。
「っつーかさ」
「俺とアルケルトさんが居たって、かわらんだろう?回復魔法を覚えているわけじゃなく、ポーションもってるわけでもないんだし」
おとなしく肩に担がれて揺られながら、先回りされて、むっとする。
少なくとも、ジークさんは医者の場所ぐらい知っていただろうし、私一人で声を上げる以外の有意義な救出方法を思いついただろう。
「お前を見つけたのは、一曲目の途中だからな。確認したら、HPは戻ってたんだから、遠慮したんだ。二曲目には彼女の知り合いも来たんだろう?」
そういわれてしまえば、罵詈雑言の飛び出すはずだった口を閉じるより他ない。
眼鏡で確認はしたのだろう。
たぶん、あの場面で兄が出てきていたら、私は演奏を中断したが、理性で踏みとどまっても、演奏ミスをしただろう。それは、私が一番よく分かっている。
私がわかることなら、兄だってわかる。
可能性を踏まえながら、兄は最善を選んだであろう。
背中に顔があるから、兄の表情は見えないが、きっと苦笑していることだろう。
だが、一人でじたばたしていたようで面白くはない。
ごすごすと兄の腹部に軽く膝を入れながら、過ぎたことは後回しにした。
「由唯姉は?」
「ん~…まぁ、色々あって別行動だ。教会に防具買いに」
なぜ言葉を濁す?なにがあった、兄よ??
兄だから、姉を危険な目に合わせたりしないだろうし、今気がついたが、姉どころか、チャラ男もいないので一緒に歩いているのだろう。
………それって大丈夫っていうんだろうか??
色々な意味で、一抹どころか、三抹ぐらいの不安を感じるんですが。
ストーカーの大安売りとか。熱狂的ファン急増とか、誰かに喧嘩売られて火花を散らしているとか――果たして、チャラ男はそれを止めれるんかい。
いや、無理。きっと無理。兄の妹で、私の姉だぞう?
「妖精さんもいるの?」
「勿論だ。四人ほどな。お前が想像しうる危険はないと思うが――いや、一部は可能性があるが」
チャラ男より、まだ顔も知らない影奴のほうが安心だ。
「結構時間食いましたけど、徒歩で10分といったところですかね?」
「あぁ。待ち合わせには十分間に合う。多分、あちらの移動時間を考えると、我々の方が早いぐらいだ」
「そうですか」
どうやら、どこかで集合するようだ。
ゆらゆら、揺れながら、逆方向に流れる人を眺めてた私は、ボンヤリと己の左手に視線を送る。
もう熱はすっかりと引いて、震えは治まっている。
「………痛むか?」
肩に担がれて、顔は反対側にあるんだから見えないはずなのに、タイミングよく兄はぼそりと、呟いた。
感情の色を出さない事務的で淡々としているが、此方を伺うような音。
「別に」
痛みなんて、とっくにない。
私は家族以外の何を失ったって、もうなにも感じない。
兄が心配するような、苦しみも、悲しみも、私にはない―――そう、捨てたから。
矛盾、してる。
ルイが――目の前で人が死に向かうさまに強い恐怖を覚えた。
子供だが、出会ったばかりの赤の他人だ。
楽器を弾いて、高揚した感情。
捨てたというのなら、それらは何処から来たのだろう。
わかりきっていることだ。
「――……雅兄は?」
家族大好きの称号を返上しなければならないくらい酷い妹だな、と自分でも思いながら、問わずにはいられなかった。
私の足を掴んでいる手が僅かに強まった。
兄の体が強張ったのは、無意識だったのだろうが、それが答えのような気がした。
いま、兄の顔が見えなくて、本当によかったと思う。
強かで、タフそうに感じる兄だけど、その内側がとても脆くて繊細だということを、知ってるくせに、残酷な失言だった。
「ごめん……今のなし」
いつもの調子で殊更明るく声を出そうと思ったが、カラカラに乾いた喉からは掠れた音がでた。
慌てたが二の句は上手く紡げなかった。
暫し無言が続いて、兄はとても長い息を吐き出したように思える。
たとえば、数年間分ほどの。
「知ってたんだな」
たぶん事故のことだろう。そんな気がする。
そりゃ、兄の妹だからね―――なんでもない風に笑って言おうと思ったのに、兄の弱弱しい声色に、またしても喉の奥で詰まったまま出てこなかった。
「本当に今更だが、俺が悪かった。お前を危険な目に合わせて――」
その時のことを私より鮮明に覚えているのか、ぎりと悔しそうに歯噛みしたのが分かった。
当時それを言わなかったのは、私を気遣ってでしょう?
それがわからないほど、私は子供じゃない。
「――そして、きっとこれからも俺の存在が、もっとお前を危険な目に合わせるだろう。俺を恨んでも構わない…ごめんな。俺がお前の兄で……ごめんな、ミコ」
わかってる。わかっているよ。
だから、謝る必要なんて、ひとつもないんだよ。
謝罪が必要なのは私でしょう?兄に恨まれるのは私でしょう?
私が―――私が弱いから、攫われて、人質にとられて、でも妹だから見捨てられなくて、兄はいっつも苦労するんだ。私のせいで殴られても蹴られても、大丈夫だからって笑うんだ。
いつだって、私は兄の弱点だった。
きっとこれからも。
「だからって、お前がヴァイオリンをやめる必要はない。これっぽっちもな。父さんだって言ってただろう?好きなことをすればいいんだって、誰も止めたりしない。それがお前の弱点だというなら、俺は今度こそ、それごと守るさ」
それでも兄は、私という弱点に、さらなる弱点を持つことを許すんだよ?
兄だって、きっと傷ついているはずなのに。
私がヴァイオリンを弾いたら、気分がいいはずないのに。
すごいだろう?
誰がなんと言おうと、私の兄は家族の味方で、ついでに正義の味方で、最近は勇者なんかにもなったみたいでさ―――かっこいいだろう?悪を砕いて、弱者を守るんだよ?自分の弱点の弱点ごと守ろうとするんだよ?
そんな奴、テレビの中とか、ゲームの中でしかいない。でも、たしかにここにいるんだ。
これが、私の自慢の兄なんだ。
「雅兄」
涙が出そうになるのを懸命に堪えるせいか、声が震えた。
「―――楽器が、弾きたいよ」