Act 14. 真実子とヴァイオリン
家族のように可愛がった愛猫を失った後、音楽は私が唯一持っていたモノだった。
小さい頃、愛猫を失った私がしょぼくれていた時に、川原で音大に通う女性が奏でるヴァイオリンの音に慰められた。
私はヴァイオリンが欲しいと両親に強請った。
子供用とはいえ、馬鹿高い楽器である。
両親がすんなりと了承するはずもなく、私はお金を地道にため続けていた。
それを見て、両親が中古とはいえ、かなりいいものを与えてくれた。
最初は、音大の女性に基礎を習い、彼女が卒業して海外に行ってしまったために、一人で弾き続ける趣味程度のものだった。
しかし母は、近所の音楽教室に通わせてくれるようになり、そこで恩師にあった。
ノンビリした印象しか受けなかったが、どうやらかなりの凄い人だったらしく、マンツーマンの授業で私の技術は一気に向上したと思う。私の音の世界も広がった。
小学生の時から、聞くのも勉強といって、大会に応募もしてくれた。
まぁ半分素人の私が恥をかくだけかと思われたが、最初の大会で審査員特別賞を受けて、付き添ってくれた母が興奮した様子で喜んでくれたのが、私も嬉しかった。
年に片手ほどのトロフィーやら賞状を持って帰ってくる兄や姉のように、喜ばせる術をしらない。
だから、頑張ろうと思った。
それが、私にできる唯一のことだから。
一度だけ、仕事人間の父が母に内緒で、会社を早退してまで見に来てくれたのを今でも覚えている。
何度か大会へ出場し、優勝まではいかないが賞は何度かもらった。
中学に入って二度目の大会で優勝することができた。
有名な楽器メーカーが主催した大会で、結構な参加者がいたが、なにがよかったのか私は学生の部で最年少だった。
帰宅前に恩師を通じて、関東の某有名音楽高等学校から声がかかった。
貧しい家ではなかったが、音楽にかかる費用は半端ではない。教室に通うのも結構かかっていたのも知っているし、楽器のメンテナンスだけでも、私のお小遣いで賄えるものではなかった。
その高校の特待生になれば、学費は不要。
音楽を習うには設備も完璧。
しかも、授業中にヴァイオリンが弾けるなんて。
兄姉は高校で二人とも特待生だった。奨学金を貰っていたので自分もそうしなければ、と思っていたが私は二人に比べれば頭が悪い。
だが大好きな音楽で特待生になれれば、万々歳だった。
有頂天で興奮したまま、その大会に付き添ってくれていた姉と帰宅していて―――油断していた。
唸るような獰猛なエンジン音。
骨が砕けた音が内側に響く。
血まみれのトロフィー。
ケースごと粉砕されたヴァイオリン。
泣き叫ぶ姉。
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事故の記憶は断片的にしか覚えてないが、次に目が覚めたときには病院のベットの上にいたが、夜中だったせいか、それすらもしばらくわからなかった。
ただ茫洋とした視界に、頭上で白い輪のようなものが、時計の秒針のように一秒ごとに規則正しく回っていたような気がした。
傍に人影があって、柑橘系の香りがしたが、すぐに意識が薄れた。
二度目に目が覚めた時は夕方だった。
話によると事故から五日後。
全身に走る激痛。
感覚のない左腕。
じわじわと不安感が意識を侵食していたが、痛みには適わなかった。動かないことで、激痛を招かないことを覚えた私は、微動だにせず周囲の様子を伺った。
果たして突き飛ばしてしまった姉は怪我をしなかっただろうか。
それを確認することすらできない自分に焦燥が募った。
すぐ傍で人の気配がして、姉かと思って視線だけ向ければ、ベットに肘を付けて、両手で目元を覆っている兄がいた。
背を丸め、肩を震わせて、ひどく弱弱しい印象を受けた。
びっくりした。
痛みを忘れるほど、びっくりした。
いつも飄々としている兄が、12歳で山で遭難しても楽しげに笑っているような男が、30人近い男に囲まれてもいつもと変わらない爽やかな笑顔を浮かべる奴が。
一瞬、兄が泣いているような気がした。
大慌てで――とはいっても、痛くてスローペースにだったが――右手のかろうじて動く指で突付いてみる。
「っ…ミコ!?」
驚いた顔の兄がナースコールを押して、その後は大騒ぎで大変だった。
やってきた母がエプロンつけっぱなしでワカメのついたお玉を持っていたり、父がお風呂に入る途中だったらしく上半身裸だったり、姉が視線が合うと、私の横たわるベットにダイブしてきて、私が気絶したり、傷が悪化したりと、若干入院が長引いたり、びいてなかったり。
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「ヴァイオリン…やめるの?」
「ん。ただの趣味だもん…ヴァイオリンも壊れちゃったし」
半月後、叔父並みの超人的な回復力で私は自宅介護になり、兄のゲームをしながら、戸惑う母の問いに頷いた。
医者に言わせれば左腕は絶望的―――といっていたのだが、母とのリハビリで、前と同じとはいかないが動くようになったので、時間さえかければ日常生活に支障はないぐらいになるだろう。
頑張れば、ヴァイオリンも弾けるかもしれない。
でも、やめようと思った。
誰も私になにも言わなかったが、大体察していた。
事故の記憶が鮮明になってくると、あれがただの交通事故ではなくて、故意であったことがよく分かる。
向かってくる車はブレーキどころか、アクセルを踏んで加速したのだ。
振り返れば、運転席の男の歪んだ口元。
あれは確かに笑っていた。
明らかな殺意。
姉を突き飛ばしていなければ、二人とも轢いたであろう進路。
私は自身は人様に殺したいと思うほど恨まれるような事はないだろうと思うし、姉も同様だろう。
目が覚めたときの兄の弱弱しい姿から考えれば、おのずと答えは出てくる。
誰も言わない。
だから、私も聞かない。
ヴァイオリンはただの趣味で、兄は大切な家族―――天秤にかければ、後者に大きく傾くのは計るまでもないことだった。
元通りの音が出せなくなったら、その音を聞くたびに兄は胸を痛めるだろう。
また同じように音が出ても、再び私が傷ついて弾けなくなったら、兄は更に罪悪感を覚えるだろう。
そして、いつか私の固執が、兄の弱みになってしまうかもしれない。
もうヴァイオリンは弾かないほうがいい。
家族より、大切なものは何一つ、私にはないのだから。
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「……コさん?」
鈴の鳴るような可愛らしいルイの可愛い声に、意識を呼び戻され、自分が少し思い出に浸っていたことに気がついた。
事故ったことすら、郷愁を誘う懐かしい思い出だった。
「ん、ごめん」
「え、いえ……そうだ、もう一曲いかがですか?」
どんな顔をしていたのか、ルイはこちらを気遣うように、微笑んでいる。
若いのに立派な子や、お言葉に甘えよう。
「ありがとう」
彼女は「はい」と、再び、ほんのりと青白い頬を桜色に染めて笑った。
え?アップしてないよね??好感度アップするような選択じゃなかったよね??普通に感謝しただけだよね、私?
疑問符を飛ばしていると、彼女の小さな指が、足元に咲いていた花を指差していた。
まだ蕾なので花というほどではないが、数日中には咲きそうな感じだ。
「前にオブシュレンドで楽譜を買って、あんまり練習してなくて、お恥ずかしいんですけど……」
オブシュレンド??町か?店か?よくわからんけど、頷いておこう。
彼女はほっとしたように胸を撫で下ろした。
もう一度ラブを足の間に挟むと、ルイは弓を構えた。
私は、じぃ、と弓と指使いを眺めてしまうのは職業病みないなものだろうか。趣味病?
愛情込めて―――音は春の日差しのように柔らかく、牧歌的な色を含みながら、静かに流れていく。
優しく、優しく。
ただ楽しげな音が私の心を慰めるようにくるくると響く。
指先から紡がれる音は、眩しいほど輝いていた。
眼鏡をかけているせいか、光の粒子のエフェクトが指先から、星や音符のような形になっては消えていく。
先ほどの傷を癒した曲とは違い、音は控えめにしたようで、こちらに気がつく人は少ない。
彼女は本当の意味で私だけに弾いてくれているのだろう。
そう思うと、少し嬉しかった。
数分弾いた後に、彼女はふぅと小さく息を吐いた。
私はたった一人の聴衆として、彼女に賞賛の拍手を浴びせている。
「ありがとうございます」
彼女はにこり、と微笑を返して、もう一度指先を蕾に指差していた。
驚いたことに、蕾は綻び、小さな愛らしい花を咲かせていた。
この世界の音楽ってのは、傷も癒せるし、植物の成長促進もできるのか。
さすが、ファンタジーである。
「すごい……」
「この花、リィールっていうんですけど、世界中のどんな秘境にも町にも咲いている雑草なんです。踏まれても、時間さえあれば元気になるんですよ」
「……へぇ」
私はマジマジとそれを眺めた。
いわゆる私たちの世界でいうタンポポみたいなものだろうか?
雑草だけど至る所に綺麗な花を咲かせる。
コンクリートの下からだろうとお構いなしに出てくる姿は、実に逞しいと思う。
「リィールの花言葉は、不屈の愛、逞しい心、癒される病―――再生」
少しの間、息ができなかった。
彼女は少し青白い顔で、じっと花を眩しそうに瞳を細めて、眺めている。
なんだか、心の中を読まれているようで、気恥ずかしい。
こんな小さな子に、心底心配させるなんて、大人失格だなと思いながら『うん』と小さく頷いた。
私の体の傷は癒えている。
だけど、兄の心の傷は癒えているだろうか?
ああ見えて兄は図太そうな立ち振る舞いよりも、ずっと思慮深くて、繊細だ。
「大輪の薔薇も綺麗だけど、わたしリィールが好きなんです」
「―――私も、好きになれそうだ」
長い月日が、他愛ない日常に癒えて―――私が考えているより深い傷にはなっていなかったらいいなと思いながら、風に揺れるリィールを眺めていた。