なんだろう、なんかね
「なんだろう、なんかね」
話を始める時、私はこの言葉をよく口に出す。これは、”なんだろう、なんかね”。あ、今のがまさにといったところだろうか。これは俗にいう”口癖”というものだろうか。そういう他ない。
癖というものは、気づいてしまうと、途端に意識していまうものだ。これは、なんというか。この、”なんというか”も、私の口癖の一つだ。
溜息が出る。世の中には気づきたくない事実、事象、現象その他エトセトラ。私に関して言えば、それは口癖ということになる。
「なんだろう、なんかね」口に出してみる。
違和感が空を切る。なんというか、なんだろう、違和感しかないのだ。あれだけ口にした言葉だ。改まって口に出してもその事実は変わらないし、なんというか、この癖を意識的に変えようと思うと時間がかかる。
恋人に「その癖、直して、話すときにグーパーするの、やめて」と言われたことを思い出す。想いだす。これは、なんというか、直らないものなんだよ。簡単にはね。だからそう言われても困るわ。
胸の奥底、感情の隅、脳の端切れ、私は隠れて、言い訳をするの。目が覚める、でも揺らぐ、はっとする。口に出す。
「なんだろう、なんかね」
嫌われた。結果的には、私が悪いか、あの人には、なんというか、受け入れる姿勢が足りなかったのだろうか。ふと我に返る。溜息が出る。
「それは、口癖なのかな」
「なんだろう、多分」
「それそれ、”なんだろう”って」
「あ、今のか」
なんだろう、なんかね。脳が口に出す前に私に釘を指すように映し出してきた。言い換えるにはどうしたらいいのだろうか。
「はあ、なんだろう、あ」
もう私はダメなのかもしれない。この世界には極端な希少性を保持することにより種を存続させていく生物がいる。どこかの国のある湖はとても高温であり、生物がその中で生きようとすると茹ってしまう。それでも彼らはそこで生きていくことが、生きていくためには必要なのだ。私にはそのような場所が必要だ。それがどこにあるかは、なんだろう、皆目見当もつかない。
私という個体がそういった具合に存在を曖昧にしながらも危ない橋を渡ろうとも存続し続けられるような場所、居場所、いなくてはならないような場所はどこだろう。決まりが必要みたいだな。
『あなたは無くなってはいけないし、そこに有るべきなんだ。それはこの世界が決めたことなんだ。あなたは抜け出せないんだよ、その場所から。でもそれは必要なことなんだよ。考えなくてもわかるはずだ。あなた自身がなぜそこに居るかはいずれわかるよ、いやでも理解することになる。君自身がね。』
何かが私に語りかけてくる。それは寝ているときに見るあのぼやけた夢のような、煙草のケムリが吐かれたのと一緒に出るあの溜息のような、とにかく淡いモノ、そのナニかが私に語りかけてきた。ここではそうだな、なんだろう。何か名前が必要ような感じがする。そうだな”ナニカさん”と呼ぼう。
声はなんだろう、男性のような低い声にも聞こえるし、女性のような柔らかさもあるし、あるいは中性的などっちつかずな、甲高い子供のようにも聞こえた気がする。
そのナニカさんは度々私にその淡い声を届けに来るようになった。その頻度は一定ではなく、数時間に一度というときもあれば、何日も空くということもあった。でもそれは決まって、私が私の癖に気づいたときだった。具体的には、煙草を吸うときに、私は口にくわえた後に一度手を離すことに気づいたとき、でもそれが右手に限った話で、左手のときは手を離さないことに気づいたとき。この時は、ナニカさんは三回その声を聞かせてくれた。
『一つ近づいたね』
『一歩近づいたね』
『また進み始めたね』
彼、彼女、あるいはあの人。ナニカさんが言うことは私にはよくわからないというか、なんだろう。伝わるのだけれど、その本質については全く触れてくれないというか。とにかく主語がないし曖昧だった。
「なんなの、私にどうしてほしいの」
沈黙が流れる。それは酷く冷め切った空のタッパーみたいに空虚なものだったと思う。
煙草に目を向けてみる。行き場を失った私の感情は、それを喫煙という行為に走らせる節が多々ある。クールの八ミリだ。メンソールがそこまで強くない。とろみのあるまったりとして丸く、嫋やかに、しなやかに口に入ってくるケムリ。肺が満ちていく。ミルクのようなスッと抜けて、優しさを含むその甘さを舌に残し、溜息とともに肺を、喉を、鼻を、口を、そのケムリが抜けていく。それはまるで川が海との境で散開し、三角州を作り上げる様に見える。違うのはケムリが宙を舞って消えていくことくらい。私は川だ。この口を境にして、外の空気という海と繫がっている。心の臓がその出発点。
「あれ、私ってなんだろう」
自分の存在を疑ってしまった。なぜ悩んでいたんだろう。”なんだろう”これは私の癖だけど、今違和感を感じなかったような気がする。何かが変わったのだろうか。いや、変化し続けているのが生物なんだ。その細胞は幾何百、幾何千、何万と数え、億を超える。でもそれらはひと月も経てば一つとして存在を消し、新しいものに置き換わっている。ならここに形を残している”私”というものは、その存在をどう定義付けていけばいいのだろうか。
光が窓抜け”私”を照らしている。でもそれは部屋の窓ではなく、私の内側に存在するところ、感知できない芯の部分から差している。
『気がついたね』
『それが君だよ』
”はあ”
今度のは溜息じゃない。体を整えることを目的にした深呼吸だ。鏡に向かいその存在を有り有りと目に焼き付ける。問いかけてみた。
「なんだろう、なんかね」
気づきたくないことって世の中に溢れていないだろうか。それもあまりに多すぎる。足元のゴミ、午後の天気、現行締め切りまでの日数、次の支払い期限、あの人の本心、国の行く末、世界情勢の実情。でも気づいてしまう。気づけないこともある。気づかなくてはならないこともある。僕は、その最たるものは”自分自身”つまり、この”私”という存在、その認識であると考えている。
”私”というものは”私”以外がその内側を感知することが到底不可能な領域なのだ。この内在的な”私”に居場所を見つけていくという作業を行わなければ、自分というものが廃れてしまうのではないかと私は怖くてたまらないのだ。
これらはすべて自論である。だが、これがこの書き物の出発点であることに異論はない。なぜなら、そこに気づいたのは”私”なのだから。




