戦後世界のあらまし
戦後世界のあらまし
1944年8月8日、第二次世界大戦は停戦を迎えた。
正式な終結は、1946年8月15日に結ばれたダボス講和条約を待つ必要があるが、殆どの国では8月8日を第二次大戦終結の日としている。
2度にわたって世界大戦を引き起こしたドイツは、ヒトラーの暗殺、ナチス党の崩壊と内戦を経て、軍部がヴィルヘルム家を担ぎだして帝政が復活した。
ドイツ第4帝国の始まりである。
戦前・戦中の悪行を全てヒトラーとナチス党に押し付けた関係で、ナチス時代に併合したオーストリアやチェコ・スロバキアを手放すことになったが、ドイツは1914年の領土は確保した。
とりあえず、英仏への復讐は果たしたと言えるだろう。
しかし、結果として、ドイツは欧州の盟主としてソ連という宿命的な敵国と向き合うことになった。
ポーランドは独ソ戦の舞台となり1,000万人が死亡し、国土の全てが灰燼となったが、その灰の中から復活し、再び独立を確保した。
これはバルト三国も同じで、独ソには緩衝地帯が必要だった。
ドイツを奇襲したソ連は、ヒトラーと手を組んで得た領土(ポーランド東部やカレリア地峡等)を全て失ったが、スターリンはソ連の指導者であり続けた。
もう片方が会議室に仕掛けられた爆弾で、粉微塵に吹き飛んだことを考えると独裁者としてスターリンはヒトラーよりも一枚上手だったと言える。
なお、ヒトラーは爆死したが、爆薬の量が多すぎたため、死体の回収が困難を極めた。
結果、潜水艦でヒトラーが南米やアフリカに逃亡したというヒトラー生存説が生まれる土台となった。
これは余談だが、アフリカ(ガーナ)に逃亡したヒトラーはドイツの千年進んだ超科学によって全身を機械に改造したアドルフ・ロボットラーとなり、サイコパワーに目覚めたスターリンとの再戦に備えているそうである。
それはさておき、東欧への進出に失敗したスターリンは、アジアに注力することなった。
1948年に国共内戦が毛沢東の勝利で終わったのは、スターリンのアジア重視を抜きにしては考えられない。
中華民国は、日本等からの支援で圧倒的な優位に立っていたが、経済政策の失敗で世論の支持を失っており、政権を維持できなかった。
支援も最大手のアメリカと対立したことで大きく資金面で不自由していた。
蔣介石が日独から景気よく武器を買えたのは、アメリカからの資金援助によるもので、パトロンを敵にまわしたのが致命的だった。
ドイツがソ連に勝利していればまた違った展開もあったかもしれないが、ドイツにソ連を打倒できるだけの生産力がなかった。
ヒトラーの口車に乗ったのが全ての誤りのもとだと言える。
最終的に、蔣介石は満州へと逃亡し、満州国(中華民国)として命脈を保った。
これによって現代まで続く、二つの中国が成立した。
ただし、どちらの中国も中国は一つと主張している。
1950年に勃発した満州戦争は、中国を一つにするための戦いで、中華人民共和国が万里の長城を超えて満州国に侵攻して始まった。
この戦争で、日本は再編成された国際連盟の常任理事国として、同じく常任理事国となったアメリカと共に国連軍を編成し、介入することになった。
大戦中に完成した日本の超巨大戦艦大和と米海軍の超々巨大戦艦コンチネンタルが初めて戦隊を組んだのもこの時である。
コンチネンタル級戦艦は、米海軍が日本海軍の次期主力戦艦を粉砕するために建造した超超々ド級戦艦だった。
基準排水量十万t、20インチ(51cm)砲3連装3基9門を備え、28ktで海上を動きまわる北米大陸だった。
流石にこれだけの巨大戦艦にもなるとアメリカの工業力でも持て余し、大戦中に完成までこぎつけたのは2隻だけだった。
1945年まで戦争が続いていたら、さらに2隻追加される予定で、コンチネンタル級は合計6隻(コンチネンタル、ジョージ・ワシントン、ジョン・アダムズ、トーマス・ジェファーソン、ペイトン・ランドルフ、ジョン・ハンコック)が完成した。
これは日本海軍の大和型も同じで、停戦までに完成したのは大和、武蔵、信濃、甲斐の4隻で、5、6番艦(紀伊、尾張)の完成は大戦が終わったあとだった。
ちなみに未完成で終わった大和型戦艦7,8番艦を戦後に改装して完成したのが空母隼鷹・飛鷹である。
空母隼鷹と飛鷹は基準排水量70,000tの巨大空母として1990年代まで現役だった。
これは余談だが、日本海軍にコンチネンタルがお披露目されたとき、あまりにも巨大だったため、日本海軍の見張り員は戦艦7隻の艦隊を戦艦1、巡洋艦6隻の艦隊と誤認した。
さらに余談だが、コンチネンタルと戦隊を組んだ6隻の戦艦は、46,000t級のイリノイ級戦艦で、アメリカ海軍はこれを18隻建造する予定だった。
実際に完成したのは12隻までだったが、あと戦争が1年続いていたら、コンチネンタル級戦艦4隻とイリノイ級戦艦16隻が完成していた。
イリノイ級戦艦は、日本海軍が戦前に予想したポスト・ダニエルズ・プラン級戦艦で、パナマ運河を通過できるぎりぎりサイズの16インチ砲搭載戦艦だった。
イリノイ級に撃ち勝てる船として大和型戦艦が企画されたが、米海軍はパナマ運河通過を捨てて、実用性もどこかに置き去りにしたコンチネンタル級を建造した。
戦後に政界へと転出した山本五十六元海軍大将は、1955年に首相としてコンチネンタルに招かれ、
「この船では奴らには勝てんな」
と並んで停泊する大和を見て苦笑いをしたとされる。
この時、ハワイには日英米三国同盟の締結を記念し、日本の戦艦大和、アメリカ海軍の戦艦コンチネンタル、英海軍の巡洋戦艦ネルソンが集まった。
英海軍だけが大戦中に完成した新戦艦ではなく、1920年代に就役した提督級巡洋戦艦というのがイギリス経済の凋落を体現していた。
戦後、植民地の独立でイギリスは急速に国力を減じていった。
日英同盟にアメリカが参加したのも、経済衰退で海上覇権を維持できなくなったイギリスが、日米にその任を禅譲するためだった。
また、ドイツ主導の欧州防衛機構から距離を置きたいという意味もあった。
満州戦争後、ソ連に対抗するため欧州諸国は集団安全保障体制を構築した。
ボンに本部をおいた欧州防衛機構の主役はドイツ陸軍である。
もちろん、欧州防衛機構には日米は参加していない。
戦後のアメリカは欧州に距離を置いた。
フランクリン・ルーズベルト大統領が主導した欧州介入が失敗に終わり、ルーズベルトが4選を逃して失意のうちに死去したことはアメリカ政界にとって大きな教訓となった。
状況が変わるのは満州戦争後のことだった。
共産国によって引き起こされた侵略戦争によってアメリカは介入主義へと傾いた。
さらに共和党のマッカーサー大統領の手でルーズベルト大統領時代に浸透したソ連のスパイが摘発され、ソ連による秘密工作の全貌が明らかになった。
ホワイトハウスにさえソ連のスパイが浸透していたことはアメリカ世論を騒然とさせた。
アメリカ国内は赤狩りに狂奔し、満州戦争の経験を経てソ連封じ込めを画策した。
その為の日英米三国同盟で、これはシーパワーの力でソ連のランドパワーを封じ込めるという意図があった。
この同盟で日本は冷戦を乗り切った。
ベトナム戦争も三国同盟の力で辛うじて勝利に持ち込み、80年代にはアメリカと共に大規模軍拡を実施して、ソ連を経済破綻に追い込んだ。
湾岸戦争ではアメリカ軍に次ぐ戦力を展開し、多国籍軍の勝利に貢献した。
冷戦が終わると不要論も囁かれたが、1999年の香港”不”返還で再び、同盟の力が再確認された。
香港返還を要求する人民解放軍を撤退に追い込んだのは、英海兵隊の勇気と日米海軍が展開した空母10隻の大機動艦隊だった。
2000年に入ってアメリカで航空機の自爆テロが発生すると三国同盟が再定義され、テロ対策が浮上した。
ただし、日英米の三国で行ったイラク戦争やアフガニスタン戦争は、今となっては失敗だったと考えられている。
特にアメリカの自信喪失と混乱は目を覆わんばかりである。
2022年2月にウクライナ戦争が勃発しても、アメリカの反応は鈍く、日英がウクライナに武器を緊急供与してから漸く動きだす始末だった。
ドイツのように速攻で見捨てるよりマシだが。
最近ではエイブラムス戦車を送るなど支援を拡大し、イギリスのチャレンジャー2戦車や日本陸軍の八八式戦車と共にウクライナ戦争で活躍が報じられている。
満州でソ連軍や中華人民解放軍と戦うために開発された八八式戦車が、30年後にウクライナで戦うことなど、想像もしていなかった時代がきたと言える。
アメリカは議会の混乱でウクライナ支援が滞るなど頼りない姿が目立つが、日英の2倍以上の兵器供与を行うウクライナ最大の支援国である。
また、近年拡張が著しい中国の人民解放海軍に対抗し、日本海軍と米海軍が協同で長距離極超音速誘導弾の開発を行っている。
既に台湾には大量の対艦巡行ミサイルが配備されており、人民解放海軍は開戦と同時に港で全滅するとさえ言われているが、念には念と言ったところだろう。
このように日本の外交・防衛の基軸となっている日英米三国同盟を戦前から予見していたのが2度の世界大戦で蔵相を務めた高橋是清だったことは広く知られている。
高橋は日露戦争直後から日英米三国同盟を予見し、第二次世界大戦はドイツと日英米による戦いになると予想していた。
実際には、ドイツと戦ったのは英仏、その後はソ連とアメリカで、日米は中国の暴走で対立する羽目になり、ドイツに協同で対応することはなかった。
ただし、ソ連との冷戦に対応して、日英米が同盟関係を結んだことは前述のとおりであり、紆余曲折はあったものの高橋の予言は的中したと言える。
そんな遠い未来を見通していた高橋は、日米戦争が終わった2年後の1946年1月3日に死去した。
その翌年には、戦前の昭和政界を仕切った元老の原敬が死去している。
また、同年には戦時内閣を率いた中島知久平が病没しており、戦争指導が寿命を縮めたことは明らかである。
高橋にとっての戦争は、殆どインフレ対策だった。
太平洋事変で日本政府が支出した軍事費はおよそ1,500億円だった。
新八八艦隊の建造や陸軍100個師団(300万人体制)、さらに航空機2万機体制など、大戦中の日本軍は戦争をしないために軍拡を重ねた。
ちなみに1939年の日本政府の一般会計予算は52億円だった。
つまり大戦中の軍事費は国家予算の28年分に相当する。
日露戦争の戦費が国家予算の5年分だったから、その6倍の金を使った計算になる。
このような巨額の戦費が必要となったのは、大量消耗戦に備えた国家総力戦体制の構築に多額の予算が投じられたためである。
多くの民間企業が、民需から軍需に転換し、さらに軍需工場も兵器増産のために拡張に次ぐ拡張となった。
有名なところではフォード・ジャパンやGM・ジャパンといった在日米国企業が、日本陸海軍からの発注を受けて、戦車や航空機の量産化を請け負った。
それでいいのか?と思いたくなるが、現地法人にとって重要なのは現地での利潤の追及であって、本国政府に奉仕することではない。
民族資本の豊田自動車や日産自動車も提携先のフォードやGMからの指導を受けて軍用航空機の量産化に成功し、戦時中は一式陸攻や二式局地戦闘機などを作っていた。
中島飛行機や三菱航空機といった大手軍需メーカーも新しい工場の建設、工員の大幅な増員を行って、大量生産体制を整えている。
こうした設備投資は、政府の財政投融資の存在が前提だった。
何しろ民間企業や軍需企業にとっても、数年で終了することが明らかな戦争特需のために多額の設備投資を行うことは自殺行為だった。
戦争が終わった瞬間に、商品が売れなくなるからだ。
そのため政府は嫌がる企業を説得し、軍需に転換・生産拡大をする必要があり、その為に多額の特別融資を行った。
要するに札束でぶん殴って、言うことをきかせた。
企業と政府が結んだ契約には特別融資だけではなく、戦後に不要となる生産ラインの政府買い上げという特別条件などもあり、多額の予算が必要となった。
兵器の生産にも金がかかるが、開発にも金はいくらでも必要だった。
陸軍航空隊の例にすると当初の主力として百式戦闘機(隼)、翌年には一式単座戦闘機(鍾馗)、一式複座戦闘機(屠龍)、二式戦闘機(飛燕)、三式戦闘機(疾風)といった具合に毎年新しい戦闘機を制式化して、量産した。
このような速度の軍用機開発は、平時においては絶対にありえないことだった。
それが可能となったのも多額の軍事費投下による開発体制の拡張があった。
技術開発とは、炉に札束と天才の脳髄をくべて燃やして動く蒸気機関車のようなもので、予算だけでもダメだが、才能だけあっても前には進まない。
また、開発する技術が使い物になるのかは、完成してみないと分からなかった。
アメリカ海軍などは航空機向けの誘導爆弾を戦時中に研究し、誘導装置として鳩や猫を使用するアイデアに多額の予算をつぎ込んでいる。
誘導兵器の正解は、ドイツ空軍のフリッツⅩや日本海軍が開発した赤外線誘導式のケ号爆弾だったが、誘導装置は鳩や猫よりも遥かに高価で複雑なものが必要となった。
鳩や猫よりも高価だが、量産性に優れて遥かに高性能な誘導装置として人間が存在したが、どの国もそこまで戦況が切迫することがなかったので、実用化はされていない。
実用化されなかったアイデアでも、戦後になって花開いたものも多く、ジェットエンジンやロケットエンジン、原子爆弾がそれにあたる。
イギリス空軍や、日本陸海軍航空隊で採用されたグロスター・ミーティアや、ドイツ空軍のMe262シュヴァルベは戦争に間に合わず、量産配備は停戦後となった。
日本海軍も独自にジェットエンジンを開発していたが、国産のネ20が実用化されたのは戦後だった。国産ジェットエンジンを搭載した陸上偵察機景雲が初飛行を果たしたのは1946年のことになる。
ドイツ陸軍が開発したV2ミサイルの配備も停戦後だった。
V2ミサイル、V1ミサイルは弾道ミサイル、巡行ミサイルの始祖鳥と言える。
戦略爆撃機の開発で遅れをとったドイツは、V2ミサイルでソ連の兵器工場を破壊することを画策したが、黎明期の弾道ミサイルの誘導性能と飛翔距離では実現可能性はほぼ皆無だった。
ただし、V2ミサイルで培われた技術はその後の欧州宇宙開発の基礎となった。
1967年に米ソの同業者に先駆けてドイツのペーネミュンデ宇宙基地から打ち上げられたA44ロケットによって、欧州宇宙開発機構は人類初の月面着陸を成し遂げた。
原子爆弾を開発したのはアメリカ合衆国で、最初の一弾が完成したのは1945年7月だった。
アメリカの核兵器開発は戦争に間に合わず、アメリカによる核の独占はソ連の核実験成功(1949年)までしか保たなかった。
そのため、巨額の予算を費やした無駄な政府事業と批判された。
ちなみに日本も戦時中に原子爆弾開発を実施し、多額の予算をつぎ込んでいた。
開発を担当したのは理化学研究所の仁科博士のグループだった。
日本の原爆開発は、当初から戦争に間に合わないという意見が支配的だったが、大蔵大臣の高橋が陸海軍を説得し、予算を付けたことで知られている。
高橋が原爆開発に執心した理由は不明だが、戦時中の原爆開発が日本の核物理学を大きく前進させたことは間違いない。
日本の国産原子爆弾が完成したのは1955年で、米ソ独に次ぐ4番目の核保有国になった。
当然のことながら、このような多額の支出を伴う戦時体制の構築を増税だけでまかなうのは不可能である。
よって、大部分は戦時国債の発行でまかなわれた。
日本の国家財政は、国家予算の28倍の借金を背負って、即座に破綻していない。
破綻していないのである。
日本政府は一度もデフォルトを起こしていない。
ただし、1945年のインフレ率は59%になった。
これでもまだ高橋や池田の奔走によって低く抑えられた方だった。悲観的な予想ではインフレ率900%という数字もあった。
インフレ率900%では紙幣が紙屑となり、国民の銀行預金が全て無価値になるレベルであり、貨幣経済の崩壊を意味する。
ただし、インフレ率59%でも極端な物価上昇であることには変わりなく、日本政府は物価上昇が落ち着く1947年まで各種配給制を維持した。
日本は本土の工業地帯が、戦災に直面することが皆無で、軍需から民需への転換が速やかに行われたことで、戦後インフレは早期に落ち着いた。
それでも、1939年時点の消費者物価指数を100とするならば、1949年では631となり、10年で物価が6倍上がった計算となる。
戦中・戦後の日本は、大インフレ時代だったと言える。
インフレーションで戦時国債が圧縮されたことでデフォルトは避けられたが、同時にそれは国民の資産もまた圧縮されたことを意味する。
特に明治以来の資本家層だった地主層が受けた打撃は大きかった。
債務によって小作人を土地にしばりつけていた地主は、不労所得を得て都市生活者(寄生地主)となっていたが、インフレと戦時地中の食料統制で殆どが壊滅的打撃を被った。
戦前から、日本の小作人制度は自作農に比べて著しく生産性が低く、農奴制並みと見られており改革の必要は明らかだったが、地主層が議会に議席を持っていていたためある種の不可侵領域となっていた。
小作人制度は、戦前の時点でもインフレと工業化で揺らいでいたが、第二次世界大戦のインフレで小作人の債務が圧縮され、食料統制のために政府が強制買い上げ制度を整えると8割が自作農に転換した。
戦後に行われた農地改革は、残った2割の後始末であり、政治勢力としての地主層は消滅した。
もちろん、戦前から在地で耕作を行っていた大規模耕作者としての地主はそのまま存続しており、全ての地主が破滅したわけではない。
同じ理由で戦前の資本家層だった華族も大打撃を被り、資産防衛に失敗した者は爵位を維持できる資力を失って消えていった。
ただし、大インフレ時代到来を予期して適切な資産防衛をした華族は生き残り、戦前よりも資産を増やした名家もあった。
90年代に破綻しかけた北海道開拓銀行を買収して一躍有名となったある華族家も、大インフレ時代を生き延びて資産防衛に成功した華族の一つである。
また、明治以来、産業を寡占支配してきた財閥企業もインフレで資産が大きく目減りした上に、政府の経済統制に組み込まれ政治勢力として大きく後退した。
戦後に勃興した新企業群、代表例としてはホンダなど自動車関連企業は、財閥の経済支配の後退と第二次世界大戦での生産力拡大が生み出したものと言える。
特に軍用航空機の工場や生産設備は、戦後に遊休化することが必然だったので、民需に転換するか、もしくは政府が買い取りするかの二択だった。
民需に転換した例としてはトヨタや日産自動車があげられる。トヨタや日産は戦中に政府の融資で整えた軍需工場を戦後に自動車生産へと転換し、今日の地位を築いた。
というよりも、最初からそれが狙いで軍需生産に協力した。
日産も同様である。
軍用機メーカーの中島飛行機、三菱航空機も戦後は自動車生産に参加し、スバル自動車や三菱自動車などに転身した。
ただし、中島飛行機や三菱航空機も本体はそのまま残って、日本の軍用航空機製造の中心を維持した。
しかし、中島飛行機以外は大規模な生産ラインを手放した。
これは平時に大量生産の必要がない軍用航空機生産にとって、大規模な生産ラインなどは大赤字必至の代物で、半官半民の中島飛行機以外では保持できるものではなかった。
その中島飛行機でさえ、平時にやっているのは旅客機製造で、軍用機を作っているわけではない。
今では旅客機のNBA(中島、ボーイング、エアバス)と称されるほどシェアを広げた中島飛行機も、当初はDC-4のライセンス生産に始まり、国産ターボプロップ旅客機NS-11の失敗で大赤字となって政府の融資で救済され、B707のライセンス生産で経験を積んで、自社製旅客機で黒字を得ることに成功したのは80年代も末になってからである。
現在でも中島飛行機の生産ラインは政府の所有物で、年間1,000円の貸与契約によってなりたっている。
年間1,000円というと破格と思えるが、工員や関連企業への支払いは中島飛行機の負担であり、思っているほど有利な契約でもない。
ちなみに1,000円なのは政府の予算書に記載可能な最低金額が1,000円だからである。
また、戦時協力の義務があり、2022年にウクライナ戦争が始まると戦時契約に基づきウクライナ向けの84式戦闘機5型360機の緊急生産を請け負った。
84式戦闘機は、冷戦末期に完成した陸軍航空隊伝統の前線用軽戦闘機である。5型は2020年に制式化された最新モデルである。
ほかにもウクライナ向けの防空用誘導弾(05式長距離対空誘導弾)の月産100発体制を担っており、中島飛行機の生産力はウクライナ軍にとってはなくてはならないものとなっている。
愛知航空機や九州飛行機、渡辺鉄工所など、戦後に軍用機製造から撤退した会社も多く、宙に浮いた生産設備は政府の買い上げとなった。
こうした買い上げした設備は新たに自動車産業に参入する新企業に払下げられ、ホンダやスズキが自動車や二輪車の生産に使用した。
ホンダ浜松工場の初期の設備は、戦時中に愛知航空機が零式艦上爆撃機を生産していた時に使用していたものである。
二輪車のアルミフレーム製造には航空機製造技術がスピンオフされており、その元ネタは戦時中の軍用機製造にあったのは広く知られているところである。
そして、戦後新企業で働く職員もまた大インフレ時代の勝者だった。
労働者は基本的に自分の体以外の資産を持っていないので、インフレで失うものがなかった。
しかもインフレで給料が上がり続けたので、ローンを組んで土地や家屋を買って資産を形成することもできた。
明治以来の資本家層がインフレで縮小し、無産階級がインフレによって購買力を増したことで政治・経済を主導する分厚い中間層が形成され、戦後日本の成長と安定を作りだしたと言える。
大インフレ時代が終わった1950年代も、池田隼人内閣による所得倍増計画や60年代のベトナム戦争景気、70年代はオイルショックがあったものの田中角永による列島改造ブームで日本経済は西側第2位の地位を築き上げた。
GDP対米7割を達成したのが1978年のことである。
経済力の対米7割確保は、高橋の遺訓であり、大蔵省の悲願だった。
1980年代の日本は、冷戦終末期の最後の大軍拡時代を迎え、八八八艦隊計画に伴う軍拡特別公債の増発で、未曽有の好景気となった。
八八八艦隊計画は、空母6隻体制(隼鷹、飛鷹、大鳳、魁鳳、白鳳、翔鳳)を8隻体制に拡大することを骨子とし、既存艦の寿命延長工事などの近代化改修を行った上で新造の10万t級原子力空母2隻(蒼龍、飛龍)を建造した。
さらに艦隊をソ連爆撃機から守るための米国製のイージスシステムを搭載した1万t級の巡洋艦8隻(金剛、比叡、榛名、霧島、那智、羽黒、高雄、妙高)が配備された。
イージス・フリートは冷戦後は弾道ミサイル防衛任務が追加され、2024年には当初の3倍である24隻まで拡大した。
これに加えてソ連海軍が建造中とされるキーロフ原子力重巡洋艦に対抗するため、保管艦状態の高千穂型超甲巡8隻(高千穂、穂高、新高、荒島、剣、白根、黒姫、天城)をミサイル超甲巡に改修、現役復帰させるものだった。
防空を担うイージス艦と異なりミサイル超甲巡は純粋な攻撃艦とされ、各艦に64発のトマホーク巡航ミサイルを搭載して長距離打撃任務を担った。
戦術核弾頭を含む多数の巡航ミサイルによって、超甲巡1個戦隊で極東アジア、シベリアのソ連の軍事施設、航空基地を殲滅できることになっていた。
また、対潜作戦を担う駆逐艦も5,500t級の夕雲型が48隻調達された。
夕雲型は日本初の国産システム艦で対空、対潜、対艦誘導弾をバランス良く搭載した汎用艦として用兵側の評価も高かった。
そのため、次級の朝霧型駆逐艦などの基礎となり、2012年には国産広域対空誘導弾を搭載したミニ・イージス艦の秋月型駆逐艦に発展した。
同時に攻撃型原潜24隻体制や、通常型潜水艦24隻体制などの水中戦力も増強された。
航空戦力もぬかりなく整備され、空母艦載機にはライセンス生産したF-14Jトムキャットや、F-4ファントムⅡを近代化・攻撃機化したスーパーファントムが用意された。
陸軍も戦車1万両体制を目指して、旧式化した56式戦車を近代化改修すると共に80式戦車を大量生産し、さらに発展型の88式戦車を開発した。
ヨーロッパでは戦車王国ドイツがその誇りに賭けてレオパルド2戦車1万両体制を目指して増産に次ぐ増産を行っており、ソ連軍首脳部を絶望させた。
ゴルバチョフ書記長が手を挙げたのも当然の成り行きだったと言えるだろう。
ただし、軍拡のため多額の通貨発行が行われ、さらに金融引き締めが遅れたことから資産バブルを招いてしまった。
結果、冷戦崩壊後の軍需後退もあって1990年の株価大暴落となった。
90年代のバブル崩壊は深刻な景気後退となり、日本の政治・経済を動揺させた。
不況が深刻化した1995年には大正デモクラシー以来の立憲政友会と立憲民政党による2大政党制が崩壊し、政友会と社会党による連立政権となった。
経済が持ち直したのは、1998年の民政党の大渕恵三内閣によって実施された半世紀ぶりの0金利政策(金融緩和)、所得税、固定資産税の減税、ITインフラ整備を目的とした大規模な財政出動だった。
ITインフラ整備には投じられた予算は10年間で200兆円という巨額のもので、アメリカが先行するIT分野で巻き返しを図るものだった。
高橋是清以来の省是として、日本経済の浮沈に責任を負う大蔵省がまとめた景気対政策によって、ようやく日本経済は安定成長路線に復帰することなる。
なお、ITインフラ整備は、内地よりも朝鮮半島や台湾といった日本国内でも経済後進地において、恩恵が大きかった。
なぜならば、朝鮮半島や台湾では製造業が弱く、地元産業といえば、稲作や鉱業といった第一次産業ばかりだった。
朝鮮や台湾の自治政府はこうした現状を変えようと製造業への投資を行ったが、伝統的な内地企業に太刀打ちできるものではなかった。
勝ち目があるのは安い人件費を使った繊維産業や農業、鉱業といった労働集約型産業ばかりで、付加価値の低さから賃金が低く、生活が上向くことがなかった。
90年代のIT革命は、内地企業と同じスタートラインで勝負ができる新産業を拓くこととなり、朝鮮・台湾経済にとって起死回生の一手だったと言える。
現在ではIT産業を支える半導体の製造においても朝鮮・台湾メーカーが、内地企業を圧倒して逆侵攻(熊本への工場建設など)している状況で、日本経済における勢力図は大きく書き変わった。
ただし、台湾や朝鮮の半導体メーカーが使用する各種特殊素材を供給しているのは内地のマテリアル系産業である。
そのため、大日本帝国は素材供給から設計・製造、販売、消費までを域内で完結する唯一の国家として、半導体分野における一強体制を築き上げた。
これは米国や欧州連合でさえ実現できていない日本だけのものである。
ウクライナ戦争によって始まったサプライチェーンの再編成において、日本の半導体分野の自己完結性は高く評価されており、現在の日本は海外からの多数の投資が集まり、笑いが止まらない状況にある。
直近の日経平均株価は、12万円を超えて15万円代を伺う態勢となっている。
世界情勢はウクライナ戦争、中東紛争によって流動性・不安定性が高まっている。
アメリカ大統領選挙の行方も不明である。再選を目指すトラプソ元大統領の主張は、過激で陰謀論的であるが、同時に極めて内向的で弱いアメリカそのものと言える。
日本は責任ある大国として、自ら掲げた理想である法治主義の徹底、自由で開かれたインド洋・アジア・太平洋のため、実際の”行動”を求められていると言えるだろう。