日米不戦
日米不戦
1939年9月1日から1940年8月1日まで続いた英仏と独との戦争を欧州大戦(または第二次欧州大戦)とし、1940年9月15日から始まったドイツとソ連の戦争をドイツ・ソ連戦争(独ソ戦)と分けて捉える考え方がある。
理由は、19世紀的な決着を見た西欧での戦争に比べて、独ソ戦がイデオロギー闘争の面が強く表れ、長期に渡って凄惨な戦いが続いたからである。
つまり、独ソ戦はファシズムとコミュニズムの戦いと言える。
しかし、スターリンが先制攻撃に踏み切ったのは、イデオロギーのためではなく、専ら自衛のためだった。
先にやらなければ、やられると考えたのである。
スターリンは、独ソ不可侵条約を結ぶことでヒトラーに恩を売り、さらに英仏とも取引できる立場を手に入れた。
先の大戦が長期・消耗戦になったことを考えれば、独英仏が戦争の泥沼にはまり込んだときこそ、自分を高く売り込むチャンスがくるはずだった。
誤算は、英仏が1年足らずで戦争を投げ出す根性なしだったことである。
ヒトラーは全く新しい戦争形態、電撃戦で英仏の戦争継続意思を粉砕した。
スターリンが自分を高く売るチャンスは永遠に失われ、そして、西側の安全を確保したヒトラーが次に考えることは容易に想像がつく。
実際にヒトラーは、フランスの戦いが終わった直後の1940年7月1日に陸軍総司令部にソ連攻撃計画の研究、立案を命じていた。
スターリンは、不可侵条約は英仏独が戦争状態にある限りは有効だと考えていたが、そうでなくなった場合は無意味なものとみなした。
であるならば、相手の準備が整う前に先制攻撃に訴えるしかなかった。
開戦が9月15日となったのは、共産党にとって重要な祝日である10月革命の日までにベルリンを占領して、戦争を終わらせるためだった。
また、仮に作戦が失敗しても、冬の降雪によって反撃が困難となり、先制攻撃で確保した土地を守りやすくなるという目算があった。
前者は独裁国家にありがちな無意味なスケジューリングであり、後者はスターリンの慎重さあらわしていた。
そして、ソ連軍は前者によって大損害を被り、後者によって救われた。
1940年9月15日に国境を超えたソ連軍の総兵力は300万で、150個師団が攻撃に参加した。
これを支援する航空戦力は8,811機で、戦車は9,987両という記録が残っている。
まさに圧倒的な物量作戦という他にない。
対してドイツ軍の東部国境の守りは55個師団で、航空戦力は旧式機を中心に334機、戦車も練習用の軽戦車が124両しかなかった。
今なら勝てるとスターリンが考えたのも無理はなかった。
しかもドイツ軍はフランスの戦いを終えたばかりで、本土で傷ついた軍団の再編成を行っている最中だった。
虎の子の装甲師団が半壊した上に、ヒトラーはソ連攻撃のために装甲師団を倍増(10個→20個)させるように命じて現場を混乱させていた。
ドイツの戦車工場では漸く主力のⅢ号戦車やⅣ号戦車の生産が軌道に乗っていたが、無理な師団増設に生産が追いついていなかった。
大半の装甲師団ではチェコ製の軽戦車で数合わせを行っているのが現状だった。
航空戦力も同様で英仏の航空戦での消耗と戦力の拡充が平行して行われており、すぐに戦える態勢になかった。
そのため、ヒトラーは当面は平和を維持し、兵器生産を十分に行ってからソ連攻撃を実施するつもりだった。
和平によって英仏との貿易が再開したと言っても、1940年9月時点ではソ連はドイツにとって最大の資源輸出国で、ソ連から輸入がなければドイツの兵器生産は立ち行かなかった。
よって、準備が整うまではソ連からの如何なる挑発にも反応してはならないとドイツ東部軍は厳命されていた。
そのため、ソ連軍が国境に兵力を移動していると報告を受けてもドイツ軍は何もしなかったのである。
また、ヒトラーには慢心があった。
プロイセン王国をドイツ帝国へと押し上げた普仏戦争に匹敵する華々しい勝利を収めたことで、自分をビスマルク並みと自惚れていた。
そのため、情報組織から齎される不吉な警報にも反応しなくなっていた。
ヒトラーはビスマルクではなかったし、ヒトラーには大モルトケもアルブレヒト・ローンもいなかった。
結果として奇襲を受けたドイツ軍は、6倍の兵力で圧倒されることになった。
航空戦力は地上にいたところを狙われて殆ど一瞬で壊滅した。
地上では量産されたばかりのⅢ号戦車やⅣ号戦車が、ソ連軍の先頭にたったT-34やKV-1のような中・重戦車に次々と撃破され、まるで歯が立たないことが露呈した。
ドイツ東部の守りが総崩れになったという報告に接したヒトラーは、
チクショーメー!
「Sie ist ohne Ehre!」
と叫んだかどうかは定かではないが、ソ連軍は2週間でオーデル川に殺到した。
オーデル川からベルリンまで、およそ80kmの距離である。
自動車なら2時間程度の距離までソ連軍が来ていた計算となる。
ソ連空軍の爆撃機もベルリン上空を飛行し、対空砲火で撃墜された機体が国会議事堂に墜落し、議事堂が全焼した。
郊外にはソ連軍の列車砲から長距離砲撃が降り注ぎ、ベルリンは大混乱となった。
先月まで戦争に勝っていたはずなのに、いきなり国が滅びるかどうかの瀬戸際となっていたのだから、パニックも起きようというものである。
しかし、ドイツ軍はオーデル川にかかる橋を爆破したので、ソ連軍のベルリン強襲は阻止された。
その後もソ連軍の攻勢は続いたが、本土で再編成を終えた師団が順次、前線に復帰すると前進は阻止され、さらに降雪によって戦線の動きが止まった。
何とか危機を脱したドイツだったが、東部軍は壊滅し、オストプロイセンは完全包囲され、陥落は時間の問題だった。
ちなみにチャーチル元首相は、ラジオ放送でヒトラーが徹底抗戦を宣言するとそれを聞いて大爆笑し、椅子から笑い転げおちた。
同じ立場だったフランスのレノー元首相も、新品のコニャックを開栓し、喜びのあまり泥酔するまで痛飲したと言われている。
日本の中島首相は、明智光秀の故事をドイツ語で何と言うのか辞書を引いてみたりした。
日英仏の政府関係者は概ね、このままドイツとソ連が共倒れになってくれるのが一番望ましい展開だと考えた。
二人の独裁者が自国民を巻き込んで、完全に破滅するまで殺し合いをしたあとで、平和な世界がやってくるのなら、それが一番だった。
しかし、ドイツが負けた場合、ソ連がドイツ・東欧を飲み込んで強大化することは不可避で、共産主義勢力の拡大は日英仏にとって現実の脅威だった。
ファシズムとコミュニズムのどちらがよりマシかという選択である。
ちなみに欧州の大半の国はファシズムの方がマシだと考えた。
というよりも、ロシアが嫌だという感覚だった。
スラブ人は白人だが、自分たちとは違うものという意識が強かった。
日本人からすれば、スラブ人もゲルマン人もサクソン人もケルト人も全部同じ白人に見えるが、彼らにとっては異質なものだった。
白人から見れば、日本人も中国人もベトナム人も全部同じ顔に見える事と根は同じである。
それはさておき、英仏政府は、ドイツが豚のような悲鳴をあげて軍需物資、特に消耗が激しいトラックなどの輸送車両やガソリン、武器弾薬を求めると、快く応じた。
英仏の軍需メーカーは突然の敗戦で納入先を失っており、きちんと対価さえ払うのであれば、納入先が昨日の敵国であっても会社経営上、何の問題も生じなかったのである。
フランスのルノーはドイツ陸軍向けに自社製のトラックの納入契約を結び、フランスの鉄鋼大手のユジノールは、ドイツ軍が使用する88mm高射砲の生産を請け負った。
イギリスは不要になった戦闘機を輸出する契約を結び、数百機のスピットファイアがドイツ空軍に納入された。
補充機としてスピットファイアを受け取ったドイツ空軍中佐のアドルフ・ガーランドは
「ほしいとは言ったが、まさか本気にするとは思わなかった」
と述べている。
ガーランドは以前にゲーリング国家元帥に褒美として何がほしいか尋ねられ、スピットファイア1個中隊とひねくれた回答をしたことがあった。
なお、スピットファイアは離着陸がメッサーシュミットよりも容易だったためドイツ空軍のパイロットからは好評で、大戦中に改良を加えて大量に使用された。
しかし、ドイツ空軍が本当に欲しかったのは、スピットファイアではなく、重爆撃機だった。
ドイツにはその種の長距離攻撃戦力が全く不足していた。
ドイツの航空機生産力では地上支援戦力と長距離攻撃力を両立させることが困難だったからである。
ドイツ空軍の爆撃機は戦術用途の中型機ばかりだった。
期待の星である4発重爆撃機のHe177グライフは複雑すぎるエンジン、機体設計が災いして試験機の域を出ていない。
そのため、戦線を飛び越えてソ連の戦車工場などを爆撃することはできなかった。
相手の生産力を壊滅できなければ、前線でどれだけソ連戦車を撃破したところできりがないのは先の大戦の経験からも明らかである。
しかし、親独派のロイド・ジョージ首相といえども、戦略爆撃機の売却には応じなかった。
独裁者に戦略爆撃機を売るなど、狂人に刃物を与えるようなものである。
また、アメリカとの関係が険しくなっており、長距離攻撃力の売却はリスクが大きすぎた。
原因は英独停戦の直前に交わされた、駆逐艦基地協定だった。
内容はアメリカから旧式駆逐艦50隻の貸与する代わりに、ニューファンドランド島、バミューダ諸島、西インド諸島にあるイギリス軍の基地を99年間、アメリカに賃貸するというものだった。
アメリカ製の旧式駆逐艦50隻は、大西洋の戦いで大きな戦力となる見込みだった。
しかし、船の引き渡しが一部実施されたところで和平が成立したため、ややこしいことになった。
イギリスは不要になった駆逐艦を返却し、協定は無効と主張したが、アメリカ側は納得せず、基地の利用権を主張して強引に進駐をすすめた。
そのため抵抗するイギリス軍との間で武力衝突となり、双方に死傷者が発生した。
アメリカ軍が進駐を強行したのは、ドイツ海軍がUボートがカリブ海に進出することを阻止するためだった。
実際、ドイツ海軍はバミューダ島の英海軍基地の利用権を求めていたから、アメリカの恐怖は現実のものだった。
アメリカの重工業は東海岸に集中しており、西海岸とはパナマ運河を経由して海路でつながっている。
大陸横断鉄道もあるが、大量輸送では船舶に敵うものではなく、カリブ海へのUボート進出は、アメリカ経済の大動脈にナイフを突きつけることに等しい。
しかし、当事者のカール・デーニッツ海軍大将は、そうしたアメリカの危惧を真剣に考えていた節が見当たらない。
Uボートの海外展開を推進したデーニッツはドイツ潜水艦艦隊のボスだった。
ドイツ潜水艦艦隊は、対英仏戦で多数の船舶を撃沈し、空母カレイジアスや戦艦ロイヤルオークといったイギリス海軍の大型艦を撃沈するなど大きな活躍をおさめたが、独ソ戦が始まると冷遇された。
Uボートは、対英戦のような海運国との戦いでは有効だったが、陸運国の対ソ戦では活躍の場がなかったからである。
ドイツ陸軍は対ソ戦のため多量の鋼材を必要としており、海軍への割り当ては先細りとなった。Uボート1隻の鋼材で、Ⅳ号戦車なら軽く3個中隊分が製造できたからだ。
デーニッツは自分の王国を守るために、新しい役割が必要だと痛感し、それにはUボートの海外展開が効果的と考えた。
これは英仏を政治的に取り込み、その植民地ネットワークを利用することを考えていたヒトラーの方針にも合致するものであった。
ただし、これはドイツ人のやることにありがちなことだが、自身の行動が周囲に与える影響について配慮が不足していた。
要するに独善的で、エゴイズムが過ぎるのである。
開戦から11か月で200万tの商船を撃沈したUボートの拡散をアメリカは国家安全保障に対する重大な脅威と見なしていることをデーニッツは過少評価していた。
イギリス政府はアメリカを刺激しすぎるとして、バミューダ島の基地利用を認めなかったが、人種差別政策で意見が一致する南アフリカやオーストラリアは、Uボートの誘致に前向きだった。
米軍のバミューダ島の進駐で死傷者が出るとイギリス政府は態度を硬化させ、一気にUボートの拡散が加速した。
ヴィシーフランスもマダガスカルの基地利用を認め、インド洋にドイツ海軍旗がはためくことになる。
ヴィシー状態の英仏はアメリカに発注した武器や軍需物資の代金の支払いを督促されており、大戦勃発でモラトリアムとなった第一次世界大戦時の債務の返済再開要求もあって対米外交は緊張度を増した。
スピットファイアは売っても、ランカスターは売らないという対応は、イギリスにとってぎりぎりの調整だったと言える。
ランカスター売却となれば、アメリカはカナダを保障占領しかねなかった。
イギリスの決定はヒトラーを激怒させたが、それだけだった。
既にポーランドでは50個師団が壊滅し、ドイツは際限のない消耗戦にはまり込んでいたから、イギリスを懲罰する余裕などどこにもない。
日本政府にも、なりふり構わなくなったヒトラーから参戦要請が届いていた。
内容は、日本軍にシベリアを攻撃してほしいというもので、勝利の暁には日独でソ連を分割し、シベリア全土を日本に割譲するという内容だった。
親書を受け取った中島首相は書類を回覧した上で、
「・・・言ってる事が分からない・・・イカれてるのか?この状況で」
と内閣全員で困惑した。
仏国は仏教国ではないし、英国は英雄の国でもない。しかし、独逸の独善だけは本物という諺があるが、まさに独逸の独善は世界一と言える。
しかし、そうとばかりも言っていられなくなった。
アメリカ合衆国の動向が不穏さを増していったからだ。
不安の始まりは、ポーランドで米国製の戦闘機が撃墜されたことだった。
P-36や、P-40、P-39といった米国製の戦闘機がソ連の国章を着けた状態で撃墜され、いくつかは不時着して鹵獲された。
旧式機多数のソ連空軍において、米国製戦闘機は精鋭部隊向けの高級機扱いで、パイロットの練度も高く、ドイツ空軍にとって脅威となった。
これはUボートの拡散に対する対抗措置だった。
また、ナチス・ドイツ主導の欧州を認めないという意思表示とも言える。
ファシズムとコミュニズムのどちらがマシかという選択で、アメリカはコミュニズムを選んだとも言える。
これは欧州から遠く離れたアメリカ人にしかできない選択だった。
ロシア人の帝国の強大化を容認という感覚は、欧州や極東アジアでは理解できないことである。
1940年のアメリカ大統領選挙を制したフランクリン・ルーズベルト大統領は海軍拡張のための両洋艦隊法を成立させ、
「病魔に冒されたものは隔離しなければならない」
と宣言していた。
これはドイツだけではなく、ヴィシー状態の全ての国を対象としたものだった。
ソ連への武器援助は、1941年3月に成立したレンドリース法の適用を受けて、膨大な量の軍需物資がソ連へと送られることになった。
ヒトラー打倒のために、スターリンと手を結ぶことについて、
「ヒトラーが地獄に攻め込んだから、サタンに武器を送るようなもの」
とチャーチルは表現した。
ただし、和平が成立せず戦争が続いていて、ドイツがソ連に攻め込んだら自分もそうしていたはずだと述べているあたり、チャーチルも大概である。
問題は、そのアメリカの援ソルートに日米共同経営の満鉄が使われていることだった。
殆どの港が冬季に閉ざされるロシアには整備された大規模港湾が乏しい。
遼東半島を帝政ロシアが欲したのもそれが理由だった。
旅順、大連を鉄道でシベリアと結びつけて、シベリアの物産を輸出するのが帝政ロシアの夢だった。
日露戦争後は日本が租借権を得て、日米共同で旅順・大連の開発が行われた。
アメリカの資本投下で旅順、大連は発展し、港湾設備は上海・香港に匹敵する規模となり、満州の豊かな物産、資源を日本へ輸出する玄関口として機能した。
製品に加工された資源は、日本から旅順・大連に送り返され、中国市場へ出荷された。
アメリカが、援ソ物資の荷揚げに旅順・大連を使うことは、その港湾能力を考えれば、当然の選択だった。
極東にはウラジオストクもあるが、ウラジオストクは軍港で、ソ連は米国船舶がウラジオストクに入ることを拒絶した。
ほかにバレンツ海を経由してムルマンスクに荷揚げするルートがあり併用されたが、こちらはドイツ海軍の脅威があった。
援ソ物資は、大連で荷揚げされ、満鉄を北上し、東清鉄道を経由してシベリア鉄道で、ポーランドまで運ばれた。
アメリカの援ソルートが明らかになると、ドイツは早速、日本に満鉄の利用停止を求めた。
もちろん、日本政府は相手にしなかった。
米国の行うソ連への武器援助には正気を疑うところであったが、積極的にそれを阻止して対米関係を緊張させる理由などないからである。
しかし、蒋介石にはその理由があった。
農村でしぶとく抵抗を続ける八路軍を壊滅させるには、ソ連からの武器援助を止める必要があり、その為にはドイツの勝利が必要だった。
最終的にはドイツの力を背景に、中華世界に居座る英米仏日といった帝国主義国家を排除するのが蒋介石の祖国解放計画である。
アメリカのルーズベルト政権とは良好な関係を結んでいたものの、ルーズベルトが満鉄利権を手放す気が全くないことに、蒋介石は気づいていた。
中華世界統一の最後の障害となっている中国共産党を支援するソ連と手を結べるルーズベルトは、蒋介石からすれば裏切りものだった。
であるならば、対決は不可避だった。
中華民国は第5列を動員して、官製の港湾労働者ストライキを扇動し、旅順・大連の機能を停止させた。
ストライキが起きたのは、メーデーの1941年5月1日だったので、5・1事件とする場合もある。
いかに日米資本の最新設備をもつ旅順、大連港であっても、そこで働くのは中国人だった。
中国人労働者を狙ったストライキ扇動は、元から待遇の不満があったため、簡単に燃え上がった。
ストライキ扇動によって旅順、大連の機能が停止したたため、満鉄経営そのものが大混乱に陥った。
そのため、日本政府は共通の利益のため援ソ物資荷揚げの停止を申し入れたが、アメリカの対応は強硬だった。
アメリカからすれば、日中が裏で手を結びアメリカの持つ満鉄の経営権を場外乱闘のような手法で侵害しているからである。
そのため、米国政府はフィリピンで集めた港湾労働者を大連、旅順に運んで荷役させるというスト潰しに出た。
これには旅順・大連の港湾労働者組合も大激怒で、本物の暴動となり、関東軍が治安出動する騒ぎとなった。
どの国でも、港湾労働者組合は気の荒い武闘派が揃っており、港湾とはある種の教皇領であることをホワイトハウスは失念していた。
日本有数の広域暴力団の本部も港町の神戸にあることを考えると理解しやすいだろう。
物流が混乱したため満州に進出したアメリカ企業からも苦情が入り、ルーズベルトも作戦失敗を認めて、旅順、大連での援助物資荷揚げを停止した。
蒋介石は中国国民の力を誇示し、大国アメリカを退けたことを高らかに喧伝した。
結果、極度に米中関係は悪化し、それに巻き込まれて日米関係も抜き差しならぬものとなってしまった。
援ソルートの荷揚げ港がウラジオストクに変更されると、中国軍は沿海州、満ソ国境に軍を集めて、緊張を高めた。
さらに太平洋上で援助物資を運ぶソ連船舶が次々と撃沈された。
その中にはソ連に貸与されたアメリカ船籍の船舶が含まれており、乗員のアメリカ人数十人が犠牲となった。
所謂、ネオ・アトランティス号事件である。
アメリカ世論が沸騰し、報復を求める声が高まった。
「リメンバー・ネオ・アトランティス!ネオ・アトラン!ネオ・アトラン!」
という掛け声はアメリカの流行語となり、日本政府関係者を震撼させた。
犯人は中国に進出したドイツ海軍のUボートだった。
威海衛に展開した第6潜水隊群は、Uボート18隻を要する有力な潜水艦艦隊だった。
蒋介石はヒトラーに貸しをつくるため、威海衛をUボート基地にすることを認めた。
Uボートの極東回航は、マゼラン並みの大航海だったが、親独政権の英仏の支援もあって、1941年6月までに完了した。
ドイツと中国の隠ぺい工作は極めて巧妙で、Uボートの移送はスウェーデン産の特殊な魚介類の缶詰の輸入を隠れ蓑にして行われた。
日本海軍は一応、兆候を掴みかけていたのだが、ドイツと中国の担当者が渡してきた缶詰を開栓したところ大変なことになり、それ以上の追及を止めてしまった。
太平洋にUボート基地ができた日本政府は慌てて止めようとしたが、蒋介石は聞く耳をもたなかった。
1941年6月からドイツ軍は反攻作戦に展開し、6月28日にはケーニヒスベルクが解放された。オーデル川まで進出したソ連軍の主力はスターリンの無謀な死守命令により撤退を許されず包囲殲滅された。
7月20日にはワルシャワが奪還され、戦線はポーランド東部へと移っていった。
ドイツ軍の優勢は蒋介石を強気にさせた。
交渉を担当した外相の松岡洋介は、
「座りしままに 戦勝国面する 蒋介石」
と日記に恨み節を書き残したほどだった。
ドイツ海軍の極東展開に反応して、アメリカ海軍はアジア・太平洋への兵力移動を開始し、フィリピン・スービック海軍基地に戦艦4隻(アリゾナ、テネシー、オクラホマ、ネヴァダ)を派遣した。
さらにハワイ・真珠湾軍港にコロラド級戦艦4隻(コロラド、メリーランド、テネシー、ワシントン)サウスダコタ級戦艦6隻(サウスダコタ、インディアナ、モンタナ、ノースカロライナ、アイオワ、マサチューセッツ)、レキシントン級巡洋戦艦6隻(レキシントン、サラトガ、コンステレーション、レンジャー、コンスティテューション、ユナイテッド・ステーツ)など、海軍主力戦艦隊を展開した。
ダニエルズ・プラン・フリート全艦が一堂に会したのはこれが初めてで、真珠湾軍港は戦艦で溢れかえることになった。
米太平洋艦隊司令長官を任されたハズバンド・キンメル大将はその様子を
「もう何も恐くない」
と述べている。
確かにこれだけの戦力があれば、恐れるものは何もないだろう。
こうなっては日本海軍も対抗するしかなく、連合艦隊に出師準備が下令された。
同年9月には、ドイツとオーストラリアが海軍協定を結び、国内海軍基地の利用を認めたことで、Uボートは南太平洋にも展開するようになった。
これを受けて、アメリカ政府は援ソ船団に対して海軍艦艇による直接護衛を宣言した。
1941年11月5日のことである。
ただし、援ソ船団が通過に利用する宗谷海峡は日本の領海であり、戦闘態勢の海軍艦艇の無害通航権は成り立たない。
米海軍艦艇が強硬突破を図れば、沿岸の要塞砲が火を吹き、そのまま日米開戦となりかねない危険な選択だった。
米・ソ・独・中・英・仏の思惑が交錯する中、日本政府内部でも激論が続き、対米開戦止む無しとする強硬派(主に永田陸相)と交渉による回避は可能とする非戦派(主に高橋蔵相)の舌戦が深夜まで続いた。
最終的な日本政府の結論は、対馬・津軽・宗谷(三海峡)の海上封鎖宣言となった。
ドイツ・ソ連戦争に対して日本は中立であり、中立国の義務として如何なる勢力にも領空・領海を利用させないため軍事力を行使するとし、ソ連への援助武器を積載した援ソ船が三海峡(日本の領海)を通過することは、中立違反であるため認めないとされた。
強硬派の意見と非戦派の意見を取り入れたギリギリの結論だった。
1941年12月8日は、日米にとって最も長い一日となった。
同月11月26日にシアトルを出航したVT17船団は、駆逐艦7隻の護衛を受けてドイツ海軍のUボート戦隊の襲撃を受けつつも北太平洋を西進、12月1日に米太平洋艦隊の巡洋戦艦レキシントン、サラトガ及び駆逐艦4隻からなる第16任務部隊と合流した。
任務部隊指揮官には、レイモンド・スプルーアンス中将が充てられた。
同船団は12月5日に、千島列島に展開した日本海軍航空隊の九七式飛行大艇に発見された。
これを受けて単冠湾に停泊中の日本海軍第5戦隊(巡洋戦艦:富士、阿蘇、蔵王、伊吹)が出動し、7日午後2時56分にVT17船団を捕捉した。
船団と並走して海峡封鎖と退去を呼びかける第5戦隊と無視して前進するレキシントン、サラトガとの間で日米海軍は一瞬即発となった。
しかし、巡洋戦艦富士に座上した第2艦隊司令長官の南雲忠一中将も、スプルーアンス中将も自衛以外の戦闘を禁じられていた。
日米最強の巡洋戦艦が並走して宗谷海峡(開戦)に突き進むという地獄のチキンレースが始まったのが、12月8日だった。
先に発砲したのは日本海軍で、巡戦富士がレキシントンの進路前方に警告射撃を実施した。
現地時間(日本時間)午後2時40分のことである。
この時、両艦の距離は1,200mという近代戦艦としては0距離と言っても過言ではない至近距離であり、どちらの側からも肉眼で相手の挙動を見てとることができた。
南雲もスプルーアンスもあえて昼戦艦橋に陣取り、非常に目立つ白色の軍装を身に纏っていたから、お互いを目視で確認することができた。
ちなみに警告射撃に使用されたのは14cm副砲であり、主砲の46cm砲を発射したわけではない。
相手の進路変更が見られないことから、巡戦富士が30分後に再び警告射撃を実施した。
しかし、レキシントンは変針しなかった。
そのため、南雲は主砲旋回を命じて、46cm砲8門をレキシントンに向けさせた。
呼応してレキシントンも16インチ砲9門を富士に向けた。
どちらも主砲には徹甲弾が装填済だった。
もはや交戦止む無しとなった午後4時24分、レキシントンが遂に変針した。
米太平洋艦隊司令長官キンメル大将が発した撤退命令は、「コロラド川を下れ」という無線符丁で知られている。
レキシントンの転進にあわせて後続のVT17船団も引き返した。
ワシントンで行われていた日米交渉はギリギリのところで妥結に至ったのである。
理由は様々だが、一つは日本海軍の抑止力が正しく機能したことが挙げられる。
日本海軍が1941年末までに揃えてみせた戦艦は20隻(八八艦隊+扶桑型2隻、伊勢型2隻)だった。
これは太平洋上に展開した米海軍のダニエルズ・プラン・フリート(16隻)とアジア艦隊(4隻)と同等の戦力である。
一般的な攻者3倍の原則を考えれば、防衛側の日本海軍は有利な態勢と言えた。
アメリカ海軍は大西洋艦隊にもまだ7隻戦艦があったので総数では有利だが、イギリス海軍への対応を考えると戦力不足である。
日米開戦となれば、日英同盟が発動して日英米による全面戦争に発展する恐れがあった。
そうなった場合、カナダとも交戦状態となり北米大陸での地上戦も不可避となる。
そのようなリスクはとれなかった。
太平洋上にアメリカと同数の戦艦を揃えて見せた八八艦隊計画は、大正時代から抑止力としての軍備を強調してきた。
なぜならば、日英同盟があり、尚且つ日米共同の満鉄経営による日米関係の親密化を考えれば、アメリカを仮想敵とした海軍戦備など無意味という批判があったからである。
大正時代の平和主義の高揚もあって、八八艦隊計画は軍備のための軍備という世論の批判にさらされた。
それに対して海軍が展開したのが戦争のためではなく、戦争をしないための抑止力としての軍備という論理だった。
1941年12月8日に、日本海軍の論理的正しさは証明されたと言えるだろう。
さらに満州に進出したアメリカ企業からの突き上げにホワイトハウスが耐えられなくなったことも大きかった。
在満企業にとっては、ルーズベルトの火遊びが日米中の関係を悪化させ、満州での企業活動を混乱させているのは明白であり、日米開戦など冗談ではなかった。
満鉄沿線に進出した米国企業は、1941年末で大小あわせて2万社を超えていた。
統計調査を信じるならば、船でちまちま武器を本国から送るよりも、在満企業に軍需生産させて鉄道でソ連に送った方が遥かに効果的だった。
ただし、アメリカ政府は国策で在満企業を軍需生産には使わなかった。
日中による”接収”が怖かったからである。
在満企業はニューヨーク株式市場に上場している大手・一流企業も多く、米民主党への企業献金も膨大な額だった。
日米共同経営の満鉄によって南満州・遼東半島は極東の小さなアメリカ合衆国、アメリカ50番目の州と言っても過言ではない状況だった。
遼東半島を租借しているのは日本だが、実態としてはアメリカにとっての香港だった。
逆にいえば、日本がそれらを人質にとっていたとも言える。
日露戦争後に日米共同の満鉄経営を主張した高橋は、戦争回避のため在満企業を通じて米国議会へロビー活動を続けていた。
アメリカ合衆国における大統領の権限は強大だが、議会を無視して何でも好き勝手にできるわけではないからだ。
高橋はルーズベルトの個人の人間性を全く信用しなかったので、議会へのロビイングを重視した。
実際のところ、ルーズベルトはヒトラーと同質の人種差別主義者としか言いようがなく、日本の国家主権を全く無視していた。
しかし、野党の共和党だけではなく、身内の民主党からも突き上げを食らったルーズベルトは、チキンレースから下りたのだった。
一応、北太平洋ルートが封鎖されても、援ソルートは極めて険しい海路でドイツ海軍の妨害も必至ながら北大西洋・バレンツ海ルートが残されており、代替は可能だった。
そちらについては日本も在満企業も知らぬ存ぜぬを貫いた。
要するに
「火遊びがしたければ満州でやるな、他所でやれ」
ということだった。
その後も緊張関係は続いたが、満鉄という巨大な資本で結びつけられた両国の関係はやはり切っても切れないものだった。
国家と国家を結びつけるのは、後にも先にも、”金”以外にはないと言えるだろう。
太平洋の援ソルートの遮断に成功した蒋介石とヒトラーは大いに満足したが、それが=戦争の勝利というわけではないことをすぐに知ることになった。
1941年中にソ連軍はポーランドから叩きだされたが、ドイツ軍はポーランド・ソ連国境に築かれたスターリン・ラインに直面することになった。
スターリン線は、戦前に築かれた対ポーランド要塞であり、ソ連軍式の縦深防御によってドイツ軍を苦しめた。
ドイツ軍は突破のため超巨大列車砲まで投入したが、ソ連軍の反撃によって攻勢は失敗に終わり、ソ連軍の逆侵攻を招いた。
結果、1943年冬までにドイツ軍もスターリンラインに沿って、東方防壁と呼ばれる要塞線を築いて独ソ戦は第一次世界大戦のような塹壕戦へと回帰した。
戦争が膠着状態となったのは、双方が相手の軍需生産を止めることができないからだった。
バレンツ海を経由するアメリカの援ソ船団も阻止できなかったが、同時に英仏の軍需工場から届く援独武器の流れも止められなかった。
相手の軍需生産や武器援助を止めない限り、戦場で一時的に勝利を掴んでも、すぐに補充した戦力によって逆撃に遭い、元の陣取りゲームに戻ってしまう。
ヒトラーの望む勝利を得るには、ソ連の軍需工場を戦略爆撃機で粉砕するしかなかったが、ドイツ空軍にはまともな戦略爆撃機がなかった。
唯一完成したHe177グライフは、奇抜なエンジン配置のため実用化に手間取り、数がそろったときにはもう時間切れだった。
1944年7月20日、ドイツ軍はワルキューレ作戦を発動した。
これは国内で民衆反乱が発生したという想定の国内治安維持作戦であり、それを仮託したヒトラー暗殺・クーデタ計画だった。
軍部がクーデターに走ったのは、終わりのない泥沼の消耗戦で国内の厭戦気分が高まり、本当に反乱の兆しが見え始めていたためである。
先の大戦におけるドイツの敗因は、水兵反乱からの革命による自滅だった。
これはドイツ軍部にとって強烈なトラウマになっていた。
また、保守派を自認する軍部にとって、国家総力戦体制のためドイツ国内で急速に進んだ女性労働力の利活用(社会進出)や、外国人労働者の流入も問題だった。
若い男性が兵士として戦場に出征すると軍需工場に女性労働者や英仏などから募った外国人労働者が充当された。
問題は、ドイツ政府が極めて低い賃金しか提示できなかったので、英仏が寄こしてきた労働者が彼らのアフリカ植民地から連れてきた黒人労働者だったことである。
戦前にヒトラーが劣等人種と呼んで憚らなかった黒人がドイツの町にあふれるようになり、ナチス党が彼らをガーナアーリア人という珍妙な論理で正当化したので保守派の危機感は最高潮となってしまった。
保守層は、ヒトラーによるドイツ経済の救済と再生を知っている岩盤支持層だったのだが、ガーナアーリア人には耐えられなかった。
顔に白粉を塗りたくり、
「ㇱ!カ!」
と騒ぐ連中との近所付き合いは嫌だったのである。
ワルキューレ作戦はヒトラーとナチス党幹部の爆殺を達成し、所定の成功を収めた。
その後、軍部とナチス党との内戦が勃発したが、世論は軍部を味方した。
ナチスが行っていたユダヤ人虐殺が暴露されたためである。
殆どのドイツ国民は親衛隊に連れていかれたユダヤ人の運命について薄々勘づいていたが、軍部の手によってそれが写真付きで暴露されると手のひらを返した。
既に十分すぎるほど厭戦感情が溜まっていたドイツ世論は、全ての責任をナチスとヒトラーに押し付けて、戦争を終わらせることを選んだ。
独ソ戦で600万人が死傷していたことを考えれば、この反応は予期されたもので、軍部が恐れた革命や反乱は杞憂ではなかったことが分かる。
ソ連の犠牲が1,200万人を突破していたことを考えるとドイツ人は堪え性が足りないと言えなくもない。
或いは、スターリンの大粛清が徹底されすぎていたともいえる。
ドイツ内戦は1944年7月末までに終わり、暫定政権からソ連に停戦が提案された。
1944年8月8日に休戦条約が結ばれ、独ソ戦は終わった。




