ヴィシー現象
ヴィシー現象
1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻した。
イギリス、フランスはポーランドと相互防衛条約を結んでおり、9月3日にドイツへ即時戦闘停止撤退を要求する最後通牒を実施し、回答がないためドイツに宣戦を布告した。
日本は日英同盟に基づき、1週間後の9月10日に日本はドイツへ宣戦を布告した。
日英同盟は防衛同盟であり、イギリスから宣戦を布告した場合には参戦の義務はないのだが、参戦は規定路線だった。
ドイツに宣戦布告したのは、立憲民政党の近衛文麿内閣だった。
1934年に解散した若槻礼次郎内閣以後、犬養毅内閣や鳩山一郎内閣といった立憲政友会内閣が続いたが、1937年に鳩山一郎内閣が疑獄事件で崩壊すると憲政の常道にしたがって久しぶりに立憲民政党内閣が成立した。
近衛は立憲民政党が政権奪還の切り札として招いた選挙の顔だった。五摂家出身で高学歴、高身長の見るからにエリートで、タカ派的な言動が国民的な人気を集めた。
しかし、戦争指導者としては気が弱すぎた。
また、親独派としても有名で、日本では珍しいドイツ融和論者の一人だった。
見た目からしてヒトラーを真似したちょび髭で、これから始まる2度目の対ドイツ戦の指導者としては相応しくなかった。
本人もそれを自覚しており、宣戦布告をすますと総辞職して、次の内閣に戦争を委ねた。
要するに、宣戦布告だけして逃げ出したのだが、近衛のスタンドプレー癖と無責任は既に外交問題となっていたので、総辞職そのものへの反対意見はなかった。
所謂、近衛声明問題である。
1930年代、国内の統一や中独合作で軍事・経済力を拡張した中華民国は、清朝時代から続く各国の特殊権益を無効と主張するようになった。
日米の満鉄利権も例外ではない。
ただし、中華民国の主張は国内向けのガス抜きで本気ではなかった。
大抵の場合は利権承認と引き換えに蒋介石への秘密献金の増額で決着がつく問題であり、要するに示談金交渉の一種だった。
日米の外交当局は、賄賂のお代わりがほしいのかと呆れ果てたが、同時に抜け目なく値切り交渉を始めようとしたところで、
「帝國政府ハ爾後國民政府ヲ対手トセス」
と近衛首相が言いだしたため大混乱となった。
近衛声明は日本国内向けの対中強硬姿勢で、ただの個人的な人気取りだった。
蒋介石もこれには唖然としたが、国内世論の手前、後に引けなくなってしまった。
アメリカ政府も日本の前例のない対応に混乱し、国務長官コーデル・ハルが真意を確かめるために緊急来日することになった。
最終的にハル国務長官が日中の間に入って調整して事なきを得たが、日米中の外交関係に根の深い相互不信が生まれた。
また、対独融和論者の近衛は、日英同盟にドイツを加えた日英独三国同盟を主張して、イギリス政府とドイツ政府の同時に混乱させるという離れ業を成し遂げた。
ちなみに近衛は最後の閣議で、誰かが慰留してくれると考えていたらしく、全員が無言で辞表を提出するとショックを受け、打ちひしがれたまま官邸を後にした。
憲政の常道では、失政以外の理由で内閣が代わる場合は、引き続き衆議院第1党から首相を出す決まりだった。
しかし、民政党は近衛を首相に推した責任をとって辞退し、政友会の中島知久平に大命降下となった。
中島知久平は、元海軍将校で戦艦中心の日本海軍の軍備に疑問を抱き、自分で海軍の大艦巨砲主義に代わる国防を実現するために中島飛行機を立ち上げた行動の人だった。
政友会の議員として政界にも進出し、航空行政の発展に力を尽くした。
4,000機のルフトヴァッフェが空からの攻撃でポーランド軍を細切れ肉にしたことを考えると次の戦争の指導者に相応しかった。
中島内閣は、戦争遂行のため挙国一致内閣とされ、蔵相には84歳となる高橋是清が5年ぶりに復活した。
当初、高橋は蔵相就任を辞退していた。
しかし、元老の原敬に最後の奉公だからと説得され、蔵相を引き受けた。
本人は自分のことを過去の人間で、何の役にも立たないと述べていた。
しかし、蔵相に就任すると戦争遂行のための臨時増税や戦時国債の発行、公定歩合の引き上げ、国家総力戦に必要な法案を大車輪で作らせた。
高齢の高橋に代わって実務を担当したのが、大蔵次官に抜擢された池田隼人だった。
池田は高橋の直弟子として認められた唯一の人物だった。
理由は肝臓の強さで、二人は常に飲酒した状態で職務をこなしたことで有名である。
池田は後に政界へ転出し、高橋の衣鉢を継いで大蔵大臣となり、最後は首相に昇りつめたが、肝臓が高橋ほど強靭ではなく、任期途中でガンに倒れた。
医者から飲酒を止めないと死ぬと言われても、池田は師の教えを最後まで守り抜いた。
それはさておき、戦時中に成立して、戦後日本の医療行政の基礎となった国民健康保険制度にGOサインを出したのは高橋だった。
膨大な社会保障費が必要になる国民皆保険制度には懐疑的な意見も多かったが、高橋は国家総力戦遂行のため必要不可欠として予算をつけた。
また、積立方式の厚生年金制度を作らせたのも高橋である。
国民健康保険制度も厚生年金制度も、その意義は個人と企業に貯蓄を強制することで資金の動きを止めてインフレを抑える仕組みを作ることだった。
もちろん、傷痍軍人や遺族の生活保障という側面もあるが、高橋にとってはそれは二の次で通貨量をコントロールするデバイスという認識だった。
消費税をつくったのも高橋である。
その税率は25%という過激なものだが、我々が普段意識することは殆どない。
なぜならば、消費税は消費税法第1条に戦争税であることが明記されており、戦時下以外に課税されていないためである。
消費税法を作った高橋は、
「戦争税としては100点、素晴らしい、大好きだ」
と述べている。
なぜならば、消費税はあらゆる消費に課税・徴収することによって民需にブレーキをかけると共に政府支出を速やかに回収することが可能だからである。
例えば陸海軍が戦闘機を購入するとして、軍は納入時には25%の消費税を収める必要がある。さらにメーカは戦闘機製造のために必要な全て部品やサービス(人件費)にかかわる支出に25%の消費税が発生する。材料や部品をおさめる下請け企業もまた同様である。さらにメーカや下請け企業に勤務する労働者が購入する日用品や食料までもが25%の課税対象となる。
サプライチェーンの全ての階層で消費税が発生し、軍事支出が速やかに税として政府に回収されることが分かるだろう。
市中の通貨流通量を減らしてインフレを抑制したいのなら、消費税ほど優れた税制はないと言える。
そのため、
「平時にこれを使おうとする奴が湧いたら、俺が生き返って、そいつを殺しにいく」
という脅迫めいた遺言を高橋は残している。
高橋の遺言は代々の大蔵大臣によって墨守されている。
しかし、稀にこの禁令を破って平時に消費税を課税しようとするものが現れる。
直近の例では、1990年代に政友会の大物幹事長が国民福祉税構想を発表し、消費税法を改正して平時に課税しようとしたことがある。
発表から数日後、大物幹事長は支持者と寿司パーティーを楽しんだ帰り道に大型トラックとダンプカー複数台による交通事故に巻き込まれて死亡した。
死体はネギトロのような状態となり回収は困難を極めたとされる。
事情を知る人々は高橋の呪いだと噂した。
そのような特級呪物を作ってでも高橋はインフレーションを抑え込もうとした。
何しろ、戦時国債による大量通貨発行は不可避の状況だった。
1940年の日本政府の一般会計は約58億円だったが、必要と見込まれる戦費は低く見積もっても1,200億円だった。国家予算の20年分である。
これだけの金を無策のまま市中に流したら、ハイパーインフレーション不可避であり、高橋にとっての戦争とは如何にしてインフレを抑えて国家経済を防衛するかに尽きていた。
失敗すれば、物価暴騰による国家経済の停止によって革命が起きる。
1918年のドイツ革命の記憶はまだ新しく、しかも共産主義革命の総本山たるソ連が北に控えており、共産主義革命も現実にありえると考えられた。
とはいえ、戦争の先行きについては先の大戦の経験もあって、それほど悲観的ではなかった。
ポーランドは独ソの挟撃で1月足らずで崩壊したが、フランスとイギリスは健在だったからだ。
また、欧州は降雪を迎え、戦線の動きが停滞した。
独仏国境では、戦争など起きていないかのように静まりかえり、このまま政治的な妥協が成立するのではないかと期待された。
実際には、どちらの陣営も突然始まってしまった戦争に困惑し、大慌てで戦争準備をしている状況だった。
特にヒトラーはポーランドを占領しても英仏は戦争を避けるだろうと予想しており、裏切られたとさえ感じていたとされる。
侵略戦争を始めて、周囲の国が期待どおりに黙認しないことを裏切りと感じるあたり、病質的と言わざるえない。
なお、ドイツ軍の軍備は未だに再建途上であり、戦車の大半は練習用のもので、機関砲装備の軽戦車が大半だった。
主力のⅢ号戦車はまだ未完成で、これから本格的な量産がこれから始まるところだった。
しかし、英仏はドイツ軍が止まったことで政治的な妥協を模索していると勘違いした。
また、ドイツ軍の空陸一体の攻勢に対抗できる軍備がないことに恐怖し、こちらはこちらで必死になって軍備を建て直しを図った。
特にフランスは自国の航空産業が戦間期の失政によって崩壊しており、戦争に間に合わないとして国産戦闘機の生産を諦め、アメリカ合衆国から戦闘機を大慌てで輸入した。
イギリス空軍はそれよりもマシだったが、スピットファイアの量産化はこれからで、大陸に派遣できるのは旧式なハリケーンだけだった。
イギリスにとっての朗報は、再び極東の同盟国が参戦してくれたことだった。
20年前と異なり、同盟国の経済は大きく発展し、経済力はドイツに匹敵する規模に拡大していたから、次は大軍の派遣が期待できた。
アメリカの即時参戦はなかったので、20年前のワシントン会議で同盟存続を選択したことは誤りではなかったことが証明された。
しかし、日本がすぐに送れる兵力は限られており、まずは駆逐艦隊と巡洋艦戦隊をシンガポールに送り、イギリス東洋艦隊の艦艇が玉突き式に欧州へ向かうことになった。
ドイツ海軍は開戦直後から事前に洋上に配置しておいたポケット戦艦や仮装巡洋艦、Uボートによる通商破壊戦を行っていたから、東洋艦隊・インド洋艦隊が転用できる意義は大きかった。
海相に復帰したウィンストン・チャーチルは、謝意を示すと共により大規模な艦隊派遣を日本に要請している。
天城型巡洋戦艦か富士型巡洋戦艦を1個戦隊送ってほしいとチャーチルに言われ、海軍大臣の米内光政大将は24年前の悲劇を思い出して嫌な顔をしたとされる。
しかし、冬の大西洋の戦いは、英独海軍の一進一退という状況で、艦隊派遣は急がれた。
10月には、スカパ・フローに停泊中の戦艦ロイヤルオークがU47の奇襲で撃沈され、12月には装甲艦アドミラル・グラーフ・シュペーがウルグアイで自沈に追い込まれた。
巡洋戦艦シャルンホルストとグナイゼナウは追撃を逃れて遊撃戦を続けており、イギリスの海上交通網は大混乱に陥っていた。
ドイツ海軍のUボートの攻撃はイギリス海軍にとって誤算の連続だった。
特に戦前から潜水艦対策の本命とされていたアクティブ・ソナーがUボートに対して効果がないのは大問題だった。
これはUボートが夜間浮上攻撃を行っているためで、水中にいるUボートは探知できても水上いるなら無効という喜劇のような話だった。
水上航行しているなら簡単に見つけられると思うかもしれない。
しかし、対水上レーダーが配備される以前の夜戦において、小型のUボートを夜間に目視で発見するのは至難の技だった。
すぐにイギリス海軍はUボート対策に護送船団方式を整え、航空機による哨戒飛行が有効なことに気が付いたが、イギリス空軍の沿岸航空隊の戦力は悲しいほど僅かなものだった。
そのため、艦隊だけではなく陸上基地航空隊も派遣対象となった。
欧州派遣艦隊は、巡洋戦艦4隻(赤城、愛宕、高雄、葛城)、空母2隻(龍鳳、龍驤)を基幹に、1個水雷戦隊(軽巡1、駆逐艦12隻)と潜水艦9隻となった。その後、水雷戦隊がさらに1個追加された。
艦隊司令長官には山本五十六海軍大将が選ばれた。
これは将来の派遣戦力増強を睨んだ人事で、最終的に連合艦隊の半数を欧州へ送ることになると予想された。
山本大将は海軍非主流派の航空主兵論者のため出世を妨げられてきた人物だった。
しかし、相手が潜水艦主体のドイツ海軍で、ドイツ空軍との対空戦闘が予想される遣欧艦隊には山本大将以上に相応しい人物がいないと考えられた。
ただし、山本本人は軍政向きで人物で本人も海軍次官から離れることを相当嫌がり、同期の堀悌吉GF長官に説得されてしぶしぶ引き受けた。
熟慮の末、陸軍の派遣は見送られた。
理由は中ソ国境での武力衝突や銃撃事件が頻発していたためである。
独ソ不可侵条約によって中華民国は梯子を外された格好になり、共産党ゲリラの活動が活発となっていた。中ソ国境にもソ連軍が展開し、圧力をかけていた。
不可侵条約で欧州側の安全を確保したソ連が南下する恐れがあり、陸軍は身動きがとれなかった。
欧州派遣艦隊は地中海に展開し、親独国のイタリアを牽制する共に、イギリス海軍地中海艦隊の任務を肩代わりするものとされた。
艦隊派遣は急がれ、1940年3月18日には全艦がエジプトのアレキサンドリアに揃った。
この状態で、日本はドイツ軍の西欧侵攻を迎えることになった。
冬の間にドイツ軍は装甲師団を10個まで拡張し、3つの軍集団に分かれて侵攻を開始した。
オランダ・ベルギー方面を受け持ったのは歩兵主体のB軍集団で、フランスのマジノ線を攻撃したのはC軍集団となる。
さらに装甲師団を集中配置したA軍集団が独仏国境のアルデンヌの森を進撃してきた。
当初、英仏連合軍はドイツ軍の攻撃を第一次世界大戦時のシュリーフェンプランの焼き直しと捉えて、迎撃のためベルギー方面に精鋭部隊を向けてしまった。
しかし、ドイツ軍の本命は装甲師団を集中配置したA軍集団だった。
フランス軍はアルデンヌの森は森林地帯で細い林道しかなく、大軍の通過は不可能だと考えており、要塞を建設していなかった。
さらに精鋭部隊をベルギーに向けてしまったので、ドイツ軍の精鋭である装甲師団を迎撃したのは2線級師団ばかりとなっていた。
結果、ドイツ軍は大きな突破に成功し、快速の装甲師団がフランス本土と英仏連合主力を切り離して孤立化、包囲に成功した。
実際には包囲は完全なものではなかったが、ドイツ軍の素早い進撃にフランス軍はパニック状態で、兵士が次々と武器を捨てて逃亡していた。
イギリス軍は包囲の解除を試みて、アラスの戦いが起きたが、エルヴィン・ロンメル中将率いる第7装甲師団によって撃退されてしまった。
この時、イギリス軍のマチルダ歩兵戦車がドイツ軍のⅠ号戦車やⅡ号戦車を蹂躙したが、88mm高射砲の水平射撃で撃退されたことは戦史に名高い。
これはドイツの戦車が質・量ともに英仏の戦車に比べて劣っていることを意味していたが、ドイツ軍は優れた運用と戦略でそれをカバーした。
アラスの戦いが失敗に終わるとフランス首相のポール・レノーも戦意を喪失し、
「負けた、負けた。我々はこの戦争に負けた」
とチャーチルに告げるばかりで、クレマンソーのような胆力を発揮できなかった。
また、ダンケルクに追い詰めれた英仏軍35万は英国本土に撤退する間もなく、ドイツ軍装甲師団が殺到したため、虐殺を避けるため降伏するしかなかった。
ダンケルクの戦いでは、立てこもった英仏軍への正面攻撃となり、ドイツ軍の装甲師団は大きな犠牲を払った。
ドイツ軍の主力はチェコ製の38t軽戦車やⅡ号戦車で、Ⅲ号戦車も装甲が十分とはいえず、落ち着いて対戦車砲で攻撃すれば正面から撃破可能だった。
そのため、ドイツ軍は強固な防御陣地に遭遇したときは正面攻撃を避けて迂回して、攻撃はあとから来る歩兵師団に任せて先に進んだ。
ダンケルクではそうした戦い方は不可能で、歩兵師団の到着を待つこともできず、犠牲を顧みない攻撃が行われた。
結果、ドイツ軍は10個しかない装甲師団の半数が壊滅状態となった。
それにもかかわらず攻撃が決行されたのは、イギリス海軍の戦力が圧倒的なため、イギリス本土への侵攻が如何なる意味でも不可能だと判断されていたからである。
イギリス海軍は、第一次世界大戦後、八八艦隊やアメリカのダニエルズ・プランに対抗して、N3級戦艦やG3級巡洋戦艦を計画した。
N3級戦艦は、基準排水量49,000tで富士型巡洋戦艦よりも18インチ(46cm)砲を1門多く積んだ3連装3基9門の守護聖人級として完成した。
1番艦はセント・アンドリュー、2番艦はセント・デイヴィッド、3番艦はセント・ジョージ、4番艦はセント・パトリックと命名された。
さらに32ktの快速と16インチ(41cm)砲3連装3基9門の強力な火力をあわせもつ提督級巡洋戦艦4隻(ネルソン、ロドニー、アンソン、ハウ)も建造された。
守護聖人級戦艦と提督級巡洋戦艦は、欧州最強戦艦隊として君臨し、1940年時点でもドイツ海軍には対抗できる戦艦が1隻もなかった。
ビスマルク級戦艦は、15インチ(38cm)砲搭載戦艦に過ぎず、拡大発展型のH級については進水すらしていなかった。
つまり、ここで英仏軍の撤退を許してしまうと追撃は不可能。その後の英国本土上陸などありえないというのがヒトラーの認識だった。
その後は先の大戦のように千日手が待っており、そうなったらソ連がどう動くか分からなかった。ドイツは対仏戦のために東部国境をがら空きにしており、スターリンがその気になればベルリンまでソ連軍を遮るものは何もなかったのである。
ヒトラーは再び賭けに出て、辛くも勝利したと言える。
ダンケルクの降伏の後、フランス軍は完全に崩壊してドイツ軍はパリに殺到した。
フランス政府は6月10日に首都を放棄してボルドーへ遷都し、さらにイタリアが参戦してフランス軍に撃退された。
同月22日には、第一次世界大戦におけるドイツの休戦協定が締結されたコンピエーニュの森でドイツ代表とフランス代表は休戦協定に調印した。
ドイツ軍は調印のため、先の大戦で同じく調印作業に使われた食堂車を博物館からわざわざ引きずりだしてきて、復讐を完結させた。
フランスの戦いはドイツの圧勝で終わった。
さらに捕虜解放を条件にヒトラーはイギリスに和平を提案した。
チャーチルは最初、この提案を気丈に断ったが、国内世論が保たなかった。
ナポレオン時代にさかのぼってもイギリス軍20万の将兵が一度に捕虜となったことはなく、このような規模の敗戦はこれが始めてのことだった。
国内世論は殆どショック状態で、すぐにでも戦争を手じまいにすることを望んでいた。
チャーチルは陸軍が潰えても海軍が残っていること。同盟国の艦隊もすぐそこまで来ていると世論を鼓舞したが、議会の大勢を変えることができなかった。
1940年7月11日にパリで開かれた和平交渉もヒトラーのペースで進んだ。
チャーチルはドイツ軍の即時撤退、捕虜の即日解放を条件に突きつけたが、ヒトラーが提案を丸のみしたため和平が成立してしまった。
チャーチルは軍の即時撤退や捕虜の即時解放など呑めるはずがないと考えていた。
無茶な要求で和平交渉を破談に追い込んで戦争を継続して、日本の増援、アメリカの参戦まで粘るのがチャーチルのシナリオだった。
しかし、ヒトラーはイギリスと講和できれば、白紙講和でも構わないと考えていた。
重要なのは勝ったというポーズで、政治的に英仏を取り込めば十分だった。
この場合は、ヒトラーが一枚上手だったというべきだろう。
1940年7月25日、休戦協定が結ばれ、8月1日をもって停戦が発効した。
この間に、日本ができることは殆ど何もなかった。
停戦間際の急な参戦で退避が完了していなかったイタリア商船数隻を拿捕したりしたが、できることはそれぐらいだった。
欧州の戦争は10か月でドイツの勝利に終わった。
19世紀の普仏戦争と同じスピード決着だった。
ヒトラーは約束通り、軍を撤収させ、捕虜も停戦と同時に即日解放した。
賠償金の請求もしなかった。イギリス海軍は戦艦を賠償艦としてよこせと言ってくるかもしれないと覚悟していたが、それもなかった。
ヒトラーが要求したのはアルザス・ロレーヌ地方の帰属を決める住民投票の実施、ドイツの産業が必要とする資源の優先的購入権、5年間の不戦協定だった。
不戦協定を担保するため北フランスには広大な非武装地帯が設定されたが、時限措置であり、英仏が停戦破りのだまし討ちをするのを防ぐための措置だった。
フランスは停戦後、パリに首都を戻さずヴィシーに首都を置き、アンリ・ペタン元帥のヴィシー政権が成立した。
イギリスではチャーチル内閣が総辞職し、親独派のロイド・ジョージ内閣となった。
政治的に英仏を取り込むというヒトラーの目論見は概ね成功したと言えるだろう。
日本は、イギリスと同じ8月1日に停戦を迎え、その後の和平交渉は駐英大使の吉田茂とヨアヒム・リッベントロップ外相の間で行われた。
ドイツからの要求は遣欧艦隊の速やかな帰国だけで、他の要求は貿易の再開など、旧に復すことだけだった。
日独は、戦争状態だったが実際に交戦したことはなく、勝った、負けたもなかった。
吉田はリッベントロップの素っ気ない態度に裏の意図があることを感じ取ったが、できることは何もなかった。
抑留されていたお互いの自国民の解放や途絶した貿易の再開などのごたごたは残っていたが、それは事務的な問題であり、とにかく戦争が終わったことだけは確かだった。
唐突に始まった欧州の戦争は、唐突に終わった。
大半の日本人はこう思った。
「わけがわからないよ」
遣欧艦隊司令長官の山本大将も、
「ありのまま 今 起こった事を話す・・・戦争がはじまったとおもったら、いつの間にか終わっていた。何を言っているのか・・・わからないと思うが、おれも何をされたのかわからなかった・・・頭がどうにかなりそうだった」
と述べており、軍の枢要な地位にいる人物でさえ同じ状態だった。
中島首相もまた、
「頭がヴィシー状態となった」
と新聞記者に述べている。
本人はビジー状態(考えるべきことが多すぎて、逆に何も考えられない状態)と言おうとしたが、舌が縺れたらしかった。
この言葉は語呂の良さから流行語となったばかりか、翻訳されて国際メディアで使用された結果、ある種のポリティカル・タームとなった。
確かに1940年の夏、世界はヴィシー状態となったと言えた。
ヴィシー・ステートとは、今日では、世界的なファシズム勢力の拡張と英仏を中心とした西欧秩序の崩壊という意味合いで使用されている。
日本国内でも例外ではなく、宣戦布告だけして逃げ出した近衛が戻ってきて新体制運動なるファシズム運動を展開した。
近衛はヒトラーに自分が日本のファシズム運動の指導者だとアピールする親書を送った。
ヒトラーから宣戦布告文書のコピーと共に、
「Ernsthaft?」
という返書が届いたことは広く知られている。
無視せず、きちんと返事を書いているあたり、ヒトラーが筆まめだったことが分かる。
中独合作を進めた中華民国(国民政府)は、勝ち馬に乗る形で国際的な立場を強化し、東アジア情勢は不安定化した。
蒋介石はドイツの支援があれば、大陸に特殊権益をもつ列強国など恐れる足りないと考えたのである。
前年の独ソ不可侵条約で裏切られたと蒋介石がわめき散らしたことは無かったことにされた。
欧州のヴィシー状態を受けて、1940年のアメリカ合衆国大統領選挙は大荒れになった。
戦時下を理由に3選を目指した民主党のルーズベルトは出馬の根拠を失い、共和党のウェンデル・ウィルキーはヴィシー状態の欧州とどのように付き合っていくのか明確なビジョンを示すことができなかった。
戦争が、誰にも予想がつかない形で終わったため、次に何をしたらいいか、誰にも分からない状態になったのだ。
今後の展開を知っているのは、ベルリンの謎めいた独裁者とモスクワの赤い皇帝だけだった。
日本も混乱状態だったが、遣欧艦隊の撤収は速やかに行われ、動員や出師準備の中止といった復員作業の目処がたったことから中島内閣は総辞職することになった。
しかし、土壇場で総辞職は中止となる。
1940年9月13日、ソ連が独ソ不可侵を破棄し、ポーランド西部に雪崩れ込んだ。




