戦雲来る
戦雲来る
アメリカ・ニューヨーク発の世界大恐慌は、全世界に波及して経済を停滞させ、各国は政治的な試練を迎えた。
世界規模で起きた未曽有の不景気への対応によって、その国の運命は殆ど決まってしまった。
試練に応えることができた日本のデモクラシーは生き延びたが、そうではない国では既存の秩序が崩壊した。
具体的には、ムッソリーニ・イタリアとナチス・ドイツである。
独伊は、極右勢力が国家を掌握し、危機に応えられなかった民主主義体制を終わらせ、強権的な手法で経済改革を実施し、それを曲がりなりにも成功させてしまった。
その手法は概ね、金本位制の停止と不換紙幣の増刷(マネーサプライの増加)、公債による財政支出(軍事費や公共事業)の拡大による有効需要の創出だった。
いずれもインフレーション政策であり、物価が下落し続けるデフレーションには極めて有効な政策だった。
日本では、1931年にタカハシノミクスが実施され、金融緩和・財政出動・減税の三要素を駆使したインフレーション政策によって世界最速で不況を脱した。
そのため、先行事例として研究され、ナチス・ドイツの経済政策にも影響を与えた。
ただし、彼らは元敵国の先行事例を取り入れたことを決して認めなかった。
宣伝大臣のゲッベルスは、
「我々の経済政策の最大特徴は、経済理論がないことだ」
と発言し、自分たちの経済政策が全く新しいものだと喧伝していた。
ただし、最近の研究では本当にナチス・ドイツの経済政策にはコアとなる理論や先行事例研究がなく、復讐戦争の準備をしていたら偶然、リフレーション政策に一致して経済を回復させただけという結論に落ち着いている。
軍拡で失業者を兵営に移動させれば、理屈の上では失業率は0%となるのだ。
似たような事例として、ソ連の計画経済がある。
ソ連では1928年から五か年計画を発動した。
これはソ連国内では第二次革命と認識されており、遅れた農業国のロシアを国家による集中的な投資で重工業国家へと改革するものだった。
具体的にはウクライナの富農を圧殺して穀物を徴発し輸出、稼いだ外貨で国外から重工業用のプラントを輸入して軍需生産を行うというものだった。
ウクライナでは穀物の徴発によって400万人が餓死する大惨事となったが、ソ連は軍需主体の重工業化に成功した。
軍需をまわして重工業化を果たした点においては、1920年代の八八艦隊計画と重なる部分があると言える。
しかし、重工業化の元手を稼ぐために高橋是清は、400万人を餓死させるような狂気はしていないので、高橋とスターリンの目指した場所も手法も全く別者と考えるべきだろう。
共産主義者は世界大恐慌と無関係に発展するソ連の五か年計画経済を称揚したが、
「そんな素晴らしい地上の楽園からどうして亡命者が後を絶たないのか?」
と高橋はプロパガンダ作戦に過ぎないことを見抜いていた。
共産主義についても、
「貨幣と金融を撲滅してどうやって経済を回すのか?共産主義国のくせに、ルーブル(通貨)がある時点で理論的に破綻している」
として全く評価しなかった。
ちなみにソ連は公式には金本位制を標榜しているが金兌換は成立していないし、ソ連国家銀行(日銀にあたる)以外の銀行がなく、全ての資金管理は国家予算で行うとしていた。
金融と通貨を否定した国家が、現実に適応するための苦肉の策だったが、これには致命的な欠陥があった。
日本の場合は市場経済の動向を各種統計で追うことによって、必要な通貨供給量を調整する経済政策(インフレ政策・デフレ政策)を実施できるが、市場が存在しないソ連ではそもそも統計を作成することができない。
したがって通貨管理が不可能だった。
実際、ソ連崩壊まで通貨管理の手法が確立できず、全てのセクションで資金需要が不足、あるいは超過しつづけ、それを補填するための地下経済の拡大を止めることができず、最後には破綻に追い込まれた。
最初から破綻していたものを暴力で無理矢理維持していたとも言える。
ちなみにソ連は崩壊するまで金本位制を標榜しつづけていた。日本が金本位制を離脱したのは1915年で、アメリカは1971年である。
お前の頭は19世紀か?と言いたくなるが、カール・マルクスの共産党宣言が出版されたのが、1848年ということを考えると無理もない気がする。
さて、公式にタカハシノミクスを先行事例として取り入れたことを認めた例としては、アメリカ合衆国のニューディール政策が挙げられる。
ニューディール政策を推進したフランクリン・D・ルーズベルト大統領は、偉大な財政家と高橋是清を高く評価し、1934年にはホワイトハウスに招いて会談を行った。
会談には、経済理論家として名をはせていたジョン・メイナード・ケインズも招かれており、高橋はルーズベルトの前でケインズと今後あるべき経済政策を議論した。
議論は概ね貨幣論に終始して最終的に、
「金本位制は中世の遺物で、もはや害悪である」
という点で高橋とケインズの結論は一致した。
1935年時点でもアメリカは金本位制を維持しており、高橋とケインズは政策の修正を迫った形だった。
ルーズベルトは検討を約束したが、アメリカが金本位制を完全に停止するのは前述のとおり1971年まで待たなくてはならない。
なお、この会談において高橋は、自分と目を合わせようとせず、ケインズとばかり会話するルーズベルトに不信感を抱いた。
公式にはルーズベルトとの会談を日米友好のため意義あるものと称揚したが、
「奴は何を考えているのか分からん、注意しろ」
と周囲に警告していた。
高橋とケインズの交流はその後も続き、ケインズは高橋が自身の仕事の集大成として1935年に出版した『現代貨幣理論』を英訳することになった。
同年、ドイツが再軍備を宣言し、翌年にはヴェルサイユ条約で非武装地帯と定められたラインラントに進駐する。
この時、フランスは何の反応も示さなかった。
ドイツの軍事力は建設中のもので、フランス軍が出動した場合は即座に粉砕される程度のものしかなかった。
ヒトラー自身も後に人生で最も緊張した瞬間だったと振り返っている。
しかし、フランスは小さな戦争を避けてしまった。
結果、アドルフ・ヒトラーは小さな戦争の危機を繰り返すことで、勢力を拡大できることを学んだ。
その後、ヒトラーはオーストリア併合、ズデーテン地方の獲得、チェコ併合と次々に小さな戦争の危機を作り出し、脅迫を繰り返して領土を拡張した。
21世紀になって全く同じことがロシアで繰り返されたことは、強調して強調しすぎることはないだろう。
ムッソリーニ・イタリアも1936年にエチオピアに侵攻し、同年にはロンドン海軍軍縮条約からの離脱を宣言し、2年後の1938年1月1日を以て1930年に始まった海軍休日は終わることになる。
この頃には、列強各国も次の戦争は不可避とみなし、一斉に海軍拡張に舵を切った。
日本海軍も新八八艦隊計画を策定し、条約失効と同時に新型戦艦2隻と超甲巡4隻を同時起工した。
新八八艦隊計画は、旧八八艦隊計画と同様に8年計画で8隻の戦艦と8隻の超甲巡を建造し、旧八八艦隊の戦艦と巡洋戦艦を代替するものだった。
新八八艦隊の主力を務めるのは、基準排水量70,000tに達する大和型戦艦8隻で、富士型巡洋戦艦よりも18インチ(46cm)を1門多い9門(三連装3基)搭載し、高温高圧缶の採用で28ktの高速を発揮する超超ド級戦艦となっていた。
前級の富士型よりも排水量が大幅に増加しているのは、完全な18インチ砲対応防御を持たせたことと、日英同盟に基づく欧州派遣を考慮して居住性や航洋性を高めたためである。
主砲が前級の富士型と同じ18インチ(46cm)砲なのは不満だったが、アメリカ海軍が条約明けに建造する船は、パナマ運河通過という制約のため16インチ(41cm)砲が限界と考えており、18インチ(46cm)砲で十分とした。
日本海軍のこの予想は半分当たり、半分外れた。
大和型は旧八八艦隊の経験と科学技術の発展を反映した洗練されたもので、日本式戦艦設計の集大成だった。
しかし、その分だけ極めて高価な船となってしまった。
そのため、ハイローミックス戦略が採用され、同時に建造された高千穂型超甲巡4隻は、大和型戦艦の半分以下の排水量32,000tとなった。
設計も大和型戦艦を流用し、見た目そのままにスケールダウンした形となった。これは意図的なもので、遠距離で誤認を誘うという意味があった。
実際に遠距離で大和型と高千穂型を判別するのは至難の技とされ、見張り水兵の間でも難問中の難問とされた。
主砲には、新規開発の12インチ(30.5cm)砲55口径口径砲三連装3基9門を盛り込んだ。この長砲身12インチ砲は完全新設計の主砲で、最大射程は大和型の18インチ(46cm)砲に匹敵する42kmにも達した。
また、大和型と同型の高温高圧缶によって34ktの快速艦となった。
海面状態が良ければ36ktという駆逐艦並みの速度が出せた。
超甲巡は、その名の示すとおり、甲巡(重巡洋艦)の上位互換として企画された船で、高速で素早く甲巡を捕捉し、高火力で駆逐するものだった。
ある意味、巡洋戦艦の基本に立ち返ったと言える。
巡洋戦艦は艦隊決戦に投入されたため、敵戦艦の撃ち合いに対応した防御力を求められ、高速戦艦へと発展していったが、本来の使い方は巡洋艦駆逐艦だった。
日本海軍が巡洋戦艦の基本に立ち返ったのは、劣勢な重巡洋艦戦力を補うためだった。
仮想敵のアメリカ海軍は、ノーザンプトン級重巡洋艦やニューオーリンズ級重巡洋艦など8インチ砲搭載巡洋艦を次々と建造していた。
アメリカ海軍が1万tクラスの8インチ砲搭載巡洋艦を重視したのは、主力戦艦のサウスダコタ級が航続距離と防御に偏った低速艦のため、戦艦の代用品として高速であちこちの戦場に顔をだせる船を欲したためである。
日本海軍やイギリス海軍の重巡洋艦は平時の航路警備を重視して、長距離航海のために居住性などを重視している関係で、攻防性能は米巡洋艦に比べると劣った。
問題は艦隊決戦時の対応であるから、巡洋艦駆逐艦の超甲巡を以て対応することになった。
ただし、超甲巡はその性格から、敵戦艦との正面切っての撃ち合いには使えない。
そのため、新八八艦隊計画では敵戦艦との砲戦は大和型8隻に委ねる方針だった。
これは旧八八艦隊計画からの大きな変更で、艦隊の主力となる戦艦が16隻から8隻の半分に減ったということだった。
新八八艦隊計画では、依然として戦艦を艦隊の主力と規定していた。
しかし、科学技術の発展により戦艦が海戦の主役として活躍するには、戦艦以外の戦力との協働が必要となった。
駆逐艦や軽巡洋艦は、イギリス海軍と共同開発した酸素魚雷を装備して、戦艦同士の砲撃戦に介入できるようになった。
戦艦が戦艦同士とのんびり撃ち合っていると駆逐艦が遠距離から酸素魚雷を発射し、足元を掬われるという展開もありえるものとなった。
遠距離での雷撃は滅多に当たらないとはいえ、それは戦艦の主砲とて同じことであり、数をこなせばいずれは確率論的に当たるものだった。
そして、酸素魚雷の破壊力は、イギリスからの新型爆薬の提供もあって、戦艦を一発で行動不能しかねないものとなっており、戦艦の地位を脅かすものだった。
さらに発展著しい航空機が、海戦に及ぼす影響が無視できないものとなった。
条約型空母のような10,000tクラスの小型空母では偵察と防空が限界だったので、日本海軍は陸上基地航空隊の整備に力を注いだ。
結果、完成した九六式陸上攻撃機はその革新的な性能で、海軍航空関係者を狂喜乱舞させ、保守的な大艦巨砲主義の眉をひそめさせた。
演習では九六式陸攻は条約型空母が展開する防空戦闘機(九六式艦上戦闘機)だけでは阻止できず、対空砲火によって大損害を受けたと判定されたものの洋上を航行中の天城型巡洋戦艦を航空雷撃で落伍させることができると判定された。
撃沈に至らなくても、漸減が可能という意義は大きく、仮想敵も同じことができることと思われた。
日本の九六式陸攻に相当するものが、アメリカ軍のB-17となる。
空中機動可能な沿岸要塞として開発されたB-17を日本海軍は極度に警戒した。
大量のB-17が艦隊上空に侵入した場合、大量爆撃で八八艦隊の戦艦も危ういと考えたのである。
戦艦が今後も海戦の主役として活躍するには、対空砲火の増強と防空戦闘機の充実が必要だった。
そのため、新八八艦隊計画では防空軽巡洋艦16隻と新型航空母艦4隻が計画された。
利根型軽巡洋艦は、防空艦兼水雷戦隊旗艦の役割を果たすものとされ、阿賀野型を発展させた6,800tの船体に新開発の長10cm連装高角砲6基搭載した。
その他の対空兵装としては、同盟国イギリスの2ポンド・ポンポン砲(8連装)が導入されたが、これは故障が多発して大問題となり、最終的にイギリス海軍と同様にボフォース 40mm機関砲に置き換わることになった。
長10cm高角砲とボフォース40mm機関砲は、イギリスからの供与やライセンス生産した測距用の282型レーダーとあわせて使用することで高い対空火力を発揮した。
新型航空母艦4隻は、翔鶴型(25,000t)として1939年に4隻が起工された。
翔鶴型は空母建造で先行するイギリスから図面提供を受けたイラストリアス級航空母艦を参考に建造した。
翔鶴は日本海軍の空母としては初となる飛行甲板に装甲を施した空母となった。
なお、原案のイラストリアスの搭載機数が36機と条約型空母と大差ないものだったことから、翔鶴型は側面装甲を削って格納庫を上下2段とすることで倍の72機を搭載可能とした。
そのため乾舷がイラストリアスよりも大幅に高くなり、翔鶴とイラストリアスは簡単に見分けることができる。
翔鶴型によって初めて日本海軍の空母部隊は偵察と防空以外のことに目を向けることができるようになったと言える。
しかし、就役はどれだけ急いでも1943年後半まで待つ必要があり、それまでは蒼龍型のような条約型空母で対応するしかなかった。
次世代の戦艦や超甲巡、装甲空母の周囲を固める駆逐艦も新世代艦となり、甲型(陽炎型)駆逐艦が準同型の夕雲型とあわせて72隻建造された。
甲型は基準排水量が2,500tと日本海軍最大の駆逐艦となり、特型や中型駆逐艦の問題点だった航続性能が漸く満たされた。
また、中型以前は備砲が水上砲戦に使用する平射砲だったのに対して、甲型からは対空射撃に使える12.7cm高角砲連装3基6門となり、後日装備されたイギリス製の282型レーダーとあわせて高い対空火力を持つようになった。
これは空からの脅威に備えたもので、防空軽巡の利根型の多数建造とあわせて日本海軍の戦術思想が大きく変化していたことを示している。
また、日英海軍自慢の酸素魚雷を建造当初から搭載した。
初期計画案では、次発装填装置と予備魚雷を搭載して、海戦中に一度しか実施できない魚雷攻撃を2回行えるようにする予定だったが、対潜水艦装備、爆雷や能動水中探信装置を搭載するため断念した。
日本海軍は第一次世界大戦で巡洋戦艦霧島をUボートに沈められた苦い経験あり、艦隊型駆逐艦であっても対潜水艦戦を軽視してはならないと考えられていた。
ハイローミックスとして甲型と同時建造された乙型(2等駆逐艦)の松型はさらに多数の爆雷を搭載し、大戦中にイギリス海軍が開発した前方投射爆雷を搭載した。
松型は大戦中に多数(108隻)が就役し、イギリスから供与された花型海防艦(フラワー級コルベット)と共に対潜艦隊を編成した。
海軍が新八八艦隊計画で湧き上がる中、陸軍も1937年以降は近代化のために予算が拡大され、各師団の機械化が大きく進んだ。
特に九七式歩兵戦車や(ホハ車)、九八式騎兵戦車(キハ車)は、陸軍機械化の目玉だった。
九七式歩兵戦車は、歩兵支援用に開発された20t級の重装甲戦車だった。
日本陸軍は第一次世界大戦中にイギリス陸軍との関係を深め、その後も継続したことから戦車開発においても、イギリス陸軍の支援を受けた。
特に思想面での影響は大きく、イギリス流に歩兵支援用戦車と機動戦用戦車の2系統の開発体制が取られた。
ホハ車とは、歩兵戦車のホとイロハを組み合わせたもので、3番目に開発された歩兵戦車という意味である。
日本式と呼ばれるシーソー式サスペンションに70mmの前面装甲を持つ車体を組み合わせた25tのホハ車は、採用時点では世界でもっとも厚い装甲をもつ重装甲戦車だった。
主砲は52口径40mm砲を搭載した。これはイギリス陸軍の採用した2ポンド砲をライセンス生産したものだった。
しかし、非力な空冷ディーゼルエンジン(150馬力)を採用したため、前進速度は僅かに20km/hしか出ない鈍重な戦車となってしまった。
九八式騎兵戦車も同じ主砲とエンジンを搭載したが、装甲を削減してホハ車の半分の13tに抑えられた。
軽量な分だけ速度がでる快速戦車となっており、戦線を突破した後、素早い進撃で敵の師団司令部や砲兵陣地を突いて戦果を拡張することが期待された。
しかし、実戦では軽装甲すぎて対戦車砲などで簡単に撃破されてしまう問題点を露呈した。
こうした欠点はイギリス戦車と共通のもので、実戦の洗礼を経て2系統の戦車開発は一本化されて、主力戦車へと発展していくことになる。
戦車と並行して、歩兵装甲化も進展して、ヴィッカーズ社のユニバーサル・キャリアが採用され、フォード・ジャパンで量産化された。
オープントップながらも周囲を軽装甲で覆った装軌式のユニバーサル・キャリアは、地形走破性が高く、戦車に随伴する歩兵の必須装備となった。
なお、本家のイギリスでは、ユニバーサル・キャリアにもっぱらチェコ製のZB26をライセンス生産したブレンガンを搭載したので、ブレンガンキャリアという名称の方が知られている。
日本陸軍も、ZB26を参考にして独自に九六式軽機関銃を開発して搭載した。
なお、ブレンガンも九六式軽機関銃も使用弾薬は同じ.303ブリティッシュ弾である。
日本陸軍が導入や開発した火砲はイギリスのヴィッカーズ社で開発するか、ライセンス生産したもので、陸軍はイギリス軍と使用する弾薬の共通化に努めた。
第一次世界大戦を経て日本陸軍は、国家総力戦体制(長期・消耗戦)の必要性を痛感したが、1920年代の日本の工業力が全く足りないことを理解していた。
それを理解していた日本海軍は、日本海海戦の成功体験もあって八八艦隊のような決戦型海軍の建設に邁進した。
一度の決戦で全てが決着するなら、長期・消耗戦に対応した国家総力戦体制は不要だからである。
それに対して、陸軍は長期・消耗戦は不可避だと考えていた。
なぜなら、欧州派遣軍9個師団がソンムの戦いでことごとく壊滅した後も、派遣軍は補充を繰り返して1918年まで戦い抜いたからである。
戦力が補充され続けるかぎり、戦争は終わらないし、戦争が終わったのは相手の国力が尽きて、体制が崩壊する革命が起きたからだった。
陸軍は決戦主義に走らず、長期・消耗戦に真剣に向き合った結果、同盟国からの弾薬供給が不可欠という結論に達した。
第一次世界大戦終戦後、帰国する欧州派遣軍に不用品として平時の10年分の武器弾薬をお土産に持たせてくれた経験が忘れられなかったということもある。
日英同盟というと海軍の同盟という印象が強いが、1920年代以降は陸軍の交流も幅広く行われ、日本陸軍は多くの将校をイギリスへ留学させている。
陸軍将校の学ぶ外国語といえば、ドイツ語かロシア語、あるいは中国語だったが、1920年代からは英語が最も多くなった。
第一次世界大戦以前はドイツの交流が多く、帝政ドイツ陸軍の伝統を受け継いだ日本陸軍が昭和に入って、議会を尊重するようになったのも英陸軍との交流が要因の一つとされている。
最後に空軍だが、日本には空軍がないので海軍航空隊と陸軍航空隊がそれぞれ合目的に研究を重ねて発展してきた。
海軍航空隊の目的は、仮想敵であるアメリカ海軍の発見(偵察)と艦隊防空である。
条約型空母のような小型空母にはそれ以上のことは要求されなかった。
さらにいえば敵戦艦を沈めるために航空機を持ち出すよりも、八八艦隊の戦艦をぶつけた方が早いというのもある。
前述の九六式陸上攻撃機は、元々は偵察機として開発され、その後に武装して陸上攻撃機として使用されたもので、海軍航空隊は攻撃よりも偵察を重視した。
九六式陸攻も訓練内容は、航空雷撃や爆撃よりも偵察を重視しており、攻撃機としての性格が強まるのは、一式陸上攻撃機の登場を待つことになる。
元々偵察機とした開発された九六式陸攻は長距離偵察のために大量の燃料を満載しているが、防弾は皆無で、しかも爆弾倉もないので魚雷や爆弾を搭載すると速度が大きく低下し、敵戦闘機の迎撃や対空砲火にも弱いという攻撃機としては問題の多い機体だった。
陸攻の他に偵察戦力として、九七式大型飛行艇や戦艦や巡洋艦搭載の零式水上偵察機が開発され、艦隊の目として活発に活動した。
アメリカ海軍の条約型空母ヨークタウンやエンタープライズも日本海軍のそれと同じ程度であるため、戦艦を沈められるだけの攻撃力を持ち合わせていない。
しかし、敵の空母を先に見つけて飛行甲板を破壊できれば、相手の目を奪うことができるので、海戦を有利に展開できる。
敵空母の飛行甲板を破壊するには、急降下爆撃が必要で、日本海軍もアメリカ海軍も艦上爆撃機の開発に力点を置いた。
アメリカ海軍の場合はSBDドーントレスが開発され、日本海軍では一式艦上爆撃機が誕生した。
一式艦上爆撃機は、愛知航空機が開発した二人乗りの急降下爆撃機で、イギリスのロールスロイス社のマーリンエンジンのライセンス生産品を搭載し、戦闘機並み(530km/h)の速度と運動性を兼ね備えた傑作機だった。
これは前年に採用された零式艦上戦闘機とほぼ同等の速度性能だった。
500kg爆弾を抱いて急降下爆撃ができる一式艦爆には大きな期待が寄せられたが、あくまで狙いは敵空母の飛行甲板であって、敵戦艦への爆撃ではない。
サウスダコタ級戦艦の水平防御を破るには高度3,000mから1tクラスの爆弾を投下する必要があり、そうなると大型機による水平爆撃しかなかった。
日本海軍がB-17を恐れた理由でもある。
水平爆撃以外で戦艦を沈めるには航空雷撃しかないが、雷撃機を積む余裕が日米の条約型空母にはなかった。
例外はイギリス海軍のグローリアス級航空母艦のような大型空母だが、艦載機の開発に失敗してソードフィッシュ雷撃機しかなかったので、日英米の三大海軍国において戦艦を沈められるだけの雷撃機を集中運用できる国はなかったことになる。
日米海軍が何かの間違いで、天城型巡洋戦艦やレキシントン級巡洋戦艦を転用した大型空母でも作っていれば話は別だが、そのようなものはどこにもなかった。
偵察と艦隊防空に向かった海軍航空隊に対して、陸軍航空隊は本土防空と近接航空支援、航空撃滅戦に対応した。
九七式戦闘機や、九七式軽爆撃機、九七式司令部偵察機、九七式重爆撃機などは陸軍航空近代化の第一陣というべき機材で、これによって陸軍航空隊の基礎ができたと評価されてる。
九七式戦闘機は、中島飛行機のレシプロ戦闘機の基本形を確立した機体で、3年後には引き込み脚の百式戦闘機に発展した。
百式というよりも公募された愛称の隼という方が有名だろう。
九七式司令部偵察機は戦略偵察機で、平時から高速でソ連領内を偵察して、ソ連空軍の飛行場を探る役割を与えられた。
もちろん、平時の領空侵犯は国際法違反だが、日本陸軍は開戦劈頭にソ連空軍の飛行場を九七式重爆で奇襲して、地上で爆撃機を撃破して本土爆撃を阻止する構想を立てていた。
九七式司令部偵察機の後継機がマーリンエンジン搭載の百式司令部偵察機で、世界最速の偵察機としてイギリスにも輸出されるほどの成功をおさめた。
九七式重爆も百式重爆呑龍へと進化し、第二次世界大戦における日本陸軍の主力爆撃機として活躍した。
九七式軽爆は近接航空支援用の急降下爆撃機で、中華民国(国民政府)へ多数が輸出され、国共内戦で使用された。
実用的な機体として中国人パイロットからの評価は高く、最終的に300機前後が中国に輸出された。
1930年代の中国は各地の軍閥を配下に納めて一応の国家統一を果たした国民党の蒋介石とゲリラ戦を展開する毛沢東の共産党の内戦が続き、各国が盛んに武器を輸出した。
その中でも最大手となったのがドイツで、国民党軍はHe111やJu-87、Bf109Cといったドイツ空軍でも採用されたばかりの新機材を導入していた。
陸軍も軍事顧問団を受け入れ、ドイツ製小火器のライセンス生産を進めた。
ヒトラーは軍備拡張のために中華民国の地下資源に目を付け、大規模な借款を行って兵器を輸出し、タングステンなどの鉱物資源を獲得した。
中華民国は共和政を標榜していたが、実際は蔣介石の独裁国家で、同じ体制のナチス・ドイツと相性がよく、中独合作が進んだ。
ヒトラーは日本と関係を深めた方が対ソ戦略おいて有利と考えていたが、日本には日英同盟があり、元敵国と手を結ぶ理由はなかった。
また、国民感情にも確執があった。
第一次世界大戦で日本陸軍が経験した毒ガス攻撃は、酸鼻極まる外道という認識だった。
砲弾生産力に劣るドイツ軍は大戦後半に毒ガス攻撃を多用して多くの日本兵を殺傷し、銃後においても外道作戦を行うドイツ軍として極めて悪い印象が焼き付いた。
また、ドイツが第一次世界大戦の賠償金を踏み倒したことは、日露戦争の外債をこつこつと返済している日本政府にとって許しがたい蛮行だった。
蔵相として高橋は、
「国内債は永遠に借り換えるが、外債は何があっても絶対返済する」
として関東大震災で首都が壊滅した1923年にも外債を返済している。
債権者からモラトリアムの提案があっても断って返済を実施した。
これは日本の国際的信頼を守るためであり、逆にいえば外債の返済不履行は絶対に許さないという態度である。
しかも対中武器輸出という日本の軍需産業の米櫃を荒らしているのだから、ドイツに良い感情などあるわけがなかった。
しかし、共産党のゲリラが居留民や中国に建設した日本資本の工場、鉱山などを標的に爆弾テロを繰り返していたため、滅共を掲げる蒋介石の動きを容認するしかなかった。
共産党封じのためにファシスト勢力を支援する動きは、ドイツやイタリアでも見られた現象である。
各国の企業経営者や資本家は、共産党によるテロや革命を警戒して、対抗勢力として極右を支持した。
ミュンヘン会談まで、ヒトラーの領土拡張が容認されたのも、ソ連に対抗する防壁という論理が一定の説得力をもっていたからと言える。
ヒトラーは共産主義のソ連と敵対し、自身の著作においてもヨーロッパ・ロシアの征服、植民地化を語っていた。ウクライナの穀倉地帯からスラブ人を追放し、ドイツ人の植民都市を作る構想は極めて具体的なものだった。
ゆえに1939年8月23日に独ソ不可侵条約が結ばれたことは衝撃という他なかった。
自国を植民地化すると宣言している男と手を結ぼうとする奴がいるとは誰も思わなかったのである。
しかし、スターリンはヒトラーと取引した。
ファシストとコミュニストの幸せな結婚の結果、間に挟まれたポーランドやバルト三国、フィンランドの運命は極まった。
1939年9月1日、ドイツがポーランドへ侵攻し、第二次世界大戦が勃発した。