世界恐慌
世界恐慌
1929年10月24日のブラックサーズデーから1か月に渡って続いたニューヨーク株式市場の暴落は、アメリカ経済に空前絶後の信用収縮をもたらした。
1日で時価総額140億ドルが消滅した。
ちなみに円相場およそ1ドル=5円だったので、600億円が消し飛んだ計算になる。
1930年の日本政府の一般会計は、およそ50億円だったので国家予算の12年分に相当する。
その後の下落でさらに時価総額300億ドルが失われたので、追加で1200億円が消えた。
この場合の無くなったというのは文字通りの意味である。
何しろお金とは、基本的に無くならないものである。
例えば、八百屋で400円のトマトを買っても、貴方の手元にはトマトが残り、400円が八百屋の手にわたるだけである。400円が消えてなくなるわけではない。400円はそのまま経済の中で循環しつづける。貴方の手元には400円の価値があるトマトが残り、それでトマト鍋をつくることができる。
しかし、株価の大暴落は別だった。
100ドルの株が、1年と少々で最終的に20ドルまで下がった。
差額80ドルはどこにもいかない。ただ消えるだけである。
何しろもともと20ドルの価値しかないものを、転売を繰り返して値段を釣りあげていただけだからである。
先ほどのトマトを例にすれば、400円のトマトを他の誰かに500円で売り、500円で買った誰かが1000円で売り、1000円で買った誰かが2000円で売った状態である。
元の価値は400円しかないが、1600円も値上がりしている。
この先もトマトの価値が永遠に上がりつづけるなら、この幸せループは無限に続けられる。
トマトが永遠に腐らないのなら、たぶんできる。
金(gold)が安全金融資産として優秀なのは、この点に尽きる。金は腐ったり、さびたりしないからである。
誰かがこのトマト(実態経済)が腐っていることに気が付いてしまうと幸せループは終わる。
腐ったトマトなど、誰も欲しがらないからだ。
大暴落が発生した1929年のアメリカの実態経済は住宅価格が下落傾向で、明らかにリセッションの兆候が見えていた。
それにもかかわらず幸せループを回してしまい、腐ったトマトが2500円ぐらいになったあたりで、トマトが腐っていることに誰かが気が付いた。
もちろん、腐ったトマトに400円の価値はない。
ただのゴミである。
しかも、困ったことに貴方が買っているのはトマトだけではなく、トマトよりも明らかに足が早そうな肉や魚、キノコなど、他にも大量に買い込んでいた。
これらが腐っている可能性がある。
これがトマトなら、まだ冷静にトマトを処分するだけで済む。
問題は人々が取引していたのは、400円のトマトではなく、4万ドルの株式だった。それが25万ドルまで値上がりして、いきなり最初に買った値段以下まで下がったのである。
以下ならまだ良い方で会社が倒産して株券が紙屑になる場合もある。
冷静さを保てる人間など、一人もいないだろう。
人々は腐ったトマトだけではなく、腐っていそうなものや、まだ腐っていないものをも手当たりに次第に売って、現金に変え始めた。
これが株式市場の大暴落である。
さらに悪いことに、多くの人々が株を買うために銀行から融資を受けていた。
それどころか銀行が利殖のために株を買っていた場合もある。
融資が焦げ付き、多額の不良債権を抱えた銀行は、自己防衛のために貸しはがしに走った。
それが国内だけなら、まだアメリカ経済の問題で済むが、アメリカの銀行は国外にも多額の融資を行っており、それが一斉に引き上げられた。
特にドイツは賠償金支払いのため金がなく、ドーズ・プランで経済の運転資金をアメリカの銀行から借りていたので、貸しはがしの影響は致命的だった。
同時に銀行は自己防衛のために貸し渋りを発動し、完全に資金の動きが止まってしまう。
貸し渋り・貸しはがしに走っても銀行が助からない場合もある。
銀行がつぶれた場合、預けた金は帰ってこない。
不安に駆られた人々は一斉に銀行から預金を引き上げ始める。これが一度に起きると取り付け騒ぎとなる。
結果、さらに多くの銀行が潰れた。
ただでさえ消費マインドが冷え切って商品が売れない上に、銀行も自己防衛のため金を貸してくれないという状況(貸し渋り)になると会社が潰れる。
会社が潰れて労働者が失業者になるとさらに商品が売れなくなる。
結果、商品を売るために無理な値下げ競争が始まる。
体力のない会社は倒産するし、体力があっても経費(主に人件費)が削減される。
結果、労働者の賃金が減り、さらに商品が売れなくなる。
さらに値下げを迫られた会社はどこかで耐えられなくなって倒産する。
倒産した会社に商品を納めていた会社も取引先がなくなり倒産する。
結果、さらに失業者が増えて商品が売れなくなる。
以下、略
という不幸せスパイラルが完成する。
これが全世界で同時に発生した。
まさに人類に逃げ場なしとなった。
もちろん、日本も例外ではない。
1920年代の日本は、物価が毎年7~8%上がるというハイインフレ状態だった。
インフレで株式や土地も長期間に渡って継続的に上昇したので、投機的な資金が集まり、株式バブル、土地バブルが発生していた。
田中義一内閣でも蔵相を務めていた高橋是清は、バブルになっていたことは認識していたとされる。
問題は、対策を打つ前に満州某重大事件(張作霖爆殺事件)が発生し、田中内閣が引責総辞職し、立憲民政党の浜口内閣に政権が移ったことだろう。
高橋は蔵相の座を追われることになった。
ちなみに満州某重大事件は、極めて謎が多く、真相は現在に至るも不明である。
当初は関東軍による暗殺が有力視された。
しかし、現在では否定されている。
理由は単純で、関東軍には張作霖を暗殺する動機がないためである。
暗殺された張作霖は、日米共同経営の満鉄利権を承認し、その見返りにアメリカから多額の資金と日本からの武器援助を受け取っていた満州軍閥のボスであり、日米と張作霖の間に大きな意見対立はなかった。
では、なぜ関東軍の関与が疑われたのかといえば、普段から関東軍が政府(主に外務省)を無視して中国に干渉する二重外交が常態化していたからだ。
関東軍に言わせてみれば、非現実的な上からの指示を現場の常識に書き換えて実施しているだけとなるのだが、軍の出先機関が政府の命令を勝手に書き換えてよいことにはならない。
要するに、普段の行いが悪すぎて、身の潔白を訴えても誰も信じなかったのである。
「関東軍は、事件とは、一切関係ありません。偶然ここにいるだけです」
と言われても、
「あからさまに関東軍なのだ!」
と全員が思っていた。
実際、事件発生時に関東軍が現場近くで演習を行っていた。しかも、ゲリラによる鉄道爆破を想定した演習だったので、疑われても仕方がない状況だった。
間が悪い、と言えばそれまでであるが。
さらに田中首相が昭和帝の命令で徹底的な捜査を行った結果、関東軍が行っていた機密費の私的流用や裏金作り、阿片密売が明らかになった。
問題は、そのような不祥事に塗れても、関東軍は事件とは無関係だったのである。
しかし、それでは誰も納得しない。
昭和帝も納得せず、田中首相の上奏を突き返したため、狭心症で弱っていた彼の心臓は簡単に限界を迎えてしまった。
昭和帝は判断ミスに気が付いたが、後の祭りだった。
総辞職の辞表を集めるために始まった田中内閣最後の閣議で、
「だ~れが殺した張作霖・・・だ~れが殺した張作霖」
と虚ろな目で田中が戯歌を歌ってる姿が目撃されている。
ちなみに最新の研究では、張作霖爆殺事件の犯人を息子の張学良とする意見が主流である。
事件の前から張親子の関係が悪化していたことが根拠とされる。
張学良が父親殺しに走った理由としては、張作霖が満州軍閥の元締めとして日米の走狗になり果てていることへの反発があったとされる。
実際、張作霖がどのような正当化を図っても、売国奴の誹りは免れなかった。
軍閥のボスを売国奴と罵倒する度胸があれば、という話だが。
ちなみに張作霖のビジネスには麻薬販売も含まれていたから、メキシコで麻薬カルテルのボスに喧嘩を売るようなものとも言える。
そして、麻薬カルテルのボスの息子がうしろめたさから理想主義に走り、親子喧嘩がエスカレートして最後は、殺害に至ったという推理である。
張学良はその後、中華民国(国民政府)へ合流し、排日抗米運動を推進することになる。
しかし、国民政府総統の蔣介石は日米との対立を避けて満鉄利権を承認したため、最後は共産党へと合流した。
そのため、事件の背後にソ連の影を見る識者も多い。
それはさておき、1929年7月2日、内閣総理大臣に就任した浜口雄幸は、井上準之助を大蔵大臣に据えて、放漫財政の大掃除を開始した。
新聞記者から経済政策を問われた浜口は、
「金解禁、金解禁、金解禁です」
と三唱した。
しかし、それには超えるべき多くのハードルがあった。
まず、1929年時点の円建て公債累積残高は221億円に達しており、国家予算の4倍だった。
第一次世界大戦の戦時国債や関東大震災の復興公債、八八艦隊計画や陸軍増強(25個師団体制)、公共事業を行う建設国債など、1914年以降も様々な公債が発行されていた。
管理通貨制度においては、中央銀行の保有する公債を含む資産額≒通貨発行額となる。
そして、221億円は日銀が保有する金準備額をはるかに超えているため、そのままでは金兌換にすることができない。
一応、221億円をそのまま金兌換にすることは可能で、平価(交換レート)を大幅に下げれば可能である。
しかし、浜口は旧平価(1914年の交換レート)に拘った。
ではあるのならば、今出回っている不換紙幣を金準備額と釣り合うところまで減らすしかない。
不換紙幣を消滅させる方法は一つしかない。
1 政府が市中から税という形で紙幣を回収する。
2 日銀が過去に買い取った公債を返済する。
3 日銀は公債証書と返済された金を焼却処分する。
つまり、公債を返済すればするほど、世の中に出回るお金が減る。
「国の借金を返済したら、お金が無くなりました」
という、なんとも奇妙な話となる。
この逆の然りで、
「国の借金を増やしたら、お金が増えました」
ということになる。
高橋は公債と通貨の奇妙な関係を完全に理解した結果、
「経済学は、まともな人間には理解できない」
という結論に達し、常に飲酒した状態で仕事をするようになったと言われている。
アルコールで頭のネジを習慣的に緩めておくことが必要だったらしい。
師弟関係にあった大蔵官僚の池田隼人にも日常的な飲酒を勧めており、下戸や素面の経済学者は全てインチキだと考えていた。
ちなみに浜口首相は公債と通貨の奇妙な関係を無視し、
「国の借金を減らすことで、国民が安心して暮らせる社会をつくる。借金がなくなれば、消費が増えて経済は好転する」
と宣言していた。
たしかに、個人が借金を返済して無借金状態になれば、債権者の取り立てに怯えず安心して暮らせるかもしれない。借金返済がなくなれば、その分だけで好きなものを買えるようになるだろう。
しかし、国家財政と個人の家計簿は同列に論じることなどできるはずもない。
国家は金を自前で作ることができるが、個人が自前で金を作ったら通貨偽造で逮捕である。
1920年代の日本は国の借金を増やすことで、大量の通貨を発行され、内需が拡大し続け、常に為替レートが円安に振れ続けるので、貿易黒字が続いて相乗効果により高度経済成長が実現した。
では、世界大恐慌が経済を直撃した1930年に、通貨を減らす政策を行ったらどうなるか?
具体的には、公債償還のための臨時増税と償還費を捻出するため支出を1割削減する。
ちなみに支出1割削減は軍事費も例外ではなく、海軍においてはロンドン海軍軍縮条約が結ばれた。
ニューヨークの株式市場が大暴落を起こすと、同じタイプのバブル状態だった東京株式市場も連鎖反応を起こして大暴落を起こしていた。
株価が大暴落を起こすと何がおきるのかは前述のとおりである。
ここに市中に出回るお金を減らす緊縮財政政策を追加すると、デフレスパイラルを加速させることになる。
失業者だらけで、商品が売れないのに、さらに商品を買うためのお金が自動的に減っていくのだから、ますます商品が売れなくなる。
少なくなったお金で商品を買うために、さらなる値下げ圧力がかかるし、値下げのために人件費をカットするしかない。
結果、労働者の所得が下がり、ますます商品が売れなくなる。
最後には耐えられなくなり会社が潰れるか、違法労働がまかり通るようになる。
1年でそこまで至ったわけではないが、1930年から日本経済は深刻な景気後退、恐慌と呼ばれる重篤な状態に陥った。
この時、高橋は田中内閣総辞職以来、全ての公職を辞して孫の所に帰っていた。
高橋は70歳を超えており、公的生活から引退していても不思議ではない年齢となっていた。
食客の木村政彦と行っていた日課のスパーリングで、技のキレがなくなったと肉体の衰えを嘆いている。
しかし、その才覚と実績は衆目一致するところだったため、枢密院顧問官として宮中に残り、昭和帝の私的な経済アドバイザーを勤めることになった。
高橋は昭和帝が学んだ帝王学に経済学が含まれていなかったことに驚き、昭和帝や皇太子に経済学を進講した。
昭和帝や皇太子であっても、経済と貨幣に対する理解が進まない場合は、容赦なく飲酒させた。
また、高橋はその才覚を見込まれ皇室財産の金庫番を任された。
日本の皇室は、華美を避け質実を重んじる生活のため、金満の印象を受けることは少ないが、実際には世界有数の富豪である。
オイルマネーが入るサウード家を除けば、英国王室も遥かに凌ぐ資産を有している。
これは余談だが、高橋が金庫番を務めている間に、総資産額が2桁増えたと言われている。
さらに余談だが、1929年のニューヨーク株式市場の大暴落において、海外の投機筋が空前の規模で空売りを仕掛けたため暴落が加速したとされる。
金庫番の手数料に幾らもらったのかは不明だが、高橋男爵家は21世紀現在でも堂々たる華族家として華族台帳に家名を連ねている。
それはさておき、1930年の暮れには緊縮財政で金解禁を目指した浜口内閣の失政は、誰にも目にも明らかになっていた。
三唱した金解禁も果たせなかった。
あまりにも多額の公債(不換紙幣)が発行されていたので、その償却が1年がそこらで終わるはずもなかった。
前蔵相の高橋が、簡単に金解禁できないように多額の公債を発行して後戻りできないように工作していたと陰謀論が囁かれたりもした。
そして、1930年11月14日、遂に無能な政治に対する不満が爆発した。
浜口雄幸暗殺未遂事件である。
東京駅で狙撃された浜口は重傷を負ったが一命はとりとめた。
犯人は取り調べに対して、「浜口が経済音痴だからだ」と犯行の動機を説明したが、刑事に「経済とは何か?」と問われても何も答えられなかった。
首相や閣僚には大蔵省の要人警護隊が護衛につくものだったが、浜口は経費削減を図って要人警護隊を解散していた。
これを自業自得というべきか、それとも己の信念に殉じたとするかは判断が分かれるところである。
この凶行に世論は当然と同調した。
これは極めて危険な兆候だった。
選挙で選ばれた首相を暴力で排除することが肯定されるのは不穏という他ない。
また、予算を削減された軍部も世論に同調する動きを見せていた。
軍部と世論の動きに危ういものを感じ取った元老の原敬は、立憲政友会と立憲民政党の主だった幹部を大洗の私邸に招集し、秘密会議をひらいた。
所謂、大洗会議である。
表向きはあんこう鍋を囲む会だったが、幹部達が囲んで議論したのは国の未来であり、あんこう鍋ではない。
会議の結果、状況は憲政の危機であり、政争の一時停止と挙国一致内閣の設置が決まった。
浜口は重傷で、職務遂行は不可能な状態だったが、辞職を否定しており、挙国一致内閣にも反対していた。
浜口の強硬姿勢には、蔵相として戻ってくることが確実な思想敵の高橋に対する対抗心があったとされる。
最終的に挙国一致内閣によって危急の事態を打開したのちに、浜口に政権を戻すという取り決めがなされたが、浜口は療養の甲斐もなく1931年8月26日に死去した。
新たに発足した若槻礼次郎内閣は、立憲民政党と立憲政友会の大同団結による挙国一致内閣で内閣の顔ぶれも錚々たる面子となった。
経済問題に対応する大蔵大臣には、高橋是清が就任した。
これは殆ど規定路線だったが、蔵相就任が発表されただけで東京株式市場が反応し株価が3%上昇した。
新聞紙面も、新しい首相の若槻よりも蔵相に高橋が戻ってくることを大きく発表した。
自称最強のデフレハンターが就任と同時に発表したのが0金利政策である。
これは当時の金融政策の常識を覆すもので、何か仕掛けてくるだろうと考えていた市場関係者さえすぐに内容を理解できず、よい意味で衝撃を与えた。
0金利政策とは、政府が政策金利(公定歩合)を0%か、それに近い数値に設定することである。
結果、日銀から金利0で各銀行は借入を行うことができるようになり、限りなく低い金利で企業への貸付を行うことができるようになる。
銀行から融資を受けた企業は返済と同時に利払いを行わなければならないが、金利が限りなく低く抑えられた状態のため、利払いの負担が減り、その分だけ資金を設備投資や雇用にまわせる余裕ができる。
また、これは銀行救済事業という側面もあった。
多くの銀行が急速な景気後退で債権が焦げ付き、倒産の危機にあった。
不良債権処理には多額の資金が必要であり、こうした銀行を日銀からの特別融資(0利子)で救済するものだった。
所謂、公的資金投入である。
もちろん、これは乱脈融資や不動産転売、株式購入で儲けた銀行を公金で救済するというモラルハザードになりかねない政策であり、本来なら禁じ手というべきものだった。
しかし、金融不安の沈静化が優先された。
資本の論理に正論は存在しないからである。
公的資金を使った銀行救済は、マスコミと世論から激しい批判を浴びることになったが、議会は無風だった。
そのための政争の一時停止、挙国一致内閣だった。
最終的に80億円もの巨費(国家予算の1.5倍)が投入された銀行救済は、政府攻撃のネタにするなら、これよりも優れたネタはなかったが、政友会も民政党からも造反者がでなかった。
元老原敬のハンドリングは完璧だった。
明治の末に伊藤博文と山県有朋が揃って、原を元老に押し上げた(押し付けた)のも頷けるというものである。
ただし、原にとって超法規的存在である元老になることは不本意であり、その力を使ったのは首都壊滅の関東大震災と世界大恐慌、第二次世界大戦の3回だけである。
公的資金投入と同時に、各銀行が保有していた国債や地方債を日銀が買い取る金融の量的緩和も実施され、大量の資金が市場に供給された。
耳目を集めた0金利政策よりも量的緩和の方が実は重要だったと指摘もある。
金融緩和と同時に実施されたのが、政府支出の拡大だった。
時局救済事業特別会計を設置し、10年間で公債50億円を発行して全額を日銀に引き受けさせて、それを元手に1931年から1941年まで毎年5億円の公共事業を実施することとした。
10年計画としたのは、長期にわたって事業が継続することを企業に理解させ、安心して雇用や設備投資を含む事業計画を立てる余裕を持たせるためだった。
時局救済事業で建設されたのが、東京と大阪を結ぶ東海道新幹線と東名・名阪高速道路である。
新幹線とは、在来線に比べて輸送力が大きい標準軌を採用した大型・高速鉄道のことで、最初の構想は日露戦争直後の1907年である。
最初の構想は、東海道本線と山陽本線を狭軌から標準軌に改軌し、鉄道連絡船で釜山に渡り、京義線を北上して南満州鉄道で奉天までを結ぶルートの確立だった。
しかし、これは莫大な予算が必要なことと在来線の改軌だけでは輸送力の増強が限定的なものに留まることが明らかだったため中止となった。
より具体的な構想が生じたのは1920年代の高度経済成長で、在来線の輸送力が逼迫したあとのことである。
既存の東海道本線・山陽本線の他に全く新しい高規格線路を作って大出力蒸気機関車を走らせる弾丸列車構想が生まれ、軍事色が強すぎるとして高橋が新幹線に改めさせた。
東海道新幹線が完成したのは、1939年のことである。
東名高速道路はそれから1年後の1940年に完成した。名阪高速道路も計画最終年度の1941年に間に合った。
高速道路は道路政策で先行するドイツのアウトバーンを参考したもので、日本でも増加傾向にある自動車の高速走行専用道路を作るものだった。
高速道路は時期尚早という意見もあったが、高橋が軍部に緊急時に軍用機の滑走路としても使用できることを説明し、軍部の全面的な協賛を得て完成にこぎつけた。
21世紀現在でも、交通量の少ない時期に日本各地の高速道路で軍用機の展開訓練が行われていて、訓練のため通行止めになることがある。
こうした大規模なインフラ工事には、大量の鉄鋼やセメントが必要だった。
それを自前で用意できたのは、1920年代に公共事業として戦艦建造で培われた重工業があればこそと言える。
そして、同時に膨大な鉄鋼生産のはけ口をどうにかして見つけなければ、日本の製鉄業は破滅するしかなかった。
1920年代の日本はバブル景気に湧いており民需の予想は常に右肩上がりだった。しかも1930年以降、第二次八八艦隊計画が始まるはずだった。
八八艦隊計画は、当初から艦齢8年以下の戦艦と巡洋戦艦を16隻で構成するもので、8年を過ぎた戦艦は2軍に格下げする予定だった。
つまり、長門型や加賀型は1930年代には2軍落ち、1931年以降に新造戦艦で置き換えることは既定路線なのである。
日本海軍は長門型を置き換える新造戦艦(64,000t級の超超ド級戦艦)の詳細設計を終えており、資材の確保もほぼ終えていた。
発注を受けた川崎重工は、新造戦艦建造のため造船所を拡張するともに高炉を含む最新設備を備えた千葉製鉄所を開設した。
千葉製鉄所がフル稼働した場合、日本の粗鋼生産量は1,000万tの大台に乗るはずだった。
ただし、鉄鋼需要はバブル崩壊で吹き飛び、第二次八八艦隊計画もロンドン海軍軍縮条約によって流産となり、膨大な鉄鋼生産能力だけだが残った。
東海道新幹線や高速道路建設が国策として強引に推進されたのは、兎にも角にも鉄鋼を消費しなければ、やっと育った日本の鉄鋼業が膨大な設備投資の赤字で破綻するからだった。
高橋は、軍需主導の重工業化政策はいずれ限界に突き当り、最終的な民需転換は不可避と考えていた。
軍縮条約が図らずも時計の針を進めたと言えるだろう。
今風の言葉を使えば、需給ギャップの解消と言える。
しかし、東海道新幹線を作っても、東名高速道路を作っても、まだ鉄が余る見込みだった。
そのために計画されたのが海軍補充計画だった。
鉄鋼消費のため戦艦建造は、浜口内閣によってロンドン海軍軍縮条約が結ばれたため不可能となった。
ロンドン海軍軍縮条約の骨子は、各国の戦艦保有量を現状で固定し、基準排水量1万t以上の主力艦(戦艦と空母)の建造を10年禁止するものだった。
逆にいえば、1万t以下の艦船には制限がない。
無制限になった理由は、主力艦だけでも揉めに揉めたのに、それ以外の補助艦まで制限すると会議が再び空中分解しかないためだった。
ロンドン会議を主導したイギリスのラムゼイ・マクドナルド首相は、日英同盟の更新と引き換えに会議の絶対成立を求めて浜口首相の賛同を得て、主力艦の制限だけに議論を限定することでなんとか条約を成立させた。
その目的は軍縮による歳出削減だった。
しかし、これは不景気の真ん中で一番行ってはならない政策だった。
民需が弱っているときに、官需を減らしたら、供給(企業)は破滅するしかない。
結果、各国の造船業界や鉄鋼業界は悲鳴をあげることになった。
高橋が、時局救済事業の他に海軍拡張へ予算をつけたのは、造船・鉄鋼といった日本の重工業主力を救済するという意味合いが強かった。
また、再び発狂の兆候が見え始めていた日本海軍を鎮めるという意味もあったとされる。
八八艦隊を推進した加藤友三郎は首相になっても建艦に邁進したが1923年に病没した。
八八艦隊のために修羅となった加藤首相が亡くなったことを契機に、海軍全体が落ち着きを取り戻したかのように見えていた。
しかし、実際はある種の依存症になっていただけだった。
当初こそ、完成済の八八艦隊の威容を眺めて気を静めていた海軍だったが、64,000tの次期主力戦艦の建造が中止となり、手すきになると徐々に狂いだした。
特に海軍艦政本部は八八艦隊のため過密なスケジュールで職務を遂行しており、多数の殉職者を出すなど最も多くの犠牲を払ったため、最初に狂った。
造船官の藤本喜久雄少将は、
「あるのがいけない!あるのがいけない!」
と執務室に飾られた戦艦の模型を素手で叩き壊して病院に搬送された。
本人によると戦艦の模型を見ていると 建艦衝動の発作に襲われるとのことだった。
また、別の造船官は艦艇の命名規則を最大限拡大解釈することで駆逐艦に旧国名(戦艦用)を付与し、名目上の戦艦建造を目論んだ。
所謂、武蔵清霜事件である。
これは未遂に終わったが、まるで水道水と麦茶を皿に盛り付けてカレーライスと強弁するような異常思想と言わざるを得ない。
鉄余りと戦艦依存症の処方箋として、1931年の補正予算で4隻同時建造が認められたのが、摩耶型重巡洋艦となる。
摩耶型は基準排水量1万t以下、搭載砲8インチ(20.3cm)砲までというロンドン海軍軍縮条約の枠内で建造された最初の重巡洋艦で、設計手法は巡洋艦ではなく戦艦のそれを使用していることが特徴である。
そのため、遠目には富士型巡洋戦艦のように見えるが、これはある種の迷彩効果を狙ったいう説と海軍艦政本部に対する鎮静剤という2つの説がある。
装備は、8インチ(20.3cm)連装4基8門で、富士型巡洋戦艦と同じ配置を採用するなど、戦艦に準じるという工夫が随所に凝らされた。
戦艦に準じるものということで、魚雷も装備されていない。
そのため、排水量の割には火力が低いが、これは高い居住性や航洋性が求められた代償でもあった。
同時期、深刻な予算不足と艦艇の旧式化で海外航路の警備がままならないイギリス海軍は同盟国に業務の下請けを依頼するようになっていたためである。
交換条件としてイギリスのスターリング・ブロックへの参加が認められた。
摩耶型重巡洋艦は12隻という大量建造となったが、平時の航路警備には数が不足するため、より安価な軽巡洋艦も平行生産され、1932年予算では阿賀野型軽巡洋艦の5隻(阿賀野、能代、矢作、酒匂、最上)同時建造となった。
阿賀野型軽巡洋艦は、八八艦隊計画で建造中止となった川内型軽巡(5隻)の補充で、6,600tに排水量を拡大した完全新設計の船となった。
阿賀野型は6インチ(15.2)cm砲連装3基6門艦で、日本の軽巡洋艦は漸く火力がイギリス海軍の軽巡洋艦と同等となった。
阿賀野型は1933年予算では、さらに5隻(三隈、鈴谷、熊野、大淀、仁淀)の追加建造という大量調達(最終的に16隻)となった。これは旧式化した天竜型や球磨型軽巡を練習巡洋艦に転用するため代替だった。
1933年予算では、空母2隻(蒼龍、飛龍)が建造され、八八艦隊計画で予定された空母4隻体制(龍鳳、龍翔、蒼龍、飛龍)が完成した。
条約型空母として計画された蒼龍、飛龍はロンドン海軍軍縮条約に沿って基準排水量は10,000tとされた。
前級の龍鳳型よりも排水量が縮小されたが艦型は同等とされた。
重量軽減のため削減されたのは装甲で、弾薬庫とガソリン庫以外は無防御となった。それでも重要軽減が足りないので、格納庫は開放式となった。
これは被弾時の爆風を外へ逃す防御上の工夫というよりも重量軽減が主目的だった。
全く同じ発想の条約型空母として完成したアメリカ海軍のヨークタウン、エンタープライズ、ホーネットも設計はほぼ同じだった。
いずれも1万t級の無防御空母として完成し、艦載機は30機程度だった。
その任務は艦隊防空と偵察で、積極的な戦闘は考慮されていない。
やろうとしてもできない、という方が正しい。
このほかに1920年代に計画され、戦艦優先のために建造が先送りになった2等駆逐艦(椛型駆逐艦1,100t)15隻や中型潜水艦16隻が民間造船所に発注された。
艦隊型給油艦や給糧艦、工作艦、敷設艦、給兵艦、潜水艦母艦など、旧八八艦隊計画で先送りになった補助艦も民業救済として発注された。
31年から35年にかけて行われた海軍補充計画では約15億円の公債が発行され、1936年に八八艦隊計画は全ての当初計画艦を満たして完成することになった。
さらに所得税と酒税の恒久減税の実施で、国民生活への直接支援とした。
金融緩和、長期的かつ大規模な財政出動、減税の三本の矢で日本経済を3年で復活させると宣言した高橋の経済政策を外国の新聞はタカハシノミスクと報道した。
その結果は、歴史的に広く知られているところである。
1934年には日本経済は元の高成長路線に復帰し、世界最速で世界大恐慌からの脱出を成功させた挙国一致の若槻礼次郎内閣は役目を終えて総辞職となった。
若槻礼次郎内閣は、日本の憲政におけるターニングポイントと記録されている。
すなわち、議会はいざという時には団結し、日清・日露戦争のような国難を乗り越える力があることを示した。
政治への不信感は若槻礼次郎内閣以降かなり払拭され、軍部も議会の議決を尊重すべきものとみなすようになった。
議会の力で、暴力に頼らなくても、絶望的な社会状況を変えることができることを証明してみせたのである。
日本の民主主義は、その有用性を証明し、信用を勝ち取った。
それができなかった国は、暴力の渦へと堕ちていった。
最初にイタリア、次にドイツだった。