金ピカ時代
金ピカ時代
繁栄に湧いた1920年代の世相を人々は金ピカ時代と言い表した。
金ピカ時代を象徴するエピソードなら、料亭の暗い玄関で灯りの代わりに100円札を燃やした成金を思い浮かべる人が多いだろう。
これは実話で、船成金の山本唯三郎が1918年に函館の料亭で本当に札束を燃やしている。
この時、山本が燃やしたのが100円札だった。
10年後の1929年にも山本は料亭で札束を燃やして灯りの代わりにしたが、その時は1,000円札を燃やしている。
金ピカ時代とは、金が余って、余って仕方がないバブル景気の時代だった言える。
あらゆるところで金が余りが生じたので、様々な娯楽が生まれた。
ラジオや週刊雑誌、映画、野球観戦や遊園地・動物園といった今日的な大衆娯楽が一般化したのも1920年代である。
大衆娯楽の担い手になったのが、俄かに豊かになった都市生活者だった。
大都市を中心にオフィス街が形成され、郊外の自宅から公共交通機関で職場に通う今日的なサラリーマンが現れたのがこの時代となる。
それ以前の労働者の住居は基本的に家内工業的な自宅兼職場ということが殆どで通勤という概念がなかった。
カフェ、ミルクホールやキャバレーが並ぶ歓楽街が生まれたのも、郊外から通勤するサラリーマンや労働者の存在抜きには考えられない。
そして、彼らを主役とした民主化運動が活発となり、政党政治、大正デモクラシーが日本の政治地図を塗り替えていった。
こうした繁栄の時代を支えたのが、バブル景気だった。
1922年時点で、1913年と比べても日本のGDPは2.5倍に拡大していた。国家予算も13億円から22億円とほぼ倍増し、その後も年率10%で増え続けた。
経済拡大の大きな要因は3つあり、一つは第一次世界大戦における膨大な軍事支出だった。
総額66億円という巨額の通貨発行が行われ、市中に大量の通貨が出回ったことで購買力(内需)が拡大した。
戦時中に行われた戦費調達の増税も戦争終了と同時に解除され、大量の復員兵が戦時中にため込んだ貯金を一気に吐き出したので、あらゆる商材やサービスが飛ぶように売れた。
戦争で失われた青春を取り戻すように支出が拡大し、旺盛な需要に対応するため戦時中に強化された供給力がフル稼働し、さらに多くの富を生み出すという経済の好循環となった。
2つ目の要因は関東大震災だった。
1923年9月1日に関東地方を襲った大地震によって首都東京は壊滅状態となった。
死者・行方不明者10万人余という大惨事で、世界各国からは膨大な量の寄付金や救援物資が届けられた。
その惨状から、日本は今後、低迷の時代に入ると予想された。
首都が焼け野原になって平気な国など存在しないはずだった。
しかし、各種経済指標を見る限り、1924年の上半期まで景気は後退したが、その後は元の高成長路線に復帰している。
膨大な帝都復興のための財政出動が景気をさらに押し上げたのである。
後藤新平がまとめた帝都復興計画は、総額30億円という巨額のものだった。
国家予算の1.5倍の金を突っ込んで、焼野原になった東京を一気に作り直す大計画だった。
もはや復興というよりは新生と表現する方がふさわしく、被災地を強制的に買い上げて区画整理を実施し、防火帯として将来の車社会に備えた100m道路建設や、都市公園の整備、上下水道や共同溝の切削、バス路線、鉄道交通網の再編成など、先進計画都市として東京を作りなおすものだった。
21世紀現在の東京の形は、100年前に行われた帝都復興計画が下書きとなっている。
皇居を中心にエトワール状に伸びる12本の100m道路も、帝都復興計画で定められたものである。
これはパリなど欧州の計画都市を参考にしたもので、将来のモータリゼーションを見越したものだった。
来日して建設中の100m道路を視察したヘンリー・フォードは、日本のモータリゼーションを確信し、1925年に横浜にフォード・ジャパンを設置して本格的な自動車生産を開始した。
フォード・ジャパンの自動車製造は、エンジン生産などコア技術移転を含む本格的なもので、大阪に進出したGMとあわせて日本の自動車生産をほぼ2社で独占する状況となった。
日本独自の自動車生産が始まるのは、1940年代以降である。
話が逸れたが、このような巨額の支出が可能だったのは、大戦中に整備された歳出拡大のスキームがそのまま維持されていたためである。
すなわち、震災復興特別会計の設置と復興公債の発行、そして日銀の復興公債引き受けという第一次世界大戦の戦費捻出と全く同じ手法が使われた。
野党は公債発行に反対し、放漫財政として政府与党を攻撃した。
しかし、蔵相の高橋是清は、
「政府が100円で買い物をしたとしよう。政府は100円の赤字、売った業者は100円の黒字になる。つまり政府の赤字は、国民の黒字だ。業者はその100円で従業員に給料を払ったり、材料の仕入れ先に代金を払う。従業員は貰った給料で飲み食いして金を払う。飲食店はその金で従業員に給料を払ったり、市場で食材を買う。食材が売れれば農家に金が入るし、市場に食材を運ぶ馬借にも金が入る。そうやって経済が回る。震災で止まった経済を回すには、政府がどんどん金を使うしかない」
と答弁して徹底抗戦、1円の減額も認めなかった。
日露戦争や第一次世界大戦の戦費調達で、比類なき財政家とみなされるようになっていた高橋は野党の攻撃にも全く動じなかった。
達磨の錬金術師と呼ばれるようになったのも同時期である。
錬金術師ではなく、返済不可能なほど国の借金を積み上げて国家財政を破綻させようとしている大悪人とみなされる場合もある。
実際、しばしば高橋の元には、国の借金を減らさなければ財政が破綻して国が滅びるという筋書の嘆願書とも脅迫状ともとれる手紙が届いていた。
経済・財政の知識がない者からすると高橋のやっていることは、ひたすら借金を積み上げて豪遊する放蕩人か、さもなくば無から金を作ったと主張する錬金術師だった。
そうした指摘に対して高橋は、
「金はな、無から作られるものだ。ただの紙切れに1円って印刷しただけで1円の価値があるわけないだろ?だが、どいつもこいつも1円札には、1円の価値があると信じてる。価値というものは基本的に虚構なんだ。価値って物体がそこらへんに転がっているのか?」
と飲酒しながら答えている。
確かに素面ではたどり着けない境地である。
まとも神経の持ち主なら、ただの紙切れの1円札に、1円分の金(gold)と交換可能性を持たせることで、正しく価値を持たせようと考えるので金本位制度となる。
欧米諸国は膨大な戦費支出のため紙幣を増刷するため大戦中は金兌換を停止していたが、これは一時的な措置で、順次、金本位制へ復帰していった。
価値が虚構なら、実態のある金(gold)の引き換え券にしてしまえば、通貨の価値は金が担保してくれるので安心である。
しかし、高橋はこれを完全否定していた。
なぜならば、ドイツから賠償金が入る英仏と異なり、日本への賠償金支払いは殆ど踏み倒されたも同然だったからである。
暴力(ルール占領)でドイツを脅迫して賠償金の取り立てができる英仏と異なり、日本は賠償金を踏み倒されても、地球の反対側に軍隊を送ることなど不可能だったので泣き寝入りするしかなかった。
この状態で金本位制に復帰しようとすると大幅な平価切下げ(金との交換レートを下げる)か、今流通している通貨の量を金準備に釣り合う量まで減らすしかない。
つまり大増税で、市中から不換紙幣を回収し、さらに政府支出を削って資金を捻出し、公債を償還する緊縮財政政策を実施するしかない。
震災で首都が壊滅した国でそんなことをすれば亡国だと高橋は主張した。
ちなみに野党の立憲民政党は、与党政友会への対抗から金本位制復活を掲げており、総裁の浜口雄幸はその急先鋒だった。
高橋は浜口を全く評価せず、
「家計簿脳の国家経済破壊主義者」
とこき下ろした。
浜口は浜口で高橋を
「借金が永遠にできると思っている白痴の錬金術師」
と罵っていたのでお互い様かもしれない。
最終的に帝都復興計画は原敬が調整して、八八艦隊計画などの軍事支出を一部縮小することで与野党が折り合った。
未曾有の大惨事ということで、軍部も反対しにくかった。
これによって八八艦隊計画は1年間の延期を余儀なくされた。
インフレの進行で原材料費や工賃が値上がりして、八八艦隊計画はさらに遅延していくことになるのだが、天災には勝てなかったと言える。
しかし、海軍拡張は公債をはみながら着実に進んだ。
1920年代の好景気を支えた3つ目の要因は、八八艦隊計画と言える。
八八艦隊計画の始まりは、1907年の帝国国防方針における「国防所要兵力」の初年度決定において、戦艦8隻・装甲巡洋艦8隻の整備として始まった。
8隻という数字は1人の艦隊司令が統率できる限界の戦力が8隻という経験則に基づく数字である。
八八艦隊計画は艦齢8年以内の戦艦8隻、巡洋戦艦8隻を基幹とし、それを補佐する膨大な軽艦艇、補助艦艇を建造するものだった。
1910年代の日本海軍は、日露戦争時代の旧式艦多数といった状況だった。
外国からの購入艦も多く、部品の調達、整備にも支障を来たしていた。
八八艦隊計画は、それらを国産艦艇に置き換えてリニューアルするという一大事業だった。
こうした計画が可能となったのは明治開国以来の技術導入で、艦本式タービンなどの艦艇機関の国産化に目処が立ったことが大きかった。
船を動かすエンジンがつくれなければ、どのような大艦巨砲も見栄えのいい置物にしかならない。
ただし、全ての艦艇を一度に生産するのは不可能なため、1916、17年の八四艦隊案、1918年度の八六艦隊案を経て、1919年度の八八艦隊案により段階的に整備する予定だった。
1916年のユトランド沖海戦で金剛型巡洋戦艦4隻が1日で全滅するという悲運にまみれた日本海軍は八八艦隊計画に邁進した。
邁進するという表現はやや穏当で、実際には狂奔したという方が適切かもしれない。
金剛姉妹が1日で全艦喪失したことは、国防の危機であると同時に、多くの海軍軍人にとって耐えがたい悲痛、愛別離苦だったと言える。
八八艦隊計画を推進した海軍大臣の加藤友三郎はこんな苦しいのなら愛など要らぬと言いだし、哀しみ背負って修羅と化した。
それならまだマシな方で、八八艦隊の戦艦を設計した造船官の平賀譲は激務から徐々に精神の平衡を失っていき、帝国議会で1秒間に10回建艦発言するなど目に余る過激なパフォーマンスの末に職務の遂行が不可能となり退官を余儀なくされた。
精神病院に収容されても平賀は、
「KENKANせよ!KENKANせよ!」
と騒ぎ立てたため、大量の鎮静剤を投与され生ける屍になり果てた。
平賀の退官の後、日本海軍の艦艇設計を担った藤本喜久雄は、平賀のことを回想し、あの時代の海軍では誰にでも起こりえた悲劇と振り返っている。
当時の艦政本部はユトランド沖海戦で露呈したイギリス式艦艇設計の欠陥是正のため殺人的なスケジュールで八八艦隊の各戦艦の改設計を行っており、過労死も珍しくなかった。
帝国の財政破綻を憂う人々は、20世紀初頭でありながら世紀末の奇観を体する帝国海軍を鎮められるのは、人間凶器としか思えない蔵相の高橋是清を以てするしかないと覚悟した。
海相の加藤も、蔵相が八八艦隊予算案における最大の強敵と考えていた。
そのため、この二人が予算案の折衝を行った日は、帝都に雹が降った。
予算案を一瞥した蔵相は、
「問題ない。やれ」
と全額をそのまま予算計上することとした。
まるで車道が混んでいるなら通行人を轢殺しながら歩道を走ればいいじゃないかと言いだしそうな口ぶりだったとされる。
策謀の匂いを感じ取った加藤に真意を詰問された高橋は、
「日本は貿易赤字国だ・・・なぜだ?」
と逆質問した。
そのうえで、
「日本の工業製品が外国製に簡単に負ける雑魚だからだ。じゃあ、どうしたら日本の重工業を最強にできるか考えてみた。産業を育てるのは長期に渡る安定した需要だから、長期に渡る安定した需要をつくればいい・・・そこで俺はアルコールでやられた脳で閃いた。日本の重工業が最強になるまで、俺は戦艦を毎年4隻ずつ作りつづける」
つまり、産業政策としての戦艦建造が必要だと加藤海相に逆提案した。
高橋は軍艦愛好家でもなければ軍国主義者でもなく、造船業者からリベートを受け取っているわけでもなく、経済発展のために戦艦建造が必要だと本気で考えていた。
当時の日本にとって重工業とはほぼ軍需だったからである。
大正時代の日本経済の中心にあったのは軽工業(繊維産業)で、明治以来の生糸生産とイギリスから輸入した綿花を加工する紡績業だけが輸出産業だった。
重工業は、辛うじて造船が人件費の安さで成功したぐらいだった。
それも第一次世界大戦の特需が終わると苦境に陥った。
船は機械部品の集合体で素材の鉄鋼生産も含めて重工業そのものであり、高橋は造船を重工業化の突破口と見なしていた。
産業を育てるのは継続的な需要であり、それが民需か、軍需であるかは問題ではない。
戦艦の建造費は毎年2~4億円もあり、その経済波及効果は絶大なものだった。
億単位の金を造船業に注ぎ込んで重工業を育成するために、八八艦隊計画は極めて都合がいい存在だったと言える。
また、近年では単なる産業政策ではなく、高橋が後に著述した高圧経済理論の最初の実践だったという分析もある。
高圧経済理論とは、物価が上昇し続ける状態を政府の財政・金融政策で維持することで経済の成長、好景気に誘導する政策である。
高橋は長期的に望ましいインフレ率を3%前後だと考えていた。
そのためには、常に通貨流通量の増大が必要で、毎年、国家財政の1割程度(2~4億円)の通貨発行(公債)を毎年拡大していくことが必要だった。
今日ではインフレターゲット政策と呼ばれるものを軍拡によって成し遂げようとした高橋の見識は、時代を先取りしすぎていて、意味不明だったと言える。
加藤海相を含めて日本海軍の誰一人とて高橋の政策論など全く理解の外だったが、八八艦隊計画を全面的に賛成してくれる大蔵大臣を現人神(荒魂)の一種と見なした。
海軍艦艇の艦内神社に、祭神と関係なく縁起物として達磨が置かれるようになったのは1920年代以降とされる。
「神様・仏様・達磨様!」
といったところだろう。
さらに余談だが、1960年代に建造された高瀬型巡洋艦の2番艦は高橋である。
日本海軍の命名規則では軽巡洋艦には河川名を充てることとしており、海軍の説明によると和歌山県の高橋川から採ったことになっている。
しかし、和歌山県の代表的な河川は和歌川や日高川であり、知名度が低いマイナーな河川名をわざわざ採用するのは不自然である。
また進水日が高橋是清の誕生日と同じ日になっていることから、海軍の真意はもはや明らかだろう。
それはさておき、人間凶器と修羅の同盟を目の当たりにした人々は、1921年に開催されたワシントン会議に最後の望みを託した。
ワシントン会議は、第一次世界大戦後のアジア・太平洋の戦後秩序を討議する同時に、戦勝国が進めていた海軍拡張を制限するものであった。
具体的には日本海軍の八八艦隊計画とアメリカ海軍のダニエルズ・プランである。
大戦で疲弊した英仏伊は、日米の建艦競争に付き合う余力がなく、ダニエルズ・プランを推進するアメリカも軍事支出削減のため、軍縮会議を呼びかけた。
各国の蔵相は、軍縮条約によって歳出削減が進むと胸をなでおろしたとされる。
日本でも、帝国財政の将来を憂う人々に軍縮条約は歓迎された。
しかし、日本の蔵相だけは例外だった。
高橋は八八艦隊絶対不可欠として徹底抗戦し、政府内外で公共事業として戦艦建造の必要性を説いて回った。
海軍大臣よりも海軍拡張に熱心な大蔵大臣など前代未聞だった。
また、軍縮会議は対米7割を主張する日本とそれを擁護する英仏、現状での固定主張するアメリカの対立によって失敗に終わった。
日本が主張した対米7割を達成するには、建造中の戦艦加賀、土佐に加えて、巡洋戦艦赤城、天城を完成させる必要があった。
金剛型巡洋戦艦が全艦喪失した日本海軍が保有する戦艦は、扶桑、山城、伊勢、日向、長門の5隻であり、さらに陸奥が工事中だった。
アメリカが主張する現状が固定された場合、陸奥は未完成艦として放棄することになり、現有兵力では対米5割以下となってしまう。
イギリスは妥協案として対米6割まで新造艦の建造を認める提案をしたが、アメリカの同意が得られなかった。
日本海軍が建造中の戦艦がいずれも41cm砲搭載艦で、新造艦を認めてしまうと35.6cm砲搭載艦主体のアメリカ海軍が砲火力で不利になってしまうからである。
また、アメリカが日英同盟に代わる多国間安全保障協定として提案した四か国条約も不成立に終わり、日英同盟は10年間延長となった。
会議でまとまったのは中国の現状維持を確認する9か国条約だけで、軍縮会議を呼びかけたアメリカ大統領ウォレン・ハーディングは面目を失った。
ハーディングは、会議は議長国のアメリカが主導し、米英仏が連合を組んで日本が孤立するという構図を思い描いていた。
しかし、実際の会議は英仏が日本の主張を擁護し、アメリカが孤立するという形で動いた。
これは予想外の展開だった。
大戦の勝利を主導したアメリカが、会議を主導することができなかったのである。
しかし、英仏にしてみれば、それはハーディングの勝手な思い込みというしかなかった。
1915年という最も苦しい時期に10万の兵士を地球の反対側から送ってきた日本に、英仏は大きな借りがあった。
装備の類を全額無償提供するという条件であったとしても、である。
それはオーストラリアやインド、南アフリカといった国々も同じで、宗主国から装備の提供がなければ戦えなかった。
もちろん、アメリカの巨大な生産力と借款がなければ、英仏が戦えなかったのは事実であるが、アメリカが参戦したのは1917年4月6日である。
アメリカが派遣した200万の兵力は、最後の戦いにおいて大きな役割を果たしたが、それ以前から戦い続けてきた日本の功績が帳消しになるわけではない。
アメリカが参戦をわざと遅らせ、英仏独を疲弊させて肥え太り、勝利の果実を横から盗んだと考える政府高官も多かった。
戦後、アメリカが国際連盟に加入せず、孤立主義に傾いているのも懸念事項だった。
また欧州で大戦争が起きたとき、アメリカが動かず、すぐに駆け付けてくれるのが日本しかいないというのは十分に考えられることだった。
こうした懸念は20年後に現実のものとなる。
また、アメリカ海軍はユトランド沖海戦にも参加していない。
海軍国のイギリスにとって、金剛型巡洋戦艦4隻を全滅させてしまったことは返しきれない大きな借りだった。
何しろ、ユトランド沖海戦で沈んだグランドフリートの超ド級戦艦は全て日本の船なのである。
イギリス海軍史上最大の海戦で、最大の犠牲を払った同盟国を戦争が終わった後でポイ捨てしたとなれば、大英帝国の威信は地に堕ちる。
大戦で疲弊したイギリスは、大英帝国から英連邦への転換を図っており、いざというときイギリスが連邦構成国を使い捨てするような国だと思われては困るのだった。
なんとか弁償しなければならないとして、抑留中したドイツ海軍の巡洋戦艦5隻を日本へ譲渡する予定だった。
しかし、ドイツ艦隊がスカパ・フローで自沈したため、ご破算となった。
ドイツ艦隊自沈の知らせに接した加藤海相は、
「よかろう、汚物は消毒せねばならんな」
と嘯き、世紀末的集団(日本海軍)を解き放った。
日本海軍は譲渡契約そのものは有効であるため、自沈した巡洋戦艦5隻分の代わりに鋼材や生産設備などをドイツ海軍の所有する軍港から差押えした。
修羅と化した日本海軍の差押は徹底したもので、ドイツ海軍が誇るキール軍港は再起不能なまでに破壊された。
差押した設備一式を移築して建設されたのが、九州大分の隆山鎮守府となる。
隆山鎮守府は、最新鋭のドイツ製工作機械を擁し、戦艦用のクルップ装甲を製造するなど八八艦隊計画において大きな役割を果たすことになった。
軍縮会議が失敗に終わったため、八八艦隊計画は続行が決まった。
建造費については全額公債でまかない、公債全額を日銀が引き受けた。
ちなみに戦艦長門の建造費は、4,390万円である。
発展拡大型の天城型や加賀型はさらに高価となり、毎年2隻ずつ戦艦と巡洋戦艦を建造するとおよそ2億5,000万円が必要になる。もちろん、作る船は戦艦だけではないし、作ったあとのメンテナンスや増える兵員の宿舎や給与といった維持費も必要になってくる。
さらにインフレの進行で、1927年度予算の場合は建造費は4億円まで上昇した。
「これでは財政が保たない」
とマスコミや野党から総攻撃を受けることになったが、多額の通貨発行によるインフレーションで1930年には政府の一般会計は50億円の大台に乗っていた。
金ピカ時代を支えた八八艦隊の陣容は以下のとおりである。
長門型戦艦 *全長や装備は改装後のもの
基準排水量(新造32,759t→改装後39,130t)
全長:224m 全幅:34.6m
機関出力:95,000馬力 速力:28ノット
主砲:41cm45口径連装×4 8門
副砲:14cm50口径単装×18 18門
高角砲:12.7cm砲40口径連装×4 8門
舷側装甲:305mm 主甲板装甲:70+127mm
*八八艦隊計画艦の第1バッチ、竣工時は世界最大の戦艦として君臨した。ただし、後期艦に比べると小型で、装甲も見劣りする。そのため、1931年に近代化改装が実施され、高速戦艦に改装された。
長門 1917年起工、1920年竣工
陸奥 1918年起工、1920年竣工
加賀型戦艦 *全長や装備は改装後のもの
基準排水量(新造39,990t→改装後45,550t)
全長:244m 全幅:34.8m
機関出力:98,0000馬力 速力:28ノット
主砲:41cm45口径連装×5 10門
副砲:14cm50口径単装×18 18門
高角砲:12.7cm砲40口径連装×4 8門
舷側装甲:279mm(傾斜) 主甲板装甲:120+50mm
*長門型の改良型、ユトランド沖海戦の戦訓反映が進み、防御力を大きく改善した。長門に続き30年代前半に近代化改装を実施して高速戦艦に改修された。
加賀 1920年起工、1922年竣工
土佐 1920年起工、1923年竣工
天城型巡洋戦艦 *全長や装備は改装後のもの
基準排水量(新造41,990t→改装後47,100t)
全長:260m 全幅:35.1m
機関出力:15,2000馬力 速力:29ノット
主砲:41cm45口径連装×5 10門
副砲:14cm50口径単装×16 16門
高角砲:12.7cm砲40口径連装×6 12門
舷側装甲:254mm(傾斜) 主甲板装甲:95+70mm
*種別は巡洋戦艦だが、装甲は戦艦並みを確保しており、実質的な高速戦艦。1930年代半ばに近代化改装が行われた。
天城 1920年起工、関東大震災にて大破、解体
赤城 1920年起工、1924年竣工
愛宕 1921年起工、1925年竣工
高雄 1921年起工、1925年竣工
紀伊型戦艦
基準排水量 48,800t
全長:260m 全幅:35.1m
機関出力:15,2000馬力 速力:28ノット
主砲:41cm45口径連装×5 10門
副砲:14cm50口径単装×16 16門
高角砲:12.7cm砲40口径連装×6 12門
舷側装甲:292mm(傾斜) 主甲板装甲:120+70mm
*八八艦隊計画の後期艦、天城型の装甲強化型として設計された。アメリカ海軍のサウスダコタ型に比べて装甲、火力が不足すると判断され、2隻で打ち切りとなった。
紀伊 1924年起工、1928年竣工
尾張 1924年起工、1928年竣工
駿河型戦艦
基準排水量 49,800t
全長:260m 全幅:35.1m
機関出力:15,2000馬力 速力:28ノット
主砲:41cm45口径3連装×4 12門
副砲:14cm50口径連装×8 16門
高角砲:12.7cm砲40口径連装×6 12門
舷側装甲:292mm(傾斜) 主甲板装甲:120+70mm
*紀伊型の改設計し、3連装砲を採用することで火力をサウスダコタ型と同等に引き上げた形式。
駿河 1925年起工、1929年竣工
近江 1925年起工、1929年竣工
富士型巡洋戦艦
基準排水量 55,600t
全長:276m 全幅:36.1m
機関出力:16,2000馬力 速力:29ノット
主砲:46cm45口径連装×4 8門
副砲:14cm50口径連装×8 16門
高角砲:12.7cm砲40口径連装×6 12門
舷側装甲:330mm(傾斜) 主甲板装甲:155mm
*日本海軍初の18インチ砲搭載艦、サウスダコタ型を上回る火力と防御力、速力を高い次元でバランスさせた傑作として評価が高い。
富士 1926年起工、1930年竣工
阿蘇 1926年起工、1930年竣工
伊吹 1926年起工、1930年竣工
蔵王 1926年起工、1930年竣工
葛城型巡洋戦艦
基準排水量 38,000t
全長:247m 全幅:35.5m
機関出力:15,2000馬力 速力:30ノット
主砲:41cm45口径4連装×2 8門
高角砲:12.7cm砲40口径連装×8 16門
舷側装甲:330mm(傾斜) 主甲板装甲:155mm
*天城代艦、巨大化する一方の戦艦をできるだけ小型化するため設計された実験艦、4連装砲採用や集中防御の徹底、副砲全廃など、極力小型化に努めた。
葛城 1925年起工、1929年竣工
八八艦隊計画は、1919年に全艦の予算案が議会を通過し、計画では1927年までに全艦が竣工する予定だった。
しかし、関東大震災で1年延長となり、さらにインフレによる資材高騰や好景気で職工が民間に転職して人手不足が慢性化するなど思うように進まなかった。
最終艦の巡洋戦艦蔵王が竣工したのは1930年で、計画は3年も遅延したことになる。
インフレと工事遅延の影響は軽艦艇の建造に現れており、1919年予算では川内型軽巡洋艦は8隻建造だったが、資材転用で3隻(川内 、神通、 那珂)に留まっている。
艦名だけは、同予算で建造された古鷹型重巡洋艦(古鷹、加古)に引き継がれた。
古鷹型は改良型の青葉型(青葉、衣笠)共に8インチ砲搭載巡洋艦として連合艦隊の一角を占めたが、戦艦優先のため巡洋艦の建造は衣笠を最後に暫く途絶えることになる。
駆逐艦も1等駆逐艦22隻(睦月型)と2等駆逐艦15隻が、建造費遅延のため整理対象となり、2等駆逐艦は全て建造中止となった。
1等駆逐艦22隻のうち完成したのは12隻で、残りの8隻は5隻に削減されて特型駆逐艦となった。
特型駆逐艦(吹雪、白雪、初雪、叢雲、深雪)は巡洋艦並みの航洋性能と高速性能、さらに強力な武装を高い次元でバランスさせた画期的な高性能艦だった。
ただし、既存の駆逐艦に比べて大型化しており、高価であるため大量建造は見送られた。
これは諸外国が同タイプの高性能駆逐艦を大量建造して対抗してきたら困るという事情もあった。
そのため特型は、諸外国には実験艦や嚮導駆逐艦と説明された。
確かに特型が実験的な艦であることは間違いではなく、重武装と軽量化を突き詰めた設計のため、後に第4艦隊事件(1935年)で初雪が波浪によって艦首を切断されるという大事故を起こしている。
その為、吹雪型の廉価版として建造された1,400t級の初春型(12隻)や1,500t級の白露型(12隻)は武装撤去の上で補強工事が必要となり、平凡な性能の駆逐艦となってしまった。
潜水艦も当初計画は109隻の建造が予定されていたが、インフレと資材転用で完成したのは59隻に留まった。建造縮小を受けて潜水母艦(迅鯨、長鯨)も縮小された。
航空母艦も4隻建造予定だったが、完成は2隻のみである。
八八艦隊を推進した日本海軍は航空軽視と誤解されることが多いが、第一次世界大戦中に貨物船を改装して水上機母艦若宮として実戦投入するなど、航空戦力の研究は他の列強海軍とほぼ同時期に着手している。
八八艦隊計画でも17隊の航空隊を新規に開設し、母艦も建造された。
1922年竣工した鳳翔は、起工時から空母として設計されて完成した世界初の船である。
それ以前の空母は他艦種からの転用、改装艦であり、最初から空母として建造されたのは鳳翔が世界初だった。
建造には、同盟国のイギリスから全面的な援助を受けた。
イギリスは空母先進国で、拡大発展型の龍驤の建造にも助言を行っているほか、空母ハーミースや、カレイジアスなどを見学することができた。
なお、鳳翔も龍驤も基準排水量が1万t以下の小型空母で、どちらも試験艦、実験艦の域をでるものではなかった。
日本海軍の本格的な空母は1929年竣工の龍鳳から始まる。
龍驤を発展させた龍鳳は基準排水量12,500tの小型空母だった。
しかし、フラッシュデッキ型の鳳翔や龍驤と異なり右舷に煙突と艦橋を一体化させた島型艦橋を持つ今日的な姿に近い空母となった。
龍鳳と2番艦の龍翔は満足すべき性能だったが、資材転用で2隻のみの完成にとどまった。
なお、同時期のアメリカ海軍の海軍航空隊の整備は、空母ラングレーやレンジャーといった小型空母2隻に留まっており、日本海軍と同レベルと言えた。
むしろ、ハーミースやアーガス、グローリアスやカレイジアスといった多数の空母を運用しているイギリス海軍が先進的すぎた。
こうした状況で、日本海軍はロンドン海軍軍縮会議(1930年)を迎えることになる。
前年、1929年10月24日にニューヨークで株式市場大暴落が発生し、アメリカを震源地として大不況の波が押し寄せる中の軍縮会議だった。
日本も例外ではなく、バブル経済は泡と消え、金ピカ時代は終焉を迎えた。