巡洋戦艦金剛姉妹の悲劇
巡洋戦艦金剛姉妹の悲劇
1914年6月28日、サラエボ事件
オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子暗殺は、当事者の思惑を遥かに超える大戦争を欧州に呼び込んだ。
暗殺を実行したセルビア人青年ガヴリロ・プリンツィプは、自分の放った弾丸がセルビア王国とオーストリア=ハンガリー帝国以外の国を巻き込んだ大戦争の引き金になるなど想像すらしなかった。
ちなみに暗殺実行時の年齢は19歳で、社会人経験はなく、学校からストレートで過激派組織に所属した。
若かったといえばそれまでだが、彼は未成年だったので死刑を免れた。
最終的にプリンツィプは大戦中に獄中死するのだが、彼と同じ年齢の若者が3000万人も死傷することになったことを考えると順当な最期だったのかは議論の余地がある。
さて、大戦勃発に際して日本政府は1914年8月23日に対ドイツ宣戦布告を実施した。
同盟国のイギリスは、日本参戦に際して中国のドイツ拠点(青島・膠州湾)、さらに南洋諸島(マリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島)の攻略を求めた。
ドイツ海軍が通商破壊戦の拠点として利用することを防ぐためである。
そして、それ以上のことは求めなかった。
下手に日本が領土欲を出して来たら困るからだ。
オーストラリアは、南洋諸島の占領でさえ過敏な反応を示し、日本人が赤道を超えて南下することは絶対不可としていた。
また、日本が参戦した段階では、戦争は長くても1年以内に終わると思われていた。
クリスマスまでに終わると考える者さえいた。
実際に戦争が終わったのは、1918年11月11日(休戦協定締結)だった。
そのため、戦争がクリスマスを過ぎても終わりそうになく、巨大な消耗戦の様相を呈し始めると慌てて英仏は日本に欧州派兵を求めるようになった。
1914年の戦いでイギリス陸軍は戦前に育てたまともな兵隊が枯渇してしまい、徴収兵の多量投入へと舵を切ったが、それが間に合うかどうかは微妙なところだった。
状況はフランス軍も同じである。
そのため、すぐに派遣できるまとまった兵力をもつ日本陸軍に期待を寄せた。
これに対して日本政府の反応は鈍かった。
直接、国益(領土獲得)に関係ない場所への派兵だったからだ。しかも陸軍は西部戦線の大量消耗戦を見て、内心穏やかではなかった。
西部戦線の戦いは毎日が日露戦争の旅順戦のようなものだった。
しかし、国際協調、日英同盟強化の観点から、欧州派兵を支持する者もいた。
外相の加藤高明や、蔵相の高橋是清はその代表者だった。
高橋は晩年の伊藤博文を次のように説得した。
「同盟国の危機を座して見守るような国を他国はどう思うでしょうか?そのような国が危機に陥った場合、助けようと思うでしょうか?ここで何もしなかったら、日英同盟は元より、日本はどの国とも同盟を結ぶことができなくなるでしょう。仮に結べたとしても、一時的な利益を目的としたものにとどまり、却って日本の国益を損ねることになります」
伊藤は欧州派兵には反対だったが、日英同盟は日本の基幹的外交資産だと考えていた。
対ロシアを目的とした同盟が、ロシアの弱体化によって危うくなりつつあることも把握しており、危機感を抱いていたとされる。
伊藤は山県有朋と相談し、同盟強化のために欧州派兵に舵を切った。山縣も日英同盟の存続を懸念しており、高橋の説得に応じた。
陸海軍は派兵に消極的だったが、欧州派兵臨時特別会計で多額の予算が認められると手のひらを返した。
当時の日本は陸軍拡張(2個師団増設)が政治問題化していたが、欧州派兵による大幅な予算増で、問題は根本から消滅した。
日本陸海軍の欧州派遣が発表されたのは1915年1月18日のことだった。
戦線への投入はそれから6か月後の7月からで、イギリス海外派遣軍の一部としてフランス北部に配置された。
派遣兵力は、当初は3個師団、年末まで6個師団、最終的に3個軍(9個師団)まで拡大した。
海軍は駆逐戦隊、巡洋艦戦隊を地中海に派遣して船団護衛に従事すると共に、欧州遠征の目玉として金剛型巡洋戦艦4隻をスカパ・フローへと送った。
金剛型巡洋戦艦は、14インチ(35.6cm)連装砲4基8門を備え、27ktの快速を誇る最新鋭巡洋戦艦だった。
一番艦の金剛は技術取得のためにイギリスに発注され、2番艦以降は日本国内の造船所で建造された。
金剛型巡洋戦艦は、海軍念願の超ド級戦艦であり、虎の子の中の虎の子だった。
そのため、派遣にあたっては可能なかぎり戦闘による損耗は避けるように厳重極まる申し入れがなされ、イギリス海軍もそれを受け入れて金剛をスカパ・フローに配置した。
イギリス海軍の栄光は、開戦以来、スカパ・フローでドイツ海軍の栄光とにらみ合いを続けていた。
戦力に劣るドイツ大洋艦隊は、現存艦隊主義をとっており、出戦しなかった。
よって、スカパ・フローはこれ以上安全な配置はない配置と言えた。
イギリス海軍は牽制のために大兵力を北海に貼り付ける必要があり、他戦線へ兵力を転用を阻まれていた。
金剛戦隊が来援したことで、イギリス海軍は自前の巡洋戦艦4隻を他の任務に振り向けることができるようになったので、金剛派遣の意義は極めて大きかった。
イギリス海軍はドイツ海軍の通商破壊艦に手を焼いていた。
通商破壊艦退治には、航続距離が長く、快速の巡洋戦艦は最適の船だったのである。
金剛戦隊と入れ替わりに、他戦線に転出した巡洋戦艦クイーン・メリーやインディファティガブル、インヴィンシブル、プリンセス・ロイヤルは航路防衛に大きく貢献した。
金剛戦隊は、ただそこにいてくれるだけでよかったのだ。
1916年5月31日(ユトランド沖海戦)までは。
ラインハルト・シェア中将が艦隊司令長官に就任すると、ドイツ大洋艦隊は膠着した戦局を打開するために積極策に転換した。
西部戦線でも膠着打開のためにヴェルダン攻略戦が始まり、陸の攻勢に呼応して決戦の雰囲気がつくられた。
イギリス海軍もドイツ海軍の動きに対応して、金剛戦隊をよりドイツ本国に近いロサイスに配置して、デイヴィッド・ビーティー中将の指揮下においた。
日本海軍はこの配置換えで不安になったが、
「ジッサイアンゼン、ダイジョウブ」
とビーティー中将に日本語で回答されると悪い気分はしなかった。
これが悲劇の始まりだった。
1915年5月30日、シェア率いるドイツ大洋艦隊が出撃し、呼応してジョン・ジェリコー大将率いるイギリス大艦隊もスカパ・フローを発進した。
金剛戦隊は、ビーティー率いる先遣隊として第一次世界大戦最大の海戦に参加することになった。
金剛戦隊を戦闘任務に参加させる場合、日本海軍と事前に協議する取り決めとなっていたが、これは全く無視された。
先遣隊の役割は偵察と牽制である。
この場合の牽制とは、味方の主力が到着するまで、数的優勢の敵主力艦隊を実力で拘束するという意味である。
ビーティー中将は、ジェリコーの主力艦隊との合流前だったが、フランツ・ヒッパー中将が率いる独巡洋戦艦部隊を発見すると即座に戦闘を決意した。
ビーティーはイギリス海軍のモットーである見敵必殺を体現した人物で、現役時代のポートレイトを一瞥しただけで並々ならぬ気配を感じ取れる。
サラリーマンなら、決して上司にはしたくないと思うことだろう。
そこから僅か10分後、独巡戦フォン・デア・タンの11インチ(28cm)砲弾が金剛の主砲塔天蓋を貫徹して弾火薬庫を誘爆させ、金剛を轟沈させた。
殆ど即座に沈んだため、生還した乗員は僅か2名のみだった。
ほかの金剛戦隊も独巡洋戦艦隊の正確な砲撃で次々と被弾した。
38分後には榛名が砲塔を独巡戦デアフリンガーの12インチ(30.5cm)砲弾に貫通され、弾薬庫が誘爆して轟沈した。
巨大な戦艦がびっくり箱のように破裂する様を見てもビーティーは些かも動せず、
「我々の呪われたフネは、今日はちょっと調子が悪いようだ」
と述べるにとどまり、さらにヒッパー戦隊への接近を命じている。
この言いぐさは他所様の戦艦をぶっ飛ばしておいて流石にありえないので、イギリス海軍は正式に謝罪している。
さらに金剛戦隊の悲劇は続き、霧島が再び巡戦デアブリンガーの砲撃によって弾薬庫を破壊され、爆沈した。
同型の巡洋戦艦が立て続けに爆沈している理由は、設計の欠陥に起因する。
金剛型を含め、イギリスの巡洋戦艦は速力を代償に装甲を減じていた。これは速力は装甲という発想に基づく。
そもそも巡洋戦艦とは、戦艦並みの火力と巡洋艦並みの速力で素早く巡洋艦を始末する巡洋艦駆逐艦であって、同格の戦艦とまともに撃ち合うことは想定されていない。
また、遠距離砲撃戦において、砲弾が大落下角で命中した場合、甲板へ高確率で被弾することが認識されていなかった。
日本海海戦は、5,000m以内の砲撃戦が行われたが、ユトランド沖海戦ではその3倍の距離で砲弾が命中したのである。
この距離では、砲弾は大落下角で甲板に命中するので、水平防御が重要になってくる。
水平防御の不足はドイツ海軍も同じだったが、彼らは自力で設計の誤りに気が付き、ユトランド沖海戦までに防御改善工事を終えていた。
そのため、ヒッパーの巡洋戦艦隊(5隻)は巡戦リュッツオウを除き、全艦が被弾するも海戦を生き延びている。
また、イギリス海軍は砲撃速度を重視するあまりに、砲塔内に弾薬を集積する悪習があった。弾薬庫から砲撃のたびに弾薬を引き上げていては砲撃速度が上がらないためである。
もちろん、規則では砲塔内に弾薬を集積することは禁じられていたが、無視されていた。
金剛戦隊でも同じ規則違反が横行していたのである。
最初から装甲が不足している砲塔に爆発物を満載して戦っていたのだから、3隻爆沈は必然だったとさえ言える。
しかも、金剛戦隊の悲劇は3隻爆沈で終わりではなかった。
ユトランド沖海戦は、ジェリコーの主力接近を察知したシェアが決戦回避に傾いて撤退し、日没を迎えたが、ビーティは追撃戦を諦めていなかった。
夜明け前にドイツ艦隊の進路に回り込むことができれば、ドイツ艦隊を一網打尽にできる可能性があった。
しかしながら、シェアはジェリコーの裏をかき、闇夜にまぎれて大胆にもグランドフリートの進路前方を横切って逃亡に成功した。
ビーティは夜明けまでドイツ艦隊を探したが、不用意に同じ海域に長時間留まったため、Uボートのリスクに艦隊をさらすことになった。
ドイツ海軍は決戦に先だって多数のUボートを配置し、哨戒・偵察に活用した。
Uボートは偵察に徹するため攻撃を禁じられていたが、決戦に友軍が敗れた場合、その撤退を支援することは禁じられてはいなかった。
結果、金剛戦隊で最後まで生き延びた巡洋戦艦比叡は、U33の雷撃を受けて魚雷3発が左舷に命中して北海に沈んだ。
比叡はユトランド沖海戦における最後の戦没艦となった。
悲報は直ちに届けられ、海軍省は大混乱に陥った。
虎の子の巡洋戦艦戦隊が1日で全滅したのだ。
衝撃のあまり正気を失って奇声を発する者も現れたと言われている。
海軍大臣の加藤友三郎が混乱の収拾にあたったが、自身も悲報が届いた初日は立ち直ることができず、大臣室に引きこもって出てこなかった。
陸軍は悲運にまみれた海軍に同情したが、同年7月から始まったソンムの戦いで派遣した9個師団が壊滅してお通夜となった。
喪無という当て字で日本陸軍にとって恐怖の代名詞となるソンムの戦いとは、フランス北部・ピカルディ地域圏を流れるソンム河畔、フランス・ソンム県での戦闘である。
同年2月のヴェルダンの戦いの主力がフランス軍だったのに対して、ソンムの戦いはイギリス軍が主力を担った。
イギリス軍は本国軍を加えて、カナダ、オーストラリア、インド、南アフリカなど大英帝国の構成国から派遣された兵力を含む連合軍で、その一角に日本陸軍がいた。
日本軍は予備隊扱いで、攻勢初日には投入されなかったが、先に突撃したイギリス本国軍が壊滅すると出番が回ってきた。
欧州派遣軍総司令官に任ぜられた川村景明大将は、塹壕への正面攻撃は旅順の二の舞になると判断して坑道戦術を多用した。
坑道戦術とは、塹壕や地下通路を敵陣に向けて掘り進む戦法で、日本軍はモグラ作戦と称した。
イギリス軍などからは土木業者かと呆れられたが、少ない損害で着実に前進する日本軍を見て態度を改めた。
しかし、坑道戦術にも限界があり、最後の瞬間は徒歩で敵陣に乗り込む必要があった。
また、ドイツ軍は地下坑道に毒ガス(ホスゲン)を注入して対抗した。
これが日本軍が体験する最初の毒ガス攻撃で、経験済のイギリス軍から説明や対処法、装備の提供は受けていたものの衝撃は大きかった。
川村大将も毒ガス攻撃を受けて負傷し、後送された。
これは余談だが、ソンムの戦いにはアドルフ・ヒトラーも参戦しており、毒ガス攻撃で負傷して後送された。
ただし、ヒトラーは当時は一介の伍長で、ありふれた損害の一つでしかなく、戦争の推移には何の影響も齎していない。
ソンムの戦いには、毒ガス以外にも数多くの新兵器が投入された。
戦車が初めて実戦投入されたのもソンムの戦いである。
イギリス軍が水槽という秘匿名称で秘密裏に開発したマーク I 戦車は、膠着した塹壕戦を一変させることを期待された。
しかし、輸送の問題や機械的な故障などで予定の10分の1以下(5両)しか出撃できなかった。
その僅か5両の戦車でも、未知の新兵器投入によってドイツ軍を恐慌状態とし、戦線を押し上げる効果があった。
戦車の上空には、ニューポール17といった複葉戦闘機が飛び交い、偵察や地上攻撃にも航空戦力が用いられた。
日本陸軍航空隊が開設されたのは第一次世界大戦中の1917年のことで、欧州派遣軍は独自にニューポール17で戦闘・偵察飛行隊を編成した。
欧州派遣軍の兵力は10万を超えることはなかったが、それでも自前の飛行隊を持つことが戦場の要請として絶対不可欠と認識されたのである。
軽機関銃を日本陸軍が初めて使用したのもソンムの戦いからで、イギリス製のルイス軽機関銃が供与された。
手榴弾のディフェクト・スタンダードとなるミルズ式手榴弾を日本陸軍が実戦で使ったのもソンムの戦いからである。
基本的に日本陸軍はイギリス大陸派遣軍の一員で、小銃から師団重砲に至るまでイギリス軍から供与を受けて戦った。
自前の装備は、人間と被服だけという有様だが、日本本土から輸送する手間暇や補給の都合を考えるとほかに方法がなかった。
また、根本的に日本製兵器は性能も生産数も西部戦線の戦いに追いつく水準ではなかった。
ソンムの砲撃戦は、日本陸軍の砲弾生産1年分を1日で消費するような戦いだった。
一応、日本陸軍の名誉を守るため、少数ながらも国産兵器が持ち込まれたのだが、すぐに弾薬を撃ち尽くし、補給の目処も立たないため使われなくなった。
軍刀に関しては補給の心配はなかったが、塹壕戦では取り回しが悪かった。また、軍刀所持者=指揮官ということでドイツ軍のスナイパーが優先的に狙撃してくるため危険だった。
日露戦争に勝利したことで増上慢の傾向にあった日本陸軍は、欧州列強同士の総力戦を体験することで己の足らざるところを痛感した。
後に昭和日本陸軍の中枢を担うことになった永田鉄山や小畑敏四郎、東条英機などは欧州派遣組で、ソンムからの生還者である。
陸軍ではソンムからの生還者は、それだけ尊敬される存在となった。
何しろソンム戦において欧州派遣軍の損耗率は65%に達しており、第11師団などは師団長戦死、損耗率87%という驚異的な数字を叩きだした。
ただし、日本軍の損失は、ソンムの戦いで生じた連合国軍全体の損失からすると1割程度に過ぎず、敵味方合わせて100万人が死傷した。
それだけの犠牲を払って双方が得たものは殆どなく、戦線を僅かに押し上げたのみだった。
ソンムの戦いが終わってもまだ2年も戦争は続いたのである。
金剛型巡洋戦艦4隻全滅という悲運のユトランド沖海戦も、戦争の全体に何ら影響を及ぼすことはなかった。
最終的に戦争を終わらせたのは、キール軍港の水兵反乱とドイツ革命だった。
冒頭で述べたとおり、第一次世界大戦の引き金を引いたプリンツィプは終戦前に獄中死している。
しかし、彼の仲間は生き延び、戦後世界を見てこう言った。
「私たちは美しい世界を全て滅ぼしてしまった」
ドイツ革命と前後して、ロシア帝国、オーストリア=ハンガリー二重帝国、トルコ帝国、中国でも革命が起きて、歴史ある王朝が倒れた。
勝利した連合国陣営だが、イギリス、フランス、イタリアは死屍累々、ベルギーやオランダは国土が戦場になり壊滅した。
元気なのは、最後に参戦したアメリカ合衆国と極東の新興国日本だけだった。
日米は戦争の荒廃から遠く離れた場所に本土を持ち、膨大な戦争需要に応えて生産力を拡大し、戦後の政治経済に重きを置くことになった。
古き良き時代を知る人からすると、無教養のヤンキーとイエローモンキーが闊歩する悪しき時代の始まりだった。
さて、戦争に疲弊した英仏伊と戦争で成りあがった日米が、敗戦国ドイツを交えて戦後世界の在り方を調整したのがパリ講和会議で、その結果がヴェルサイユ条約となる。
講和会議の結果、日本は国際連盟の委任統治として、ドイツが持っていた太平洋の島嶼植民地や山東半島の利権を継承した。
また、賠償金も配分権5%を獲得した。これは、フランス、イギリス、イタリア、ベルギーに次ぐものであった。
賠償金の総額は 1,320億金マルク(約66億ドル、純金47,256t相当)になった。日本の取り分は5%であるため、66億金マルクとなる。
日露戦争で得られなかった賠償金の獲得に日本国内の世論は拍手喝采を送った。
しかし、66億マルクのうち、支払いが行われたのは1億2千万マルクまでで、ほぼ全額が踏み倒された。
賠償金踏み倒しは、日本の対ドイツ感情を極めて悪化させることになる。
欧州派兵臨時特別会計の歳出は、1915年から1919年年度予算までの合計で、66億円となった。
1913年の国家予算が14億円だったので、国家予算の4倍の金を使った計算となる。
地球の反対側とはいえ、10万の兵力と巡洋戦艦4隻を送っただけで、これだけの金がかかるのか不思議に思われるかもしれない。
しかし、欧州派遣軍10万とは、槍の穂先に過ぎず、それを支える柄の部分の方が槍の中では遥かに大きい。
最終的に日本陸海軍が動員した兵力は軍属を含めて200万人に昇っている。
装備の大半をイギリスからの無償供与に頼り、さらに派遣費用もフランスに出してもらい、人員だけ派遣した状態でも、それを支えるのに20倍の後方支援要員が必要だった。
人員だけ派遣したと言っても、本当の人員だけ派遣して終わりではなく、衣食住の提供は武器弾薬の供給とは別だったし、全てのセクションにおいても交代要員が必要になる。
彼らに支払う給与も管理しなければならない。電子計算機など存在しない20世紀初頭の給料計算は人力頼みだった。
日本から送る膨大な物資の管理についても同様である。
そのため、陸海軍では経理部門は戦前の体制では全く追いつかず、処理がパンクしたため大量の軍属を雇い入れて応急処置した。
日本陸海軍で初めて女性が採用されたのも経理部門で、男性よりも計算が正確で早いとして評判になった。
また、各セクションで組織を統率する将校についても組織拡大に教育が追いつかず、一般大学卒業者に促成教育を施して充当する短期現役将校制度が導入された。
こうした組織拡大は、先行するイギリス陸海軍を参考とした。
日本軍は上から下まで、100万単位の人間を日付変更線の向こうに送るということについて、理解が不足しており、殆ど徒手空拳といった有様だったから、イギリスの助言がなければどうなっていたか分からなかった。
時差の問題すら、イギリス軍から指摘されるまで気づかなかったのである。
日本陸海軍は、当初、全てを日本時間で統一していたが、イギリス軍指揮下での戦いでは時差計算の手間が膨大になり時間管理が破綻した。
最終的に時差問題は日本時間の代わりに全てをグリニッジ標準時で統一することによって解決された。
参戦前の日本陸軍は平時19個師団体制(約20万)だったが、それが4年で10倍増えた計算になる。
この大膨張は、日本陸海軍の組織文化を大きく変容させ、明治の軍制を完全に終わらせた。
藩閥は人員の大膨張によって力を失い、戦後もかなりの数の民間人が軍属や将校として軍に残ったため、軍の論理よりも世間の常識で動く人間が軍内に大量発生した。
日本陸軍は、師匠筋にあたるドイツ軍との大規模な交戦によって、それまで軍内にあった親ドイツ感情が消え去り、代わってイギリス軍との交流が増えた。
ただし、イギリスの食文化だけはどうしても無理だった。
まじめな日本軍人は質素倹約を旨として美食を悪徳としていたが、わざと食材よりもまずい料理をつくろうとすることは想像の埒外だったのである。
それはさておき、日銀総裁として戦費調達を担うことになった高橋是清は、再び大量の公債を発行した。
ただし、今度は外債ではなく円建て国内債として発行した。
さらに金兌換を停止し、日銀法を改正して公債を日銀で引き受けることとした。
これにより公債を引き受けた日銀は、公債の金額だけ通貨(不換紙幣)発行が実施できることになった。
順をおって説明すると、
1 政府が戦時国債を発行する
2 日銀が国債を買い取る
3 日銀は代金の支払いのため、印刷機を回して紙幣を印刷する。
4 政府は代金を受取り、その金で必要な経費を支払う
という手順で、政府は戦争遂行に必要な資金を調達、支払いを行った。
実際には政府と日銀の間で紙幣のやり取りがあるわけではなく、帳簿に必要な金額を記載して終わりである。
所謂、財政ファイナンスで日本は必要な戦費を調達した。
高橋の持論である金本位制からの離脱は、第一次世界大戦によって漸く叶った。
金兌換の停止が決定すると高橋は自らが主催する金本位制死ね死ね団の構成員と祝杯をあげたとされる。
ただし、高橋が酔っているのはいつもことなので、平常運転という説もある。
この決定について、政府内外からの反論はなかった。
何しろ英仏が既に先行して金兌換を停止して戦費調達のために不換紙幣の大量発行を行っていたからだ。
また、日露戦争と異なり、欧州各国はアメリカから金を借りる立場であり、外債を発行したとしても買ってくれる相手がいなかった。
例外はアメリカだが、これ以上アメリカから金を借りた場合、満鉄の経営権を完全に失いかねず、それは論外だった。
つまり、他に策はないのだった。
問題は、大量の通貨発行に伴うインフレーションのコントロールだった。
4年で66億円、1年で14億円、国家財政がいきなり2倍になった計算である。
市場に出回る資金をコントロールしなければ、強烈なインフレが国民生活を直撃するのは不可避だった。
そのため、高橋はマスコミを使って強力な貯蓄推奨キャンペーンを実施した。
銀行預金が増大すれば市場に出回る金が減るので、インフレ抑制効果が期待できる。そのために公定歩合を9%とし、各銀行を指導して高利の定期預金を販売させた。定期預金を推奨したのは、できるだけ市中に金が出回ることを先送りするためだった。
同時に、日銀から国債を銀行に強制的に買い取らせて、銀行の金(預金ではない)を日銀に移して通貨の流通量を減らした。
さらに政府と調整して戦時増税(主に酒税と所得税)を断行した。
所得税は源泉徴収とした。
源泉徴収を考案したのは高橋で、給与からの天引きで確実な徴税を行うと共に市中に金が出回る前に税として通貨を回収する狙いがあった。
所得税の源泉徴収導入は世界初で、各国がそのあとに続く税制のエポックメーキングだった。
酒税増税は大量の穀物を使用する醸造を減らし、食料価格を抑制するという狙いもあった。
原材料の価格高騰はどうにもならないが、幸いなことにアメリカ資本主導で満州の資源開発も順調で安価な原材料の輸入は可能だった。
参戦の対価として英仏から優先的な資源購入権も確保できたこともインフレ抑制に重要だった。
高橋はインフレ率の上限を10%と見込み、15%まで許容範囲内とした。
実際のインフレ率は概ね高橋の予想どおりに推移した。
予想が外れたのは、1919年だけで1年で42%も物価が上昇した。
これは復員兵が戦時中に貯めた金を散財したことと戦時中の自粛ムードが解除されて、民需が爆発した結果である。
さすがに物価高騰が行き過ぎて暴動(米騒動)が発生したため、寺内正毅内閣は辞表を提出し、立憲政友会総裁の原敬が組閣した。
原首相は高橋を大蔵大臣に据えた。
「君が始めたことだから、君が責任をもって終わらせるように」
高橋は言う通りにしたが、物価上昇は止まらなかった。
大戦中の通貨発行で市中に出回った資金によって内需が拡大して好景気になってしまったからである。
金ピカ時代の始まりだった。