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特異点 日露戦争

 特異点 日露戦争


 1904年2月10日、大日本帝国はロシア帝国に宣戦宣告、日露戦争が始まった。

 ただし、戦闘は2日前から始まっており、日本陸海軍は朝鮮半島の仁川に奇襲上陸していた。

 2月9日にはロシア帝国海軍の巡洋艦ワリヤーグと砲艦コレーツを攻撃して自沈に追い込む他に、旅順港のロシア太平洋艦隊にも先制攻撃を行っていた。

 これらの攻撃はいずれも宣戦布告前の攻撃だった。

 しかし、当時の国際法には宣戦布告前の攻撃を禁止する明確な規定はなく、ロシア側の抗議はあったものの、国際世論において大きな問題となることはなかった。

 何しろロシア帝国の戦力は軽く見積もっても日本陸軍の10倍以上あったのだ。

 海軍力についても3倍の差があり、日本海軍はロシア太平洋艦隊と漸く互角の戦力を揃えていたに過ぎなかった。

 宣戦布告前の奇襲攻撃ぐらい丁度いいハンディキャップという認識だった。

 むしろ、あまりにも向こう見ずな挑戦という評価が一般的と言えた。


『なぜそんな無謀なことをする?』


 と日本人の正気を疑うのが欧米列強の一般的な態度だった。

 何しろ当時の日本は、吹けば飛ぶような極東アジアの小国に過ぎなかった。

 ペリーの黒船来航が1853年で、明治が始まったのが1868年である。大日本帝国憲法の施行が1890年、日清戦争はそれから4年後の1894年となる。

 明治日本の産業は米作と養蚕ぐらいで、生糸を売って稼いだなけなしの外貨で揃えた陸海軍も前述のとおりの劣勢だった。

 そして、対戦相手は無敵ナポレオンを退けたロシア軍である。

 万に一つの勝ち目などあるはずもなかった。

 そうした認識は、ロシア皇帝ニコライ2世も共有していた。

 ニコライ2世は黄色人種の軍隊など歯牙にもかけておらず、ただちに反撃を命じた。

 それどころか大規模な反転攻勢を望んでおり、日本軍を朝鮮半島から駆逐して、日本本土進攻も視野に入れた戦争計画を軍部に求めた。

 これは非現実的な要求だった。

 当時のシベリア鉄道は、全線開通しておらず、しかも単線しかなかった。

 極東のロシア軍が展開する満州には近代工業は皆無で自活は不可能であり、砲弾などの軍需物資は全てモスクワから運ぶしかなかった。

 兵隊についても同様である。

 それに対して日本軍は船舶を使った海上輸送が可能で、戦力の展開速度は日本有利だった。

 もちろん、日本の有利は時間経過で打ち消されてしまうものだったが、開戦初期において日本軍は数的有利を確保していた。

 日本軍の戦争構想は、初期の数的有利を最大限活用し、開戦初期に満州のロシア軍を撃破し、事後にモスクワから来る増援を各個撃破するものだった。

 日露戦争時のロシア満洲軍総司令官を務めたクロパトキンは現状を正しく認識し、ハルビンまで後退して増援を受け取った後の反転攻勢を考えていた。

 これは彼が臆病や無能だったわけではなく、軍事的合理性に裏打ちされた極めて常識的な判断と言えた。

 しかし、端からすれば、ロシア軍が日本軍に押されて下がったように見えた。

 ニコライ2世にとっては、劣等国の軍隊を相手に無敵ロシア軍が後退し、防備を整えてから反撃するなど思いもよらないことだった。

 それでは日本軍がナポレオン並みと認めるようなものだからだ。

 つまり、ロシア軍は最高意思決定と現場の現状認識が全く一致していないという齟齬を抱えていたと言える。

 これは戦争指導において致命的なことだった。

 ニコライ2世は元から現状認識に甘いところがあり、日露戦争の10年後に勃発する第一次世界大戦や国内革命勢力への対応にも失敗し、最終的にロマノフ王朝を滅ぼし、彼自身の命を奪うことになる。

 日本の攻勢は、鴨緑江渡河戦から始まり、遼東半島にも日本軍が上陸した。

 目指すはロシア太平洋艦隊が立て籠る旅順だった。

 南山攻防戦は、死闘となる旅順攻囲戦の前触れとなる戦いだった。

 塹壕を掘って待ち構えていたロシア軍の前に日本軍は正面から突撃し、大損害を被った。

 ロシア軍が塹壕に据え付けていた機関銃は防衛戦では神通力としか思えない威力を発揮した。

 南山攻防戦で日本軍はわずか1日で4千名の死傷者を出し、


「数字が一桁間違っているのではないか?」


 と大本営を恐怖させることになった。

 しかし、それも本番となる旅順攻囲戦に比べれば、まだ大人しいものだった。

 第一次世界大戦における凄惨な塹壕戦の前触れとも呼べる旅順攻囲戦は、まさに死闘と呼ぶ他ない激戦となった。

 日本軍はべトンで固めた要塞に立て籠るロシア軍の機関銃の前に突撃し、死体の山を築くばかりだった。

 包囲され後がないロシア軍は野戦築城を強化して、日本軍の攻撃を跳ね返した。

 海軍によって行われた旅順閉塞作戦も失敗に終わり、逆に虎の子の戦艦2隻を機雷によって失う始末だった。

 旅順攻囲戦は完全に行き詰ったが、バルチック艦隊の出航を同盟国のイギリス経由で掴んでいた日本軍には後がなく、港内に立て籠った旅順艦隊を観測できる203高地を目標に肉弾攻撃を繰り返すことになる。

 戦車も航空機が登場する遥か以前に、適切な砲兵火力の援護もない歩兵攻撃は恐ろしい勢いで死傷者の山を築き上げた。

 しかし、他に方法はなかった。

 それどころか、近代要塞への攻撃そのものが軍事先進国の欧米でも先例がないことであり、各国の観戦武官が貴重な戦訓として本国に報告書を提出するほどだった。

 ただし、報告書は例外的な事例として無視され、第一次世界大戦において旅順攻囲戦を数倍に拡大した惨劇を作り出すことになる。

 また、旅順の戦いはマスコミによって日々の戦況が詳細に伝えられた最初の戦いとなった。

 多くの従軍記者が戦場に立ち、起きている事を速報した。

 内地にいた人々は毎日、新聞を通じてその日の戦況に一喜一憂した。

 こうした体験は、日本史において先例がないものだったと言える。

 鎌倉以来900年続いた武士の時代において、戦争とはもっぱら武士の専有物であったし、250年続いた江戸幕府の封建体制において、川一つ、山一つ離れた向こうは別の国で、人々は300余の領国に分かれて暮らしていた。

 旅順で戦っているのは、武士ではなく日本軍であり、全ての兵士がそれぞれの生まれた領国を離れて日本兵となった。

 日本兵の戦いを見て一喜一憂する人々は日本人であり、日本という一つの国が存在し、そこに属することを所与のものと考えた。

 旅順の山々に木霊する砲声と唸り声をあげる機関銃、塹壕、鉄条網と戦塵にまみれた死体の山が、国民国家とナショナリズムを完成させた。

 旅順の戦いは、明治維新最後のイニシエーションだったと言える。

 激戦の末、203高地が陥落したのは攻囲戦開始から4か月後の12月5日だった。

 観測拠点を得た日本軍は28cm榴弾砲による間接砲撃によって、ついに旅順艦隊の無力化に成功した。

 以後、日本軍は無理な突撃を避け、爆薬設置による防壁爆破や坑道戦術を駆使し、少しずつ要塞の防御を無力化し、主要な砲台を占領することに成功した。

 1905年1月1月、ロシア関東軍司令官ステッセリが降伏を申し入れ、旅順攻囲戦は終わった。

 旅順艦隊を無力化した日本海軍はウラジオストク艦隊(巡洋艦戦隊)の捜索と撃滅に注力し、蔚山沖海戦でこれを果たした。

 日本近海の制海権を安定させた日本海軍は交代で艦艇の修理と乗員の休養をとり、万全の体制でバルチック艦隊の来航を待つことになる。

 旅順要塞を攻略した日本陸軍は、全戦力を結集してロシア軍に決戦を挑むことになった。

 奉天会戦は、日露合計で60万人の将兵が参加した一大決戦となった。

 戦闘の経過は両翼包囲を図って前進する日本軍とそれを阻止しようとするロシア軍の阻止攻撃で終始し、日本軍が突破に成功して後方への旋回運動を開始すると包囲を恐れたロシア軍の撤退によって終了した。

 日本軍の奉天入城は3月10日で、のちに陸軍記念日となった。

 決戦に勝利した日本軍だったが、兵員の死傷者は7万人を超えており、砲弾の備蓄も枯渇して、追撃戦は不可能だった。

 補給線も伸びきっており、前線に武器弾薬食料を届ける補給システムそのものが大量の食料を消費する状態となっていた。

 逆に後退したロシア軍の補給線は短くなり、戦力の補充は容易になっていた。

 しかし、国内外の問題がそれを許さなかった。

 1月の血の日曜日事件を皮切りにロシア第一革命が始まるなど、ロシアの治安情勢は悪化の一途だった。

 こうした事件がおきた背景には、敗勢が続く戦争によって皇帝の権威に翳りが差したことが大きかった。

 絶対的な力で君臨するロシア皇帝が、極東の吹けば飛ぶような小国を相手に大苦戦するなど、あってはならないことだった。

 ニコライ2世が無理な攻勢を主張したのは、自身の権威が傷つくことを本能的に恐れていたからと言える。

 実際、開戦初期のロシアの国内世論はまもなく勝利で戦争が終わるという楽観的な予想で占められ、戦勝の予感によってニコライ2世への支持はうなぎ上りだった。

 しかし、旅順要塞が陥落すると皇帝の支持は失望に変わっていった。

 不穏化する国内の治安維持を考えると極東への兵力移動には無理があった。

 さらに露仏同盟を結んでいたフランスが3月の第一次モロッコ事件でドイツと対立するなど、ドイツに対する抑止力が大量に必要となった。

 もはや極東への戦力の大量補充は実質不可能だった。

 しかし、現状での講和が敗戦と同義と考えたニコライ2世は、バルチック艦隊の勝利に一縷の望みを託した。

 そして、1905年5月27日、対馬沖。

 結果については広く知られているので詳細は省くが、東郷平八郎大将率いる連合艦隊はバルチック艦隊を全滅させた。

 おそらく、この結果についてはこれ以上のものを求めることは如何なる術策を用いても不可能であろうと思われる。

 そして、これ以下の結果では、日本の勝利はなかっただろう。

 希望の艦隊が文字通りの意味で全滅したことを受けてニコライ2世は講和会議開催に同意し、アメリカ合衆国の仲介でポーツマス講和会議が開かれた。

 講和会議の結果、ロシアは日本の朝鮮に対する優越権、旅順から奉天までの東清鉄道支線(後の南満州鉄道)、遼東半島の租借権を獲得した。

 これらはロシアにとっては国外の権益であるため、交渉は比較的簡単にまとまった。

 最後まで紛糾したのは、ロシア領樺太と賠償金だった。

 ロシア側の全権大使セルゲイ・ウィッテはニコライ2世から如何なる領土の割譲も、賠償金の支払いも認めないという指示を受けていた。

 しかし、そのどちらも追及すると講和会議が成り立たないことも理解していた。

 日本の全権大使を務めた小村寿太郎もまた同じ理解に達していたが、賠償金獲得に重きをおいていた。

 何しろ日本は、これまでの戦いで20億円という巨費を費やしていた。

 当時の日本の国家予算が4億円であったから、国家予算5年分の金を1年と少々で使い尽くした計算になる。

 そのため、賠償金を持ち帰らぬことには、日本の財政が保たないと小村は考えていた。

 ヒステリックに賠償金獲得を叫ぶ国内世論などは問題の本質ではなかった。

 ちなみに日清戦争の賠償金は、2億両(約3億円)だった。

 さらに余談だが、富山県舟橋村(日本最小の自治体:人口約3,000人)の令和5年度の一般会計が19億である。

 人口3,000人少々の村が19億円の予算を組めるのに対して、1904年の日本の総人口4,613万に対して僅か4億円の予算しか組めなかったのである。

 そして、20億円の戦費で国家財政が破綻すると本気で考えていた。

 滑稽さすら感じさせる情景である。

 この一見すると意味不明としか思えない不思議な現象の正体は、インフレーションである。

 インフレーションとは、一定期間にわたって物価の水準が上昇し続けるの状態を意味する。

 逆がデフレーションで、物価の水準が下落しつづける状態となる。

 インフレーションを起きる要因は様々だが、理由として最も一般的なものは通貨発行の増大による財政インフレーションである。

 すなわち、通貨発行権を持つ主権国家が、何らかの財政需要を満たすために大量に通貨を発行した場合、流通する通貨量が増大し、インフレーションが発生する。

 例えば、4億円の歳入に対して20億円の支出(軍事費)が必要な場合、新規に16億円の通貨発行が実施することになる。

 結果、国内に流通する通貨量が16億円分増えてインフレーションが発生する。

 これを極限まで推し進めた場所に、ジンバブエドルがいる。

 しかし、1904年の日本において、そのような通貨発行は不可能だった。

 なぜならば、当時の日本の通貨は金本位制だったからである。

 

『金本位制がなかりせば』


 というタイトルで日露戦争後に新聞紙面にコラムを寄せた高橋是清は、当時の通貨の基本である金本位制をこき下ろした。

 高橋は金本位制を


「中世暗黒時代の遺物、ただちに死すべし、慈悲はない。俳句を読め」


 と表現し、妻子でも殺されたのかと疑いたくなるような書き方で否定した。

 日銀時代に高橋は、金本位制死ね死ね団という品のない名称の会合を主催して、同僚職員と共に管理通貨制度の研究に没頭した。

 高橋の嫌いな言葉はもう一つあり「デフレーション」を憎悪していた。

 1931年に蔵相として世界大恐慌に対応した際に、


「好きなことは、酒と女とデフレを殺すことだ」


 と議会で所信表明するぐらいにデフレを憎悪していた。

 何がそこまで高橋の憎悪を搔き立てたのかは不明である。

 まるで異なる世界で長期の不景気デフレーションによって人生を踏みにじられたかのような激しい憎悪をデフレやデフレーション政策に向けていた。

 高橋の酒好きは有名で、帝国議会に酒を持ち込み、茶碗で酒を吞みながら議会答弁をこなしたことは広く知られている。

 常に飲酒して酩酊状態で生活していたという表現もできる。

 本人によるとまともな状態では、経済と貨幣の深淵なる関係を理解することは不可能で、飲酒によって日常的に頭のネジを緩めることが大切らしい。

 後に昭和帝に経済学を進講したときも、理解を示さない昭和帝に飲酒を勧めている。

 女好きについては、同じ時代に生きた渋沢栄一や伊藤博文に比べればまだ紳士的だった。

 それはさておき、高橋は日露戦争勃発に際して戦費調達のため、金兌換の停止と不換紙幣の発行を提言しているが、受け入れられなかった。

 金本位制とは、一国の貨幣価値(交換価値)を金に裏付けられた形で表すものである。

 つまり、金の保有量=通貨量となる。

 金本位制では国家は金の保有量までしか通貨を発行できないことになる。

 国家存亡の危機に際して20億円の軍事費が必要とされても、中央銀行にある金塊の分しか、その国は通貨を発行できないのである。

 高橋は金本位制を停止し、不換紙幣発行を主体とする戦費調達を主張した。

 前例としては、アメリカの南北戦争が既にあった。

 しかし、これは当時の日本には実現不可能だった。

 なぜなら、不換紙幣の発行、管理通貨制度は通貨の価値(信用)を国家が保障するものであり、明治の日本にはそのような信用はなかった。

 国家としての信用、永続的に日本という国家が存続する保証がなかった。

 そもそも国家主権というものが、20世紀初頭の世界においては普遍的なものとはなっていなかった。

 当の日本が、中国(清朝)の主権を無視して、満州(中国の領土)で戦争をしている時点で、推してしるべしというものだろう。

 欧米列強による非欧米世界の植民地化が極限まで進んだ20世紀初頭の世界において、日本や中国のような非白人国家の主権はある種のフィクションだった。

 よって、日本円の価値を保障するためには、金を担保にするしか方法がなかったと言える。

 また、日本は軍需物資の調達を輸入に依存していた。

 連合艦隊旗艦となった戦艦三笠はイギリスで建造された戦艦で、明治日本にはこのような戦艦を建造する生産力がなかった。

 イギリスからの兵器輸入には外貨(英ポンド)が必要だった。

 日本円では戦艦は買えないのである。

 そして、イギリスは金本位制を採用しており、英ポンドと交換可能な通貨は、同じ金によって価値を担保された通貨でなければならなかった。

 明日にも消滅するかもしれない極東の小国の通貨と大英帝国の通貨を交換するには金を媒介するしかなかった。

 不換紙幣発行による戦費調達は不可能、戦時増税にも限界がある。ならば足りない金は他所から借りてくるしかなかった。

 外債の発行である。

 高橋は日銀副総裁として、イギリスの金融街にて戦時国債の発行に奔走した。

 明日にも消滅するかもしれない極東の小国に金を貸そうとするのは、よほどの博徒か物好きしかいないので、戦時国債の発行は困難を極めた。

 ただし、日本に金を貸したのは博徒でも物好きでもなく、ユダヤ人と鉄道オタクだった。

 高橋は粘り強く反ロシア感情の強いユダヤ系の資本家を説得してまわった。

 ロシア帝国は、ユダヤ人への差別が峻烈を極めており、ロシアと戦う日本にシンパシーを感じるユダヤ人は多かった。

 国際金融財閥クーン・ローブの頭取だったジェイコブ・シフもその一人で、ロシア帝国打倒のために2億ドルものを資金を日本に提供した。

 ユダヤ人のシフは、反ユダヤ主義のロシア帝国を滅ぼすためなら、共産主義者のレーニンにさえ資金提供した。

 また、別の目的から高橋に協力した人物がいた。

 アメリカの鉄道王、エドワード・ヘンリー・ハリマンである。

 ハリマンには夢があった。

 それはユーラシア大陸横断鉄道を自分の手で運行することだった。

 具体的には、東京駅を出発して東海道線を西進、博多からは海路を挟んで釜山へ、京釜線、京義線で朝鮮半島を縦断、さらに大連から東清鉄道で満州を北上し、シベリア鉄道でロシアを横断、東欧、ドイツを通過してフランス、パリ駅で下車するという計画である。

 高橋に鉄道趣味はなかったが、ハリマンは単なるビジネスパートナーではなく、高橋を自分と対等な同志と認めていた。

 何がそれほどまでにハリマンの心を捉えたのかは不明である。

 一説によるとハリマンが、列車の速度限界は何マイルか?と高橋に質問したところ、


「磁気で車体を浮かせれば、300マイル」


 と気宇壮大な回答したことがハリマンを感心させたという逸話がある。

 ちなみに当時の日本の急行列車の速度は25マイル程度だった。 

 シフとハリマンの協力を得て高橋は戦時国債の発行にこぎつけた。

 当初は高利での発行しかできなかったが、陸軍が旅順要塞を攻略すると日本の公債は飛ぶように売れるようになった。

 勝ち馬に乗りたいと考える心理は万国共通だった。

 高橋はそれを利用してより低利の借り換えを実施して、戦費調達の拡大と利払いの低減を図った。

 最終的に高橋が調達した外債は10億円にもなった。

 国家予算の2年分の金を金策した功績により、高橋は不動の名声を築いた。

 勲功として認められ、男爵授爵となった。

 その功績は、戦場における軍功に匹敵すると認められたことになる。

 ただし、本人はさほど爵位には興味を示さず、受勲式の最中に飲酒して明治大帝を呆れさせている。

 高橋は講和会議において、ハリマンに働きかけてセオドア・ルーズベルト大統領の調停を引き出し、賠償金なしの講和を渋る小村に日本が獲得する予定の東清鉄道支線(後の南満州鉄道)の日米協同経営を提案した。

 小村は鉄道利権を折半する高橋の提案に激怒したが、ハリマンが購入した外債2億円について債務放棄の用意があると伝えられると軟化した。

 日本の財政破綻が遠のいたと考えたのである。

 高橋は日本単独の満鉄経営には否定的だった。

 小村がその理由を尋ねたところ、


「25年後に満鉄を爆破する馬鹿が湧くからだ」


 と答えたとされる。

 これは後の満州某重大事件を予見するものだった。

 高橋はロシアの南下政策に対抗するために、満州経営にアメリカを参加させるべきだと考えていた。

 1905年時点で満鉄協同経営を礎とした日英米三国同盟ジャングロアクシズにも言及しているので、その先見性は遥かな未来を見据えていたと言える。

 小村は同盟案を一笑に付したが、賠償金に拘ることは止めた。

 最終的に小村はルーズベルトの斡旋を受け入れて、南樺太の割譲で賠償金放棄に同意した。

 ポーツマス講和条約が結ばれ、日露戦争は終わった。

 賠償金が得られない講和に反対するデモ活動が暴動(日比谷焼き討ち事件)になったので、東京には戒厳令が布告された。

 交渉にあたった小村には殺害予告が送付されたので、帰国した際は総理の桂太郎と海軍大臣の山本権兵衛が護衛役を買って出た。

 もしも爆弾が投げ込まれたら、3人で爆死する覚悟だったと言われている。

 ハリマンと共に満鉄協同経営案をまとめた高橋は売国奴と罵られ、暗殺の危険があるので帰国を先送りにした。

 ほとぼりが冷めたころ秘密裡に帰国した高橋だったが、横浜港で待ち伏せていた右翼団体十数名の襲撃を受けている。

 通報を受けた警官隊が到着したときには、襲撃犯は血の海に倒れており、高橋が生き残りに暴行を加えて背後関係を尋問しているところだった。

 後にマスコミの取材を受けた高橋は、


「俺を殺したいのなら、陸軍1個中隊を連れてくるべきだった」


 と不穏な発言をして桂首相に注意されている。

 さすがに陸軍1個中隊は冗談の類と思われるが、1909年10月26日にハルビン駅にて朝鮮民族主義者の安重根の襲撃を一蹴していることから、高橋が並々ならぬ実力の持ち主だったことは明らかである。

 高橋はアメリカ留学時代にボクシングを学んだとされるが、安重根の頭蓋骨を粉砕したのは左回し蹴りであるため、違うかもしれない。

 詐欺にあって南米の廃坑を買い取って無一文になった際に、廃坑の奥で発見した水晶の髑髏に触れ、殺意の波動を目覚めたという説もある。

 悪魔的に強いことから、本当に悪魔と契約していたという説さえある。

 その後も何度か襲撃を受けた高橋は、自分で相手をするのが面倒になり、原内閣で大蔵大臣に就任すると大蔵省の予算で世界初となる要人警護隊シークレットサービスを組織した。

 要人警護隊の最初の実戦は、1921年11月4日に東京駅でおきた原敬首相暗殺未遂事件で、原首相の身代わりに特別捜査官1名が死亡した。

 九死に一生を得た原首相は、後に山県有朋と伊藤博文の説得を受け入れて元老となり、大正・昭和の政界を支えることになった。

 それはさておき、日本政府は南満州鉄道株式会社を設置して株式を発行、合計4億円の株式を日米同数で購入して資本金とした。

 当時の日本の国家予算が4億円だったことを考えれば、満鉄の経営とは国家経営と同義語だったと言える。

 列強各国は、日米の国際シンジケートによる満鉄経営に大きな関心を寄せた。

 20世紀初頭の世界は、列強国による世界分割が完了し、アフリカやアジアから新たに植民地を獲得できる空白地帯が消えていた。

 その中で日米が始めた国際シンジケートによる植民地経営という実験は、今後の世界情勢を占う上で、参照価値があるものだった。 

 セオドア・ルーズベルトの後に第27代合衆国大統領となったウィリアム・タフトはドル外交を推進し、満州に多額の資本投下を推進した。

 ドル外交とは、前任のルーズベルト政権が推し進めた軍事力を活用した砲艦外交を反省して、アメリカの経済力を用いる対外進出政策である。

 要約すると、大砲ではなくドル札で劣等国をぶん殴るということである。

 政府の後押しを受けてUSスチールが進出した鞍山には巨大な製鉄所が建設され、21世紀現在に至るまで中国最大の鉄鋼生産基地となった。

 また、米国石油大手のスタンダードオイルによって満州の隅々まで探鉱が行われ、黒竜江油田が開発された。黒竜江油田もまた21世紀現在に至るまで操業が続く、中国最大の石油生産基地である。

 日本が獲得した南樺太でも石油生産が始まるが、これもアメリカ企業の技術力がなければ不可能だった。

 満鉄付属地に指定された土地では、米国の穀物メジャーによって大規模農園が拓かれて、大量生産される大豆と高粱、砂糖大根、肉牛が日本人の食生活を根本から変えていくことになった。

 庶民のすき焼き用の肉といえば、今でもマンシュー・ビーフである。

 貧困層であっても、満州産ならコンビーフが買えるというのは、当時としては革命と言うしかなかった。

 満鉄を走る蒸気機関車も全部アメリカ製で、大陸国家の鉄道というものを島国日本に見せつけることになった。

 アメリカ・ドルの力は圧倒的だった。

 満州に翻る星条旗を見た人々は、日露戦争の真の勝者が誰だったのかを知った。

 フランスやドイツの政府高官は日本人の迂闊さを笑った。

 彼らには極東の小国がなけなしの金と屍山血河で贖った利権がなすすべもなくアメリカ資本に飲み込まれていくように見えていた。

 しかし、詳しく実情を見れば、違うものが見えたはずである。

 米国企業の現地法人の大半は日本人によって運営されていたし、下請け企業は概ね日本企業だった。

 満鉄を走る米国製の蒸気機関車を運転しているのも日本人で、その整備を請け負っているのも日本人である。

 その下でキツい下働きをしているのが中国人だった。

 米国資本の現地法人を日本人が運営し、下層労働は中国人に押し付ける。

 それが日米国際シンジケートによる満州経営の実情と言えた。

 確かに最大の利益を得ているのはアメリカ企業ではあるが、日本企業が下請けで得る利益は小さくなかった。

 また、アメリカ企業の下請けをするということは、世界の一流企業の水準に合わせてサービスや商材を納品するということである。

 こうした経験は、日本企業の生産技術や品質管理を飛躍的に発展させた。

 そうしなければ契約を勝ち取ることはできなかったし、元請けのアメリカ企業もまた適宜、必要な指導や援助を施した。

 下請けのレベルが低すぎると自分たちが困るからだ。

 同盟国として、日米の満州経営をかなり深くまで把握していたイギリスは、不協和音を増す欧州情勢を安定化させるため国際シンジケートによる植民地経営を展開できないかと考えた。

 共通の利益を持つことで、対立を回避する道である。

 新しく獲得できる植民地がない以上は、今あるものをシェアするしかない。お互いに求めるところを照らし合わせて、棲み分けを図るのは自然な発想だった。

 然らずんば、列強同士の戦争で相手から奪うしかない

 1914年に欧州列強諸国は後者の道を選んだ。

 




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「ドーモ、デフレスレイヤー=サン。マネージド・カレンシーです。インフレ促すべし。イヤーッ!」 我が意を得たりと思うような作品。応援しております。 大正年代から昭和初期にかけての金本位制復帰の意志(金…
[一言] 色々な意味でタフになった是清か・・・金を支配してる奴が発言力増したら誰も文句言えないな
2024/10/07 20:08 退会済み
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[良い点] 光頭夢稽な大サトー系  真面目と出鱈目  真面目に出鱈目  真面目な出鱈目
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