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ある婦長の独白

作者: 紅月

『ある少女の独白』を読まれたほうが、話をつかみやすいと思われます。

 これからよろしくお願い致します。


 招き入れた少女の目を見たとき、わたくしは一瞬、おぞましいものを屋敷に入れてしまったような気が致しました。それは一瞬のことでございました。彼女は痩せてはいましたが、鶏がらのように細くもなく、臭いもせず、何より礼儀正しかったのです。ああ、あの悪寒は杞憂だった、とわたくしは思いなおし、改めて彼女を他の侍女たちに紹介したのです。小さく笑んだ少女は、幼さがあるものの大人びておりました。


 ええ、ええ、勿論です。彼女は努力家でした。最初こそ失敗は多かったものの、炊事、掃除、マナー。精いっぱい覚えました。今まで教えてきた者の中で、一番覚えがよかったのではないでしょうか。

 わたくしは彼女に教えるのが楽しくて仕方ありませんでした。少女は素直で、スポンジに水が染み込むように物事を吸収していくのです。


 あるとき、何でだったかは覚えておりません。


 そっちは違う道だ、と彼女の腕ではなく、掌を掴んだのです。わたくしは言葉をなくしました。表情ではいつもの顔を作っていたものの、冷や汗が浮き出たのを、少女は気づいていたでしょうか。気づいて欲しくはありませんが……。彼女の掌は、わたくしがそうも驚くほど硬く、ざらついておりました。わたくしはその手を知っておりました。わたくしの息子が軍隊にいるのですが、その息子と同じような手をしていたのです。家事で手が荒れた、というわけではなく、鍛え抜かれて肉刺ができた、戦いの証なのです。

 少女はなにげなくわたくしの手からすりぬけて、いつも通りに振舞いました。いつも通りでした。わたくしだけが、白昼夢でも見たのだろうかと思うぐらいには。ですがわたくしには、あの硬い手を忘れることができませんでした。


 それでも彼女はお屋敷で働いておりました。少女がわたくしたちに危害をくわえるわけではないだろう、と思ったからです。浅はかでしょうか。でも彼女はちゃんとした労働ギルドに署名して職を探していた、国籍持ちです。もしかしたら、どこか遠い国で兵役されていたのかもしれないと思うことにしました。



 ところがその夜、少女は忽然といなくなりました。


 それは夜中のことです。彼女は時折、買い物に出かけたときに寄り道をしていました、そう言って、遅くに戻ってくることがありました。そのときは心配だったので叱ったものの、彼女はわたくしたちにお土産を渡して、これを買いたかったのです、と笑った。それは並ばなくては変えないと評判の、おいしいパンでした。それで許してしまった、というのも現金な話ですが、彼女が潔白の身ならば、仕事にさしつかえなければ少々遅くなっても構わないのではないかと思いました。彼女も若いですし、他人との付き合いもあるのでしょう、と。


 しかし彼女が真夜中にいなくなることは初めてのことでした。わたくしはたまたま、見回りをしているときに、下宿しているはずの彼女がゆったりとした足取りで庭を出て行くのを見てしまったのです。さすがに夜中は危ない、止めなくてはと思い、すぐに追いかけました。……追いかけたつもりです。ですが門を出たときには、すでに彼女の姿はどこにもありませんでした。足音も、何も。悪い夢でも見たかのようです。そう思ったら、嫌な考えが色々と巡りました。彼女は一体何をしているのだろう、と。かわいがっている少女を疑ってしまいました。


 どうしたものか、わたくしは悩みました。探しに行くべきだろうか、と。放っておいても朝には少女が帰ってくる、そんな気はしておりましたが心配だったのです。お節介ともいいましょうか。しばらく考えておりましたが結局屋敷に戻りました。どうしようもなく、怖かったのです。何かを見てしまうような気がして。

 ですがわたくしはその夜眠れませんでした。自分に宛がわれた小さな部屋の椅子に座り、ずっと庭が見える窓のそばにおりました。



 3時を過ぎたあたりでしょうか。門のところに、ちらりと影が見えました。ああ、あの子だ。そう思ったわたくしはすぐに外へ飛び出しました。少女はわたくしの顔を見たとたん、いつも通りに笑顔を浮かべました。いつも通りでした、幸せそうな、ささやかなものに満足するような笑顔をわたくしに見せたのです。それで安心してしまいました。彼女を抱きしめて、どこへ行っていたの、心配したんですよ。そう言えば、少女は困ったように微笑みました。少し疲れたような顔をしておりました。


 心配をかけさせて申し訳ございません。ですが、どうしても行きたいところがあったのです。”思い残したもの”があったのです。今日ではないといけませんでした。お許しください、これが”最後”ですから。


 そう呟いた彼女を、わたくしはどんな顔で見ていたでしょうか。少女はのらりくらりと質問をかわしました。訊いたものの、結局わたくしは彼女がどこへ何をしに行っていたのかを知ることはできませんでした。しかし彼女が無事ならそれでいい、と屋敷の中へ入ることにしました。少女の肩を押して、屋敷の扉を開けました。そのときです。ふわり、とかぎ慣れない臭いが鼻をかすめました。少女はいつも無臭でした、香水もつけることなく、そのままでした。だったらさっきの臭いはなんだったのか。扉を開けた、一瞬だけ臭ったものは……?不安を掻き立てるような臭い。とまどったのがわかったのでしょうか、少女はひたりと歩みを止めました。


 振り向いた少女の目を見た瞬間、わたくしは息をつめました。これもまた一瞬のことでございました。ぞっとするような仄暗い光をやどす目でした。夜だったからなのでしょうか、不気味に思えて仕方がありませんでした。ああ、ごめんなさい、指先が震えて仕方ないのです。あのとき確かにわたくしは、2回目の、何か、そう、おぞましいものを屋敷に招いたような感覚に陥ったのです。


 どうかなさったのですか。


 静かなその声にはっとしました。少女を見ても、悪寒など感じません。少し風邪を引いてしまっていたのでしょうか。ええ、きっとそうなのです。だから肌が寒い気がしたのです。わたくしはふたたび、少女の肩を押して夜の廊下を歩いて行きました。




 訊きたいことはそれだけですか?


 なんだって、あの子のことを訊きたがるのですか。確かに、さきほども言った通り、不自然なこともございました。しかしそれだけ、夜中に一度出かけたというだけです。彼女は潔白です。今も素晴らしい働きをしてくれているのです。わたくしが感じたものは杞憂でしょう、そう言っておりますのに。


 ……そうですか、言い訳に聞こえますか?それもそうでしょう、言い訳をしていますもの。気付いていないふりをしていた、それだけのことでございましょう?ああ、その銃をどけてはくれないものでしょうか。

 わたくしは殺されるのですか。あなたがたが言った通りに、わたくしが見たことを、お話を致しましたでしょう。満足はしていただけないのですか。全部知っていたのかって?知っていたのはあの子の暗い部分だけでございます。それこそ、わたくしをここへ連れてきたあなたがたのほうがご存じでは?

 

 いいえ、わたくしはあの子が好きですよ、あなたがたが言うように、ひどいことをしていても。長く一緒にいると、可愛く思えてくるのです。ひどいこと、ですか……ならば、それを見て見ぬふりしたわたくしは、どれだけ罪深いことでしょう。ひどいこと。それを知ったら、わたくしはあの子を嫌うと思ったのですか。いいえ、いいえ。違います、怖いとは思いますが、それだけです。


 だって、このくたびれた街では、よくある話でございましょう?


 あなたがたの話が本当ならば、あの子はここに来るでしょう。もしかしたらわたくしも殺されるのかもしれません。ですが、誰が怨むことができましょう。わたくしはあの子に少なからず、そう、今、助けを求めているのですから。


 ……?あら?どうしたのですか、黙って……。

 ああ、来たのですね。わたくしの可愛い子。


 ねえ、早くお屋敷に帰らなきゃだめよ。1時までに帰らなければ、旦那様にどやされてしまうわ。

 え?そう……わたくしを助けに来てくれたの……。

 わたくしの為に銃を持ってくれたのね。ならわたくしたちは共犯だわ。そうでしょう?最後にするって言ったこと、きっとその銃のことでしょう? 


 ごめんなさい、ありがとう、大好きよ。

 うふふ、そうね、あなたの言うとおりだわ。

 ”このこと”はわたくしたちだけの秘密にしてしまいましょう。そうよ、よくある話、ですものね。


 本当はね、最初からわかってはいたのですよ。これでも色々な人を見てきたつもりですもの。でもね、灯りの中で仄暗さを見つけてしまえば、それが気になってしかたないの。ねえ、そうでしょう?


 さあ、帰ったら皆に謝らなくてはね。パンを買って行きましょう。



語り口調の話は書いていて楽しいです。

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