7、けんか両成敗
梅雨が開けて、いよいよ本格的な夏が始まろうとしていた。
その日は朝から蒸し暑くて、まとわりつく汗にウンザリしていた。
外では日陰で顔にハンカチを当てたり、携帯用の扇風機で暑さをしのぐ人、自販機でペットボトルのお茶やお水を飲んで水分補給をする人など、様々であった。
私と游子が暑さと戦いながら患者の対応をしているころ、綾子と蘭子は施設の車に乗って市が尾駅前のスーパーで買い物をしていた。
「あんまり長時間外に車を置いておくと、警察がやってくるから早めに済ませようよ」
蘭子は不安そうな顔をして綾子に早く買い物を済ませるよう促した。
綾子と蘭子は去年の春に運転免許証を取ったばかりなので、出来たら違反切符を切られないよう注意を払っていた。
「もう少しで終わるから」
「ねえ、帰りは蘭子が運転をしてよね」
「分かっているって」
蘭子は綾子の不安そうな顔などお構いなしに、マイペースで買い物を続けていた。
「じゃあ、レジに向かうよ」
会計を済ませた蘭子と綾子は買ったものをレジ袋に入れたあと、車に戻ってエンジンをかけた。
「ねえ、次からはちゃんと駐車場に止めよう」
「駐車料金どうするの?」
綾子が穏やかに言ったら、蘭子はハンドルを握りながら駐車料金のことを心配し始めた。
「それなら、経理の人に請求すればいいじゃない?」
「あのおばちゃん、いい顔をしないよ」
「警察に捕まるよりマシだと思えばいいじゃん」
「確かに……」
蘭子は今一つ納得のいかない顔をしていた。
施設まで車を走らせた蘭子は入口で止めて、買ってきた荷物を次々と降ろしていった。
「お疲れ様」
中から施設の人たちがそう言いながらやってきて、次々と荷物運びを手伝い始めた。
荷物を運び終えた蘭子と綾子は施設長に買い物の領収書を渡して、業務に戻ろうとした時だった。
施設長は見た目は60歳近い白髪交じりの眼鏡をかけた男性で、とても穏やかな性格の人だった。
「ちょっと待ってくれ」
そう言いながらキャビネットの扉を開けて一枚のビラを綾子と蘭子に見せた。そこには<町内会主催、下市が尾盆踊り大会>と書かれていた。
「施設長、これは?」
綾子はまだ理解してないせいか、施設長に質問をした。
「実を言うと、うちの施設も参加しようと思っているんだよ」
「でも、ここって下市が尾なので少し距離がありますよ」
「車で行けばどうってことのない距離だろ。車は3台あるから、蛭沼さん、蟻塚さん、私の3人で運転すれば問題ない。それに今年は思い切って盆踊りに参加してみようと思うんだよ」
「でも、中には車椅子の人もいますよ」
綾子は未だ納得のいかない顔をして意見をした。
「車椅子の人はそのまま屋台でも楽しんでもらえればいいよ」
「あと、気になりましたが、車で行くのはいいのですが、止める場所はあるのですか?」
「あ、それなら心配ないよ。神社の人に無理を言って3台分のスペースを確保してもらったから」
「そうなんですね」
綾子は引きつった表情で返事をした。
「これって必ず全員参加となるのですか?」
今度は蘭子が質問をしてきた。
「いいや、これは強制じゃないから残りたい人は残っても構わないよ。夏休みだし、ご家族が会いに来る人もいるから」
「そうなんですね」
「あとで回覧を用意するから、見てもらったらハンコかサインをもらってくるように」
「分かりました。それでは、私たちはこの辺で失礼します」
綾子と蘭子が廊下を歩いていたら、早速盆踊りの話題が出ていた。
「柏葉さんは盆踊り大会に行きますか?」
1人のおじいさんが声をかけた。
「わしは行かないよ。見ての通り車椅子に乗っているから、みんなとは踊れない」
「ま、そう言わずに一緒に楽しまないか?」
「ああいう場所は、若い人間が楽しむ場所だ。年寄が行くとみんなが嫌がる」
「そんなことを言わずに一緒に楽しもうじゃないか」
今度は横から博康さんが声をかけてきた。
「わしはご覧の通り、みんなと違って足が不自由だ。元気に歩いている人間には、このつらさがわかるまい」
「総一郎さん、これはただの甘えだ。年を取れば若いころのように元気に歩けない人が出てくる。現に杖を頼らないと歩けない人だって多数いる。私もいつ車椅子や杖の世話になってもおかしくない」
博康さんは総一郎さんの前で厳しいことを言ってきた。
「ほっといてくれないか」
「総一郎さんがそれを望むならそれも構わない。でもふてくされたお前さんを見ても構ってくれる人なんていないよ。一言だけ言っておく。お前さんは車椅子に乗っていることを理由に逃げているだけだ。ま、どうしても参加したくないと言うならこれ以上の無理強いはしない」
博康さんが部屋へ戻ろうとした時だった。
「来るんだよ」
「誰が来るというのかね?」
「孫が遊びに来るんだよ」
「そう言うことだったのか。それならお孫さんも一緒に連れて行ってあげたらどうかね。そのほうが賑やかになると思うよ」
「そうしたいのは山々だが、かえってみんなに迷惑をかけるだ」
「どうしてお孫さんが見えると迷惑になるのかね?」
「人ごみの場所だ。絶対に迷子になるに決まっている。わしはご覧の通り車椅子だから、探すのは困難だ」
「そうなったら、みんなで探せばいい。そうだよな」
博康さんはみんなに同意を求めた。
「失礼ですが、お孫さんは今おいくつなんですか?」
「今年の4月に6歳になったばかりだ。すぐに迷子になって大泣きする。だから一緒に連れていくことは出来ない。仮に他の人に頼むにしても、みんなは盆踊りに参加するから無理だ。だから、わしはここに残るよ」
「なら、私があなたのお孫さんの相手をさせてもらうよ」
博康さんが総一郎さんの孫の世話役を買って出た。
「博康さん、これじゃ悪いですよ」
「気にしないでください。困っている時はお互い様ですよ。それに私は人前で踊るのが苦手ですから」
「総一郎さん、私たちを忘れては困りますよ」
今度は近くで聞いていた綾子が口を挟んできた。
「お嬢さんたちにまで迷惑をかけるわけにはいかないよ」
「水臭いことを言わないでください。そのためのヘルパーなんですから」
今度は蘭子までが口を挟んできた。
「私たちだけでは心細いですか?」
綾子は総一郎さんの顔を覗き込むような感じで聞いてきた。
「いや、そういうわけではないが……」
「そういう時くらい、私たちに甘えてください」
綾子は自身満々に言ってきた。
「そういえば、息子さん夫婦がいるって以前おっしゃっていましたが……」
蘭子は総一郎さんの家族のことが気になったので聞き出してしまった。
「健太郎のことか。あいつは家より仕事最優先だから当てにならん」
「では、息子さんのお嫁さんは?」
「小百合さんのことか。知らん!」
「息子さんのお嫁さんと何かあったのですか?」
「小百合さん、驚異の博打うちだから好きになれないんだよ」
博康さんが苦笑いをしながら口を挟んできた。
「と、なると、借金をされているのですか?」
「その反対。儲かっているんだよ。宝くじも一等を当てているくらいだから、相当な強運の持ち主なんだよ」
「ちなみにお仕事はされていないのですか?」
「一応、派遣会社で働いているんだけど、総一郎さんとは肌が合わないみたいで……」
「そうなんですね。では、来るとしたらお孫さん1人で見えるのですか?」
「分からないが、おそらく息子さんの車に乗ってやってくる可能性が高いと思うよ」
「そうなんですね」
「では、我々は当日に向けて準備を始めるから、君たちも早く仕事に戻ったほうがいいよ」
博康さんに言われて、業務に戻ろうとした時、班長の川添麻衣子さんが綾子と蘭子を探しにやってきた。
「2人とも何をやっていたの。やることたくさんあるんだから、油を売るなら休憩時間にしてくれる?」
「すみません……」
綾子はとっさに謝った。
「ところで、2人は何をやっていたのかな?」
「サロンでおじいさんたちと一緒にお話をしていました」
「あのね、あなたたちのお仕事はおしゃべりじゃなくて、身の回りのお世話をすることでしょ?」
「そうでした……」
綾子は声を低めて返事をした。
「おしゃべりをしてお金を儲けたかったら、タレントになってトーク番組に出なさい」
「気をつけます……」
「じゃあ、私は洗濯ものを取り込むから、蛭沼さんと蟻塚さんはシーツの交換をしてくれる?」
「わかりました」
綾子は蘭子を連れて倉庫にある手押しのワゴンを用意して、新しいシーツを積んだあと、部屋を回ってベッドのシーツ交換をし始めた。
交換している最中も、綾子は総一郎さんと博康さんの会話が気になって満足に集中できない状態だった。
「綾子、どうしたの?」
気になった蘭子は綾子に声をかけた。
「さっきの総一郎さんと博康さんの会話がきになって……」
「もしかして、お祭りのこと?」
「うん……」
「お孫さんが見えたら、私たちが面倒を見ればいいんじゃない?」
「そうだけど……」
綾子は何かが引っかかっている感じがしていた。
「何か引っかかることでもあるの?」
「そうじゃないけど……」
「じゃあ、なんなの?」
「お孫さんが見えても総一郎さん、いい顔しないと思うの」
「なんで?」
「総一郎さん車椅子だし、お孫さんが1人で見えても面倒見られないと思うんだよ」
「だったら、私たちが面倒見ればいいじゃない。そのためのヘルパーなんだし」
「蘭子、ここは託児所じゃないんだよ」
「分かっているわよ。子どものお世話はついでって感じでいいじゃん」
「ついでって……」
綾子は呆れて何も言えなくなってしまった。
「とにかくお孫さんが見えたら、私たちが世話をすればいいじゃん」
蘭子はすっかりマイペースになっていた。
「この部屋で最後だよね」
綾子は蘭子に確認をとった。
「うん」
「じゃあ、外したシーツを洗濯機に持って行こうか」
綾子は蘭子と一緒に洗濯機のある部屋に持って行って、大きな縦ドラムの洗濯機に入れて洗い始めた。洗っている間、お部屋や廊下の床に掃除機をかけていたり、モップ掛けなどをしていた。
掃除が終わるころ洗濯機も終わっていたので、ベランダで干したあと、今度は盆踊りの練習に付き合いはじめた。
タブレット端末の音楽プレーヤーからは、どこかの民謡ぽい曲が流れて、それに合わせてみんなで踊りの練習を始めた。
「あれ、総一郎さんは練習に参加されないのですか?」
「わしは車椅子だから踊れん!」
総一郎さんは、ムスっとした表情で返事をした。
「せめて上半身だけでも……。当日はお孫さんも見えるから少しだけでも……」
博康さんは少し遠慮がちに言ってみた。
「孫にこんな情けない姿を晒せと言うのか?」
「そうじゃないけど……」
「博康さん、これ以上の無理強いは本人のためになりませんよ」
その時、1人のおばあさんが止めに入ってきた。
「そうだな……」
博康さんは、諦めた感じで返事をした。
その日の仕事を終えて、綾子と蘭子はマンションに帰ろうとした時だった。
「2人とも待ってくれる?」
後ろから班長が声をかけてやってきた。
「班長、お疲れ様です」
「2人はこのあとどうするの?」
「私は疲れたから、家に帰ります」
綾子が疲れきった顔をして家に帰ろうとした時だった。
「よかったら帰る前にファミレスで食事をしない? 私が全部おごるから」
「いいですね、行きましょう」
蘭子だけが乗り気満々だったので、綾子は仕方なしに付き合うことにした。
駅前のファミレスに行くと仕事帰りのスーツ姿のサラリーマンが何人か座って食事をしていた。
ウエイトレスに席を案内されて、綾子たちは大きなメニューを広げてどれにするか選んでいた。
しかし、綾子だけがメニューを広げるなり、「どれもおいしそう」と独り言を呟きながら迷っていて、なかなか決まらない状態でいた。
「綾子、決めた?」
「まだあ」
蘭子の質問に綾子はメニューを見ながら返事をした。
「みんなおいしそうだから、迷っちゃうよね」
班長も苦笑いをしながら綾子にフォローしていた。
「私、グラタンとサンドイッチのセットにする」
最初に決めたのは蘭子だった。
「私はイクラ丼にしようっと」
次に決めたのは班長だった。
「私はナポリタンのスパゲティにする」
最後に決めたのは綾子だった。
「ねえ、ドリンクバーはどうする?」
蘭子はみんなに確認をとったら、2人は「飲む」と返事をした。
注文をとり終えた直後、順番でドリンクバーに行って、サイダーやオレンジュースなどをテーブルに持って行って飲み始めた。
「綾子、随分と変わったものを飲んでいるんだね」
蘭子は綾子が飲んでいるものを見て珍しがっていた。
「これ? ほうじ茶だよ」
「ほうじ茶って、年寄じゃないんだから。それともお仕事で年寄と仲良くなったから、好みまで年寄ぽくなったわけ? ハハハハハ……」
蘭子は笑いながら、綾子に突っ込みを入れていた。
「そうじゃないけど……、さっぱりしたものが飲みたかったから……」
「そうなんだね。しかし、ほうじ茶とは以外だったよ。私、綾子のことだからコーラとオレンジュースを混ぜたのを持ってくるのかと思っていたよ」
蘭子はすっかり悪乗りになっていた。
「なら、試しに飲んでみる?」
「遠慮しておくよ」
綾子が真顔で言ってきたので、蘭子はあわてて断った。
「遠慮しなくていいんだよ。飲みたいんでしょ?」
「飲みたくないよ」
「じゃあ、持ってくるね」
「待って、本当にいらないよ」
「うそ、冗談よ」
「勘弁してよ」
「私のことを笑ったから、これであいこ」
綾子の冗談とわかったとたん、蘭子は急に肩の力が抜けてしまった。
「蘭子ちゃんのあわてぶり、写真に納めておけばよかった」
今度は班長までが口を挟んできた。
「班長までグルにならないでよ」
「私は横でスマホをいじりながら、2人の会話を聞いていただけよ」
班長は無関係な顔をして2人を見ていた。
「綾子、真顔でジョークを言うのをやめてよね」
蘭子は「してやられた」っていう顔をしていた。
「お待たせしました、グラタンとサンドイッチのセットでございます」
「私だ」
ウエイトレスが蘭子の前に料理を置いたあと、別のウエイトレスがイクラ丼とナポリタンのスパゲティを置いていったので、いっせいに食べ始めた。
「ねえ、デザート頼んでもいい?」
蘭子は食べながら、綾子と班長に確認をした。
「私に聞かなくても、自分で注文したら?」
綾子が冷たく答えたので、蘭子としては今一つ面白くない感じになっていた。
「そんな言い方をしなくてもいいんじゃない? 私は食べるなら一緒に頼んであげようと思っただけなんだけど」
食べ終えた蘭子は綾子に突っかかってしまった。
「それなら自分で頼むから結構です」
綾子もどこか面白くない顔をしていた。
「せっかくみんなで食事をしているんだから、もめ事はやめにしよ」
それを見ていた班長は、慌てて止めに入ってきた。
「私、やっぱデザート食べない」
蘭子は完全に不機嫌な言い方になっていた。
「別に頼めばいいじゃん」
綾子もどこか面白くない感じで返事をしてしまった。
店を出た2人は班長にお礼を言ったあと家に帰ったのはいいのだが、終始無言のままでいた。
しかも厄介なことに住んでいるマンションも一緒だったので、部屋の中でも終始無言のままでいた。
「あんた、疲れているんでしょ? 先に風呂に入ったら?」
蘭子は不機嫌な言い方で綾子に風呂を勧めた。
「言われなくても入りたい時に自分から入りますので、ご心配なく」
「そんなことを言って、そのまま寝ないでよね」
「蘭子だけには言われたくないから」
「私がいつ風呂に入らないで寝たって言うのよ」
「いつもそうじゃん。『疲れた』と言って、そのまま寝ているし」
「綾子だってそうでしょ?」
「私は誰かさんと違って、ちゃんと毎日入っています。言っておくけど、明日汚い体で年寄に近寄ったらダメだからね」
「言われなくてもそうします」
「だったら、蘭子が先に入ったら?」
「私が先に入るのは構わないけど、待っている間に寝ないでよね」
蘭子もけんか腰で綾子に言ってきた。
「ちゃんと起きていますから、早く入ってきてください」
蘭子が怒りマックスの状態で風呂に入っている時、綾子も終始不機嫌のままでいた。
風呂から上がって、居間に入ると綾子がテレビを見ながらウトウトとしていたので、カチンときた蘭子は頭をバチーンと平手で強く叩いた。
「叩くことないでしょ!」
「あれほど『寝るな』と言っておきながら寝やがって!」
「仕方がないじゃん。疲れているんだし」
「だから、『先に入れって』言ったでしょ。それを私に先に入らせたとたん、このざまか。呆れたよ!」
「だったら入ればいいんでしょ!」
綾子は替えの下着を持って、そのまま風呂に入った。
「蘭子のバカ。人のこと言えないくせに」
綾子は湯船でブツブツと文句を言い続けていた。
体を洗って、シャンプーを済ませ、再び湯船で体を温めたあと、風呂から上がって冷蔵庫からジュースを飲もうとした時だった。
「あ、これ私の!」
よく見ると、ペットボトルには蘭子の名前が書いてあった。
「あ、ごめん。知らなかった」
「知らなかったで済むか、ボケ!」
蘭子の怒りは再び復活した。
「そんなに怒ることないじゃん。明日買ってくるから」
綾子の淡々とした返事に蘭子の怒りは頂点に達していた。
「いい度胸しているじゃん、私にけんかを売っているの?」
「別に? 私普通に謝っているだけじゃん」
「謝って済むなら警察なんていらないわよ!」
「だから、明日買ってくるって言ってるじゃん。私に何を求めているわけ?」
綾子も蘭子の相手に疲れが出ていた。
しかし、食べ物ならぬ飲み物の恨みは怖くて、蘭子はずっと綾子を睨み続けていた。
「蘭子、私にどうしてほしいの? 明日買ってくるって言っているじゃん。そりゃあ、間違えてアンタのジュースを飲んだことは謝るけど……」
「そう言って、前にも私のプリンを無断で食べておきながら、買わないで逃げたわよね?」
「逃げてないよ。次の日新しいのを買って謝ったじゃん。だから、今回もちゃんと弁償するよ」
「本当に?」
「蘭子、私が言うのも変だけど、ちょっと大人げないんじゃない? たかがジュースやプリンごときで、何へそを曲げているの?」
「それって反省してない証拠だよね? 私のプリンだけじゃ飽き足らず、今度はジュースまで手を出したんだよね?」
「じゃあ、こうしようか。今度は部屋を別々にする? それなら文句ないでしょ? 当然、管理費や食費、水道光熱費などは別々にさせてもらうわよ。 もう子どもじゃないんだから、これくらい考えて動いてちょうだい。私、疲れたから寝るね。あんたも遅くならないうちに早く寝なさい」
綾子はそのままベッドに入って寝てしまった。
しかし、今の蘭子は泣き面に蜂状態。スマホを取り出して、私や游子、雪子に愚痴をこぼそうとしたが、時計を見た瞬間、夜の10時近くになっていたので、電話は控えようと思った。
「私も寝ようっと」
蘭子もパジャマ姿になって、そのまま寝てしまった。
翌朝、綾子はすでに着替えて食事を済ませて、出発出来る状態になっているにも関わらず、蘭子だけ気持ちよく寝ていた。時計を見たら朝の8時を回っていたので、綾子は起こそうとしたが、昨日の今日だったので一瞬のためらいが出てしまった。
しかし、このまま放っておくと班長に怒鳴られるのは確実だったので、綾子は意を決して起こすことにした。
「蘭子、もう8時だよ」
しかし、起きる気配がまったくなかった。
「蘭子、起きてよ。早くしないと班長に怒られるよ」
今度は体をゆすりながら起こした。
「うーん」
蘭子は寝返りをしたもの、起きようとしない。仕方ないので、自分の部屋からボイスチェンジャーマイクを用意して、隊長の声で「起きろ、いつまで寝ているんだ。とっくに集合時間過ぎているぞ!」と大声で怒鳴るような感じで起こしてみた。
その時だった。「隊長、すみません!」と言って、瞬時に起き上がって、くノ一部隊の制服を着て部屋から出てきた。
「綾子、隊長は?」
「隊長? いないわよ」
「じゃあ、さっき聞こえた隊長の声は?」
「それなら、このマイクで隊長の声に変えてみたの」
「騙したわね!」
「人聞きの悪いことを言わないでよ。私は蘭子が起きないから、起こしてあげたんでしょ?」
「普通に起こせばいいじゃない!」
「普通に起こして起きなかったから、この方法で起こしたんでしょ?」
「おかげで、くノ一部隊の制服を着る羽目になったじゃない!」
「自業自得でしょ? とにかく今日はこの制服で出社しなさい。じゃあ、行くわよ」
「ちょっと待って朝ご飯は?」
「食べていたら、遅刻するわよ」
綾子はそう言って一足先に出ていってしまったが、蘭子は目の前のトーストがどうしても気になって仕方がなかった。
「蘭子、何をしているの。行くわよ」
綾子は不機嫌な言い方で、蘭子を急かした。
「もう、おかげで何も食べられなかったじゃない!」
「自業自得でしょ」
「それなら、もっと早く起こしてよ」
「起こしたでしょ? でも誰かさんが起きなかったじゃない」
「じゃあ、何時ごろ起こしたって言うのよ」
「8時前」
「綾子は何時に起きたの?」
「私は7時過ぎに起きて着替えと食事を済ませたわよ」
「自分だけ早起きしてズルい!」
「そんな言い方をするなら、蘭子も早く起きればいいじゃない!」
「一緒に起こしてくれたっていいでしょ?」
「社会人にもなって、自分で起きられないの? 普通はアラームをセットして自分で起きるんでしょ? 蘭子は昔からそうじゃない。部隊にいた時もしょっちゅう隊長に起こされてばっか」
「今、それを言う? 綾子だって昔は寝坊していたじゃない」
「蘭子ほどじゃないわよ。あんたなんか隊長に叱られたその夜に夜更かしなんかしているんだから」
「綾子だって夜中に他の人とパジャマパーティをやっていたくせに」
「私は1人で起きられない誰かさんと違って、夜更かしをしても次の日にはちゃんと自分で起きられるから」
「……」
しかし、これ以上蘭子は何も言い返せなくなった。
「どうしたの? 悔しかったら何か言い返してごらんなさい」
さらに綾子がとどめを刺してしまったせいなのか、蘭子は何も言わずに走り去ってしまった。
「蘭子、待って」
綾子もそれに続くように、走って追いかけていった。
施設へ着くなり、2人が更衣室へ入った直後のことだった。
「蟻塚さん、今日は珍しい格好しているわね」
隣で着替えをしていた班長が珍しそうな顔をして話しかけてきた。
「これ、私が以前所属していた戦闘部隊の制服で、とても思い出深い服なんです」
「なんでそんなものを着てきたの?」
班長は不思議がって蘭子に聞いた。
「これには深い事情があって……」
「どんな事情なの?」
「誰かさんが、ボイスチェンジャーのマイクを使って隊長の声で私を起こしたからなんです」
「そうよね、いつまでも気持ちよさそうに寝ていて、起きない人がいたから私は仕方なしにやったのよ」
綾子はイヤミたらしく蘭子に言ってきた。
「まだ私とやるって言うの?」
蘭子も怒りをむき出しにして綾子に言い返した。
「怒るくらいなら、自分で起きたら?」
「誰も起こしてほしいって言ってないじゃん」
「あ、そう。そういうことを言うなら、もう起こさないから。寝坊して遅刻しても責任とらないわよ」
「ちょっと、けんかはやめてくれる?」
班長はあわてて止めに入ったが、2人のけんかは収まる気配がなかった。
「仕方ない、朝礼が終わったら2人とも事務所に残ってくれる?」
「でも、今日の業務が……」
蘭子は心配そうに班長に言った。
「こんな状態でお仕事をされても、お年寄たちがビックリされるだけでしょ?」
「……」
蘭子は何も言い返せなくなった。
「とにかく、終わったら残ってちょうだいね」
「分かりました」
蘭子は渋々と返事をした。
「あんた、バカじゃないの?」
「バカってなによ!」
綾子の一言に再び蘭子はカチンときてしまった。
「あんた、自分が不機嫌だということに自覚してないでしょ?」
「そんなの、綾子に言われたくないわよ!」
「2人ともけんかをしない」
班長は再び止めに入った。
朝礼を終えて、蘭子と綾子は班長と一緒に事務所に残った。
「さて、けんかの原因を聞かせてもらおうかしら」
班長は椅子に座って足を組みながら、蘭子と綾子に聞き出した。
「実は昨夜のファミレスの出来事が原因なんです……」
もしかして、デザートを注文しようとした時の話?
「はい、そうです……」
蘭子は言いづらそうに班長に返事をした。
「確か蟻塚さんが、蛭沼さんに『デザート』をどうするか否か聞いた時だったよね? そうしたら蛭沼さんが冷たく返事をしたから、いざこざになったんだよね?」
「はい、そうです……」
蘭子が答えた瞬間、班長はため息をついてしまった。
「そもそもの原因って、蛭沼さんだったんじゃない?」
「すみません……」
「この分だと、家に帰ってもけんかは続いていたって感じだね」
班長の勘は鋭かった。
「はい、お風呂の順番や冷蔵庫に入っていたジュースを無断で飲んだこと、朝の起こし方などで……」
「呆れた」
班長は再びため息をつきながら答えていた。
「班長、ため息ばかりついていたら幸せが逃げますよ」
「大きなお世話だ。っていうか、誰のせいだと思っているの」
班長は綾子の発言に完全に呆れかえってしまった。
「すみません……」
綾子はとっさに謝ってしまった。
「今回の件、完全にプライベートのことだから私はこれ以上のことは何も言わないけど、とにかくこのままけんかが続くなら、悪いけど今日は帰ってもらいたい。どうする?」
蘭子と綾子はしばらく考えた。
「私、今仲直りをします。ごめんなさい」
蘭子がとっさに謝ったので、綾子はびっくりした反応をしてしまった。
「私こそ、ごめん……」
綾子もボソッと一言謝った。
「じゃ、二度とけんかをしないね?」
班長も厳しい目つきで蘭子と綾子に確認をしたら、2人は何も言わずに黙って首を縦に振った。
「じゃあ、この場で握手をしなさい」
班長に言われ、蘭子と綾子はその場で握手をして話を終わらせた。
現場に入っても2人の無口は続いていた。
「おや、いつも楽しそうに会話をしているのに、今日は珍しく無口なんだね」
盆踊りの練習を終えた博康さんは何かを察したように、蘭子に聞き出した。
「いえ、そんなことはありません」
「うまく隠したつもりかもしれないけど、本当は何かあったんでしょ?」
「本当に何もありません」
「蘭子ちゃん、私くらいの年齢になると相手が何を考えているのか分かるようになるんだよ。さ、正直に話してごらんなさい。もし、ここで話しづらいのなら私の部屋で話そうか」
「はい……」
博康さんは顔をにこやかにして、蘭子を自分の部屋に連れて行った。
「さ、何かあったんでしょ?」
「いえ、本当に何もありません」
「綾子ちゃんとけんかをしたのは分かっている。正直に話してくれないか?」
蘭子は観念して、昨日からの出来事をすべて博康にさんに話した。
「なるほどね、まずはレストランで蘭子ちゃんがデザートを勧めた時に冷たく返事をしたこと、風呂上りに無断で蘭子ちゃんのジュースを飲んだこと、これは完全に綾子ちゃんが悪いよ」
「でも、そのあと弁償してくれると言ったのですが、私がつまらない意地をはってしまったので……」
「そっかあ……。でもその場合、素直に甘えたほうがいいよ」
「おっしゃる通りです。でも、朝礼のあとにきちんと仲直りをしましたので……」
「その割には無口のままじゃないか」
「なかなか、元の状態に戻すのは難しいです」
「そうだよな。あとは時間がどうにかしてくれるよ。仕事中に引き留めて悪かった」
「いえ、とんでもございません」
「本当に困ったことがあったら、いつでも相談しにきてくれ」
「分かりました」
蘭子が博康さんと話していたころ、綾子も総一郎さんの部屋で同じような展開になっていた。
「なるほどね、こんなことがあったんだね。しかし、蘭子ちゃんも大人げないよ。たかがジュースを飲まれたくらいで……」
「悪いのは私なんです。蘭子が風呂上りに楽しみにしていたジュースを私が無断で飲んでしまったので……」
「確かに、無断でジュースを飲んだ綾子ちゃんも悪い。だからと言ってへそを曲げ続ける蘭子ちゃんもどうかと思ったよ」
総一郎さんはため息交じりで綾子に話した。
「ですから、今日弁償しようと思ったのです」
「綾子ちゃん、実際のところどうしたいと思っている?」
「実際のところと言いますと?」
「蘭子ちゃんと仲直りをしたいのかね?」
「はい……、仲直りをして元の生活に戻りたいです」
「なら簡単だよ。相手から謝ってくるのを待つのではなく、自分から謝ったらどうかね」
「分かりました……」
「もうじき孫がここにやってくる。こんなところを見せたくない。もし、このまま仲直りが出来ないと言うなら、班長さんとかけ合ってどっちかを自宅謹慎、もしくは辞めてもらうようお願いしようと思っていたよ。でも、ちゃんと仲直りが出来ると言うなら話は別だ」
「分かりました……」
総一郎さんの厳しい言葉に綾子は、これ以上何も言えなくなってしまった。
お昼の食事が済んで、蘭子と綾子はサロンでお年寄たちの前で改めて仲直りをすることにした。
「蘭子、昨日はごめん……」
綾子は短い言葉で蘭子に謝った。
「私のほうこそ……」
「実はさっき、近くのコンビニで買ってきたの」
綾子はそう言って、コンビニで買ってきたものをそのまま蘭子に渡した。中を見ると、ジュースとプリン、そして小さな手紙が入っていた。広げてみると<蘭子、昨日はごめん。これで許してちょうだい>と短く書かれていた。
「綾子、ありがとう」
蘭子は思わず綾子に抱きついてしまった。
「蘭子、みんなが見ているんだから、この辺にしてよ」
綾子は少し照れた顔をしていた。
「じゃあ、これで解決だね。君たち、もうけんかはだめだよ」
総一郎さんが穏やかな表情で言ってきた。
「ま、けんかするほど仲がいいって言うじゃない。私も昔は亡くなった婆さんと一緒にけんかをやっていたよ。今日の2人を見ていたらあの頃を思い出したよ」
博康さんも苦笑いしながら答えていた。
「博康さん、ちょっと不謹慎ですよ」
総一郎さんが注意に入ってきた。
「ま、固いことを言うなよ」
「あなたたち、ここにいるお年寄たちに迷惑をかけたんだから、何か言うことあるんでしょ?」
横にいた班長が蘭子と綾子に言ってきたので、2人で「私たちのけんかのためにご迷惑をおかけいたしました。本当に申し訳ございません」と頭を下げて謝った。
「いいんだよ、我々はもう気にしてないんだから。それより2人がきちんと仲直り出来て何よりだよ。これに懲りて、もうけんかはするなよ」
総一郎さんの厳しい言葉に2人は何も言えなくなってしまった。
「さあ、仲直りの儀式はここまで。みんなは盆踊りの練習よ。あなたたち2人はそのまま自分の持ち場に戻りなさい」
班長は手を数回叩いて、それぞれの持ち場に戻した。
お年寄たちが練習中の間、総一郎さんだけが車椅子に乗って庭に出ようとしたので、蘭子も一緒に出ようとしていた。
「そういえば、もうじきお孫さんが見えますよね」
「ああ」
「確か6歳とおっしゃっていましたが……」
「そうだ」
「どんな、お孫さんなんですか?」
「まあ、顔は嫁さんにそっくりで、性格は息子にそっくりだからすぐに甘えてしまう」
「きっと可愛いでしょうね」
「まあ、どこにでもいるような甘えんぼさんだ。あのバカ息子がすぐに甘やかすから、手に負えなくなっているんだよ。だから今回のお祭りだって反対だったんだ。だいたいお祭りの時、どうするんだ。我々と同じ車に乗れと言うのか?」
「一応そのつもりで考えていました」
「孫が乗ったら、他の人が乗れなくなるのが分からないのかね?」
「その辺はどうにかします」
「なら、わしは行かん」
「お孫さんはどうされるのですか?」
「孫は私と一緒に留守番をさせるよ」
「それじゃ、お孫さんがかわいそうです」
「なら、わしだけ残る。孫の世話は蘭子ちゃんたちに任せるよ」
総一郎さんは完全に機嫌を損ねてしまった。
「お部屋に戻りましょうか」
蘭子はそう言って、車椅子を押して部屋に連れて行った。
「あとは自分でやるから下がってくれないか?」
「分かりました。何かありましたら呼んでください」
蘭子はそう言って、総一郎さんを部屋に置いて自分の作業に戻ってしまった。
その日の仕事を終えて、蘭子は綾子と一緒に帰ることにした。
「お疲れ、帰ろうか」
「うん」
2人はすっかり仲直りしていて、今朝のけんかが嘘のようになっていた。
「総一郎さんの頑固、相変わらずだったよ」
蘭子はため息交じりで綾子に言った。
「もしかして、お祭りのこと?」
「うん……」
「お孫さんが見えるから、一緒にどうかなって思ったから……」
「総一郎さんが車椅子に乗るようになった理由、分かる?」
綾子はため息交じりで蘭子に訪ねた。
「足が不自由だから?」
「確かにそうだけど……」
それを聞いた綾子は蘭子の答えに苦笑いをしてしまった。
「じゃあ、なんなの?」
「総一郎さん、私たちがここで働く前、お祭りのやぐらで太鼓を叩いていたの。しかし、その直後突然倒れてしまい、救急車で近くの病院まで運ばれてしまったの。その結果、脳梗塞と診断され、下半身が完全に麻痺してしまって、それ以来車椅子での生活をするようになったの」
「だから、お祭りを誘っても拒否したんだね」
「それに、お孫さんが見えると他の人に気を遣わせると思ったからなんだよ」
「そうなんだね」
蘭子は短く返事をした。
「蘭子が気にすることなんてないよ」
「うん……」
「一つ気になったけど、総一郎さんの事情どこで知ったの?」
蘭子は不思議そうな顔をして綾子に聞き出した。
「実は班長からさりげなく聞き出してみたの」
綾子は言いづらそうな感じで蘭子に打ち明けた。
「班長、よく話してくれたね」
「私も正直驚いたよ」
「そうなんだね」
「でも、そのこと秘密だって」
「私に話して大丈夫?」
「蘭子なら大丈夫かなと思ったから」
「それに誰かに聞き耳を立てられたらどうするの?」
「だって、誰もいないよ。ほとんどの人は電車やバスで帰ったし、残っているのは私と蘭子だけでしょ?」
蘭子は綾子のマイペースな言い方に呆れていた。
「外で話すのは危険だと思うよ」
「そうだね」
蘭子に注意をされた綾子は短く返事をして、急ぎ足で家に向かった。
そして迎えた祭りの当日、みんなは夕方前から浴衣姿になって出発時間を待っていた。
あるおばあさんは浴衣姿になったとたん、自分の思い出話を語ってみたり、あるおじいさんは浴衣にまつわる話を誰彼構わず語る始末だった。
そして引率の蘭子と綾子、施設長も浴衣に着替えた。
「あら、蘭子ちゃんと綾子ちゃん、かわいい! 浴衣姿とても似合っているわよ」
近くにいた蘭子と綾子を見たおばあさんは、甲高い声をあげていた。
「ありがとうございます。私、浴衣って初めてなんです」
「あら、珍しいわね。今時の女の子は浴衣って着ないのかしら?」
おばあさんは不思議そうな顔をして蘭子を眺めていた。
「もしかして、綾子ちゃんも初めて?」
「はい、そうなんです」
「ばあさん、今時の若いもんは浴衣なんて着ないよ」
後ろから総一郎さんが割って入ってくるように、おばあさんに話しかけてきた。
「あら総一郎さん、浴衣は着ないの?」
おばあさんは総一郎さんの普段着姿を見るなり、驚いた表情をしていた。
「わしは、ご覧の通り車椅子だからな」
そう言って、少しふてくされた感じで返事をした。
「総一郎さん、何があったのか知らないけど、私たちに当たらなくてもいいんじゃない?」
「普通に歩けるお前たちには、車椅子に乗っている人間の気持ちが分かってたまるか!」
「着替えを手伝って欲しいならそう言えばいいでしょ? 誰か総一郎さんの分の浴衣を用意してあげて」
おばあさんはそう言って、いろんな人に浴衣の催促をし始めた。
「待て、わしは行くなんて一言も言ってないぞ!」
「行きたいからそう言っているんでしょ?」
「だから、わしは行かないって。それに今日は孫が見えるんだから」
「だったら、お孫さんも一緒に連れてあげればいいじゃない」
「孫も一緒だと、他の人が迷惑するから」
「そんなことないよ。踊れなくても屋台を楽しめばいいじゃない」
「だいたい孫が一緒だと他の人が車に乗れなくなるじゃないか」
「大丈夫ですよ。座席なら1人分くらい余裕で確保出来ますから」
今度は施設長が口を挟んできた。
「でも、孫が乗ると騒がしくなるのでは?」
「にぎやかのほうが楽しいじゃない」
「しかし、なんでそこまで頑なになるのですか?」
今度は博康さんが口を挟んできた。
「お前たちに話してもしょうがないだろ」
「言ってくれないと分からない。それにお孫さんが見えて迷惑がるなんて贅沢にもほどがあるよ。私なんか孫に会いたくても会えないんだよ」
博康さんの言葉に総一郎さんは一瞬我にかえったような顔をしていた。
「この車椅子は祭りの時に起きた脳梗塞が原因なんだよ」
総一郎さんは重たい口をゆっくり開けて話しだした。
「覚えているよ。君はやぐらで力いっぱい太鼓を叩いていたね。しかし、そのあと急に倒れて、救急車で近くの病院まで運ばれてしまった。それ以来祭りの日となるたびに1人で残っていた」
「ああ、そうだよ」
「でもね、今年は何がなんでも行かせるよ。お孫さんが見えるとなればなおさらだ。お孫さん、今日のお祭りを楽しみにしているんじゃない?」
博康さんの言葉に総一郎さんは何も言えなくなってしまった。
「お前たちに体の不自由な人間の気持ちが分かるか!」
「それって、ただの甘えでですよね。そういうふうに言えば、我々があなたを同情するとでも思ったのですか?」
またしても博康さんの厳しい言葉が飛んできた。
「博康さんもこの辺にしてあげてください」
施設長は穏やかな表情で博康さんを止めに入った。
「おれ、総一郎さんの分の浴衣を用意してくるよ」
別のおじいさんが班長と一緒に奥の納戸へと向かった。
その時だった。玄関に一台の赤いコンパクトカーが止まって、そこからスーツを来た若い男性と浴衣姿の6歳くらいの女の子が降りてやってきた。
「こんにちは。私、柏葉健太郎と申しまして、総一郎の息子にあたる者です。そして、こちらが娘の真理子です。真理子、おじいさんとおばあさんたちにご挨拶は?」
「こんにちは、柏葉真理子です。今日はよろしくお願いします」
真理子ちゃんはみんなにおじぎをして、元気よく挨拶をした。
「まあ、可愛らしい。今日はおばあちゃんたちと一緒にお祭りに行こうね」
おばあさんは、にこやかな顔をして真理子ちゃんをお祭りに誘った。
「では、娘のことをよろしくお願いします。真理子、おじいちゃん足が悪いから無理をさせちゃダメだよ」
「うん!」
「それでは、のちほど迎えに参りますので」
「待ってください。帰りは私どもが責任をもってお送りさせていただきます」
その時、綾子が横から口を挟んできた。
「それじゃ悪いですよ」
「娘さんも久々におじいさんに会えたから嬉しいと思うはずなので……」
「そうですか。もし迎えが必要であるなら、いつでもご連絡ください。これ私の連絡先です」
健太郎さんは携帯電話の番号が書かれた紙を綾子に渡した。
「あなたも、このあとお仕事なんでしょ? 途中で抜け出して大丈夫なんですか?」
「私なら大丈夫ですので。それでは娘のことをよろしくお願いします」
健太郎さんはそう言って、車を走らせていなくなってしまった。
その直後、真理子ちゃんはしばらくサロンの椅子に腰かけてぼんやりとしていた。
退屈そうにしていた真理子ちゃんを見て、総一郎さんは自分の部屋からかりんとうの入った袋を用意して差し出した。
「よかったら、食べてくれないか?」
「ありがとう」
真理子ちゃんは出されたかりんとうを少しだけ食べて終わりにした。
「もう食べないのかい?」
「うん、お祭りで何も食べられなくなるから」
「そうか。お祭りに行ったら何が食べたい?」
「うーんとね、綿あめでしょ、あとタコ焼き、フランクルト、りんご飴にチョコバナナかな」
「よし、今日はおじいちゃんが何でも買ってあげるよ」
「じゃあ、お面も欲しい」
「よっしゃ。せっかく来てくれたんだし、一緒に行こうか」
「でも、おじいちゃん、車椅子だから……」
「子供がそんなことを気にするんじゃないよ」
その時、横にいた博康さんが口を挟んできた。
「そうだよ、こういう時くらいおじいちゃんにたくさん甘えなさい」
さらに別のおじいさんも口を挟んできた。
「では、そろそろ行きましょうか」
施設長が立ち上がって車を出す準備をしてたので、蘭子と綾子も車を出す準備を始めた。
総一郎さんは車椅子だったので、施設長が運転するリフト付きの車に乗ろうとした時だった。
「私もおじいちゃんと一緒に乗る」
真理子ちゃんが総一郎さんと一緒に乗ろうとしたので、総一郎さんが「真理子は、おねえちゃんの車に乗りなさい」と言ってきた。
「えー!」
「真理子ちゃん、お姉ちゃんの車に乗ってくれたら聞きたい音楽を聞かせてあげるよ」
綾子はアニメ主題歌のCDを真理子ちゃんに見せつけながら誘ってみた。
「これ、今見ているアニメのCDだ!」
真理子ちゃんは完全に目をキラキラと輝かせながら綾子に飛びついた。
「じゃあ、お姉ちゃんの車に乗る?」
「うん!」
こうなってしまえば餌付けされたペットと同じような状態になってしまった。
車に乗るなり、綾子は同乗するお年寄たちに「子供用の音楽をかけますので、しばらくの間ご辛抱願います」と一言断ってアニメ主題歌のCDをかけた。
音楽が流れるなり、お年寄たちの間からは「あら、かわいい歌だね」とか「この歌、孫が夢中になって聞いているよ」と言った声が出てきた。
「真理子ちゃん、この漫画見ているの?」
横にいたおじいさんが声をかけてきた。
「うん」
「そうか、この漫画なら孫も好きなんだよ」
「本当に!?」
真理子ちゃんはハイテンションになっていた。
「今度、孫に会わせてあげるから仲良くしてくれないか?」
「うん!」
おじいさんは終始、真理子ちゃんに優しく接していた。
祭り会場に着くと、車は案内された神社の境内の外れにある駐車場に止めて、そこから歩くことにした。
真理子ちゃんと綾子、総一郎さん以外の人たちはやぐらの方へ向かい、踊る準備を始めた。
「真理子ちゃん、最初はどこへ行きたい?」
綾子は車椅子を押しながら真理子ちゃんに聞き出した。
「うーんとね……」
真理子ちゃんもそう言って少し考えだした。
「フランクルト」
「よし、行こうか」
総一郎さんの一声で、フランクルトの屋台へ行き、みんなで食べ始めた。その後、チョコバナナ、タコ焼きとハシゴして行ったら、真理子ちゃんは満腹になってしまった。
「もうお腹いっぱいになった?」
綾子は優しい声で、真理子ちゃんに声をかけた。
「うん……」
「そうだ、射的に行こうか。お姉ちゃんが欲しいものをなんでも取ってあげるよ」
そう言って射的の屋台に行った。
「何が欲しい?」
綾子は真理子ちゃんに聞いた。
「このペンギンの人形とキャラメル」
「ちょっと待ってね」
綾子はそう言って、キャラメルとペンギンのぬいぐるみに目がけて撃ったら、見事に的中した。
「はい、どうぞ」
「いいの?」
「うん、そのために取ったんだから」
「お姉ちゃん、ありがとう」
真理子ちゃんは嬉しそうな顔をしていた。
その頃、やぐらの方ではお年寄たちが踊る準備を始めていた。
「それでは、続きましては『老人ホーム・市が尾の里』の皆さんの踊りです」
進行役に紹介されたあと、音楽に合わせて踊り出したので、綾子と総一郎さん、真理子ちゃんはやぐらへ行って見ることにした。
「踊り上手だね」
真理子ちゃんは、ぬいぐるみとキャラメルを抱えながら、ずっと踊りを見ていた。
踊りが終わったあと、みんなはテントにあるテーブルで出されたお茶を飲みながら休んでいた。
「お疲れ様でした」
綾子はお年寄たちに一言声をかけた。
「真理子ちゃん、おかえり。お祭り楽しかった?」
お茶を飲んでいたおばあさんが声をかけてきた。
「楽しかったよ」
「それはよかったわね」
おばあさんは、にこやかな顔で答えていた。
「真理子ちゃん、ラムネ飲む?」
「うん!」
真理子ちゃんはそう言って差し出されたラムネを飲もうとした時、総一郎さんが「こら真理子、このおじさんに『ありがとう』は?」と注意をした。
「あ、そうだった。ラムネありがとう」
「ゆっくり飲んでね」
施設長は真理子ちゃんににこやかな顔をしてラムネを勧めた。
「あと、お饅頭もあるよ」
「ありがとう」
「真理子、ちょっと食べ過ぎじゃないか。おなかこわずぞ」
「大丈夫だよ」
総一郎さんが注意しても聞く耳もたない感じだった。
「真理子ちゃん、このお饅頭、家に持って帰ろうか」
「うん!」
今度は綾子が優しく言ったら素直に応じてくれた。
ラムネを飲み終えたあと、真理子ちゃんは眠そうな顔をしてしまった。
「真理子ちゃん眠い?」
「まだ大丈夫……」
「そろそろおうちに帰ろうか」
綾子がそう言った直後、施設長も「それでは皆さん、宴もたけなわですが、そろそろお開きにしたいので、帰る準備をお願いいたします」と言ってみんなで帰る準備を始めた。
帰りの車の中、真理子ちゃんは疲れきったのか、ぐっすり寝てしまったので、みんなを施設に降ろしたあと、総一郎さんに教えられた住所をカーナビにセットして綾子は蘭子と一緒にそのまま家まで送ることにした。
車はそのまま柿生駅の方角へと走らせていき、途中から青葉台方面へと方角を変えて走っていった。
さらに閑静な住宅街の中を走ってい行くと、白くて大きな家が見えて、表札には「柏葉」と大きく書かれていたので、ハザードランプを点灯させて、綾子は真理子ちゃんをゆっくり抱きかかえて玄関へと向かった。蘭子がインターホンを鳴らした直後、健太郎さんがドアを開けて出てきた。
「はい、どちら様でしょう」
「老人ホーム・市が尾の里の蛭沼綾子です。娘さんをお届けに参りました。お疲れみたいですので、そのままお部屋まで運んでもよろしいでしょうか」
「はい、お願いいたします」
健太郎さんはそう言って、2階にある真理子ちゃんの部屋まで案内した。
「こちらです」
健太郎さんがベッドの布団をめくりあげたので、綾子はそのままゆっくり真理子ちゃんを寝かせた。
「ありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ。それでは私どもは失礼します」
綾子が部屋を出ようとした時だった。
「待って」
蘭子が綾子を呼び止めた。
「どうしたの?」
「これ……」
そう言って蘭子はぬいぐるみ、キャラメル、饅頭、移動中に聞いたアニメ主題歌のCDの入った紙の手提げ袋を机の上に置いた。
「あの、これは?」
健太郎さんは疑問に感じた顔で蘭子に聞いた。
「こちらは全部、娘さんのお土産です」
「お気遣いありがとうございます」
「それでは、失礼します」
綾子と蘭子は玄関で健太郎さんに見送られて、そのまま施設へ戻って車を置いたあと、着替えを済ませてから歩いて家に帰ることにした。
8話へ続く