6、忠言耳に逆らう
私が新しいアイディアで仕事の軌道に乗り始めたころ、游子は忙しい日々に追われていた。
それは6月に入って最初の月曜日のことであった。季節は梅雨に入って、ジトジトとうっとうしい雨が降っている中、湿気とカビに悩まされている上に、外では悪い病気も流行っていた。
傷んだ食べ物を口にして食中毒を起こす人が多発いるため、連日のようにテレビや新聞で話題になっていた。
そんな時、院長の凛子さんは制服のカタログを片手に游子の所にやってきた。
「ねえ、今スタッフが着ている制服ってかなり地味じゃない? だから新しくかわいいのにしてみようと思うの。どう?」
「今、着ている制服も充分かわいいと思いますけど……」
「そう? 色が淡いから地味かなと思った」
「院長はどんなデザインがいいのですか?」
「うーん、そうねえ。このピンクのドット柄のブラウスに白のジャンパースカートってどう? 結構かわいいと思うけど」
「それ、院長が着る勇気ありますか?」
「私はあるわよ。試しにスタッフたちにも聞いてみるね」
凛子さんがカタログを持って、忙しいスタッフたちに聞きまわっているのを見た游子は少しは空気読んでよ。って、心の中で呟いていた。
「みんなこの制服でOKだって」
「まさか、本当に聞いてくるとは思わなかったよ」
游子は少し呆れた表情で呟いていた。
「だってこの制服かわいいし、子供にも受けると思うんだよ。うちは小児科なんだから、少しくらい派手にしてもいいと思うの」
「そうなんですね」
「これを機に游子……じゃなくて、蛇川先生も変えてみたら?」
「……」
游子は少し考えた。
「蛇川先生? もしかして嫌だった?」
「ううん、可愛いから着てみたいけど、派手過ぎて患者さんの家族の反感を買う可能性が高いかなと思いました」
「そんなことないよ。逆に『かわいい』って言ってくるかもしれないよ」
「それなら着てみようかな」
游子は正直乗り気ではなかったので、新しい制服の件は渋々了承したって感じだった。
「じゃあ、この制服を発注しておくね」
凛子さんは、空いているパソコンを使って新しい制服の発注をかけた。
その1時間後、最初の患者さんがやってきた。
「どうされましたか?」
受付の看護師さんは心配そうな顔をして親子連れに伺った。
「昨日の夕方、嘔吐をしてまって……」
「大丈夫ですか? 熱はございましたか?」
「自宅で測った時には37度3分ありました」
「わかりました。今日は保険証と診察券をお持ちですか?」
母親はショルダーバッグから取り出した保険証と診察券を受付で渡して、待合室にあるソファに座って休んでいたが、男の子だけは非常に辛そうな顔をしていた。
「あの、よろしければお子さんだけでもベッドで休んで頂くことが可能ですが……」
「わかりました。お願いいたします」
看護師さんは男の子が終始辛そうにしていたので、ベッドのある部屋に連れて行って、順番が来るまで休ませていた。
数分が経過して、看護師さんは男の子の名前を呼んで診察室へ案内した。
「こんにちは、どうしたのかな?」
游子は顔をにこやかにして男の子に声をかけた。
「気持ち悪い……」
「気持ち悪いって、もしかして吐いたの?」
「うん……」
「いつ頃から、こういった症状が出ましたか?」
男の子に症状を聞いたあと、今度は母親に質問をした。
「実は昨日夕食を終えた2時間後、急に『気持ち悪い』と言って、トイレで吐き出してしまったのです」
「昨日の夕食に何を召し上がりましたか?」
「白いご飯にお味噌汁、サバの塩焼き、それと朝食べたおかずの残りを食べました」
「えーっと、お味噌汁の中身と、朝ご飯に召し上がったおかずの中身を教えてもらっていいですか?」
「みそ汁は豆腐にわかめ、長ネギでした。朝ご飯のおかずは豚肉とキャベツを炒めたものです」
游子はそれを全部パソコンに入力し始めた。
「何かいつもと違う匂いや味とかありませんでしたか?」
「特にはありませんでした」
「ちなみに、朝お作りになったお料理はどちらに保存されましたか?」
「台所の奥です。そこでしたら日が当たらないし、気温も低い場所だと思っていたので……」
「あと、もう一つ気になったのは下痢の症状はありましたか?」
「それはありませんでした」
游子はしばらく考え始めた。
「考えられるのは軽い食中毒の可能性がありますね。念のために触診しますので、お子さんをベッドに寝かせてもらっていいですか?」
母親は男の子の靴を脱がせて、ベッドに寝かせた。
「これからお姉ちゃんがお腹を触るから、痛かったら教えてね」
游子は男の子の腹部を数か所触ってみた。
「痛いところある?」
「ない……」
しかし游子は今一つ納得していなかった。
「もう一度お腹を触るね」
「いたっ……」
「ここが痛いんだね」
男の子は黙って首を縦に振った。
「ちょっと上の部分か」
游子はパソコンに入力して記録し始めた。
「もう終わりだから起きようか」
游子は男の子を起こして、再び椅子に座らせた。
「それでは吐き気を抑えるお薬とお腹の痛みを抑える薬を錠剤で出しておきます。あと、万が一下痢の症状が出た時に備えて下痢止めも錠剤で出しておきます。それぞれ1週間分で朝昼晩、食後30分以内に一錠ずつ服用してください」
「ありがとうございます」
母親は男の子を連れて診察室をあとにした。
游子は誰もいないことをいいことに診察室で大きく背伸びをしていたら、看護師さんに「先生、次の患者さんをお呼びしてもいいですか?」と声をかけられてしまった。
「はい、お願いいたします」
看護師さんは待合室で次の患者さんの名前を呼んで、診察室の中に入れてあげた。
中に入ってきたのは、またしても6歳くらいの男の子だった。
「こんにちは、今日はどうされましたか?」
「実は昨日の夜、食事のあと急に嘔吐してしまったのです」
また同じ症状? もしかして集団食中毒? 游子は頭の中で呟きはじめた。
さらに游子は母親から夕食に何を食べたのかを聞き出したら、家族で焼肉屋さんに行ったという言葉が出てきたので、游子はさらに詳しく聞き出すことにした。
「あの、いくつかご質問させて頂きますので、ご協力をお願いいたします」
游子は言いづらそうな顔をして母親に一言断った。
「昨日の焼肉屋さんで何を召し上がりましたか?」
「カルビにロース、ハラミ、タン塩、ユッケです」
「ちなみにお肉はちゃんと火を通されましたか?」
「いえ、半生で食べました。主人が半生で食べるのが大好きなので」
「その時、ご主人のお体に異変はありましたか?」
「特になかったです」
「もう一つお伺いしたいのですが、ユッケも召し上がったとおっしゃっていましたが……」
「ユッケは主人だけ頼みました。その時、この子がどうしても気になったのか、主人のユッケを3口ほど食べてしまいました」
「お子さんだけというのも気になります。もう一つお聞きしたいのですが、お食事を召し上がる前にタオルやウエットティッシュなどで手を拭きましたか?」
「一応、食事の前には手をきれいにするようには言ってあります。ただ私はメニューやスマホを見るほうに夢中でしたので、子供が手を拭いた所までは把握していませんでした」
游子は再び考えだした。
「だとしたら、考えられるのは軽い食中毒の可能性が高いですね。ちなみに下痢の症状はありましたか?」
「下痢はなかったです」
「わかりました。それでは抗生物質と吐き気を抑えるお薬を錠剤で一週間分出しておきますので、食後30分以内に一錠ずつ服用してください」
「ありがとうございます」
「お大事になさってください」
患者が出ていったあと游子は疲れたのか、給湯室に行ってペットボトルのお茶を飲もうとした時だった。
「蛇川先生、次の患者さんがお待ちですので、お呼びしてもいいですか?」
看護師長が不機嫌そうな顔をして游子に声をかけてきた。
「ちょっとだけ待ってもらえますか?」
「休憩ならあとにしてもらえますか? 次の患者様がお待ちですので」
その時だった。
「蛇川先生、随分と余裕そうだね」
今度は凛子さんまでがやってきた。
「そんなことありません」
「なら、なんでお茶を飲んでいるのかな」
「水分補給ですよ」
「そんなの後回しにしてもらえる?」
凛子さんはナマハゲのように怖い顔をして游子に注意をした。
「わかりました。次の患者さんの案内をお願いします」
凛子さんが待合室で次の患者さんを呼んだので、游子は渋々と対応をした。
その時だった。診察室から急に女の子の大きな泣き声が聞こえてきた。
「どうしたの?」
駆けつけた凛子さんが女の子に聞き出した。
「このお姉ちゃん、こわーい!」
女の子は泣きながら言ってきた。
「私とこの子が診察室に入るなり、先生が不機嫌な態度をとられた上に、睨みつけてきたのです」
母親も少々ご立腹ぎみになって凛子さんに話してきた。
「大変申し訳ございません。あとで強く言い聞かせておきます」
凛子さんは申し訳なそうな顔をして、親子連れに頭を下げて謝った。
「ここは私が対応するから、あなたは看護師さんのお手伝いをやってきなさい」
凛子さんにきつく言われて、游子は渋々と看護師さんのお手伝いにあたった。
診察を終えた凛子さんは女の子に「さっきはごめんね。おねえちゃんにはちゃんと叱っておくから許してね」と言って頭を撫でて見送った。
午前中の診察を終えて昼休みに入ろうとした時、凛子さんは游子を呼び止めて説教を始めた。
「ちょっといいかしら?」
「なんですか?」
游子も疲れていらだっていたせいか、凛子さんの前でふてくされた態度で返事をしてしまった。
凛子さんは游子を誰もいない部屋へ連れ出し、診察室での出来事を聞き出すことにした。
「さっきの態度はなんだったの? きちんと話してちょうだい」
「別になんでもありません。いつも通り普通に患者さんに接しただけです」
「普通に接しただけで、なんで子供が大声で泣いたのか説明してもらおうかしら?」
「単純に子供が怖がっていただけだと思います」
「では聞くけど、なんで子供が怖がっていたの?」
「わかりません。勝手に怖がって泣いていただけじゃないですか?」
「本当に?」
「はい、そうです。話はそれだけですか? 終わりなら休憩に入らせていただきます」
游子が一方的に話を終わらせて休憩に入ろうとした時、凛子さんは再び游子の腕をつかんで呼び止めた。
「まだ何かあるのですか?」
「待って、話は終わっていないわよ」
凛子さんも相当不機嫌な状態になっていた。
「なら早く話を終わらせてくれる? 休憩時間が終わるから」
「さっきから気になっていたけど、この態度はなんなの? そのせいで患者さんの家族からクレームが来ているのよ」
「私の態度に何か問題点でも?」
「あるから言っているんでしょ? さっきも診察室で子供が泣いたのもあんたの不機嫌な態度が原因で泣いたって、親御さんからクレームが来たのよ」
「そうなんですか。わかりました、次から気をつけます」
游子は棒読みな言い方で凛子さんに返事をした。
「ちょっと待って、私が言ったそばからこの返事」
「まだ問題点があるのですか?」
「自覚してないでしょ?」
「自覚も何も、普段からこんな感じですけど」
游子はふてぶてしく返事をした。
「蛇川先生、ここがどこだかわかる?」
「診療所の中ですけど……」
「なんの診療所か言ってごらんなさい」
「小児科……」
「小児科っていうと?」
「子供の患者さんを診るところ」
「そうでしょ? 子供は病院って聞いただけで怖がるから、そのためにあらゆる工夫をしているの。例えば待合室には子供が喜びそうなアニメのDVDを用意したり、診察室の壁をアニメキャラクターの貼り紙にしているの。そこであなたが不機嫌な態度で子供に接したらどうなる? 怖がって泣くってわからない?」
「すみません、次から気をつけます……」
「どんなに嫌なことがあっても、子供の前では笑顔で接しないとだめなの。そうしないと子供だけでなく、親にも信用なくされるんだよ。お店と一緒で医療機関である前に、ここはサービス業でもあるんだよ」
「はい……」
「1人の患者さんを敵に回したら全員の患者さんを敵に回す形になるの。それはわかっているんでしょ? 『青空リトルクリニックさんは先生の態度が悪い』って言ってしまえば、その噂がたちまち広がって、ここには誰も来なくなるの。そうなったらどうする? 責任取れる?」
「……」
凛子さんのきつい言葉に游子は何も言い返せなくなった。
「とにかく疲れているみたいだし、午後の診察は私が引き受ける。あなたは早退して自由に時間を過ごしてちょうだい」
「わかりました……」
游子はロッカーで着替えを済ませて、凛子さんと看護師さんに挨拶をしたあと、裏口から出て1人バスに乗って、たまプラーザ駅へと向かった。
駅前に到着して、コンビニで買ってきたサンドイッチとジュース、プリンを丸いベンチに座って食べようとした時、懐かしい顔の人がやってきた。
「よ、久しぶり」
目の前に現れたのは、青いブラウスに白いチノパン、水色のスニーカーを履いた隊長の姿だった。
「隊長、お久しぶりです。お元気でしたか?」
「ああ。でも、お前はそうでもなさそうだな」
「そんなことありません」
「なんでこんな場所でお弁当を広げているんだ?」
「お昼休みなんですよ」
「この目は嘘をついている目だ。正直に言いなさい」
游子は隊長の前ではごまかしきれなくなって、午前中の出来事を正直に話すことにした。
自分の不機嫌な態度が原因で、子供の患者さんを泣かせたり、親から白い目で見られたこと、凛子さんに叱られたことをすべて話した。
「なるほどね、確かにお前が悪い」
それを聞いたとたん、隊長の口調は急に荒くなった。
「ですよね……」
「患者さんはお前の事情なんか知らないんだから、そういう態度を取られたらビックリして泣くに決まっている。まして相手が小さい子供となればなおさらだ」
「自分でもわかっているのですが、つい態度に出てしまって……」
「反対に自分が患者の立場だったどうする?」
「不愉快な気持ちになります」
「そうだろ。もし、それが原因で患者を全員敵に回したらどうする?」
「信用なくされます……」
「それだけじゃない。近所に同業の医療機関が出来上がったら、みんなそっちに行ってしまうぞ」
「それは困ります……」
「一時の感情がこういう結果を引き起こすこともあるんだよ。お店と一緒で、患者さんの前では常に笑顔で接しないと不安がるだけだ」
「充分に心得ています」
「充分に心得た人間が患者の前で不機嫌な態度をとるか?」
「とりません……」
「そうだろ。帰ったら院長にきちんと謝って、明日から笑顔で患者に接すること。小さい子供だって立派な患者だ」
「はい……」
「ちょっと言い過ぎたな」
「いえ、そんなことありません……」
「すまなかった」
隊長の言い方は。いつのまにか少し和らいでいた。
「隊長の言い方って昔からこんな感じですよね」
「そういう言い方をさせたのは、どこの誰だっけ?」
隊長は少し意地悪そうに言ってきた。
「はい、私です……」
「ちゃんと自覚しているじゃないか」
隊長はすっかり上機嫌で返事をしていた。
「じゃあ、そろそろ帰るよ。家に帰って家事をしないといけないから」
「いろいろと、ためになる話、ありがとうございました」
隊長がそのまま軽く手を振っていなくなってしまったあと、游子は買ってきたサンドイッチとプリンを食べて、ジュースを飲んでくつろいでいた。
久々に聞かされた隊長の説教に、游子は少し気がめいってしまった。
「今日は叱られてばっかり。なんだか疲れた。そういえば、ここに何しに来たんだっけ?」
突っ込みを入れるように独り言をつぶやいていた。
とりあえず帰ろうかな。そう思って椅子から立ち上がって帰ろうとした時だった。
「せっかくだから、どこかへ寄り道しよう」
游子は銀行のATMでお金を引き下ろしたあと、ブティックへ向かった。
ハンガーに吊るされている洋服はどれも可愛かったので、思わず目移りをしてしまった。
游子が最初に目にしたのは空色のセーラーカラーのワンピースだった。
可愛いけど、ちょっとガキっぽい。手に取りながら考えていた時だった。
「よかったらご試着されますか?」
若い女性の店員がにこやかな表情で游子に近寄ってきた。
「かわいいお洋服ですが、私の年齢にはちょっと合わないかなと思いましたので……」
「そんなことございません。お客様の年齢にぴったりだと思います」
「それと自分の体のサイズって今一つわかっていないのですが……」
店員はロングパンツのポケットからメジャーを取り出して游子の体を測り始めた。
「お客様のお体のサイズでしたらMが調度いいかなと思います」
游子は店員に渡されたMサイズのワンピースを持って、試着室で着替え始めた。
通常のワンピースは背中でファスナーもしくはボタンを閉めるタイプが多いのだが、游子が手にしたワンピースは前でボタンを閉める極めて珍しいタイプのワンピースだった。
游子は鏡の前で何度も正面や背中を確認した。
これなら悪くないかも。あとは値段だけか。
ワンピースを脱いで値段を確認したら消費税込みの4500円だったので、さすがに簡単に買えないと判断して店員に返そうとした時だった。
「お客様、いかがでしたか?」
「可愛いし、サイズがぴったりまではよかったのですが、値段がちょっと……」
「こちらの商品、在庫処分品ですので、消費税込みで2200円でお売りしたいのですが……」
値引きされたとたん、游子の気持ちは思わず揺れてしまった。
買うか否か一瞬考えた。しかし、消費税込みで2200円という誘惑に勝てず、ついに買ってしまった。
店員は大きめの青い手提げ袋に水色のワンピースを入れたあと、游子に渡して店の出口まで案内してくれた。
「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」
店員に気持ちよく見送られた游子は、大型スーパーに入っている家電量販店に行って、イヤホンやスマホのパーツなどを見ていった。
「イヤホンだけでも随分と種類があるんだなあ」
游子は思わず声に出して呟いてしまった。
「いらっしゃいませ、何かお探しの商品がございますか?」
男性店員がにこやかな表情で近寄ってきた。
「いえ、特に何も……」
「かしこまりました、何かございましたらお気軽にお声をかけてください」
店員はそのままいなくなってしまった。
そういえばスマホを手にしてから、まだ音楽って聞いたことがなかったなあ。これを機に音楽を聞いてみよう。
游子は視聴コーナーでイヤホンをスマホに差し込んで、ダウンロードした曲を聞いてみた。
「おお!」
游子は迫力のある音に思わず驚いてしまった。
さらに少し離れた場所には<完全ワイヤレス>と書かれたイヤホンがあったので目を向けてみた。
コードがないってことは絡むことがないから、これにしようと思った瞬間、値段を見たら高めの金額になっていたので、諦めてコード付きの安いイヤホンを選んだ。これでも充分いい音が楽しめるから、これにしよう。
そう自分に言い聞かせた游子はレジで会計を済ませたあと、家に帰ろうとした時だった。
まだ5時か。何人か患者さんが残っている時間だと思うから、帰る前に診療所へ立ち寄ってみよう。
時計を見ながら游子はバスに乗って保木薬師前のバス停まで向かった。
バスを降りるなり、裏口からこっそり入って、ロッカーの中に荷物を入れたあと、凛子さんと話そうと思った。
「あの、ちょっとだけいいですか?」
游子は少し言いづらそうな顔をして声をかけた。
「あ、今忙しいからあとにしてくれる?」
凛子さんは忙しそうな顔をして、どこかへ行こうとした。
「ほんの数分だけでいいのです」
「見てわからない? 今患者さんの対応をしているところなの。話があるなら帰ってからにしてちょうだい」
凛子さんはシャッターを降ろすような感じで、ピシャリと冷たく返事をして診察室へと戻って行ったので、游子は買ってきた荷物を持って、一足先に家に戻ることにした。
「あれ、游子じゃない?」
私が声をかけた瞬間、游子はそれに反応して後ろを振り向いた。
「スズメ、どうしたの?」
「今日早めに仕事が終わったんだよ」
「そうなんだ……」
「游子、どうしたの? 元気がないじゃん」
「うん……」
「何があったの?」
「実は……」
游子は重たい口を開いて、私に今までのことを全部打ち明けた。
「そんなことがあったんだね。確かに両方から言われてへこむのはわかるけど、私は凛子さんや隊長の言っていることが正しいと思うよ」
「スズメまでそんなこと言うの?」
「そうじゃないけどさ、游子、患者さんの気持ちって考えたことある?」
「少しは……」
「じゃあ、なんで不機嫌な表情を見せたの?」
「疲れたから……」
「その時点で患者さんの気持ちを無視しているんだよ」
「どういうこと?」
游子は私の言葉に納得いかない顔をしていた。
「『疲れたから』という理由で不機嫌な顔を見せた。その時点でアウトなの。わかる? 游子、自分が患者さんだったらどうする? 怖い顔をした先生に診てほしい欲しいって思う?」
「思わない……」
「患者さんは、体が弱い上に『診察室』という場所で自分がどんなことをされるのか分からないんだよ。その時に『疲れたから』というたったそれだけの理由で、患者さんに不機嫌な態度で接したらどうなる? しかも相手はまだ子供」
「私なら、絶対に泣く」
「その気持ちが大事なの。常に患者さんの気持ちになって動かないと。私も歯医者で働いているから分かるけど、歯医者って他の医療機関と違って神経を使うの。まして患者さんが子供となったら、なおさらなの。子供が怖がらないためにはどういった工夫が必要なのか知恵を絞っているんだよ。游子はそういった工夫を考えたことある?」
「ううん……」
「そうなんだね。その分だと自分の立場しか考えていないかも……」
「たぶん……」
私に言われたのがこたえたのか、游子はこれ以上何も言い返せなくなった。
「じゃあ、私これから家でやることがあるから先に帰るね。うるさく言ってごめんね」
私と別れてから、游子は1人寂しく家まで歩いていった。
家に戻るなり、游子は部屋着姿になって居間にあるテレビを見ていたが、いくらチャンネルを変えても面白い番組がなかった。
「なーんか退屈」
一言ぼやいたあと、テレビを消して游子は自分の部屋で買ってきたワンピースを眺めてみた。
「次の休診日にこれを着てみようかなあ」
游子はワンピースを眺めながら呟いていた。
その時だった。机の上に置いてあるスマホの着信音がうるさく鳴っていて、液晶画面を見ると蘭子からだったので出ることにした。
「もしもし、久しぶり!」
蘭子はテンション高めで游子に話しかけてきた。
「蘭子どうしたの? 今日仕事は?」
「休みだよ。今綾子と一緒に原宿にいるんだよ」
「クレープ食べた?」
「当たり前じゃない。原宿と言えばクレープ、クレープと言えば原宿じゃん。游子は仕事中だった?」
「ううん、今家に戻ってきたところ。っていうか午前中で終わったから、駅前でワンピースとイヤホンを買ってきた」
「そうなんだ。こっちはゴスロリや甘ロリだらけ。人形の世界に放り込まれた気分だよ。おまけにパンクぽい人も見かけるし」
「蘭子と綾子もゴスロリとか甘ロリの姿になっているの?」
「まさかあ、普段着だよ。原宿ならまだしも、地元に戻ってこんな格好をしたら、めちゃくちゃ浮くわよ」
「そうだよね」
游子は苦笑いをしながら返事をした。
「まだ遊ぶの?」
「うーん、もう少ししたら帰ろうかなって思っている……」
「そうなんだ……」
「綾子に代わる?」
「うん……」
蘭子は自分のスマホを綾子に渡した。
「もしもし游子、綾子だよ」
「綾子、久しぶり」
「久しぶりって、この間会ったばかりじゃん。何かあったの?」
「ううん、何もない」
「ちょっとテンション低めだったから気になってみたの。よかったら話してみてよ」
游子は凛子さん、隊長、私に言われたことをすべて話した。
「悪いけど、3人の意見に賛成だよ」
綾子は急に声を低めて游子に言った。
「綾子まで同じことを言うんだね……」
「游子、仕事をなめていない?」
「そんなことないわよ」
「今までの話を聞いている限り、游子は仕事をなめているようにしか思えないわよ。そもそもあなたの仕事ってなんなの?」
「子どもの患者さんを診察すること……」
「そうでしょ? 疲れたから不機嫌な顔を見せても許されると思っているんでしょ?」
「そんなことはない……」
「じゃあ聞くけど、游子はどんな気持ちで患者さんに接しているの?」
「体の弱い人を診てあげている……」
「その時点で間違っている」
「どういうこと?」
「あなたのお仕事は患者さんからお金をもらって診察をやらせてもらうことでしょ? 私や蘭子もお金をもらってお年寄りの介護をやらせてもらっているし、スズメだってお金をもらって虫歯の治療をやらせてもらっている。こんな簡単なことも忘れたの?」
綾子は声を荒げて游子に言った。
「そんなことは……」
「あるから言っているんでしょ?」
「……」
游子はこれ以上何も言い返せなくなった。
「こんな気持ちで患者さんに接していたら、まともな仕事なんて出来ないわよ」
「ごめん……」
「游子、謝る相手を間違っているわよ。私じゃなくて院長や自分の患者さんたちでしょ?」
「うん……」
「ごめん、蘭子が待っているから、そろそろ電話を切るね。じゃあ」
綾子はそのまま電話を切ってしまった。
まさか綾子にとどめを刺されるとは想定外もいいところだった。
游子はついに我慢の限界が来てしまい、そのままベッドで泣いてしまった。
しばらくして凛子さんが戻ってくると、游子は泣くのをやめてしまった。
「ただいま、游子ちゃんどうしたの?」
泣き声に反応した凛子さんは部屋着姿になって、游子が今までいろんな人にきつい言葉を言われたことをソファに座ってビールを飲みながら聞いていた。
「結論から言っていい?」
「うん……」
「すべて游子ちゃんが悪い」
「分かっているけど……、どうも納得がいかない……」
「そうなるよね。ねえ、午前中私が言ったこと覚えている?」
「うん……」
「じゃあ、言ってくれる?」
「どんなに疲れていても笑顔で接する」
「そうでしょ? じゃあ、さっき診察室で不機嫌な顔を見せたけど、それをやるとどうなる?」
「子供にも嫌われるし、親からも信用をなくされる」
「そうだよね。午前中にも言ったけど、私たちが体を治すお仕事はサービス業なの。患者さんからお金をもらって、診察をやらせてもらっている。それを忘れてはだめだよ」
「それなら、さっき友達から言われました……」
「明日以降、子供が受けるような診察ができる方法を考えてごらんなさい」
「分かりました」
游子がそのまま部屋に戻ろうとした時だった。
「あ、游子ちゃん、ご飯食べるんでしょ?」
「あんまり食欲がない……」
「さっき言われたことをまだ気にしているの?」
「そんなことは……」
「あるんでしょ? じゃあ、私も言い過ぎてごめんなさい……」
「そこまで謝らくなくても……」
凛子さんが頭をさげて謝った瞬間、游子はあわてて止めに入った。
「これであいこ」
凛子さんに言わて、調子がくるってしまった。
そのあと、游子は凛子さんと一緒に夕食を済ませて風呂に入ったあと、自分の部屋で買ってきたワンピースを眺めていた。何回見てもガキっぽい。その時、游子はふとあることを思いついた。
それは次の日の出来事だった。
出社するなり游子は更衣室で昨日買ってきたワンピースに着替えて業務に入ることにした。
「ちょっと蛇川先生、この服装は何? いつもの制服は?」
凛子さんは驚いて、游子に声をかけてしまった。
「今日だけこの服装で業務に入らせて頂こうと思います」
「どういうこと?」
「下手に白衣や制服だと怖がるでしょ? だから試しに昨日買ったワンピースを着てみたの。その方がきっと安心すると思ったので」
「蛇川先生、ここがどこだか分かっているよね?」
「うん、医療機関でしょ? でもそれと同時にサービス業でもあるんでしょ?」
「確かに……。私の負け。今日一日これでやってみてごらんなさい」
凛子さんはついに折れてしまった。
最初の患者さんが診察室に入った時、白いマスクをした6歳の女の子が游子のワンピース姿を見て、「かわいい!」と声を上げてしまった。
「あの先生、今日はいつもの制服ではないのですね」
母親も少し驚いた感じで游子に声をかけた。
「そのほうが気楽に接することが出来るかなと思って、試しに着させて頂きました」
「そうなんですね」
母親は苦笑いをしながら答えていた。
「それで、今日はどうされましたか?」
「実は昨日から喉の痛みと咳が止まらない状態になってしまったのです」
「熱はありますか?」
「自宅で測った時には37度ありました」
「やや微熱ですね」
「ちなみ食欲はどうですか?」
「いたって普通です」
游子はそれを全部パソコンに入力していった。
「お口の中を見たいから、マスクを外してもらっていい?」
女の子はそのままマスクを外して口を開けたので、游子はライトと舌圧子(舌を抑えるヘラ)で喉を調べたり、聴診器を胸や背中に当てて呼吸の音を確かめた。
「呼吸は正常ですが、喉がちょっと赤くなっていますね。では、抗生物質と喉の痛み止め薬を錠剤で出しておきます。あと、りんごの風味を利かせたシロップタイプの咳止め薬、それとは別にうがい薬をそれぞれ一週間分出しておきますので、会計の時に受付で処方箋を受け取ってください」
「ありがとうございます。ちなみにお薬はどちらで受け取れますか?」
「道路向かい側のドラッグストアで受け取れます」
「ありがとうございます。それでは失礼します」
「お大事になさってください」
游子がペットボトルのお茶を一口飲もうとした瞬間、凛子さんが診察室にやってきた。
「ワンピースでの診察はどう?」
「なかなかの好評でした」
「一つ気になったけど、このワンピースはどこで買ってきたの?」
「昨日、駅前のブティックで買いました」
「そうなんだ」
「でも、正直ガキっぽいですけどね」
游子は苦笑いをしながら返事をしていた。
「子ども受けのために買ったの?」
「違います。本当は遊びに行くために買ったのですが、どうやら出番がなさそうなので、ここで着てみようと思いました」
「ここで着るほうがもったいないよ」
凛子さんが曇った表情で言ってきたので、少し考え始めた。
「じゃあ、こうしようか。新しい制服のデザインをこれにしてみない? これなら今着ているワンピースをプライベートで着られるでしょ?」
「そんなことができるのですか? でも特注ですよね?」
「まあ、そうなるかな。でもお金のことなら心配しないで。私の古い友人が仕立て屋さんをやっているから、その人に頼めば安価で済むはずよ」
「それじゃ、悪いのでは?」
「あなたが心配することではないわ」
「確かに……」
「まだ何か気になる所でも?」
「このデザインってかなりガキっぽいので、着たがる人が少ないのではないかと思うのですが……」
「そうねえ、それは言えている。あとで全員に聞いて、着たい人だけを対象に発注するよ」
「分かりました」
「じゃあ、次の患者さんを呼んでくれる?」
「分かりました」
凛子さんは看護師さんに次の患者さんの名前を呼ぶようにお願いをしたあと、自分は奥の部屋で事務作業を始めた。
その日の診察が全部終わって、みんなが家に帰ったあとも凛子さんだけ1人残って書類の整理を行っていた。
「あの、私もそろそろ家に帰ってもいいですか?」
「あ、ちょっとだけ待ってくれる?」
游子が遠慮がちに帰ろうとした瞬間、凛子さんに引き留められてしまった。
「書類の整理ですか?」
「うん」
「私も手伝っていいですか?」
「あ、大丈夫。私1人で出来るから。游子ちゃんはスマホでもいじっていてよ」
仕方がないので、游子は診察室のベッドに座ってスマホに夢中になっていたら、LINEで私からのメッセージが来たので返信をした。
<おつかれ。お仕事終わった?>
<終わったけど、凛子さんの仕事が終わるまで帰れないから、先に帰ってくれる?>
<じゃあ、診療所の入口で待っているよ>
<それじゃ悪いから、中に入ってくれる?>
私が扉を開けて中に入ってみたら待合室の明かりはついているもの、誰もいなかったので、あまりの静けさに少しだけ不気味に思えてきた。
待合室で私を見かけた凛子さんが「あの、すでに診察の受付は終了していますので」と遠慮がちに一言断ってきた。
「いえ、私は患者ではありませんが……」
「では、どういったご用件で?」
「蛇川游子さんに『ここで待つように』と言われたので……」
「そうだったのですね」
「分かりました。そう言うことでしたら、すぐに呼んできます」
凛子さんはそう言って診察室にいる游子を呼び出して、私と一緒に帰るように言い出した。
「だって、凛子さんの仕事が終わるのを待つ約束だったはずでは?」
游子は今一つ納得いかない顔をして聞き返した。
「待合室にお友達が待っているから、今日は上がっていいわよ」
「いいのですか?」
游子は頭にクエスチョンマークを浮かべながら聞き返した。
「私も新しい制服の発注をかけたら帰るから」
「分かりました。それでは、お先に失礼します」
「お疲れ様でした」
游子はロッカーで着替えを済ませて、荷物を持って私の所にやってきた。
「おまたせ、一緒に帰ろうか」
「もう帰って平気なの?」
「大丈夫だよ。だから、一緒に帰ろう」
游子は凛子さんに一言断って、私と一緒に帰ることにした。
「游子、まだ昨日のこと気にしている?」
「昨日のことっていうと?」
「私が昨日うるさく言ったこと。実を言うとね、あれから気にしていたの。もし、気にしているなら謝るよ。本当にごめん……」
「もう、いいって。私もあれからいろんな人にうるさく言われて反省したんだよ」
「それならいいんだけど……」
私は申し訳なさそうな顔をして謝っていた。
「スズメ、本当に気にしてないから大丈夫だよ。悪いのは全部私なんだし、スズメが気に病むことなんかないから」
「ありがとう」
私は短く返事をした。
「私も正直甘えすぎたのかなって反省しているから……。だから、この話はもう終わりにしようよ」
「そうだね」
「よかったらドラッグストアに行かない? 何かおごるから」
「ありがとう」
游子は私を連れてドラッグストアの中に入って、ジュースやお菓子を次々と籠の中に入れていった。
「スズメも何か食べたいものがあったら、遠慮なしに入れていいからね」
「じゃあ、このビッグチョコバーでいい?」
「思い切ったものを選んだねえ」
「このビッグチョコバー、一度食べてみたかったの」
「そうなんだね」
游子はレジで会計を済ませたあと、店の片隅にある休憩スペースに行って買ってきたものを広げて食べ始めた。
「どれからいこうかな。じゃあ、このチョコビスケットからにしよう。スズメも遠慮しないで食べてね。この量、私一人では無理だから少し食べるのを手伝ってくれる?」
「うん……」
私は大きなチョコバーを食べ終えた後、チョコビスケットを食べ始めた。
「じゃあ、本当に頂くね」
「いいよ、じゃんじゃん食べてよ」
「そうしたいけど、帰ったら夕食だし、この辺にしておくよ」
「そうだね」
游子は余ったお菓子をレジ袋に入れて帰ろうとした時だった。
「あ、そうそう。ちょっと見てほしいものがあるんだけど……」
游子はふと何かを思い出したかのように、カバンからイヤホンを取り出して私に見せた。
「これ見てよ、ちょっと奮発して新しいイヤホンを買ってみたの」
「これ、よさそうじゃん。悪いけど、ちょっとだけ聞かせてもらっていい?」
「いいよ」
私は自分のスマホにイヤホンを差し込んで、音楽プレイヤーを再生させた。すると音楽はゆっくりと静かに流れれて、まるでコンサートホールにいるような気分になってしまった。
「いい音だね」
「そうでしょ?」
「どこで買ったの?」
「駅前の家電量販店だよ」
「次の休診日の時、一緒に連れて行ってくれる?」
「いいよ。じゃあ、次の日曜日に行こうか」
「そうだね。私も新しいイヤホンを買うから一緒に見てくれる?」
「うん、分かった」
そのあと、游子は私と一緒に家まで歩くことにした。
「明日も仕事なんでしょ?」
「うん」
私の質問に游子は一言短く返事をした。
「私も疲れたし、今日は帰らせてもらうよ」
「そうだね、お疲れ様」
私と別れたあと、游子は玄関の中に入った。
「お帰り、どこかで寄り道をしてた?」
「うん、ドラッグストアで少し買い物をして休んでいた」
「休むなら帰ってきてからでもよかったのに」
「友達も一緒だったから……」
「ま、いいわ。ご飯の支度をするから一緒に手伝ってくれる?」
游子は重たい体を持ち上げて凛子さんのお手伝いに入った。
その日の夕食は鶏のから揚げだったので、游子のテンションはいつになく上がっていた。
レタスと一緒に唐揚げを食べた游子はテンションマックスになっていて、いつもしないご飯のおかわりまでしてしまった。
「美味しかった、ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
食べ終わって、お茶を飲んで一息したあと、凛子さんは游子に「発注した制服、来週の月曜日には到着するみたいだよ」と言ってきた。
「本当に!? ありがとうございます」
さらに游子のテンションはうなぎのぼりなっていた。
風呂から出たあと、パジャマ姿になって布団に入って寝る体制になっても、興奮しているせいか、なかなか眠れない状態でいた。
「早く来週にならないかなあ」
游子の口から出る言葉はそればっかりだった。
7話へ続く