4、親しき中にも礼儀あり
ゴールデンウイークを前にして、私たちは今日も忙しい日々を過ごしていた。しかも、そういう日に限って絶叫する子供がやってくる。もう、私が何をやったっていうのよ。私はレストレイナー(体を覆うネット)で固定して治療をする準備にかかろうとした。
「お姉ちゃん、これを外して」
「やだ。だって、さっきから泣いて暴れているじゃん。悪いけど、しばらくミノムシになって大人しくなってもらうよ」
私は忙しさからくる苛立ちに、つい子供に八つ当たりするような言い方をしてしまった。
やってしまった。そう思って私は子供に一言「きつい言い方をしてごめんね」と謝った。
すると子供は「じゃあ、このネットを外してくれるの?」と言い出してきた。
「悪いけど、これは外せないよ」
「どうして?」
「それを外したら、逃げるでしょ?」
「逃げないよ」
「逃げないにしても暴れるでしょ? ほら、ゴムのマスクをするから『あーん』して」
ラバーダムのシートをセットして治療の準備を始めた頃には、すっかり子供は大人しくなっていた。
夏子さんがやってきて、治療にかかったとたん、再び絶叫を上げていた。
「泣いて暴れていたらジュースも飲めないし、お菓子も食べられないよ」
「あだ!」
ラバーダムをしていたので、うまくはしゃべれなかったけど、確かに「やだ!」と言っていたのが聞こえた。
「それだったら、じっとしてくれる? 早く終わらせて家に帰りたいでしょ?」
夏子さんの問いかけに子供は黙って首を縦に振った。
治療を終えた子供は、急に元気になって待合室に戻ってしまった。
夏子さんは子供の母親に治療の説明を終えたあと、「麻酔が残っているから1時間以内の飲食は控えるように」と伝えた。
その日も最後の患者を見送ったあと、私は夏子さんと一緒に家に帰ることにした。
「そういえばもうじき5月の連休だけど、何か予定はあるの?」
夏子さんは私に確認するような感じで聞いてきた。
「連休中は昔の仲間に会ってみようかなと思っています」
「お、いいね。もしかて害虫くノ一部隊のメンバーに?」
「はい、老人ホームで働いているみたいなので……」
「どこの老人ホーム?」
「市が尾って言っていました」
「そうなんだね。じゃあ、楽しんできちゃいなよ。それでどこへ行くの?」
「実は老人ホームの中を見せてもらおうかなと思っています」
「迷惑にならない?」
「でも、仲間が見せてくれると言っていたので……」
「仲間じゃなくて、お年寄りたちのことを言ったの」
「確かに……。当日は別の場所で遊ぶように誘ってみます」
「そのほうがいいと思うよ。優しい人だけならいいけど、中には気の短い人だっているんだから、そういう人たちに遠慮しないと」
「わかりました」
仕事で疲れた上に、夏子さんから小言を言われてストレスが増大。しかし、ここで顔に出したら大きなトラブルにつながるから、少し我慢しようと決めた。
家に戻って部屋着姿になったとたん、私はベッドで横になってしまった。
「スズメちゃん、今夜は疲れたから出前にしない?」
夏子さんは出前のチラシをテーブルに広げたあと、私を呼んできた。
「夏子さん、なんですか?」
「今日出前にしたいんだけど何にする? お寿司もピザも何でもあるよ」
「じゃあ、ピザにしようかな」
「オーケー。じゃあ、ここから好きなの選んでちょうだい」
夏子さんは出前ピザのチラシを広げて私に見せた。
うわあ、おいしそう。
「どれにするか迷っちゃうでしょ?」
「夏子さん、デザートと飲み物も頼んでいい?」
「いいわよ」
さんざん迷った末、私はシーフードピザとチョコレートのアイス、コーラを選んで、夏子さんは蟹の入ったピザを選んで、それをメモ帳に記入してスマホで注文をした。
待つこと50分、ピザがやってきたので、夏子さんは会計を済ませてテーブルに運んできた。
「けっこう大きいんですね」
私はふたを開けるなり、思わず声に出してしまった。
「でしょ? これ全部食べられる?」
夏子さんは少し意地悪そうな顔で私に言ってきた。
「ちょっと無理かも……」
「大丈夫よ。もし食べられないなら、明日食べればいい話なんだから」
「そうですよね」
私も少し苦笑いをしながら返事をした。
食べ始めてから30分、お腹が苦しくなってしまったので、残ったピザは銀紙に包んで翌日食べることにした。
「ふう、お腹が苦しい」
夏子さんはお腹をさすりながら、缶のコーラを持ってソファに向かった。
「私も限界」
私もアイスを口の中に入れながら言った。
「あんた、よくアイスを食べる余裕があるね」
「甘いものは別腹って言うから」
「そんなことを言っていると、しまいにはデブになったり、虫歯になるからね」
「大丈夫ですよ。運動すれば元に戻りますから。それに私は誰かさんと違って、そこまで年老いていませんので」
「あんた、そんなことを言っていいの? 来月の給料減らすわよ」
「あ、ごめんなさい」
「なーんて冗談よ。現に私も年増だし、そろそろ自分の体のことについて考えておかないといけないから」
「夏子さんは、まだ若いですよ」
「ありがとう。現に体重を気にする年齢になっているのも事実だから」
夏子さんはため息交じりに呟いていた。
「スズメちゃん、アイスを食べたらお風呂に入っちゃって」
「うん、わかった」
アイスを食べ終えた私は、すぐにお風呂に入って体を洗ったあと、お湯に浸かった。
たくさん食べたせいか、眠気が少しずつ襲ってきた。
お湯がいつもより気持ちよく感じる。本格的に眠くなる前に私は上がって、夏子さんに風呂が空いたことを伝えた。
「じゃあ、私そろそろ寝るね」
「うん、お休み」
私はそう言い残して自分の部屋へと戻り、灯りを消してそのまま眠ってしまった。
次の日、職場へ行くとゴールデンウイークの話題で盛り上がっていた。
「おはよう」
「紅蜂さん、おはよう」
私に返事したのは受付と助手をやっている火村さんだった。
「火村さんは連休中、何か予定でもあるの?」
「うん、実家へ帰ろうかなって思っているの」
「火村さんって1人暮らし?」
「そうだよ。知らなかった?」
「うん、初めて知った。実家ってどこなの?」
「山梨で、河口湖の方だよ」
「そうなんだ」
「だから今回は帰省というより、実家のお手伝いかな」
「実家は何をやっているの?」
「お土産物屋さん。観光客が多いから大変なんだよ。だから、私がお手伝いに入らないと親が大変なんだよ」
「偉いね……」
「そんなことないよ。紅蜂さんはどうするの?」
「私は昔の仲間に会おうかなって思っている……」
「いいんじゃない、会ってきなよ。なかなか会えないから、こういう時を利用して楽しんできたら?」
「ありがとう……」
「紅蜂さん、なんだか元気ないけど大丈夫?」
「そんなことないよ」
その時だった。後ろから誰かが私の肩をポンッっと叩いてきた。
「2人でなんの話をしているの?」
私と同じ衛生士をやっている緑川沙智さんが声をかけてきた。
「緑川さん」
「沙智でいいよ」
「でも、一応先輩だし……」
「確かに私は、紅蜂さんや火村さんよりも先に入って長く働いているけど、年齢なんてそんなに変わらないんだから、普通に友達のように接してよ。そのほうが話しやすいから」
「わかりました」
「『わかりました』じゃなくて、『わかった』でしょ?」
緑川さんはすぐに訂正を求めてきた。
「わかった」
「これでいいのよ。次、敬語使ったり、苗字に『さん』づけしたら、ジュースをおごってもらうから」
「えー!」
「冗談よ」
「ひどいよ、沙智」
「やれば出来るじゃん」
緑川さんは軽く笑いがら私に言ってきた。
「そういえば、沙智は連休中予定あるの?」
「私? 私は友達と長瀞までキャンプかな」
「お、いいね。アウトドア好きなの?」
「まあね。自然の中で寝どまりするって、気持ちいいじゃん」
「そうだよね」
「それに、食事も最高だしね」
緑川さんは気分ノリノリで私に言ってきた。
「紅蜂さんは何か予定あるの?」
「私は昔の仲間に会おうかなって思っている」
「こういう機会って滅多にないんだから、会ってきなよ」
「うん、ありがとう」
「私なんか、昔の友達とまったく会っていないんだよ。1人は結婚したし、残りは音沙汰なし」
「そうなんだね」
「だから、会える時に会ったほうがいいよ」
「うん」
「あ、そろそろ朝礼が始まるから、手袋とマスクをして」
緑川さんは私と火村さんに手袋とマスクを着用するように言ってきた。
私が勤めている小児歯科では原則、朝礼の時点で手袋とマスクの着用が義務付けられていた。
なぜかと言うと、過去に手袋とマスクも着用せずに患者に近寄ったことが原因で保護者からクレームが来たからである。
朝礼が終わると夏子さんは手袋とマスクの着用のチェックに入った。
夏子さんが1人1人チェックしていったら、1人だけ手袋を着用していない人がいた。
「あなた、なんで手袋してないの?」
「すみません……」
「『すみません』じゃないでしょ? 手袋を着けてない理由を聞いているの。早く答えてちょうだい」
夏子さんは目の前の女の子に怒鳴るような感じで聞き出した。
「あの、これってパワハラになりませんか?」
その時、火村さんが助け舟に入ってきた。
「関係ない人は下がってちょうだい」
夏子さんは問答無用で女の子に問い詰めていった。
「先生、出来たらもう少し控えめに言ってもらえませんか?」
今度は緑川さんが止めに入ってきた。
「どうして?」
「あんまり頭ごなしに言うとパワハラになってしまうので……」
「あなたも火村さんと同じことを言うんだね」
「そんなつもりはなかったのですが……」
「いい? これだけは言わせてもらうね。手袋を着用せずに患者さんに接すると言うのは、自分の菌を患者さんにばらまくのと一緒のことなの。過去にも5歳児の治療を手袋なしでおこなったら、その日の夜に嘔吐する症状が発生して、私は当時担当していた衛生士と一緒に患者さんの家まで謝りに行ったの。幸い軽い症状で済んだので、自宅で療養して済んだんだけど、一つ間違えていたら入院沙汰になっていたんだよ」
「先生、質問していいですか?」
「何、火村さん」
「その衛生士さんはどうされましたか?」
「もちろん懲戒処分よ。だって、患者さんを危険な目に遭わせたんだから」
「そうなんですね。わかりました」
「あなたたちにも言っておきます。ここは医療機関なので衛生と安全を第一に行なっていきます。よって手袋とマスクをきちんと着用してない人は、患者さんに近寄ることはもちろんのこと、現場にも立ち入ることも禁止にします。もし、納得出来ない人は、その場で帰宅してもらうか、場合によってはやめてもらうことも視野に入れておく必要があります。いい? 患者さんの前では『手袋とマスクはウザイからパス』という考えは通用しないと思ってください」
夏子さんの厳しい言葉にみんなは何も言い返せなくなってしまった。
「それと、いくら手袋を着用しても唾液や薬品などが付着していたら、素手でやっているのとまったく変わりません。汚れたら速やかに新しい手袋と交換してください」
さらに夏子さんは付け加えるかのように厳しく言ってきた。
「今日の院長、いつになく厳しいことを言ってきたね」
1人の助手がささやくように言ってきた。
「そうだね」
横にいた衛生士も短く返事をした。
「そこ、話があるなら手を挙げてちょうだい!」
さらに夏子さんの雷が飛んできた。
「最近、患者さんの家族から私語が目立っているというクレームが入ってきます。業務の会話ならともかく、何でもない世間話ならお仕事を終えてからにしてください。では朝礼を終わりにします。患者さんをお迎えして業務に入ってください」
朝礼で厳しいことを言われたのか、みんなは気が滅入った顔になってしまった。
それでも私は患者さんの前では、明るく接することを心がていた。
その日やってきた患者さんは6歳の女の子で、マスクをして診察室に入ってきた。
「こんにちは。もしかして風邪を引いているの?」
私は顔をにこやかにして声をかけた。
「ううん、生まれつき体が弱いの」
「そうなんだ。じゃあ悪いんだけど、お口の中を見たいからマスクを外してもらっていい?」
女の子が首を縦に振ったので、私は女の子のマスクを外してゴミ箱へ捨ててしまった。
「あ、マスク捨てないで」
「一応、ばい菌が着いているから捨てちゃうね。その代わり、あとで新しいマスクをあげるから。ピンクと黄色と水色があるんだけど何色がいい?」
女の子は考えた末、「黄色がいい」と答えた。
「お姉ちゃんと一緒の色にするんだね」
私がにこやかに言ったら、女の子は軽く微笑んだ。
「じゃあ、麻酔をするから口を開けてくれる?」
女の子が口を開けたので、脱脂綿に着けた麻酔薬を歯茎に塗ってラバーダム防湿の準備を始めた。
「お口の中にバイ菌や削ったカスが入らないように、ゴムのマスクをするね」
「お姉ちゃんが言っていたマスクってこれ?」
「違うよ。これは歯をきれいにするためのシートで、あなたにあげるマスクはお姉ちゃんが着けているマスクと一緒のものだよ。じゃあ、『あーん』して」
女の子がちょうどいい大きさに口を開けたので、私はクランプ(金属のわっか)とゴムのシート、銀色のフレームをセットして、女の子の口にセットした。
セットし終えたら、私は夏子さんを呼んで治療に入った。
「こんにちは、体が弱くてマスクしているんだって?」
夏子さんの問いかけに女の子は黙って首を縦に振った。
「治療が終わったら、新しいマスクをあげるからね」
夏子さんはエアタービンと呼ばれる高速回転の研磨機に小さな針をセットして、治療にかかった。
「痛くないよね?」
女の子は小さく首を縦に振った。
「じゃあ、続けるよ」
再び治療を続けた。研磨機の針が「キュイーン」と甲高い音を立てながら、虫歯の部分を削っていった。
女の子の顔は今にも泣きそうだった。
「頑張って。すぐ終わるからね」
私が言えるのはその一言だけだった。
「今度はゴロゴロと低い音がするけど、さっきより痛くないからね」
さらに夏子さんはコントラエンジンと呼ばれる低速回転の研磨機に針をセットして削り始めた。
削られている本人もそうだけど、横にいる私も正直うれしいものを感じない音だった。
痛くないせいなのか、女の子は大人しく受けていた。
「じゃあ、今度はお薬を詰めるからね」
夏子さんは薬を詰めたあと、青いライトを当てて固定した。
そのあと、ラバーダムを外して噛み合わせをしながら研磨機で整えて終わりにした。
「じゃあ、最後にブクブクをして終わりにしようか」
女の子がうがいをして、待合室に行こうとした時だった。
「ちょっと待って」
夏子さんは女の子に声をかけた。
「何?」
「何か忘れてない?」
夏子さんは黄色いマスクを持って女の子に近寄って、「ちょっと動かないでくれる?」と言って、しゃがんで女の子の顔にマスクを着けてあげた。
「じゃあ、待合室に戻ろうか」
そのあと、女の子のお母さんに治療の説明をしたあと、次の患者さんの準備にかかった。
その日の治療が全部終わって、みんなは着替えたあと、再び連休の話題を持ちかけていた。
「じゃあ、時間になったので帰ってよしにする」
夏子さんがそう言ったとたん、みんなはいっせいに「お疲れ様でした」と言って家に帰ってしまった。
「私たちもそろそろ帰ろうか」
夏子さんも私にそう言って近くのスーパーで買い物を付き合わせた。
中に入ると夏子さんはカゴを持って、次々と食材を詰め始めていった。
「スズメちゃん、何か食べたいものでもある?」
「急に言われても思いつかない……」
「そっか……。じゃあ、食べたいものがあったら遠慮なしに入れていいからね」
「ありがとう」
惣菜売り場に行くと、揚げ物や焼き鳥、おにぎり、おかずなどが並べられていた。
「夏子さん、このコロッケ買っていいですか?」
「いいわよ」
「ありがとう」
「じゃあ、今夜はコロッケにしようか」
「やったー!」
私はついうれしくなって、大きな声を出してしまった。
「スズメちゃん、気持ちはわかるけど、ここはお店の中なんだから声は控えめにしてほしいなあ」
「あ、ごめん……」
この光景を見ていた人たちは、思わずクスクスと笑い出したので、私は恥ずかしくなって、つい下を向いてしまった。
そのあとも袋菓子を2つほど買ってレジに向かった。
会計を済ませてレジ袋に詰め込んだら、後ろから誰かが私の肩を軽くポンッっと叩いてきた。
後ろを振り向いたら、游子と凛子さんがいた。
「お疲れ。今帰り?」
游子が軽く微笑んで、私の顔を覗き込むような感じで聞いてきた。
「游子、今終わったの?」
「うん。ついで言うと、私たちも買い物終わった」
游子はそう言って、私に品物が入ったレジ袋を見せた。
「けっこう買ったんだね」
「まあね」
「では、私たちはこの辺で」
凛子さんは軽く私たちに挨拶を済ませて、游子を連れて帰ってしまった。
「じゃあ、私たちも一緒に帰りましょうか」
夏子さんは私の手を引いて家の方角へ歩いて行った。
「ふう、疲れた」
玄関に入るなり、夏子さんは疲れきった声を出してぼやいていた。
「夏子さん、今日はもう寝ますか?」
「そうしたいけど、やることが残っているのよ。だから、もう少しだけ起きているよ」
「わかりました。無理だけはしないでくださいね。体を壊したら連休どこにも行けなくなりますよ」
「わかっているって。私もそこまでバカじゃないから」
夏子さんは食事を済ませるなり、自分の部屋で作業となってしまったので、私は風呂に入って次の日の準備を済ませたあと、ベッドに入って寝てしまった。
連休前のお仕事を終えて、みんなの気分はうなぎ登りだったが、私と夏子さんはみんなが帰ったあと、片付けを済ませてから帰ることにした。
「スズメちゃん、そろそろ帰るわよ」
夏子さんに言われて私はあわてて外に出たが、寄り道する場所がなかったので、まっすぐ家に帰ることにした。
「今日も疲れたね。今、食事の準備をするから待ってくれる?」
夏子さんはエプロン姿になって台所へと向かった。
「夏子さん、私も何か手伝いますか?」
「ん? いいよ。簡単に出来るものを用意するから。スズメちゃんは部屋でテレビを見ていたら?」
「それじゃ悪いですよ」
「悪くないって。スズメちゃん、お仕事で疲れたんでしょ?」
「それは夏子さんも同じはずでは?」
「私は体力あり余っているから平気よ」
夏子さんは余裕そうな顔を見せたあと、包丁を持って野菜をリズミカルに切り始めた。
「本当に何もしなくて平気なんですか?」
「うん、スズメちゃんは休んでいてよ」
「じゃあ、そうさせてもらうね」
「あ、そうそう。どうせだったら、お風呂に入ったら?」
「そうさせてもらいます」
夏子さんに言われた私は、お風呂を沸かして入ることにした。
今日も疲れた。私が湯船で体を伸ばしながら浸かっていたら、眠気が襲ってきた。
あれ、今眠っていたっけ?
あまりにも気持ちがよかったので、いつの間にかうたた寝をしてしまった。
私はすぐに浴室から出て、部屋着姿になって食卓へと向かったら、すでに食事の準備が出来ていた。
「夏子さん、お待たせ」
「随分と長い風呂だったわね。もしかして寝てた?」
夏子さんは、笑いなら私に聞いてきた。
「うん、湯船に入ったとたん、眠くなって……」
「ずっと動きずくめだったから、疲れたんでしょ?」
「うん……」
「今日は早く寝なさい」
「わかりました」
「じゃあ、食べようか」
私が箸を持って食べようとした時だった。
「ちょっと待って。何か忘れてない?」
私が食べようとした時、夏子さんは「待った」をかけてきた。
「夏子さん、なんですか?」
「食べる前に何か忘れてない?」
「手なら洗ってきましたよ」
「違うでしょ。『いただきます』は?」
「あ、そうだった」
私の家でもそうだけど、たいていの家庭では食事の前に「いただきます」、食べ終えたら「ごちそうま」を言う。これは食事の時のマナーであることは、みんなも知っているはず。そもそも食事の前に言うこの挨拶は料理を作ってくれた人や、自分の命を与えてくれた生き物への感謝の気持ちを込めた言葉でもある。
私は夏子さんに注意され、すぐに「いただきます」と言って食べ始めた。
特に好き嫌いのことはうるさく言ってこなかったけど、基本残さず食べることが夏子さんの考えだった。
食べ終えて食器の片付けをしていたら、夏子さんが「明日友達と会うんでしょ? 早く寝たら?」と言ってきた。
「うん、そうする」
私は夏子さんに一言「おやすみなさい」と言って、ベッドに入って寝てしまった。
翌日、私は着替えと食事を済ませて游子と一緒にバスに乗って、たまプラーザ駅まで向かった。
「久々のバスだから、ちょっとテンションが上がっちゃうよ」
游子は大きめの声で私に話をかけてきた。
「ちょっと游子、他のお客さんもいるんだから静かにしようよ」
「え、いいじゃん」
私が注意をしたとたん、游子は不満そうな顔をしていた。
その時だった。近くにいた老夫婦にギロっとにらまれてしまったので、私はとっさに「すみません」と一言謝ってしまった。
「おじいさん、にらみつけていたから静かにしようよ」
「だって、退屈じゃん」
游子は不満そうに私に言ってきた。
「じゃあ、音楽でも聞いていたら? スマホあるんでしょ?」
「うん……」
「私も音楽を聞くから」
私と游子はスマホにイヤホンを差し込んで音楽を聞くことにした。
心地よい音色が私の心を癒してくれる。バスの振動と音楽の音色が優しいゆりかごで子守歌を聞かされている気分になってしまった。
終点に着いた頃には軽くうたた寝をしてしまい、游子に起こされる始末だったので、なんだか恥ずかしかった。
「スズメ、気持ちよさそうに寝ていたね」
「游子、もしかして私の寝顔、カメラで撮らなかった?」
「撮ってないわよ。だったら確認してみる?」
「別にそこまで疑っていないから」
そのあと、私と游子は下り電車に乗って3つ先の市が尾駅まで向かうことにした。
游子は小さい子供のように靴を脱いで座席に上がって、窓の景色を眺めていた。
「ねえ、スズメも見たら? 景色が流れていくよ」
「ちょっと游子、恥ずかしいからやめてよ」
「え、いいじゃん。面白いよ」
その時だった。「ねえママ、あのお姉ちゃん椅子に上がって窓の景色を眺めているよ」と1人の男の子が指をさしながら言ってきた。
「しっ、見ちゃダメ。あっちへ行くわよ」
母親が男の子を連れて、別の車両へと移ってしまった。
「ちょっと、見られているからシートから降りてよ」
「え、別にいいじゃん。恥ずかしくないんだし」
私が焦って注意したら、游子は納得しない顔をした。
電車が市が尾駅に到着して、私は游子と一緒に改札を出て、綾子と蘭子を待つことにした。
待つこと15分、綾子と蘭子が走りながらやってくるのが見えた。
「スズメ、游子、久しぶりー!」
蘭子が手を振って私と游子のところにやってきたら、そのあと綾子も少し遅れるような感じでやってきた。
「蘭子久しぶり、元気だった?」
私は嬉しさのあまり、蘭子に抱きついてしまった。
「うん、元気だったよ。スズメは?」
「私も元気だったよ。そういえば老人ホームのお仕事、どう?」
「結構大変だよ」
「ねえ、ちょっと聞いてよ。このあいだシーツの交換しに行ったら、気の短いじいさんに当たって、いきなり怒鳴られたの」
横から綾子が口をはさんできた。
「マジ!?」
私も思わず反応してしまった。
「ねえ、そのおじいさんって、もしかして痴呆症ってことってない?」
今度は游子が口をはさんできた。
「わからない。でも、その可能性は充分高いと思う」
綾子は険しい表情で私と游子に答えた。
「ねえ、老人ホームのお仕事って大変なの?」
「大変っていうレベルじゃないよ! 紙おむつの交換をしたり、入浴を手伝ったりするから気がおかしくなる。おまけに部屋を掃除しようとしたら急にキレるし」
蘭子も今にも泣きそうな声で訴えかけてきた。
「お世話をしてキレるの?」
游子は不思議そうな顔をして蘭子に聞いた。
「うん、『これくらい自分で出来る!』と言ってキレるのよ」
蘭子はため息交じりに答えた。
「とりあえず、老人ホームへ行ってみようか」
游子は蘭子に提案してきた。
「老人ホームへ行くの?」
綾子は気が進まないような言い方で游子に確認をとった。
「もしかしてダメ?」
「だめじゃないけど、本当に行くの?」
「うん。すぐキレるおじいさんに会ってみたいから」
「いいけど……」
綾子は渋々と返事をした。
「ねえ綾子、本当は迷惑だったりしない?」
私は少し遠慮がちに綾子に聞いた。
「ううん、大丈夫よ。『本当に行く』ってことにちょっと驚いただけ。迷惑とかしてないから」
綾子はそう言って、私たちを老人ホームまで連れて行った。
歩いて10分、区役所の裏通り沿いに少し黄ばんだ白い建物が見えてきて、入口には<老人ホーム・市が尾の里>と書かれていた。
中へ入ってみるとホールみたいな場所があって、そこでお年寄りたちがお茶を飲んだり、おしゃべりをするなど、自由に時間を過ごしていた。
挨拶をするべきかどうかわからなかったので、たまたま目が合ったおじいさんに「こんにちは」と一言挨拶をした。
「おや、見ない顔だと思ったら、綾子ちゃんや蘭子ちゃんたちのお友達かい?」
おじいさんは軽くにこやかに話しかけてきた。
「初めまして。私、彼女たちの友人の紅蜂スズメと申します」
「私は蛇川游子と申します」
私と游子は目の前のおじいさんに挨拶をした。
「私は森川博康、家族はとっくに他界してしまって、私1人になってしまったんだよ」
「ねえ、他界って何?」
その時、游子が私の耳元で聞いてきた。
「死ぬってこと」
私が簡単に教えてあげたら、游子は軽く手で「わかった」と返事をした。
「あの、失礼を承知した上でお聞きますが、ご家族はなぜお亡くなりになったのですか?」
私は言いづらそうにおじいさんに聞いた。
「孫は息子夫婦と一緒に山へドライブに行っている途中で、飲酒運転をしてたトラックにぶつかりそうになり、崖に転落して死んでしまった。婆さんは、去年がんを患って死んでしまった。残っているのは婆さんが残したお金と、損害賠償で手にしたお金だけ。私もそんなに長くない。このお金は恵まれない子供たちに寄付をしようと思っている」
博康さんはため息まじりに話していた。
「そうなんですね……」
「本当は息子夫婦と孫に渡したかった……」
「その気持ち、わかります」
私は博康さんの話を相づちをうちながら聞いていた。
「あ、ちょっと待ってくれないか?」
博康さんはそう言って、自分の部屋に戻ってしまった。
待つこと数分、博康さんはお金の入った封筒を用意してきた。
「本当は何か気の利いたものを用意したかったんだけど、あいにくお嬢さんたちの好みってよくわからない。だから、これで好きなものを買ってくれないか」
「いけません! こういったものは受け取れません。それに私たちはすでに働いていますので」
「まあ、そんなことを言わないでくれよ。君たちを見ると孫を思い出すんだよ。自分たちのおじいさんからだと思って受け取ってくれないか?」
「では、ありがたく受け取ります」
私は深くおじぎをしながら封筒に入ったお金を受け取って、ショルダーバッグにしまい込んだ。
「おじいさん、せめて何かお手伝いをさせてください」
「その気持ちだけ、ありがたく受け取っておくよ」
「タダでお金は受け取れません」
「気持ちはわかるが、ここには職員がたくさんいるし、それに綾子ちゃんや蘭子ちゃんもいる。だから君たちの助けはいらないんだよ」
「そうなんですね……」
「それに私と蘭子は介護資格を持っているんだよ」
綾子は私と游子に自慢そうに話していた。
「そうなの?」
「うん!」
「綾子ちゃんと蘭子ちゃんは他の職員より手際がいいから、本当に大助かりだよ」
それを聞いた綾子と蘭子は天狗のような顔になっていた。
「そういえば、何かしたがっているみたいだし、せめて君たちのお話を聞かせてくれないか?」
博康さんは私と游子に目線を向けて話を振った。
「何を話せばいいのですか?」
私は少し控えめな感じで聞き返した。
「そうだな、お嬢さんたちのお仕事について聞かせてくれないか?」
「わかりました」
少し間を置いてから、私は博康さんに自分の職業について話し出した。
「私の勤めている場所は、たまプラーザ駅からバスで10分前後にある小児歯科です。大人向けの一般歯科と異なっているのは、泣き暴れた子供のために『レストレイナー』と呼ばれる体を固定するネットを用意したり、口がとっさに閉じないように、『ラバーダム』と呼ばれるゴムのシートをつけて治療をおこなっています」
「ネットやゴムのシートは、どんな子供にもやっているのか?」
博康さんは興味を示したような感じで聞き返した。
「ネットに関しては、怖がって泣き暴れている子供にだけ着けています。子供には『ちょっとの間、ミノムシになってもらうよ』と言ってネットで体を固定します。ゴムのシートに関しては全員必須となっています。理由としては子供がとっさに口を閉じないようにするためとか、誤って他の歯を削ったり、研磨機が顔に当たらないようにするためなんです。他にも子供は大人と違って、唾液の量が多いので、どうしてもうまく薬を着けることが出来ないのです」
「けっこう大変なんだねぇ」
博康さんは関心しながら私の話を聞いていた。
「ですから、子供には『お薬を着けやすくするために、ゴムのマスクをしてもらうよ』って言っています。しかし、たいていの子供は、口が閉じられなくなるので嫌がってしまうのです。そうしないと安全かつ衛生的に治療が出来なくなるのです。もう一つの長所は短時間で治療が終わることなんです」
「そのゴムのシートって言うのは、こういったメリットがあるんだね。それって大人向けの歯医者ではやっていないのかね?」
「最近では大人の虫歯治療でも少しずつ導入しています」
「そうなんだね。私もゴムのシートを着けて治療を受けてみようかな」
「ただ欠点としては、口が閉じられなくなるってことです」
「まあ、それくらいなら耐えられるよ」
「それでしたら、かかりつけの歯医者さんに一度ご相談してみてください」
「そうしてみるよ。じゃあ、今度は隣のお嬢さんに聞いてみようかな」
今度は游子に目線を向けて話を振った。
「私の勤めている場所もたまプラーザ駅からバスで10分前後の場所にある小児科医院です。簡単に申し上げますと、子供向けの診療所をやっているのですが、そのほとんどが風邪を引いてやってくる患者が多いのです。みんなが素直に受けてくれたらありがたいのですが、中には嫌がる子供もいます」
「診察を受けるだけで、なんで嫌がるのかね?」
博康さんは、不思議そうな顔をしながら游子に聞いた。
「診察室に入ったら、注射を受けるものだと思い込んでしまう子供が多いのです。中には診察室の扉を開けるなり、絶叫する子供もいます」
「私が思うには『病院は注射を受ける場所』だと、周りの大人が吹き込んだ可能性が高いと思うんだよ」
博康さんはお茶を飲みながら、推理するような言い方をしていた。
「私もそう思います。そのせいで、診察室に入って白衣姿を見るなり怖がる子供が多いのです。もっとひどいのは、受付で泣き叫ぶ子供もいます」
「困ったものだねぇ」
「ですから、待合室には子供が喜びそうなアニメのDVDを流しています」
「なるほどねぇ。ちなみに待合室でDVDを見た瞬間、子供たちは大人しくなるのかね?」
「たいていの子供たちは大人しくなります」
「いろいろとありがとう。とても参考になったよ。現役時代、私はこう見えても医療に携わるお仕事をやっていたんだよ」
「そうなんですか?」
游子は驚いた表情で反応していた。
「実は大学病院で小児科医をやっていて、そのあと開業医もやっていたんだよ。言うなればお嬢さんたちの先輩に当たるのかな。しかし、さっきも言ったように婆さんと息子夫婦、孫たちに先立たれ、私だけ1人になってしまっから診療所をたたんでしまったんだよ」
博康さんはため息交じりに、自分の過去を話した。
「そうだったのですね」
「だから、お嬢さんたちの話を聞いた時、少し驚いてしまったんだよ」
「失礼ですが、おじいさんは何歳まで病院の先生をされていたのですか?」
「私か? 私は65歳までやっていたんだよ。しかし、その後は体の衰えを感じて、病院をたたんで、ここで暮らすようになったんだよ。あの診療所は私と婆さんが開いた思い出の場所だった。患者のみんなが大人しかったら楽だったけど、中には泣き叫ぶ子供もいたから大変だったよ」
「おじいさんの時も苦労をされていたのですね」
「でもね、嫌なことばかりじゃなかったよ。診察を終えた子供の中には『バイバーイ』と言って手を振ってくれた時には疲れが一気に吹き飛んだよ。頑張って診察を受けてくれた子供たちにはキャラクターのシールをあげていたよ」
「そうなんですね。とても参考になりました」
「あ、そうそう。君たちのお茶を用意していなかったね」
「あ、何もお構いしなくていいのです。そろそろ帰りますので」
博康さんが立ち上がってお茶を用意しに行こうとしたので、私はあわてて止めに入った。
「そんなことを言わずに、お茶の一杯だけでも飲んでくれないか」
「わかりました。それではお言葉に甘えて一杯だけ頂きます」
「少しだけ待ってくれ」
博康さんはそう言って、奥の給湯室に行ってお茶の準備を始めた。
「ねえ、私たちも行ったほうがいいんじゃない?」
綾子は耳元でささやくような感じで蘭子に言った。
「そうよね」
2人が行こうとした時、私が立ち上がろうとしたので、綾子が「これ、私たちの仕事だから、スズメと游子は座って待ってくれる?」と言って給湯室へと向かった。
蘭子が人数分のお茶を運んだあと、今度は博康さんは自分の部屋に行って袋詰めのチョコレートを私たちに差し出した。
「お嬢さんたち、甘いもの好きなんでしょ? よかったら食べてくれないか? 年寄が1人で食べていたら糖尿病になってしまう」
「では、そう言うことでしたら遠慮なしにいただきます」
游子はチョコレートを3つくらい取って、包みをほどくなり食べはじめてしまった。
「游子、少しは遠慮しなさいよ」
「だって、糖尿病になるって言うから」
「そうじゃなくて、このチョコ、おじいさんが自分で食べるために買ったんでしょ?」
「あ、そうだった」
私に注意されたあと、游子は食べるのをやめてお茶を飲み始めた。
「お嬢さん、硬いことを言わずに食べてよ。なんなら食べきれない分は家に持ち帰ってもいいんだよ」
博康さんはにこやかな表情で私たちに言った。
「私たちが持ち帰ったら、おじいさんが食べるお菓子がなくなるのでは?」
私は少し心配そうにたずねた。
「心配には及ばないよ。お菓子なら部屋にたくさんあるよ」
「では、せめてその分のお金だけでも……」
「お金もいらないよ」
「かえって悪いことをしたみたいです……」
「ちょっと待ってな」
博康さんは、再び部屋に戻って小さなビニール袋を持ってきて、私と游子の分のチョコレートを詰めて渡してくれた。
「お気遣い、ありがとうございます」
私は少し申し訳なさそうな顔してお礼を言った。
そのあと私たちはお茶を飲みながら、博康さんとゆっくり話をしていた。
「今の話を聞いた限り、お嬢さんたち2人は美しが丘西でお仕事をされているんだね」
「はい、そうなんです。おじいさん、ご存知なんですか?」
私は少し控えめな感じで博康さんに質問をした。
「あの近くに大学時代の古い友人が住んでいるんだよ。1つ年上でとても面倒見がよかったから、ついつい甘えてしまっているんだよ。今でも時々会っているんだけど、あの頃と変わらないから、昔のように甘えてしまう悪い癖が出てしまって……。それでも、あの人は嫌な顔を一つ見せずに応じてくれるから、罪悪感を覚えてしまうんだよ」
「そうなんですね……」
「今度会ったら、何かお礼でもしようかと思っているよ」
「それもいいかもしれませんね」
時計を見たら午後5時を回っていたので、私は帰る準備を始めることにした。
「宴たけなわではございますが、私たちそろそろ失礼させて頂きます」
「もう帰るのかい?」
「家族が心配しますので……」
「そうかい?」
「そうなんです。ほら游子、いつまでお茶を飲んでいるの? 早く帰るわよ」
私は游子を連れて帰ることにした。
「じゃあ、駅まで送っていくよ」
綾子はそう言って椅子から立ち上がるなり、私と游子についていこうとした。
「いいよ、仕事があるんでしょ?」
「だって、今日休みだから」
蘭子もそう言って、私と游子と一緒に市が尾駅までついてきてしまった。
改札で蘭子と綾子と別れたあと、私と游子は再び電車に揺られて家に帰ることにした。
家に帰って、私は自分の部屋で博康さんからもらった封筒の中身をゆっくりと覗き込んでみた。
すると一万円札が入っていたので、数えてみたら5万円も入っていたのでビックリ!
こんなにたくさんもらったのは初めて。明日銀行へ行って貯金してこようと決めた。
翌日、仕事が休みだったので、もらったお金を駅前の銀行で貯金したあと、適当にぶらついて時間を過ごそうとしたら今度は雪子に会った。
「スズメ、久しぶり。お仕事は順調?」
雪子は白いパーカー姿に黒いトートバッグを持って私の所にやってきた。
「雪子、久しぶり。『お仕事は今のところは順調』って言いたいんだけど、子供相手だから、正直ハードだよ」
「スズメのお仕事って、確か小児歯科だったよね?」
「うん」
「どんな感じ?」
「診察室に入るなり絶叫する子供もいるから、マジ勘弁だよ」
「そういう時って、どうしているの?」
「ネットで体をしばりつけて、動けなくしている」
「マジ!? それって遠回しに拷問と一緒じゃない」
「でも、そうしないと急に動き出して間違って違う歯を削ったり、もっとひどいのは顔に当てる可能性もあるの」
「そうなんだね」
「そうならないために、今度は『ラバーダム』と呼ばれるゴムのシートで口の周りを覆って、閉じられないように固定もやっているの」
「ここまで来たら完全に治療じゃなくて、拷問っていうか虐待に近い感じだね」
「でも、それが一番の安全策だから」
「私から提案なんだけど、スズメの毒針で一時的に体を動けなくするのって出来ないの?」
「それも視野に入れてみたけど、間違って死んじゃったらシャレじゃ済まされないから、今はやらないことにするよ」
「そうなんだね」
「雪子はお仕事どんな感じ?」
「初めてのお仕事の時、重機を動かす前に家を食べようとしたら、親方に怒鳴られた」
「マジ!?」
「急に傾いて倒れたら、取り返しのつかないトラブルになるから、食べるのをやめてくれないかと言われた」
「それでどうしたの?」
「私、重機取扱免許を取っちゃった」
「え、凄いじゃん!」
雪子は少し照れた感じでショルダーバックから免許証を見せた。
「これが免許証なんだ」
私は雪子の免許証をマジマジと眺めていた。
「ちゃんと講習を受けてきたよ。あとね、中型一種や大型特殊免許もとったよ」
「なんだか私より凄い」
「みんな仕事で使う資格だからね。スズメは何か資格とったの?」
「私は歯科衛生士の資格かな」
「凄いじゃん!」
「ちっとも凄くないって」
私も照れながら返事をした。
「衛生士って歯も削るんでしょ?」
「それは歯科医師しか出来ないの。衛生士がそれをやると法律違反になるみたいだから……」
「そうなんだ」
「うん……」
私は短く返事をした。
「ま、とにかくさあ、お互い無事なんだし、元気にやっていこうよ」
「雪子、言い方がオヤジくさい」
「だって、周りオッサンだらけだから」
雪子は笑いながら答えていた。
「雪子の家って江田だよね?」
「うん。よかったら今度遊びに来てよ」
「いいの!? もう少し落ち着いたら遊びに行くね」
「わかった。待っているから」
「じゃあ、そろそろ帰るね」
私と雪子はそのまま別れてしまった。
翌日以降、連休が続く限り、私は游子に振り回されながら過ごしていった。
5話へ続く