10、エピローグ
私が歯科衛生士になってからちょうど1年経った時、この日も相変わらず元気な患者さんたちの相手で忙しかった。
絶叫あげて泣き叫ぶ子供たち、制服を着て手袋をはめたとたん、無駄にテンションをあげてはしゃぐ子供などがいたので、思わず「ここは託児所か!」と突っ込みたくなる始末だった。
私が一段落終えて軽くストレッチをしていたら、次の患者さんが入ってきた。
よく見ると私が以前担当していた水野香織ちゃんだった。香織ちゃんは緊張していたのか、控えめな感じで私の所にやってきた。
「こんにちは、もしかして緊張している?」
「うん……」
私の質問に香織ちゃんは小さく返事をした。
「ねえ、よかったらお姉ちゃんと一緒の格好になってみない? 凄くかわいいと思うよ」
「うん……」
「じゃあ、行こうか」
私は備品棚から手袋一組取り出して、香織ちゃんと一緒に休憩スペースまで連れて行った。
「お洋服を脱いでもらおうかな」
香織ちゃんは私に言われて、黙々と服を脱ぎ始めた。
「じゃあ、万歳をしようか」
私はそう言って、子供用サイズの制服を香織ちゃんに着せたあと、最後に手袋をはめてあげた。
「かわいい! 香織ちゃん、ちょっと鏡を見てくれる?」
私は香織ちゃんに鏡で自分の姿を見るように言った。すると、香織ちゃんは自分の姿を見て、少し赤くなっていた。
「かわいい……」
「でしょ? お姉ちゃんとおそろいだね。じゃあ、これからお姉ちゃんと一緒に虫歯をやっつけようか」
私は香織ちゃんの手を引いたあと、治療台まで連れて行った。
香織ちゃんはいまだに緊張したままだった。
「やっぱ怖いよね」
私は少し苦笑いをしながら声をかけたが、香織ちゃんは無言のままだった。
衛生士の格好になっても怖いものは怖い。見慣れない器具で治療受けるのだから、緊張しないのがどうかしている。
ましてや自分がこれから何をされるのか分からない。痛い思いをされるのか、はたまたは歯を抜かれるのか。そう思っても不思議ではない。
子どもが虫歯治療で一番恐怖を感じるのは「ドリル」という言葉だった。なぜかというと「ドリル=痛い治療」と連想する子どもが多いからである。
そもそもの原因は大人たちにもある。虫歯の絵本や紙芝居で恐怖を植えつけてみたり、かといって「歯医者は怖くないよ」と言って自分(大人)目線で話を進める。それで怖がらないほうがどうかしている。
虫歯になった子どもの前では「歯医者さんは怖いくない」はトラウマの原因になるので禁句。子どもの目線に合わせて「歯医者さんって怖いよね。でも歯が痛いと何も食べれないから、頑張って虫歯を治してみようか」と優しく接するのがベターな答えだと思っている。
また夜歯磨きをやらない子供には「一緒に歯磨きをしようか」と優しく声をかけるのがベター。間違っても「歯を磨きなさい」とか「歯を磨かないと虫歯になって怖い歯医者に行くようになっちゃうよ」と言って上から目線や恐怖を植えつけるような発言をするのは逆効果になる。
話は戻って、私は香織ちゃんに「お口の中にお薬や、ばい菌、削ったカスが入らないように、ゴムのマスクをするね」と優しく声をかけた。
「え! 今日もゴムのマスクをするの?」
香織ちゃんは「ゴムのマスク」と聞いて過敏になっていた。どうやらラバーダムが苦手みたいだった。
「もしかして、ゴムのマスクきらい?」
「うん……」
「こまったわね……」
私は一瞬考えてしまった。
「香織ちゃん、ご飯を作ったことがある?」
「うん……」
「ご飯を作るときってどうするかな?」
「エプロンをする」
「そうだよね。じゃあ、なんでご飯を作るときにエプロンをするのかな?」
「お洋服が汚れないため?」
「正解! だから、香織ちゃんのお口にゴムのマスクをするのは、お口の中にバイ菌や削ったカス、お薬が入らないためなんだよ。そのほうが早く終わるんだよ」
「そうなんだね」
「だから、頑張ってゴムのマスクをしようか」
「うん……」
私は虫歯の部分の歯茎に表面麻酔をして、ラバーダムのセットし、最後にフロス(糸)で固定をして終わりにした。
「じゃあ、先生を呼んでくるから少し待ってくれる?」
私はそう言ったあと、夏子さんを呼びに行った。
「こんにちは、とてもかわいいね。制服と手袋、とても似合っているわよ。ねえ、ゴムのマスク苦手なの?」
夏子さんの問いかけに香織ちゃんは無言でうなづいた。
「じゃあ、早く終わらせるから、それまで少しだけ我慢しようか」
再び香織ちゃんは無言でうなづいた。
夏子さんは研磨器具で削り始めた。
「キーキー音がするけど、我慢してね」
削り始めてから十数分、今度は別の研磨器具に持ち替えた。
「今度はゴロゴロと低い音がするけど、そんなに痛くはないからね」
そう言って削り始めたが、香織ちゃんは慣れていないせいなのか、少し嫌な顔を見せた。
「やっぱ低い音苦手だった?」
香織ちゃんは無言でうなづいた。
「でも、痛くなかったでしょ?」
夏子さんはさらに治療を続けた。削り終えたあと、私に紫のチューブに入った薬を出すよう言ってきた。
私から受け取ったあと、夏子さんはヘラで薬をすくい取って、削った部分に詰めていき、青いライトを当てて固めた。
「はみだした薬の部分をちょっとだけ削らせてもらうね」
夏子さんはそう言って、再び研磨器具で削りだした。
「終わったから、ゴムのマスクを外すよ」
夏子さんはフロス(糸)をゆっくり外したあと、フォーセップスと呼ばれる専用の器具で歯に固定されているクランプと呼ばれている金具を外して、エアをかけた。
そのあと、赤い紙を用意してかみ合わせを始めた。
「じゃあ、カチカチして」
夏子さんに言われた通り、カチカチと歯をゆっくり上下に動かし始めた。
「じゃあ、今度はギシギシとやってみて」
香織ちゃんが言われた通り動かしたあと、夏子さんは香織ちゃんの歯を見て違和感を覚えた。
「まだちょっとだけ出っ張っているわね。少しだけ削るね」
夏子さんは再び研磨器具ではみ出した部分の薬を削って、再びかみ合わせをした。
「今度はどう?」
「うん……」
「大丈夫みたいだね。じゃあ、最後にうがいをして終わりにしようか」
うがいをしたあと、香織ちゃんは私とツーショットで写真に写って着替えを済ませ、当てガーゼとマスクをしたあと、写真データの入ったCD-Rを受け取って手袋をしたまま待合室に戻ってしまった。
香織ちゃんのお母さんは夏子さんから治療の説明を受けたあと、受付で会計を済ませて帰っていった。
その日の診察を全部終えて、みんなで着替えと片付けを済ませたあと、帰る準備をしていたら、夏子さんが私に声をかけてきたので、てっきりいつものように一緒に帰るものだと思っていた。しかし、その日は帰ろうとする気配がなかった。
「夏子さん、どうされたのですか?」
私は不安になって夏子さんに声をかけた。
「今日は大事な話があるの」
「大事な話って、ここでないとダメなんですか?」
私は不安を募らせて夏子さんに聞き出した。
「出来たら早いうちに済ませたいと思って……」
「それって私をクビにすることですか?」
「違う。その反対」
「どういうことですか?」
私はますます分からなくなってきた。
「実はあなたを歯科医師に推薦してみたいと思っているの」
「でも私、資格もないし、こういうのって大学に行かないとだめなんですよね?」
「もちろん。だから昔お世話になった教授に頼んでみようと思うの」
「でもお金が……」
「それなら心配いらないわ。学費ならすべて免除」
「それでは他の人たちに悪いです」
「ならこうしようか。学費はスズメちゃんが卒業したらきちんと働いて返すっていう感じで」
「それなら納得出来ます。それと私が大学へ行っている間はここを辞めるって扱いになるのですか?」
「それは違う」
「どういうことですか?」
「一応休職扱いにしておくから」
「私が休んでいる間は給料はそどうなるのですか?」
「申し訳ないけど、カットさせてもらうね」
「そうなりますよね」
「そりゃあ、そうでしょ? 働いてない人にお金なんかあげられないわよ」
「そうなりますよね」
私は苦笑いして返事をした。
「一応、大学は南大沢にある東京歯科大学にかよってもらうから。そこにいる教授を尋ねれば話が通るようになっているよ」
「分かりました」
こうして私は歯科医師になるための第一歩を踏み始めた。
翌日の夕方、仕事を終えた私は游子|と偶然会って一緒に帰ることにした。
「スズメ、お疲れ」
テンション高めに私に声をかけてきた。
「游子も今終わったの?」
「そうだよ。スズメ、なんか元気なくない?」
私がテンションを下げて声をかけたら、心配そうにのぞき込んだ。
「そんなことないよ」
「夏子さんにきついことを言われた?」
「ううん、ちがう……」
「なんで、暗い表情をしているの?」
「表情、暗かった?」
「思いっきり」
游子が力強く答えたので、私は思わず吹き出しそうになってしまった。
「あ、スズメが受けた」
今度は私に指をさして笑いながら言ってきた。
「やっと明るい表情になった。じゃあ改めて聞くけど、なんで暗い表情になっていたのか答えてくれる?」
「実は昨日、夏子さんから歯科医師の推薦が来たの」
「凄いじゃん!」
「でも、正直歯科医師になっていいか、分からなくなってきたの」
「スズメは歯科医師になりたいの? それともなりたくないの?」
「それが分からないから、考えているのよ」
「スズメは現状維持のままがいいのか、それとも上を目指したいのかだよね」
「私、本当のことを言うと衛生士で終わらせるのが嫌だから、もっと上を目指していろんなことに挑戦をしてみたいと思っているの」
「それだったら大学へ行って歯科医師の資格を取らなくちゃ。上を目指すってそういうことだと思うよ」
「そうだよね……」
「もしかして歯科医師になるの、乗り気じゃない?」
「そんなことないよ。ただ、人の歯を削るって考えたことがなかったから……」
「そうなるよね。私も最初は子どもの診察をした時に、『本当にこれでいいのかな』とか『間違った薬を出していないか』など、不安を感じていたよ。この間だって犬に噛まれた子供の脚を治療をしたけど、正直凄く緊張したよ」
「游子ってなんでも器用にこなせるから、緊張とは縁がなさそうに見えた」
「なにそれ、それって私の神経が図太いって言いたいわけ?」
「そんなことないよ」
私は今にも怒りだしそうな游子を必死になだめた。
「スズメ、世の中には言って許させる言葉と、許されない言葉の二つが存在しているんだよ」
游子は不機嫌な表情で私に注意をした。
「確かにそうだよね。気をつけます……」
「なーんてね。もう気にしてないから大丈夫だよ」
「なーんだ、びっくりさせないでよ」
「スズメ、これ私だからこの程度で許されたけど、他の人だったら大変なことになっていたわよ」
「分かりました、気をつけます」
「もう気にしてないから大丈夫だよ。それより実際の気持ちはどうなの?」
「私、やってみるよ」
「そう来なくちゃ」
家に戻って私は夏子さんから受け取った入学案内のパンフレットやホームページで学校の様子を見ることこにした。
やはり大学って言うだけであって、設備が充実していたことにビックリしてしまった。これから4年間ここで学ぶのかと、私は部屋で独り言を呟いてしまった。
風呂から上がって一休みしようとした時、夏子さんは私を呼んで話をすることになった。
「夏子さん、どうされましたか?」
「疲れている時にごめんね」
「もしかして大学の話ですか?」
「その『もしかして』なの。スズメちゃん、決心ついた?」
「はい、私4年間ここで頑張ってみようと思っています。そして、また診療所に戻って、今度は歯科医師として頑張ってみたいと思います」
「よく決心したわね。じゃあ、次の木曜日に教授の所へ挨拶に行こうか」
「分かりました。是非よろしくお願いします」
「スズメちゃん、そんなにかしこまらなくてもいいよ」
夏子さんは緊張した私をリラックスさせてくれた。
「ところで、木曜日って普通に診察のある日ですよね?」
私は疑問に感じながら夏子さんに確認した。
「あ、その日は臨時の休診日にするから」
「すでに告知はしてあるのですか? あと予約してある患者さんにどう対応されるのですか?」
「あ、そうだった。じゃあ、代わりの先生を手配しておくよ」
夏子さんはマイペースな感じで言ってきたので、私としては少々不安になってきた。
「私も業務の引継ぎをした方がいい?」
「そうだね。出来たらそうしてくれると助かる」
夏子さんはコーヒーを飲みながら言ってきた。
「あと、気になりましたが服装はどんなのが良いですか?」
「服装なんてなんでもいいよ。ただ、入学式や卒業式だけは正装じゃないとだめだよ」
「わかりました。じゃあ、当日は普段着でも問題ないですよね?」
「大丈夫よ」
「分かりました、ありがとうございます」
「明日も早いから、今日は早く寝ようか」
夏子さんに言われて、寝ることにした。
水曜日の夕方になって、私は同じ衛生士の緑川さんを呼んで業務の引継ぎを行うことになり、私が言ったことをすべてノートに記録していった。
「それで患者さんの中には私たちと同じ格好になりたがる人がいますので、その場合は奥の休憩スペースに案内して、着替えを手伝ってあげてください。その際、手袋だけは忘れないでください。手袋は基本持ち帰ってもらう形になっています」
「手袋のサイズは?」
私の説明に緑川さんが質問をしてきた。
「基本SSSサイズになっているけど、万が一手の大きい患者さんがいたらSSにしてくれる?」
「分かりました」
「治療を終えたら、当てガーゼとマスクも忘れないように」
「分かりました」
緑川さんは淡々とした感じで返事をした。
「あと、制服を着て治療を受けた患者さんには記念撮影のサービスをやっているので、そちらも忘れないでください」
「はい」
「怖がっている患者さんがいたら、へたに『怖くないよ』と言うと逆効果になるので、患者さんの目線になって接してあげてください。私からの説明は以上になりますが、ここまでで何か質問は?」
「特にございません」
「もし、やっている最中に何か分からないことがあったら、決して考え込まず近くの衛生士さんか先生に聞いてください」
「分かりました……。って私、もう新人ではないので、ある程度のことは分かりますよ」
緑川さんは冗談交じりで私に言ってきた。
「そうだったね。ごめん」
「紅蜂さんは、いつから大学へ行かれるのですか?」
「来年の春から」
「そうなんですね」
「ま、それまでは一緒にいられるようにするから。だけど私来月から予備校にかようので、毎日は来られないよ」
「大丈夫です。患者さんの事は任せてください」
「頼んだわよ」
緑川さんは頼りない返事をしたので、私としては少し不安を感じてしまった。
翌日、私は緑川さんの業務を一日見ることにした。
緑川さんはノートを見ながら私に言われたことをこなしてくれていたが、昨日の今日だったので、それは仕方がないと判断して目をつむることにした。
その日は待合室に香織ちゃんがいたので、緑川さんは名前を呼んだあと、診察室の中に通した。
「あれ、いつものお姉ちゃんは?」
香織ちゃんは不思議そうな顔をして緑川さんに聞いた。
「今日はこのお姉ちゃんが香織ちゃんのお世話をすることなったの」
私は顔をにこやかにして香織ちゃんに言った。
「香織ちゃん、治療を受けている時ってお姉ちゃんたちと同じ格好になっているんだよね? 向こうでお着替えをしようか」
香織ちゃんは緑川さんと一緒に奥の休憩スペースに行って制服に着替えたあと、最後に手袋をはめた。
「香織ちゃん、かわいい! じゃあ、行こうか」
緑川さんは香織ちゃんの手を引いて、治療台に連れて行ってあげて、座ったのを確認したら背もたれを倒し始めた。
「香織ちゃん、もしかして緊張してる?」
緊張している香織ちゃんに優しく声をかけてあげた。
「ねえ、今日もゴムのマスクをするの?」
「もしかしてゴムのマスクが苦手なの?」
「うん……」
「そうか、苦手なんだね。お姉ちゃんも出来たらゴムのマスクをしないで虫歯を治してあげたいんだけど、それをやるとバイ菌が歯の中に入ったり、お口の中にお薬や削ったカスが入って治療がすぐに終わらないの。だから、香織ちゃんには悪いけど、ゴムのマスクをしてもらうよ」
緑川さんはそう言ってラバーダム防湿の準備に入った。
「ちょっとの間我慢してね」
そのあと緑川さんは夏子さんを呼んで治療に入った。
「こんにちは、今日いつもと違うお姉ちゃんだったからビックリしたでしょ? 今日のお姉ちゃんもいつものお姉ちゃんに負けないくらい優しいからね」
夏子さんの一声に香織ちゃんは安心した表情を見せた。
治療を終えてから、緑川さんは香織ちゃんと一緒に記念撮影を済ませて、備品棚からマスクと当てガーゼを取り出して奥の休憩スペースに向かった。
着替えを済ませたあと、当てガーゼとマスクをつけてあげて、写真の入ったCD-Rを渡したあと、香織ちゃんを待合室まで連れて行ってあげた。夏子さんがお母さんに治療の説明をしたあと、受け付けで会計を済ませて帰ってしまった。
業務を終えた私たちは着替えと片付けを済ませて、それぞれ家に帰ることにした。
「あ、緑川さん、待って」
私は家に帰ろうとした緑川さんを引き留めて話をすることにした。
「どうされましたか?」
緑川さんは不思議そうな顔をして、私に返事をした。
「まずはお疲れ様。どうだった? 私のお仕事」
「正直慣れないことだらけで疲れました」
「明日から私来られなくなるけど、1人でも大丈夫?」
「なんとかやって見せます」
「本当にヤバくなったら、1人で抱え込まないで周りに相談するんだよ」
「もう新人じゃないんだから、大丈夫ですよ」
私としては正直不安だった。しかし私の心配とは裏腹に緑川さんは自信満々の顔をしていた。
「じゃあ、私帰るけど、緑川さん明日から大丈夫?」
「本当に大丈夫ですよ」
しかし、不安を抱えていても何も始まらないので、私は家に帰って勉強することにした。
帰宅後、部屋で参考書などの資料を広げて勉強している間、緑川さんのことから頭が離れなくなっていた。
明日予備校の帰りにこっそり覗くか。しかし今の私はそれどころではなかった。とにかく試験に向けて勉強しよう。
その日、深夜0時に勉強を切り上げて寝ることにした。
翌日私は新百合ヶ丘駅にある予備校に行くことにした。
中に入ると、高校生くらいの人から上は還暦間近の人までが教室の中で資料や参考書を広げて眺めていた。
その一方、廊下へ出てみると友達同士のおしゃべりやスマホに夢中になっている人、イヤホンで音楽を聞く人など様々だった。この人たち何しにここへ来たんだろう。私は心の中でそう呟いてしまった。それを気にしていても仕方がない。私は再び教室へ戻って参考書を広げることにした。
私が自分の席で参考書を広げたら、後ろからシャープペンで私の背中をつつていてきた人がいた。
「ヤッホー」
後ろを振り向いたら、まだ18歳くらいの女の子が声をかけてきた。
「あなたは?」
「その前に自己紹介をして。それが礼儀でしょ」
女の子は上から目線で私に言ってきた。年下のくせに生意気。私はそう思っていたけど、口にするのがばかばかしいから自己紹介をすることにした。
「私は紅蜂スズメ、23歳。現役の歯科衛生士」
「マジ!? 衛生士って言うことは歯医者さん?」
「そうよ。小児歯科で働いているの」
「小児歯科ってことは、子ども専用の歯医者さんなんだ。ここにいるってことは将来は歯科医師になるの?」
「まあね。じゃあ、今度はあなたが自己紹介をする番よ」
「そうなんだね。私は永田奈緒、18歳。私も歯科医師を目指そうと思っているの。家が一般歯科だから、将来は私も歯科医師として働こうと思っているの」
「家の跡継ぎって凄いね」
「あなたも似たようなもんじゃないの?」
「まあね」
「今、歯科衛生士ってことは歯医者さんの知識はある程度は身につけているって感じなんだよね?」
「まあね」
「いいなあ」
「永田さんだって家が歯医者なんだから、ある程度の知識が身についているんじゃない?」
「そうでもないよ。現場では部外者の立ち入り禁止。用もないのにうろつくと怒鳴られるから」
「厳しいんだね」
「そりゃそうよ。歯医者さんって衛生第一なんだから」
「確かに……」
「うちはマスクと手袋してないと立ち入り禁止になるの」
永田さんは不満をこぼすような感じで私に言ってきた。
「うちもだよ」
「あと、私のことは『奈緒』って呼んで」
「じゃあ、私のことも『スズメ』って呼んで」
「了解!」
その直後だった。紺のスーツに白いワイシャツ、青いネクタイ、髪型はやや長め、そしてあごに髭を伸ばした50歳くらいの男性の先生がやってきた。
「みんな静かに。今日からここで数学を教えることになった、島崎智一だ」
そう言ってホワイトボードに自分の名前を書き始めた。さらに先生は話を進めた。
「これだけは言っておく。ここは学校でも学習塾でもない。予備校だ。真剣に勉強して志望校を目指している人間だけが残れ。それ以外の人間は、一生懸命勉強する人間の妨げとなるから今すぐ帰れ。授業中、おしゃべりやスマホ、飲食していたら当然注意はするが、注意して聞かない場合はその場で帰ってもらう。それだけはきちんと覚悟をしておくように」
島崎先生の厳しい言葉に、みんなは完全に凍り付いてしまった。初日から厳しい言葉を出すなんて、さすが大手の予備校だと感心してしまった。
「今、ここに全員が残ったって言うことは、志望校を目指して勉強するってことでいいのかな」
島崎先生の厳しい言葉にみんなは返事が出来なくなっていた。
「どうして返事をしないのかな? なんか私が1人でしゃべっているみたいでバカみたいじゃないか。言っておくが、みんなが取っている態度は社会に出てからは通用しませんよ。返事をしないってことは、相手を無視するのと一緒だと言うことを忘れないでください」
その時だった。18歳くらい女の子が後ろから手を挙げた。
「なんだね?」
「返事をしなかったことについては謝ります」
「じゃあ、なぜ返事をしなかったのかね?」
「それは先生があまりにも厳しすぎて……」
「君は目の前の相手が厳しいと返事が出来なくなるのかね?」
「はい……」
「では、私が『先生』ではなく、君のお客さんや上司だったらどうしている?」
「分かりません……」
「今の態度、社会に出たら通用しませんよ。君がとったその態度で、上司や先輩に怒鳴られるならまだしも、お客さんから信用なくされたらどうしますか? 少なくとも君は会社に大きな損害を与えていることになるんですよ」
「すみません……」
「では、それがお友達同士ならどうしていますか?」
「友達の前ではきちんと返事をしています……」
「なぜ友達の前ではきちんと返事が出来て、私の前では返事が出来なかったのですか? 私をなめているのですか?」
島崎先生は鋭い目つきで女の子に目線を向けながら質問してきた。
「友達は優しくて……、先生は厳しいからです……」
「では、目の前のお友達が私と同じように厳しい人だったら?」
「そういう人と接したことがないので、わかりません……」
「そうですか。では答えを出します。もし、私があなたの友達なら縁を切っています。返事もろくに出来ない人とはお付き合い出来ませんので」
その時だった。別の19歳くらいの男子生徒が助け舟を出すように、手を挙げてきた。
「君はなんなのかね?」
「先生に意見があります」
「どうぞ」
「先生のおっしゃっていることは正しいです。でも、今の言い方はきつすぎます」
「君は会社で同僚が上司に怒鳴られている時に、今と同じことが言えるのかね?」
「言えます」
「ほう、その根拠とは?」
「今、職場でのいじめやパワハラが社会問題となっているので、それが出来ないと思っています」
「では、目の前の同僚が会社に大きな損害を与えるミスをしてしまって、上司に怒鳴られている時に今と同じように『パワハラだからやめてもらえますか?』と言えますか?」
「はい」
「では、質問しよう。君は会社がどんな所か知っているのかね?」
「お仕事をする所です」
「確かにその通りだ。でも、もう一つ目的があるのは知っているのかね?」
「……」
「どうした、答えられないのかね?」
「はい、分かりません」
「では、答えを教えるよ。それはお金をもらう場所なんだよ」
その時、男子生徒は悔しそうな顔をしていた。
「今、私に意見した2人には正直、言い過ぎたと思っている。本当にすまなかった。私自身大人げないと思っている。しかし、これだけはわかってほしい。会社はお金をもらう場所だから、学校や家、友達と一緒の時のように甘くはない。むしろ私以上に厳しく言ってくる人たちがたくさんいる。上司や先輩、そして社長をはじめとする役員の人たち、そしてこれから自分たちが付き合うお客さんたち。これらは全員厳しい人たちだと思ってほしい」
島崎先生は表情を険しくさせながら私たちの前で話した。
「では授業を始めたいと思う」
そう言って島崎先生はパソコンで作成したプリントを配り始めた。全員にいきわたったところで、授業が始まった。
「今、配ったプリントは中学3年生レベルの問題だから簡単に解けるはずだが、もし解けないなら相談せず、私に質問してくるように」
みんなが解き始めてから15分、さっそく質問が多発。中には全部解けない人までがいた。
「先生、この問題難しくて解けません」
「何言っているんだ? 中3レベルだぞ」
さすがの島崎先生もびっくりしていた。
「君たちは義務教育で何を学んできた?」
「先生、この問題は難しすぎます」
再び教室の中から男子の声が聞こえてきた。
「えー! ちょっと待ってくれ。じゃあ聞くけど何年生の問題なら解けるんだ?」
「中1か中2くらいです」
「マジか……」
島崎先生はそれを聞いて言葉を失ってしまった。
「分かった、また明日作り直してくるよ。とりあえず、このプリントは一度回収するよ」
島崎先生は一度みんなからプリントを回収して、雑談を始めた。
自分が現役のころ受験で苦しんだ時の話。大学で単位が取れなくて友達に泣きついたり、卒業後も教員免許を取得したのはいいが、就職が出来ず、途方にくれた日々を過ごしていた時の話をした。
しかし、不思議なことにみんなは島崎先生の話に真剣に耳を傾けていた。
私はてっきり誰か1人くらい、居眠りやスマホに夢中になる人がいるのかと思ったが、そういう人は誰一人いなかった。
チャイムが鳴って、みんなは廊下に出るなり、好き勝手に不満を並べていいた。
「あの島崎っていうおっさん、マジでうざかった。好き勝手に説教並べて、それで偉くなったつもりか?」
「さあな。そんなの放っておけばいいじゃん」
「それに、うちらにやらせた問題、明らかに中3レベルじゃないよな。すげえ難しいのをやらせやがって。それで『おかしいなあ、これ中3の問題なんだけどな』と言っていたけど、本当に中3レベルなのか疑いたくなったよ」
「おかしいのって島崎の頭なんじゃねえの?」
「それは言えてるよ」
数人の男子が廊下で不満を並べているころ、私はトイレを済ませて自分の席で資料を広げていた。
その後、国語、英語、社会、理科などをやっていき、その日の授業は終わった。
空を見ると太陽が傾きかけていた。
私が帰ろうとした時、永田さんが声をかけてきた。
「スズメ、お疲れ。一緒に帰ろうか」
「永田さん、お疲れ」
「スズメ、私のことは『奈緒』って呼んでって言ったじゃん」
「あ、ごめん」
「次、苗字に『さん』づけをしたら、マクドナルドで何かをおごってもらうからね」
「はーい」
「そういえば、スズメって家どこなの?」
「私は柿生からバスかな。奈緒はどこなの?」
「私は鶴川からバスだよ」
「そうなんだね。途中まで一緒に帰ろうか」
こうして私と奈緒は電車に乗って、途中まで一緒に帰る毎日が始まった。
雨の日、曇りの日、そして晴れた日、みんなが楽しそうに休日を過ごしている日など、ストレスを抱えながら毎日かよっていた。
そして迎えた当日、私は受験票と夏子さんから渡されたお守りを持って受験会場へと向かった。
受験会場は京王相模原線の南大沢駅から徒歩4分。目の前に大きなキャンパスが見えたので、正直少し驚いてしまった。
私は入口で受付を済ませたあと、案内された部屋に向かって受験番号と名前が記されている席に座って、開始まで参考書を広げていた。
本番だけであって緊張が高まってきた。正直、こんな経験を味わったのは初めて。
時間が経つに連れて、記憶が消されていくのを感じる。
私は記憶が消されないように一生懸命、資料や参考書を読み続けていた。
しばらくすると、眼鏡をかけた紺のスーツ姿の男性と白いスーツ姿の女性が問題用紙と解答用紙を持って教室に入ってきた。2人の右腕には「監督」と書かれた赤い腕章がつけられていて、厳しそうな目つきで私たちを見ていいた。
「それでは今から問題用紙と解答用紙を配ります。シャープペン、鉛筆、消しゴム以外はカバンの中にしまってください。またスマートホンをお持ちの方は電源を切って頂いてカバンの中にしまってください。時計に関しては正面のモニターに大きく映されますので、腕時計を身に着けている方もカバンにしまって頂くよう、お願いいたします」
男性の試験監督はそう言って問題用紙を配り始め、その直後女性の試験監督が解答用紙を配る感じになっていた。
「今から試験の説明に入りたいと思います。机の上には受験票、えんぴつ、シャープペン、消しゴム以外は置くことは出来ません。スマートホンは電源を切って頂き、アラーム機能のついている腕時計は音が出ないよう、設定を解除してください。それ以外としては私語、飲食、立ち歩きなどの不正行為を見かけた際には、試験を中止して頂き、退場となります。また試験に関しての質問はいっさいお答え出来ません。問題をすべて解き終えた方は、終了5分前から退場が可能となります。その際には手を挙げて試験監督に申し出てください。それでは試験始め!」
試験監督の号令とともに試験が始まった。
問題用紙と解答用紙に名前を記入を済ませたあと問題を解き始めた。
最初は数学だった。問題用紙を広げたとたん、予備校で習ったところがそのまんま出てきたので、私は正直自分の目を疑ってしまった。うそ、簡単すぎる。頭の中でそう呟きながら解いていった。
その後の国語や英語、社会、理科なども次々と解いていき、試験終了前に終わってしまった。
すべての試験が終わったころにはすでに太陽が傾きかけていた。
校舎を出て駅に向かっていたら、後ろから聞き覚えのある声が聞こえたので、振り向いたら奈緒が立っていた。
「あれ、奈緒もここの学校を受けていたの?」
「そうだよ。ねえ、それより今日のテストどうだった?」
「私はバッチリだったよ。奈緒は?」
「私はちょっと自信がないかも……」
「どの科目?」
「数学……」
「あれって、島崎先生の授業に出てきた内容がそのまま出てきただけじゃん」
「私、昔から数学苦手だったから……。答え合わせをしたら間違いなく絶望的かも……」
私はこれ以上何も言えなくなってしまった。とにかくこうしていても始まらないし、電車に乗って帰ることにした。
試験の結果は5日後に郵送で知らせる形となっていた。試験で自信があったと言えども、待っている間は正直緊張する。「もしかしたら、落ちているかもれない」という恐怖と不安を抱える毎日を過ごしていた。
その日の夕食も満足にご飯が喉に通らなかった。
「スズメちゃん、どうしたの?」
夏子さんが心配そうな表情をして私に声をかけてきた。
「結果が気になって食欲がない……」
「今、それを気にしたって始まらないでしょ。一生懸命頑張ったんだし」
「うん……」
「とにかく待ちましょう」
夏子さんは目の前の焼き魚を食べながら私に言ってきた。
「試験の結果が来るまでの間、仕事を休んでも良いですか?」
「それは構わないけど……、試験って実際のところどうだったの?」
「ちゃんと解けました」
「なら何も心配することなんてないじゃん。ま、結果が来るまではゆっくり休んでいたら?」
「分かりました、そうさせてもらいます」
あれから数日後、郵便受けの中に私宛の大きな封筒が入っていた。
結果通知だ、どうしよう。1人で見るべきか、それとも夏子さんと一緒に見るべきか。さんざん迷った末、私は夏子さんと一緒に見ることにした。
仕事から戻ってきた夏子さんは疲れきった顔をして、ソファでくつろいでいた。
「夏子さん、お疲れ様です。結果通知がきました」
「お、どうだった?」
夏子さんはムクっと起き上がって、私のほうへ体を向けた。
「実は夏子さんと一緒に見たかったので、開けずに待っていました」
「そうか、じゃあ今から一緒に見ようか」
夏子さんは引き出しからはさみを取り出して封筒の上の部分を切って、中身を取り出した。
<結果通知 受験番号〇〇〇 紅蜂スズメ様 このたび当校の受験にお越しいただきましてありがとうございます。今回の試験の結果は「合格」とさせて頂きます。貴殿のお越しをお待ちしております。>
「夏子さん、合格したよ!」
「やったじゃん!」
「今日はお祝いと言うことで、出前でピザを注文をしようか」
「わーい!」
その日は出前のピザで私の合格を祝ってくれた。
さらに翌日、私は予備校へ行って島崎先生にも試験に合格したことを報告した。
「島崎先生、私合格しました」
「やったじゃないか!」
島崎先生は私の合格通知を見て大喜び。
「ところで、永田お前はどうなんだ?」
島崎先生は目線を奈緒のほうへ向けて尋ねた。
「先生、私も合格をしました」
「やったじゃないか! これで四月から大学生になったんだな」
「先生、ありがとうございます」
「奈緒、合格したの?」
「うん! 私合格したよ」
「やったじゃない! あとは頑張って勉強して家の後を継ぐことだね」
「うん! 私頑張るよ」
「せっかくだから、お茶でも飲んで行かないか?」
島崎先生は私と奈緒を奥にある応接室へ案内したあと、冷蔵庫から缶コーヒーを人数分取り出して私と奈緒に差し出した。
「こんなのしかないけど、ここは勘弁してくれ」
そう言って、島崎先生は重たい体をソファにおろした。
「まずは、改めて合格おめでとう」
「ありがとうございます。今回私たちが合格出来たのは先生のおかげだと思っています。改めて感謝します」
「何を言っているんだ。私は何もやっていない。現に合格できたのは君たちの努力のおかげだろ。とにかく頭をあげてくれ」
私が頭を下げてお礼を言ったら、島崎先生が頭を上げるように言ってきた。
「君たちはそろって東京歯科大学へ受かったわけだが、そこで何をやってみたいのかね?」
島崎先生は缶コーヒーを一口飲んだあと質問してきた。
「私は今、小児歯科で衛生士をやっていますが、治療を怖がっている子供たちがいるのは事実です。ですから、将来的には怖がらない治療を見つけていきたいと思っています」
「怖がらない治療ねえ……」
島崎先生は気難しい表情をしながら、私の話を聞いていた。
「永田さん、大学へ入ったらどんな事を学んでみたい?」
「正直、今は何も分かりません。ただ私の実家が一般歯科をやっていますので、大人から小さい子供までリラックスして治療を受けられる方法を見つけたいと思います。また、将来的には一般歯科だけでく、紅蜂さんのように小児歯科もやってみたいと考えています」
「なるほどねえ。これだけの立派な目標があれば問題ないよ」
「どういうことですか?」
私は疑問に感じて、島崎先生に聞き返した。
「毎年いるんだよ。大学に入ったのはいいが、なんにも目標を持たず4年間ダラダラと時間をすごして、卒業間近になって何もやらない人。そういう人は卒業後就職が出来ず外でフラフラしているか、日雇い労働派遣で短期のアルバイトをやっている人が多いんだよね」
島崎先生はため息交じりで私と奈緒に話してくれた。
「日雇い派遣で働いているってことは、就職活動もしていなかったってことですよね?」
今度は奈緒が質問してきた。
「まあ、結果を言えばこんな感じかな。君たちは卒業したら、こんな人間にならないよう、4年間頑張っていろんな知識を身に着けてくれよ」
「分かりました、ありがとうございます。私、4年間一生懸命勉強して歯科医師になります」
「よし、頑張れ。永田は?」
「私もきちんと目標を立てて頑張ります」
「では、そろそろおいとまをさせて頂きます」
私は立ち上がって、3本の空き缶を流しでゆすいだあと、空容器入れに入れて帰る準備をした。
「それでは、そろそろ失礼させて頂きます」
「お前たち4年後、絶対にここへ来いよ」
奈緒も島崎先生に一礼をして、私と一緒に帰ってしまった。
話は4年後に飛ぶ。
卒業式から1か月後、私は歯科医師として最初の仕事を始めることにした。
「紅蜂先生、今日もよろしくお願いします」
新人の衛生士さんたちが私におじぎをして挨拶をしてくれた。
古巣の診療所へ戻った私は、副院長になったわけだが、正直実感がわかなかった。
でも副院長になった以上、私は新人たちの良い見本になれるよう、頑張ろうと思った。
「ちょっと、着替えを手伝うだけで何時間かけているのよ」
その一方、緑川さんはベテランの衛生士となって、後輩の指導にあたっていた。
「すみません……」
「もういい、ここは私が引き受けるから。ねえ、手袋は? 目の前にないわよね?」
「すみません」
「『すみません』じゃないでしょ、早く持ってきなさいよ」
新人の衛生士は緑川さんに叱られて、備品棚から一番小さい手袋を一組用意して渡した。
緑川さんは受け取った手袋を7歳の女の子の手にはめたあと、治療台に連れて行ってあげて、ラバーダムの準備を始めた。
「ねえ、ゴムのマスクをするの?」
「ん? そうだよ。だってそうしないと、バイ菌が歯の中に入って治る虫歯が治らなくなるよ。それでもいいの? それにお口の中にお薬が入ると治療も長引くよ?」
「それは嫌だ」
女の子は緑川さんの言葉に控えめな声で返事をした。
「そうなるのは嫌でしょ? だからゴムのマスクをして、ちゃんと虫歯を治そう」
「うん!」
「よし、いい返事だ」
緑川さんはそう言って、ラバーダムのセットをし終えたあと、私を呼ぶことにした。
「紅蜂先生、お願いします」
「緑川さん、ちょっとだけいい?」
「なんですか?」
「今、新人さを怒鳴っていたでしょ?」
「ちょっと動作にもたつきがあったので、注意をしました」
「注意をするのは勝手だけど、明らかにパワハラだよ。言葉には気を付けてくれる?」
「申し訳ございません。次から気をつけます」
緑川さんは私に注意されて、ションボリしてしまった。
治療を終えて私は、元気のない緑川さんを裏に呼んで話をすることにした。
「さっきはきついことを言ってごめんね」
「いいえ、私が悪いのです……」
「なんできついことを言ったのかと言うと、新人って叱られ慣れてないせいなのか、ちょっと上司や先輩に怒鳴られただけで、すぐに辞める人がいるの。もし、自分が怒鳴ったせいで辞める人がいたらどうする?」
「責任を感じます」
「そうなるよね。だから、言葉には充分気をつけないとだめなの。イライラしていても当たるような言い方をしたらだめだよ」
「分かりました」
「逆の立場になればどんな気分を味わうかって考えたことある?」
「私なら間違いなく辞めてしまいます」
「そうなるでしょ? 辞めるってことは会社に大きな損害を与えることになるんだよ。だから、次から言葉には充分気を付けてね」
「分かりました」
「よろしくね」
緑川さんを現場に戻したあと、内心私も言い過ぎたと反省をする羽目になってしまった。
言ってみればこれは明らかに身から出た錆だった。
最後の治療を終えて私はみんなと一緒に着替えと片付けを済ませて、帰ろうとした時だった。
緑川さんは私を見るなり、「お疲れ様でした」と言い残して帰ってしまった。やはり昼間のことを気にしていたのか。本当なら追いかけたかったのだが、かえって逆効果になる恐れを感じてしまったので、その日は私も1人で帰ることにした。
戸締りを済ませて、外に出てから数分後のことだった。
「スズメ、久しぶりに一緒に帰らない?」
後ろから游子の声が聞こえてきた。
「先生になった気分はどう?」
「正直、課題が山積みだよ」
「例えば?」
「私、副院長になったんだけど、空回りしてばかりでうまくいかないの」
「最初からうまくいくと思った?」
「うん……」
「最初からうまくいくわけないじゃん。ちょっとしくじっただけで、落ち込まない」
游子は落ち込んでいる私に励ますような感じで言ってきた。
「確かにそうだよね……。実は今日初めて部下を怒鳴ったの」
「なんで?」
「その人が新人の助手を頭ごなしに叱っていたから、パワハラだと思って裏に呼んできつく叱ったの」
「その程度で落ち込んでいたんだ。心配して損したよ。それくらいなら私もよくやっているよ。パワハラをやっていた人に注意をするのは当然だよ。ただでさえ、いじめやパワハラが社会問題となっているんだから、少しくらいならきつい言葉を浴びせてもいいと思うよ」
「そうだよね……」
「私も看護師さんが自分の部下に怒鳴っていたら注意をしているよ」
「そうなの?」
「もし気にしているなら、明日謝ったっていいじゃん」
「それなら、さっきちゃんと謝ったよ。そしたら私の顔を見るなり先にいなくなった」
「その人、近いうちに辞めるかもしれないよ」
「やっぱり?」
「私の診療所でもそういう辞め方をした人がいたから。でもそういう人って、案外長続き出来ないんだよね」
「そうなんだね……」
私は游子の言葉に相づちを打ちながら聞いていた。
「ちょっと怒鳴られたり、厳しいことを言われて辞める人って、遠回しに自分を甘やかしている証拠だと思うよ。私ならそういう人とは一緒に働きたないもん」
「それは言えてる……。私も明日から少し厳しくやってみるよ」
「ま、ほどほどにね」
游子は苦笑いをしながら返事をした。私は産まれて初めて人の上に立つ仕事に就いたので、游子の話を聞いていろいろと参考になった。
そのあと家に帰って、自分がどんな方法で指導するか考えてみた。
私としては厳しくするのは好きではなかった。かと言って甘やかすわけにもいかない。なら明日から「飴とムチ」でいこう。
今の私にとって、これが正しいやり方だと思っていた。
翌日以降、私は自分の部下たちに厳しさと優しさの両方で接してみようと思ったが、実際にはうまくいかなかった。それもそのはず。最初からうまくいかないのは承知していたからであった。
はじめのうちはギクシャクしたやり方だったが、月日が経過していくうちに副院長の仕事が板についてきて、みんなも私に付いてくるようになってきた。
さらに一年が経ち、夏子さんは院長を引退して大学で研究することになったため、私が院長を務めることになった。
みんなの頂点に立つという責任の重たさは半端ではなかった。でも院長になった以上、私はみんなをまとめていこうと思った。
ある夏の日、隊長が子供を連れて私のところにやってきた。
「隊長、お久しぶりです」
「お、紅蜂うまくやっているか?」
「はい、おかげさまで。実は私、院長になりました」
「おお、凄いじゃないか」
「隊長、今日ここに来られたのはもしかして、お子さんが虫歯になられたのですか?」
「その『まさか』なんだよ。旦那が娘にチョコを食べさせてばっかだから、こうなってしまったんだよ。紅蜂、すまないけど虫歯を治してあげてくれないか?」
「分かりました。なるべく怖がらない方法でやってみます」
「本当にすまない」
「夢子ちゃん、歯が痛い?」
「うん……」
「じゃあ、お姉ちゃんと一緒に頑張って治そうか」
私は夢子ちゃんを診察室に連れていき、院長になって最初のお仕事をすることになった。
この日も待合室には多くの患者さんが見えていた。
「よーし、がんばるぞー!」
私は診察室で1人大きな声をあげて、気合いを入れて頑張ることにした。
おわり
みなさん、こんにちは。作者の日下千尋と申します。
今回の作品はいかがでしたでしょうか。楽しかったですか? それともつまんなくて途中で読むのをやめちゃいましたか?
今回の作品ですが、害虫の能力を持った女の子たちが戦闘を終えて、新たな地で人に役に立つお仕事をする内容を書かせていただきました。
主人公のスズメちゃんは歯医者さん、友達の游子ちゃんは小児科医、そして雪子ちゃんは解体業者、そして綾子ちゃんと蘭子ちゃんは老人ホームで働くことになりました。
これを読んでいる社会人のみなさんはどんな職業についていますか? また学生のみなさんは将来どんな職業についてみたいと考えていますか? ぜひお聞かせ願いたいと思います。
話題を変えますが、この作品を書き始めているころ、世間では年の瀬を迎えていました。
クリスマス、お正月などで慌ただしい日々を過ごしていたに違いありません。そんな中、私は情けないことに家族との大げんかが原因で家出をして、初めてネットカフェで寝どまりをする経験をしました。中に入ってみると、すべて個室になっており、漫画の本がずらりと並んでいました。それ以外としてはドリンクバーや食事も注文できる仕組みとなっていました。
私は自分の部屋でアニメを見ながらジュースを飲んだり、アイスを食べると言ったダメ人間のスタイルで時間を過ごしていました。日付を見たら大晦日。「来年はここで正月を迎えるのか。年越しそば、おせち、お雑煮よ、さらば」と心の中で呟きながら時間を過ごす羽目となる始末。結局友達に泣きついて助けを求めた結果、「自分から謝って家に帰った方がいい」と言われ、母親に謝罪のメールを送り、最後は和解して終わりました。
しかし、今回の家出は初めてではありませんでした。過去数年、けんかをするたびに母の実家に行ってテレビを見て時間を過ごしていたので、こうして振り返ってみると、毎年学習していないんだなと感じました。今回の家出の出来事を小学校の時の同級生にも相談した結果、「癖になってこういう行動を取っている。今後はトラブルが発生しないためにも自分の部屋で1人でいたら?」とアドバイスをちょうだいしました。
皆さんもご家族とけんかをされるかもしれませんが、くれぐれも私のように家出だけはなさらないように気を付けてください。
最後に最近あった出来事を話したいとしたいと思います。
年が明けて友人と初日の出を見て、家族と一緒におせちとお雑煮を堪能したあと、自分の部屋でゆっくりと時間を過ごしていたら、小さな揺れを感じました。また地震かと思ってスマホで確認してみたら、なんと石川県能登半島で震度7の大地震、しかも大津波警報が発令。私は居間のテレビで地震の様子を見たら家屋が倒壊、地面にひびが入ったり、山沿いでは土砂崩れが発生していたので、自然の恐ろしさを改めて思い知らされました。
今回の地震で亡くなられた方、本当に心よりご冥福をお祈りいたします。また、けがをされた方、一日でも早い回復をお祈り申し上げます。
それでは今回も最後まで読んで頂き、本当にありがとうございました。
次回の作品も一生懸命頑張って書きますので、また読んで頂けたら嬉しいです。




