(13)そんなことよりお腹が空きました。
大通りから外れた、細い道。ゆめはローザの少し後ろを歩いていく。
「この時間だと、ピアンタはメルカートにいるはずよ」
「メルカート?」
ゆめが聞き返すと、ローザはええ、とうなずき、真っ直ぐ前を指す。その指をたどって、ゆめも視線を向ける。
多くの人が行き交う道は、メイン通りよりも街灯の間隔も広く、少し薄暗い。それでも見通すには、十分な明るさがある。
「あそこで開かれているのが、メルカートよ」
ローザが指差す方向には、夕闇の中に色とりどりの灯りが見える。
「まあ、市場みたいなものかしら」
「おー、市場ですか」
そのまま道なりに進んでいくと、大きな広場に行き当たる。広場には、隙間なくぎっちりと屋台が詰め込まれていた。
その軒先には赤や白、黄色のランタンが掲げられている。
「お店がいっぱいなのー」
「わあ、ほんとにすごい数……」
はしゃぐミントにゆめも同意する。
広場を埋め尽くす屋台の合間には細く道が伸びる。通りには行き交う人であふれ、飛び交う声がにぎやかだ。
屋台の向こうに広がる空には、サファイアブルーにサンセットオレンジの濃い赤色が溶け込んでいく。店先にかかった色とりどりのランタンが、ゆらゆらと風に揺れる。
「あ、そうだ」
ゆめは思い立ったように、トレンチコートのポケットからスマートフォンを取り出す。カシャ、と目の前の景色を写真におさめる。画面越しの鮮やかな風景に満足気に息をつくと、スマートフォンを戻す。
「さ、ピアンタの店はこっちよ」
「あ、はい!」
ゆめがスマートフォンをしまうのを待ってから歩き出したローザを追いかける。
ローザの後に続きながらも、ゆめはついつい周りを見回してしまう。
入り口近くの青果店で、かっぷくのよいおばさんが大根を手に何やら交渉をしている。その並びにある鮮魚店の店先には、ビニールプールくらいの大きさのいけすが設置されている。泳ぐ魚は少ないが、母親に手を引かれた子供が興味深げに中をのぞいている。
別の屋台では、調味料や香辛料がのぞく麻袋を吟味する若い男性や、金物屋で店主と話しながら鍋を探す妙齢の女性、チーズや乳製品を扱う店で孫にせがまれてアイスミルクを買い込むおじいさんなど、さまざまな人が思い思いに屋台で買い物をしている。
「いろんなお店があるんですね。それに、すごい人!」
「ここは、この街でも一番大きなメルカートなの。数えたことはないけれど、数百もの屋台があるって話よ?」
視線を周囲に向けたまま、思わずゆめがこぼすと、ローザがそう教えてくれる。
「えー、すごいですね!」
ゆめがなおもきょろきょろと首をめぐらせていると、ローザは、それに、と続ける。
「ここは地域密着って感じで、メイン通りの店よりも安く購入できるの。価格交渉も気軽にできるし、お店の人との距離も近いから、店も人も、いろいろなものが集まってくるわ」
「へー、なるほど」
うなずくゆめの鼻先に、ふわり、と焼きたてのパンの香りが届く。
視線を向けると、屋台に掲げられているランタンの明かりが、次第にピンク色が多くなってくる。
「いいにおいなのー」
漂ってきた香りにつられて、ふわふわとミントが飛んでいく。
「わー。ほんとにおいしそうな、いい匂い」
ミントの後を追いかけ、ゆめもパン屋をのぞく。
店先には、フォカッチャやチャパタ、ロゼッタやパネトーネなどのパンが並んでいる。パリッとした小麦の香りに、思わずお腹が、くう、と小さく鳴る。
「そういや、朝からなんも食べてないや」
その事実に気がつくと、空腹を主張するようにまたお腹が鳴る。
「はは。嬢ちゃん、何か買っていくかい?」
それを聞いた店の人が笑いながら、声をかけてくる。
「えっと」
ゆめはごまかすように、慌てて商品に目を向ける。
陳列台に並んだパンはどれもおいしそうだ。しかし添えられている文字が読めず、値段がわからない。そもそもこちらのお金は持っていない。
「うーん……」
「じゃあ、そこのバンズとグリッシーニを三つお願い」
返答に困っていると、ゆめの後ろからローザが助け舟を出してくれる。店主は丸いパンと細長いパンを紙袋に入れる。はいよ、と差し出してきた。
「銅貨四枚でいいよ」
「あら、ありがとう」
それを受け取りながら、ローザは銅貨を四枚渡す。紙袋からグリッシーニを取り出すとゆめに渡してきた。
「もうすぐピアンタのお店に着くから、ひとまずこれで我慢してね。薬草を渡し終わったら、ご飯にしましょ」
「すみません、ありがとうございます」
自分もグリッシーニを取り、半分に折って食べ出したローザにならい、ゆめも一口かじる。硬めの細いパンはカリッとした食感で、かんだ瞬間にオリーブの香りが口いっぱいに広がった。ほどよい塩味が空腹をさらに刺激する。なんだか、余計にお腹が減ってきた。
「おいしそうなのー」
ゆめの頭の上に戻ってきたミントが、うらやましそうにこぼす。
「すみません、もう一本もらえますか?」
その声にローザに聞いてみれば、はい、とグリッシーニを手渡してくる。それをミントに渡す。ミントは受け取るとさっそく、かぷりとかぶりつく。
「おいしいのー」
頭の上に座り、ご機嫌な様子で細長いパンをがじがじかじっていく。時折鼻歌も聞こえてくるから、どうやらお気に召したらしい。ゆめは思わず、小さく笑う。
「……グリッシーニが消えた?」
ローザの声に顔を向ければ、驚いたような表情でゆめを見ている。
「ミントが食べてますけど?」
ローザの反応を不思議に思いながらもミントを見上げる。パンはすでに三分の二が消失していた。
「本当にそこに妖精がいるのね」
「? はい、そうですね。ここに」
ゆめがそう言ってうなずくと、ローザはちらりとゆめの頭の上を見やる。視線を前に向けるとグリッシーニをぱくりと食べていく。ゆめも残りのパンをひとかじりした。しょっぱさがちょうどいい。
ふと、どこからか香ばしい匂いが漂ってくる。探るように視線を動かせば、にぎやかな屋台の群れが目に入る。
もくもくと煙が立ち昇る屋台では、丸めた肉を鉄板で焼いている。その隣では細く切ったじゃがいもを揚げる屋台、カレーパンのような丸い揚げ物を販売する屋台が並ぶ。
さわがしい声の合間に、じゅうじゅう、ぱちぱちと食材を調理する音も聞こえてくる。匂いとあいまって、パンを食べているにもかかわらず、さらにお腹が空いてきそうだ。
また主張してきそうな腹の虫に、ゆめは残りのパンをもぐもぐと食べる。
「これじゃ足りないのー。おなか、ぺこぺこなのー」
ゆめの気持ちを代弁するように、頭の上から声が聞こえてきた。
グリッシーニを食べ終えたミントが、ゆめの頭にぐでっともたれかかっている。少し前までの機嫌のよさはどこへやら、すっかり元気をなくしている。
「私も、お腹減ったなー」
残りのパンを食べ尽くして、思わず小さくつぶやく。そこに、ふふ、と笑う声が聞こえてくる。ローザを見れば、にっこりと笑顔を向けられる。
「安心して。もうすぐそこだから」
そう言うとローザは屋台の先を指差す。
ピンクのランタンが続く屋台の中に、ぽつんと一つだけ緑色のランタンが揺れる。
店の前には飲み過ぎなのか、食べ過ぎなのか、ぐったりする人が数人うずくまっている。その間をちゃかちゃかと動く、ふさふさと毛のたれたしっぽがのぞく。
「いたいた、ピアンタ!」
ローザの声に、小柄な女性が顔をあげる。カールがかったタン色の髪からは、ダックスフントの耳がのぞく。
「ああ、ローザ、よく来たね。それにアンタはあの時の!」
そこにいたのは、森で出会った犬耳の女性だった。