(10)どうやら、ホームには電波が届くようです。
ざざん、と波の音がする。粘つく潮風が頬を撫で、さわさわと森の緑が揺れる。
スマートフォンを耳に当てたまま、ゆめはホームから降りる階段に腰かける。
カゴバッグを地面に置き、なんとなく空を見上げる。少し傾きはじめた太陽に、スカイブルーの空が少しずつ色を変えていく。
とりあえず現状を伝えるため、ゆめは会社の先輩の柚香に電話をした。ただ、ゆめが「休みをください」と言ったあとから、柚香の反応が途切れてしまった。
「山根さん、大丈夫ですか?」
あまりの反応のなさに、さすがに心配になってゆめは柚香に声をかける。電話の向こうで、柚香がうなるような声を出した。
『……うーん、まあ、この際、異世界うんぬんは置いておいて……。パンフレットって何? そこに帰り方が載ってるの?』
「さあ。わからないですけど、たぶん。ギルドでエルフの女の子から受け取ったんです。ほら、よく観光地とかサービスエリアにあるような、ちょっと厚めのパンフレット。全文英語表記だったんで、まだ読めてはいないんですが」
怪訝そうな柚香の問いかけにゆめが答えれば、柚香はまた口を閉ざす。
「そうそう。聞いてください、山根さん。すごいんですよ、この世界! 普通にエルフとか犬耳の人とか獣人とかいるんです。チョウもガラスの羽だし。それに小ぶりでしたが、ドラゴンみたいなのもいました! 街並みもかわいくて。あ、そういえば写真は撮れるのかな」
しばらくして、それまで黙ってゆめの話を聞いていた柚香が、疲れたような息をつく。
『……。……うん。なんだか、いろいろツッコミたいことはあるんだけど、キリがない気がするわ』
投げやりに柚香がこぼしたあと、カタカタとキーボードを叩く音が聞こえてくる。
『とりあえず、休暇の件はわかったわ。ただ、有給とか休暇制度駆使しても二ヶ月くらいが限度だと思うから、それまでに、今後どうするかちゃんと決めておいてちょうだい』
「今後ですか?」
『ええ、休職するとか、退職するとか。どっちを選択してもいいように準備だけはしておくから』
「はあ、わかりました。ありがとうございます」
それから二、三言交わし、柚香との電話を終える。
「今後かぁ」
ゆめは通話が切れたスマートフォンの画面を見て、柚香の言葉を反芻する。
「たしかに、これからどうしよう」
つぶやいて、首を傾げる。
あまり深く考えていなかったが、このまま帰れない、という可能性もなくはない。
「パンフレット、持ってくればよかった。ここだったら翻訳もできたかもしれないのに。何が書いてあるかは知らないけど」
森に行くなら身軽な方がいいと赤髪の女性に言われ、置いてきたバッグが悔やまれる。
「まあ、ひとまずはこの薬草を届けないと。……てか、ここなら電波あるんだよね。電話も普通にできるし」
スマートフォンの右上のアンテナは、不安定に揺らぎながらも途切れる気配はない。
「あれ? 充電も増えてる?」
アンテナの隣に表示されている、電池残量に目が止まる。
ホームに着いた時には三十パーセントを切っていた充電が、いつの間にか四十パーセント程度まで復活している。
「え、なんで?」
スマートフォンから顔をあげる。立ち上がると周りを見回した。
スカイブルーの空とコバルトブル―の海、海際に広がるスノーホワイトの砂浜。初めてここに来た時と変わらない景色には、あいかわらず何もない。
「ここって充電スポットなの?」
考えてみても、答えを出すまでの情報をゆめは持ち合わせていない。
不思議に思いつつ、視線を森に戻す。
「……まあ、便利だし、いいか。もう少し充電してこ」
階段にすとんと座る。スマートフォンを見れば、電池残量がまた少し伸びる。
充電が溜まるのを待っている間、電話をかけ直してきた母とも少し話をした。
どうやら母は、会社からゆめが出社してこないと連絡を受けたらしい。ゆめが一人暮らしをしている家にも行き、そこにもいなかったので電話をかけてきたそうだ。
普段、放任主義の母もさすがに今回は心配そうにしていた。
ひとまず、現在、異世界らしき場所にいるものの無事なことと、しばらく帰れそうにないことは伝えた。母はよくわかっていないようだったが、
『ゆめが無事ならよかったわ』
と、ほっと息をつくと、こっちのことは心配しないで、と電話を切る。
母との通話も終え、充電も七十パーセントまで復活したところで、ゆめは立ち上がる。
「さて、そろそろ行こうかな」
ぐ、と腕を伸ばす。視界に入った空が、ほのかにサンライズピンクに色づいている。
「ちょっと、長居しすぎちゃったかな。スマホの充電に時間がかかっちゃったかも」
スマートフォンの時刻を確認するが、やっぱり文字化けしていて読めそうにない。
しかたない、とトレンチコートのポケットにスマートフォンをしまう。地面に置いたカゴバッグを取ると森に入る。
夕暮れ近く、ハンターグリーンに色を変えた森は、思った以上に視界が悪い。背の高い木々が太陽を遮り、中は薄暗い。
「でも、この道をまっすぐ行けば、街には着くはず。……たぶん」
カゴバッグを腕にかけ、スマートフォンを入れたのとは反対のポケットから地図を出す。海の側にある、ホームと思われる四角い場所の近くから、街まで続く一本道がある。
「道……暗くて、よくわからないけど」
視線を落とせば、グラスグリーンの草むらの間から、バーントアンバーの地面がのぞく。濃い茶褐色の道は、気を抜くと見失ってしまいそうだ。
「まあ、でも一本道だし。まっすぐ行けば、そのうち着くでしょ」
地図をポケットに戻すと、カゴバッグを持ち直す。
そっと顔を上げる。陽がかげってきた森は、徐々に色を濃くしていく。そんな森の中、街を目指してゆっくりと歩いていく。
不意に、視界の先にぼんやりと赤やオレンジの光が見えた。
「なんだろう?」
手をかざし、遠くの景色にじっと目をこらす。目を細めて眺めてみても、光の正体はわからない。
「……まあ、行ってみればわかるか」
ぽつりとこぼし、そのまま道なりに進んでいく。
しばらく行くと、少しずつ光の正体が明らかになってきた。
「あれ? あれってなんか、見たことあるかも」
見えてきた華やかな虹色の景色に、ゆめはのんびりと近づいていった。