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Snow White Mermaid

作者: 7th fall
掲載日:2009/11/29








    白い白い箱庭の中で、私は彼に出会った。



















 まどろむような眠りが覚めた時には、夜はすでに明けていた。

 睡魔の残滓はない。ただ、頭の片隅に霧がかかったような倦怠感がある。

 私は上半身を起こし、軽く伸びをした。肉が伸ばされる感触が心地よい反面、骨が軋むような感覚があった。いつものことだ。私の骨格は同年代に比しても著しく細く、小さく、弱い。

 手を伸ばし、枕元にあつらえられた蛍光灯のスイッチを入れる。

 虫が飛び交うような幽かな音を立てて、世界が白く照らされる。

 ベッドのシーツ。壁の色。枕。天井。サイドテーブル。戸棚。この部屋の調度はすべて白い。

 朝方の薄い光の中では灰色だったそれらが、蛍光灯の光を浴びると殊更に白く輝く。

 ちっぽけな箱庭を染めるバージン・スノウ。

 純潔。未来。貞淑。栄光。幸福。希望。清純。白に形容される概念は数あれど、私の箱庭を染めるそれは墓碑の色だ。永久に目覚めぬ屍を葬るための、鮮やかな純白。

 今となってはもう馴れたが、かつてはそのあまりの白さにうっかり発狂したくなったことがある。

 サイドテーブルのウェットティッシュを取って、いい加減に顔をぬぐった。数日前から続いていた微熱がまだ残っていたのか、柔らかな紙地の温度は驚くほど冷たかった。シャワーを浴びようか、と思ったけれど、主治医がくどくどいう光景が頭をかすめたのですぐに諦める。別段、あの初老の主治医が今さら何を言ったところで意味があるとは思わないが、愛すべき退屈に無意味な雑音を加えることもないだろう。

 私は再びベッドに寝転がり、天井を見上げた。ほんの少し体を起こしていただけでも、たしかに感じられる疲労があった。

 脆弱な体。細い骨と、薄い肉。か細い器官。頼りない臓腑。頭に霧のかかったような気だるさに、体奥に感じる熱。それらすべてに馴れてしまった心。

 今日も一日が始まる。今日という時間が始まる。今日を生きるという偉業が始まる。

 そのことを思って、私は独り、ため息をついた。




 私――天野葉月の体には先天的な欠陥があるらしい。

 免疫だの、細胞だの、ホルモン分泌だの、遺伝子組成だのと、そんな単語の入り混じった説明を受けた記憶がある。詳細については知らない。説明はされたのかも知れないが、理解はしていない。そのつもりもなかった。どこの物好きが、自分の処刑宣告を読みたがるというのだ。

 もう十年近くも昔、私と並んで主治医からそれを聞かされた人たちは、もう随分と顔を見ていない。

 父親とか母親とか世間では呼ばれるはずのあの人たちは、今頃何をしているのだろう。きっと、普通に働いて、普通に暮らしているのだろうが。

 恨んだことはなく、憎んだこともない。

 愛した記憶はおぼろげにあるが、それはもうはるかに遠い。

 むき出しの絶望と折り合いをつけて生きられる人間は、そうはいないということだ。同時に、絶望に囚われたまま生涯を泣き暮れる人間も、そうはいない。大抵の者は、すぐそこにある絶望から目をそらし、別の何かを凝視して日常に戻る。それは強さではなく、弱さでもない。逃避ともいえるだろうし、現実的ともいえる。

 そうした意味では、私の父母はまったく常識的で、健全な感性を持ち合わせていたということだろう。

 ただ、私に与えられたこの病室から察するに、それなりの経済力を備えた夫婦ではあったらしい。高級ホテル並とはいかないが、貸し切り同然の個室に、テレビと調度品。シャワールームに洗面所。これを、ずっと維持している。私にとってはそれだけで十分だ。

 最後に会ったのは三カ月ほど前、ほんの少しだけ回復した私が一時的に帰宅していた頃だ。お世辞にも見慣れているとはいいがたい顔に、張り付いたような笑みを浮かべて歓迎された記憶がある。

 葉月、今日はいい天気よ。

 葉月、たくさん食べなさい。

 葉月、新しい服は欲しくないか?

 娘の顔を忘れかけていた事実を誤魔化すように、彼らは正しく腫物を扱うように私に接した。放っておけば下着の着脱まで手伝いかねないその様は、哀れであり滑稽でもあった。

 学校にも通った。中学までの勉強は病院内ですませていたが、ほんの気まぐれで高校を受験してみたら、何故か通ってしまったのだ。

 まともな学校に通ったのは実に八年ぶり――私は小学校の二年の頃に発病した――だった。主治医も父母もいい顔はしなかったが、私は我意を通した。いつ発火するやも知れぬ爆薬のように扱われるよりは、無関心にされた方がいい。はっきりいってしまえば、家にいるのが苦痛に近かった。それよりは、何も知らない連中の中で埋没している方がましだと当時の私は判断していた。

 そうして過ごした学校生活は……、まあ、結果論からいえば思ったより楽しかったといえる。

 私は少し体の弱い(おおいに控え目な表現だ)女の子ということにしておいて、あらゆる局面で慎ましい態度を通した。体育の授業はもちろん見学で済ましたし、授業で発言することもなかった。望んで空気として振る舞い、そしてそれに成功した。

 高校生というのは、その意味では格好の年代だ。小中学生ほど異端を気にかけることはなく、大人ほど建前を気にする必要がない。私は丁重に空気として扱われ、丁重に無視された。

 ……友達と呼べる人間も、数えるほどだができた。驚くほど人の好い者もいたし、驚くほど明るい人もいた。

 やがて私の病状が悪化し、夏の訪れとともに長期休学することとなったとき、意外なほど残念に思った記憶がある。あのときは、自分に寂しさを感じる感性がいまだ残っていたことに、素直に驚いたものだった。




 うたたねと、退屈と、ほんの時々の検査と。

 ただそれだけの繰り返しで、私の一日は消費される。

 生きるという偉業に付き物の倦怠が、私の場合は特に比率が多い。

 あまりに脆弱な肉体が命を保つ、そんな奇跡の代償としては高いのか安いのか微妙なところだ。

 ――ただ、そんな倦怠の繰り返しにも、ささやかながら波はある。

「天野さん、久しぶり」

 学生服姿で病室を訪れたその少年は、いつものように柔らかい微笑を浮かべていた。

「……あなたも。いつも本当にお疲れさま」

 私は意図的にいくらかの皮肉を交えて答えた。

「お疲れというほどの手間でもないかな。この病院は近所なものでね」

 柔らかい、そう表現する以外にない物言いは相変わらずだった。

 彼の名は香坂一真。ほんの数ヶ月だけ通っていた高校での、私の同級生だ。人柄はまさに温厚な優等生。例えば、体の弱い同級生が入院すれば、一ヶ月に一度は見舞いに顔を出すていどには。

 別段私は、異性としての彼を特に気にかけたことはなかったし、彼は私を特別に意識している様子はなかったが、それでも嫌な顔一つ見せず下心一つ出さず見舞いに来る。

 病室での私が、学校で演じていた寡黙を放棄しても、まったく態度に変わるところがない。

白い箱庭で倦怠を供とするうちに、私は自分がどこかでひねくれた人間になったことを自覚している。その、ひねくれた部分を目の当たりにしても、彼は何も変わらない。実際彼は、学校で思われているよりはるかに頭がよい人間ではないかと私は評価していた。

「甲斐や遠野さんも、来たがってたんだけどね。あの二人が来ると騒がしすぎから、今回は見合わせてもらったよ」

 彼は続けて、私と交友のあった数少ない同級生たちの名を挙げた。

 おそらく私の体に気を使ってのことだろうが、このお人好したちは多勢で見舞いに来ることはない。

 ……何とも。

 私が善意とか友愛とかいうものの実在をうっかり信じかけてしまうのは、こういうときだ。つくづく世界は不思議と神秘に満ちている。

 それからしばらく、雑談が続いた。

 彼は見舞いの品として、何冊かの本(歴史小説が一冊と、いわゆるライトノベルが二冊だった)を携えていた。定番の花束の類は持ってきた試しがない。私がそういう人間であることを、彼は知っている。

雑談の内容にしても、以前に差し入れてくれた本の内容に関するものがほとんどだった。もう通うことなどないであろう学校での話など聞かされても、今の私には遠い世界のお伽話並にどうでもいいことだ。

 ただし、私にとっての数少ない友人たちの話は、いくらか興味深く聞いた。

 私に友人として接してくるような人間は、つまりは大した物好きということでもある。

 例えば、先ほど名前の挙がった甲斐君――六堂甲斐君は、学内では名を知られた問題児だった。性格は明朗闊達を通り越して破天荒。とにかく楽しければそれでよしと考える享楽主義者。軽く脱色した髪にじゃらじゃらとしたアクセサリを好む、まさに今時の派手な学生といった風貌だが、よくも悪くも裏表がなく、ふざけた態度を取っても妙な愛嬌を感じさせるところがあった。優等生肌の香坂君とはまるで肌色の異なるタイプのはずだが、これで二人揃うと息の合った友人ぶりを発揮するのだから世の中わからない。

 遠野さんこと遠野遥は、常に気だるそうな物腰とぶっきらぼうな口調が特徴の少女だった。甲斐君とは幼馴染だという話を聞いたことがある。何事につけぶっきらぼう、面倒くさがりのくせに世話好き、そのくせ押しつけがましさがないというほとんど奇跡のような美徳があり、私の短い高校生活でも何かと世話になった記憶がある。

 彼らと過ごした日々は私にとってもっとも快い記憶だが、それが二度と戻らぬものであることも、私は了解していた。

 諦めることには馴れている。そうでなければ、正気を保てようはずもない。




 病室を辞する際の香坂君の挨拶は、「じゃ、また」だった。まるで、明日の朝にまた教室で顔を合わせるような態度だった。彼のそうしたところは、嫌いではない。まったく、世の人間のすべてが私のような、あるいは私の両親のような人間であったなら、もう少し絶望というものを満喫できただろうにとつくづく思う。

 独りに戻った病室で、見舞いの本を広げて時間を潰すことにした。

 退屈は物心ついて以来の供だったが、だからといってそれを好んでいるわけではない。この部屋には テレビもあるにはあるが、私がそれをつけるのは週に一度あるかないかだ。

 ニュースなど見てもまったく私には関わりがないものばかりだし、バラエティなどは尚更だ。テレビドラマについていうならば、私は恋愛物というジャンルに欠片も興味がない。つまりは世のドラマの類にまったくといっていいほど興味が持てない。それこそ遠い何処かのお伽話、だ。

 時間を潰すならやはり本がいい。何より、途中で眠たくなっても、また後で読み返せるのがありがたい。

 とりあえず手に取ったのは、名前を出せば大抵の者が知っている著名な作家の歴史小説だった。題材にしているのは鎌倉幕府の創成期。日本史の授業では必ず習う鎌倉幕府初代将軍を政治の天才と肯定的に評価し、その異母弟で一般には何かと持ち上げられる武将を政治的には無能な若者と断じているあたりが奇妙に好感を持てた。

 本はいささか角に丸みを帯びていて、読み込まれた形跡があった。我が愛すべき旧友、六堂甲斐君の愛読書だったと、香坂君は口にしていた。ちなみに残る二冊のライトノベル(カバーに書かれた粗筋を眺める限り、二冊ともファンタジー物であるらしい)は遠野さんの蔵書だったとか。それぞれのキャラクターにまったく似合っていないようだが、人の真実とはそういうものかも知れない。

 私にとっての本とはジャンルに関わらずすべからく退屈しのぎの一手段だが、旧友のお勧めの一品は意外に面白かった。

 倦怠に包まれた脳裏に、文章と、それのもたらすイメージが染み込んでいく感覚。

 体と同様、耐久力に恵まれているとはいえない脳細胞に、時折目を閉じて休息を与えつつ読み進めていく。

 そうして、いくばくかの時が過ぎた頃――

「――随分と渋い趣味で人生を消費するね、葉月」

 冷淡。

 そう評する以外にない乾いた声が、私の白い箱庭に響いた。




 陽射はとうに西に傾いていた。

 カーテンを透かして、夕暮れの光が差し込んでいる。

 その朱を背に、彼は当然のようにそこに立っていた。

 白いシャツに黒いズボン。どこかの学生服のような服装だが、私は彼がそれ以外の格好をしているのを見た試しがない。

「……歴史小説を読むのが渋い趣味?」

 私はとりあえずそう答える。

 彼は首を傾げ、

「前は陶芸の本を読んでいたように記憶しているが。世間一般でそうした趣味を持つ女子高生は希少だろう」

 今度は私が首を傾げた。

 少し考えて、思い当たる。

 一ヶ月ほど前、見舞いにきた六堂君が「友人として読み飽きた古本の処分に協力しろ」と、結構な量の本を差し入れてくれた。

 読み飽きた古本云々が彼独特の言い回しであることは間違いなかったが、差し入れられた本の内容を見るに決して的外れな表現でなかったのも確かだ。何せ、漫画雑誌から推理小説、経済誌、ファンタジー小説、純文学の文芸誌、さらには何故かゲームの攻略本まであったのだから。年頃の少年が好むようなグラビア本(あいにく十八禁指定のものではなかったが)に至っては、何かの冗談としか思えない。

 私の短い学校生活において、不良とも問題児とも呼ばれていた彼が、他者が想像するよりはるかに多趣味な人間であることは承知していたつもりだったが、それを裏付けるようなラインナップではあった。

 その中に、たしかとある陶芸職人の著した自叙伝もあったはずだ。

「……退屈しのぎで読んでいるだけの本だもの。大した意味はないわ」

 私は一応の事実を伝える。まあ、六堂君の置いていってくれた本は、それなりに面白いものばかりであったのはたしかなのだが(この点に関する限り、私は旧友の乱読ともいうべき読書の嗜好について、一定の信頼を置いている)。

「永の暇の――いや、短の暇の退屈しのぎか。贅沢極まるな」

 彼は大して面白くもなさそうにいう。嘲るようでもあり、感心したようでもあった。

「暇人であることについて、貴方にとやかくいわれる筋合いはないわ、周防」

 私は低く毒づき、同時にこの日初めて彼の名前を呼んだ。

 彼は――周防としかその名を知らない彼は、薄く笑ったようだ。遠慮のない動作でベッドの脇の椅子に腰を下ろし、彼はいう。

「まさに。まあ、君がどう暇を潰そうと、僕にとってはどうでもいいことではある」

 それは冷酷なほどの、本心からの言葉だった。

 周防は私を見舞うためにここを訪れたのではない。

 私に会うために現れるのではない。

 そもそも私は、彼がどこの誰であるかすら知らなかった。

 それはもう何年も前。

 私が一時帰宅していた時期よりもはるかに前。

 周防は、突然にこの病室に現れた。

 ――へえ。新しい死体か。

 それが、私を見た彼の第一声だった。

 長すぎた諦観故、たいていのことには耐性がある私にも、その表現はあまりに新鮮で冷酷に響いた。

 けれども、

 ――死んでないわ、まだ。

 そう言い返した声は、自分でも思った以上に平坦だった。私は私が思っていた以上に摩耗していることを、このとき改めて知った。

 彼はしかし、つまらなそうに私を眺めただけだった。石ころを蹴とばしたら靴に思ったより砂埃がついた、それをわずらわしく思うのと同じような目線だった。曲がりなりにも人間を見る目でなかったことだけは間違いない事実だ。

 残酷とか薄情とか、そういう次元で語るべきではないその在り様に、私はおそらく物心ついて以来初めての戦慄を感じた。

 そのとき、彼が無造作に言い放った台詞は、今もよく覚えている。

 ――「まだ」、ね。

 嘲るように私の言葉を繰り返してから、彼は私の顔を覗き込んだのだ。

「朽ち果てた骸のような眼をしている。久しく見ない濁り具合だよ、新米?」

 それこそ、まるで朽ちて果てた亡者のような冷たい声音で、彼はそういったのだった。




 カーテンの隙間に覗く空の橙色は、漆黒へと移っていた。

 私は横眼でそれを確認する。天井の蛍光灯は朝からずっとつけっ放しなので、読書を続けるのに不都合はない。

 彼は――周防は、最後に確認した時と同じようにベッドの脇の椅子に腰かけたまま、静かに目を閉じていた。

 あれから会話はない。

 彼は私に興味がないし、私は彼に話しかける理由を持たない。だからそれは、当り前のこと。

 最初の挨拶めいた戯言の掛け合いも、実はあれでかなり多弁になった方だ。

 以前は、気がついたら無言のまま椅子に座っていたということも珍しくなかったのだから。

 時折本のページをめくる、ただそれだけの音が白い箱庭に響く。閑静な丘の上に建てられたこの病院は、もともとは明治の頃、当時の富裕層のために設立されたという話を聞いた記憶がある。建物自体は当然、幾度かの改修・改築を経ているが、静かにゆっくりと治療を行うというコンセプト自体はまったく不変のものだ。

 周防はまったく微動だにしない。といって、眠り込んでいるわけでもない。ただ彼は、目を閉じて静止している。

 あるいはそれは、何かに祈っているようでもあり。

 あるいはそれは、緩やかに朽ち果てていくようでもあった。

 一度だけ、何のためにここに来るのかと訊ねたことがある。

「暇つぶしで、そして墓参りだよ」

 周防は短く、それだけを答えた。

 それから、いつものように私から関心を失った。

 だから、墓参りというのが何を意味するのかは聞けずじまいだった。きっとこれからも、聞くことはないだろうと思う。

 けれどもそのとき、私は何故か安堵に似た感情を抱いた。

 いずれ私が生物学的な意味での死を迎えた後も、きっと彼はここを訪れるのだろう。

 そして、今この時のように椅子に座って、瞑目の一時を過ごす。

 それは私のためのものではないだろう。

 それでも彼は、暇つぶしのためにここを訪れる。

 主のいないベッドの傍らで、それまで通りに。ずっと、ずっと。

 きっと彼は、天野葉月という娘のことなどすぐに忘れてしまう。

 でも、それでも。

 病室が新たな主を迎えても、その主がいなくなっても、さらにその次の主がいなくなっても。ずっと、ずっと。

 周防は変わらず、ここを訪れる。

 そのことを思って、私は奇妙に安堵した。




 とんとん、と病室のドアがノックされた。

 微かな金属音の後、開かれた隙間からナースが顔を出す。

「ダメよ、天野さん。消灯時間です」

 お馴染みの台詞を彼女はいい、夜更かしは体に毒よ、と今更なことを付け加えた。

 多少の毒を積み重ねたていどでどうしたというのですか。

 昔はそんなことを思った記憶がある。

 実際に口に出したこともあり、それに対して満足な答えが得られた試しもない。

 もっとも、すべては過去のことだ。

 仕事に熱心なナースの気分を損ねても、長く変わらぬ倦怠に不快な雑音を増すだけという事実を、私も学習していた。それに、今私に付けられているナースは、例え見込みのないクランケに対してであってもごく自然に朗らかに接することを当然の義務と心得ている点において、職業意識の鑑として素直に尊敬できる点もある。

 はい、すいません。すぐに寝ます。

 機械的にそう返して、枕元にある蛍光灯のスイッチに手を伸ばす。

 そのとき、一応の確認として、傍らの椅子に視線を走らせた。

 ――当然のように、椅子は空になっていた。

 少年の姿はどこにもない。もちろん、どこに隠れているわけでもない。

 霧か霞か、あるいは亡霊のように、彼の姿はどこにもない。

 まあ、いつものことではある。

 私は気づかれないていどにため息をつくと、部屋の明かりを消してベッドに潜り込んだ。




 香坂君、そして周防が病室を訪れた日から数えて一週間後――

 その日、私は発作を起こした。

 朝目が覚めて、シャワーを浴びた。朝食を摂った。

 それから、昨日中断していた読書を再開しようとしたとき、自分の手から握力が失せていることに気づいたのだ。

 体の感覚が失せ、起き上がることができない。視界が漂白され、次の瞬間に漆黒に閉ざされる。

 ただでさえ静かな箱庭から、一切の音が消え失せる。

 そして――

 痛覚が一斉に悲鳴を上げた。

 この脆弱な体を構成する肉という肉が丹念に引きちぎられ、血という血が沸騰し泡立つ感覚。

 あまりの激痛に失神することすらできない。

 熱くも寒くもなく、ただ純粋な痛みのみが全身を支配する。

 人は。

 人は、痛みによっても発狂し、痛みのみによっても死に至るという。

 それでも私は生きている。それがまったく不思議でならない。正気でいるのかどうかは自信が持てないが。

 思考を埋めるのは単色の一言。

 痛い。痛い。痛い。痛い。

 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい

 それは断末魔ではなく、そもそも悲鳴ですらない。

 まったく純粋な、ただのシグナルだ。澄んで混じりけのない、苦痛というシグナル。

 そこに私という自我はなく、主観もない。痛みのみがそこにある。

 朝食を終えた後だったため、昼までは誰も来ない。私は独り、苦痛に囚われる。

 もっとも、もしナースが駆けつけたとしても、それどころかこの病院の医師が総出で駆け付けたとしても、何ら役には立たないのだ。彼らに出来ることといえば、せいぜいが酸素呼吸用のマスクをあてるていど。

 痛み止めの注射など、焼け石に水もいいところだ。おそらく、全身をのべつまくなしに麻痺させる量ならば話は違ってくるのかも知れないが、それだけの量の麻酔を受け止めるだけの余力は、私の体にはない。

 だから。

 私は今日も、澄み渡る痛みの中にいる。

 苦痛の中に時間の感覚はない。

 永劫とも思える一瞬、一瞬とも思える永劫が連続する。

 馴れた、とはいえない。そもそも私の意志が介入する余地がないのだから。馴れという概念が割り込む余地がない。

 ……そして、気がついたとき、発作はおさまっているのだ。

 まさに唐突に。解体された体が、いつの間にか一つに癒着するように。

 痛みは急速に、私を解放する。

 時計を見ると、二時間が経過していた。

 全身が汗に濡れていて、ひどく冷たい。熱が急速に引き、骸のように冷たくなっているのを感じる。

 シャワーを浴びたのが無駄になってしまった。そのことが、ひどくわずらわしかった。

 初めてこの発作を起こしたときのことは、今でも鮮明に覚えている。

 私は当時八歳だったか。

 絶叫をあげるような余裕もなく、ただ全身を痙攣させて生き地獄を満喫させられた。

 驚いた両親が懸命に私の名を呼ぶ間も、救急車で運ばれる間も、医師の治療を受けている間も。

 私はずっと、意識を手放すことも助けを求めることもできず、一昼夜の激痛に囚われていた。

 何故自分がこのような苦痛を味わわねばならないのかわからず、何故誰も助けてくれないのかわからなかった。

 ……ようやくその痛みから解放されたのは、翌日の朝になってからだ。

 解放の瞬間は、今と変わらず唐突で。

 そして、その瞬間に、ようやく私は意識を手放すことができた。

 後になって聞いたところでは、発作に襲われている間の私は、それはそれは見苦しい様になっていたらしい。なんというか、「苦痛」という単語で連想されるすべてを凝縮したようなものではあったとか。

 両親どころか、病院関係者までもが私を腫れ物のように扱うのはそのためだ。

 医療に携わる人間は、人体に関わる大抵の惨状には馴らされているはずだが、その彼らをして私の発作は二度拝みたいものではないらしい。下手なホラー映画よりはるかに見ていて恐ろしい――とは、以前病棟の廊下で、ナースたちお喋りの場へたまたま通りかかったときに漏れ聞こえた評だ。

 発作のトリガーはまったくの不明。そもそも、私の病自体がかなり希少なものではあるのだが。

 私の主治医はひどく善良そうな初老の医師だが、かつて両親を交えた病状説明を受けた際、古ぼけた医学書を引っ張り出しつつ解説に苦労していた様を記憶している。何百万人に一人という確率、実際には半世紀に一度見るか見ないかという奇病だそうな。

 先述したように、私はその説明の大半を忘却していたが、手の施しようがないということだけは明瞭に理解していた。

 善良なる主治医が無神経にぺらぺらと口を滑らせたわけではない。

 入院して間もない頃。当時はいまだに娘への愛情を失っていなかったらしい両親が、発作後の脱力でぐったりと寝込む私を完全に寝入っているものと誤認し、ベッドの脇で泣き崩れつつ呟いていたのだ。

 不定期に襲いかかる発作。弱りゆく器官。阻害される成長。薬物治療は無駄で、せいぜいがわずかな痛み止めと栄養剤を投与し、寿命を引き延ばすのみ。その寿命も、まず間違いなく成人するまではないだろうということ。

 そう考えると、現在十六歳、間もなく十七歳に達するという数字は、結構な健闘といえるだろう。成人までの寿命云々という宣告は、私自身にとってはむしろ意外ですらあった。何せ当時は、あまりに絶望的な苦痛を味わわされ、自分がいまだ生きているという事実にこそ違和感を感じていたものだから。むしろ、いっそ殺してくれた方がこんな苦しい思いはしなくて済むのに、と幼さに相応しい直截さでそう考えていた。

「…………」

 私はため息をつき、ようやくのことでいうことを聞くようになった上半身をのろのろと起こした。

 寝衣が汗を吸っていて、肌に張りつく。起きぬけに浴びたシャワーがまるで無駄になってしまった。そのことだけが、今は残念だった。

 いずれこの体が朽ち果てるまでに、何度この発作と付き合うことになるだろうか。そんなことをぼんやりと思う。

 死に方はどうなるのだろう。

 弱り切った臓腑がついに活動を停止して息を引き取るのだろうか。

 それとも、苦痛にとうとう耐え切れなくなった脳髄が焼き切れるのか。

 あるいは、ちょっとした風邪であっさりと逝くのかも知れない。

 いずれにしてもたしかなのは、それがおそらく、もう間近に迫っているということだけだ。

 泣いても喚いてもそれはもう変わらない事実だ。

 林檎が木から落ちるように、昼の後には夜が来るように、時計の針が回り続けるように。

 逃れようもない現実として、当り前の摂理として、それは来る。

 そのことを、私は初めて発作に襲われた時に肌で知りつくしていた。あの、理由もわからず、誰も助けてくれない苦痛の中で、そのことだけははっきりと思い知らされていた。




 周防はいつも前触れなく訪れ、そしていつしか去っている。

 それが彼という人間だと、私は認識していた。

 だからその日も、備え付けのシャワールームで汗を流してから病室に戻ったとき、彼が佇んでいることに私は驚かなかった。

 髪から雫を滴らせている私を、周防はつくづくと眺め、

「柄にもない忠告だが、一ついいかな」

「何?」

 切る気もないので長く伸びた髪をわしわしと拭きながら、私は問い返す。

「せめて前を隠すくらいはした方がいい。昨今、慎みという文字は辞書から消え去りでもしたのかな」

 言われてようやく気付いた。そういえば、年頃の娘というものは、例え家族の前であっても、目の前を裸で歩きまわることはそうないらしい。私はというと、独りでいる時間が当たり前なので、そういった感覚にはひどく疎い。

「……欲情した?」

「どこの本で覚えた言葉かは知らないが、己を知り、鏡を見て、世評を学べ。僕はこれまでの生涯で幼女趣味を持ち合わせた試しはない」

 多分、失礼な物言いではあるのだろう。

 風呂上りの、タオルを頭に引っかけただけの十六歳、性別女性を前にしてこの台詞だ。まあ、私の体躯が小学生といっても通じる外見なのは、指摘されるまでもなく自覚できている。

 本当に柄でもない忠告に従い、手早く下着をつけ、寝間着を羽織る。

 その間、彼は礼儀正しく私に背を向けて、手近にあった文庫本に目を落としていた。皮肉と無愛想の権化のような彼が、こうした一般的な気遣いを示したことが、私には驚きだった。

 ベッドに歩み寄る――と、回り込んで彼の背後に立つ。

 手を伸ばして彼の首筋に触れた。思いの外冷たく、柔らかな感触。何度も顔を合わせてはいるが、彼に触れたのは初めてであることを私は今さらに思い出した。

「絞め殺すつもりでもあるのかね、葉月」

 文庫本のページをめくりながら、周防はいう。

「……その本、読みかけなの」

 一応の事実を、私は答えた。

 実際は、ただの思いつきで、確認だった。

 それは悪かった、と彼は振り返り、本を差し出してくる。

 私は受け取り、ベッドに腰掛ける。

 彼に触れた右の掌には、いまだに彼の体温が残っている気がした。他の人よりも低めな、けれども生きた人間の感触。

「知ってる? 前に噂話で聞いたことがあるの。この病室には幽霊が出るって」

 何とはなしに安堵を覚えながら、私は言ってみた。

 へえ、と興味もなさげに顔を上げる彼へ、言葉を継ぐ。

「噂話いわく、それははるか昔にこの部屋で自殺したクランケだそうよ。何でも世を儚んで自らナイフで首を切り、発見された時には病室は血の海だったとか」

「どこの病院にも一つや二つは転がっていそうな怪談だな。つくづく僕は、死人をそれほど恐れる神経というのが理解できない。生きた者をこそもっと恐れるべきなのに」

 本当につまらなさそうに、周防は鼻を鳴らした。

 まったく彼らしい物言いだと私は苦笑する。

 幽霊話云々は、入院患者の噂話で伝え聞いたものだ(私は入院患者同士のコミュニケーションというものにまったく無関心だったが、長く病院にいると休憩室やトイレなどでその種の噂話は必然的に耳に入ってくる)。

 そしてその噂話の当事者は、目の前の彼ではないかと私は疑っていた。気づかぬうちに現れ、気づかぬうちに来ていく。まさしく彼は亡霊と紛うに相応しい。一時期の私は彼のことを、ついに気が触れた己の妄想が生み出した幻像ではないかと思っていたほどだったから。

 ただ――、先ほどこの掌が触わったのは、紛れもなく生きた人間の肌だった。別段、彼が何者だろうと知ったことではない。けれども、その事実に不思議な安堵も覚えていた。

ちなみにその与太話いわく、病室は以後度々改装されたものの、そこに入った入院患者は次々と衰弱死、あるいは自殺するとか。ために、入院費がかなり安く設定され、内装も他の病室よりも豪華になっている――にも関わらず、入る者はいないという。仮にそれが真実だとしたら、愛すべき我が両親の懐はかなり助かっているということになるだろう。

「……周防は、幽霊亡霊の類は信じない?」

「実在の是非を問うのに信じるという表現は不適切だな。在るのなら在るし、いないならいない、それだけのことだろうさ。とりあえず、僕自身は見たことがないし、実在を証明しうる根拠を耳にした記憶もない」

 彼は本当につまらなさそうにいってから、ついでのように付け加えた。

「ま、化け物の類には何度かお目にかかったが」

「化け物?」

 意外な言葉に私は目を丸くする。彼の口からそういう言葉が出るとは思っていなかった。

 周防は相変わらず淡々と、

「生きた化け物。見た目はありふれた人間。しかし中身は明らかにそれ以外。そういうモノのことだ」

 ……私の方こそつまらない話を聞かされた。

 永田町には鵺がいる、とか、そういう類の話らしい。

 たしかに、幽霊亡霊よりも具体的で実際的なことではあるのだろうが。

 ため息をついて、先ほど彼から取り戻した文庫本を手に取る。横眼で確認したとき、既に彼はいつものように私への興味をなくし、両手を組んで目を閉じていた。




 時計の針が午前十時を示した時刻、病室のドアが控えめにノックされた。

 どうぞ、と返すと初老の主治医が顔を覗かせる。

 この時刻にこの老人が顔を見せるのは珍しい。何かあったのだろうか。

「ああ、今日は顔色がいいみたいだね。よかった」

 善良そうな好々爺といった風情の医師は、その印象そのままの声でいった。

そういえば、と思い出す。ここ最近、発熱したり発作を起こしたりと、体調を崩していた。いや、私の体調が一般的な意味で健康だった試しなど、発病以来絶えてないのだが。

私はこの老医師について、取り立てて好意や敬意を抱いたことはなかったが、彼が印象そのままの善良さを持ち合わせた医師であることは知っていた。善良すぎて、出世コースを逃した医師であるとも――まあ、これは例によって入院患者の噂話を小耳に拾っただけなので、どこまで本当かは知らないが。

「気分は悪くないです」

 一応の事実を、私は伝えた。

 老医師は目を細めてうなずき、

「おや、失礼。お邪魔したかな」

 ふと、私から目を外していった。

 若干の驚きとともに、私は振り返る。

 珍しく――といっていいものか、周防は最後に見た時と変わらずそこにいた。

「……どうも」

 周防は特に動じた様子もなく、目を開けて会釈する。

「葉月ちゃんのクラスメイト……いや、それとも親戚の方ですかな。よく似ている」

 どこがですか、と私は思わず反論しかけ――その言葉を慎み深く呑み込んだ。

 たしかに周防は私と似通っている。私はそのことに初めて気づいた。

 目鼻立ちはともかくとして、何事も突き放すような印象とか、皮肉めいた口ぶりが、特に。

 ……いや、いわれて見ればその目鼻立ちすら結構似通っている気もする。

 親戚といっても通じるかも知れない。……あまり認めたくはないのだが。

「ええ。従妹がいつもお世話になっています」

 周防は、老医師の勘違いをそのまま素直に認めることにしたらしい。いっそ堂々と、そういってのけた。観察するように老医師の顔を眺めつつも、驚くべきことに社交的な笑顔すら浮かべている。私の前では皮肉めいた微笑か、明らかな嘲笑しか浮かべなかったくせに、妙なところで愛想を心得ているらしい。

「診察ですか」

 どうでもいいことのはずだが、何か面白くない。私は割り込むように口を挟んでいた。

「いや、顔を見に寄っただけだよ。このところ――その、少し体調を崩していたようだからね」

 控えめな表現でそういった老医師の顔に、わずかな動揺が見られたことを、私は見逃さなかった。

 ……ま、たしかに、私の体を医学的にもっとも把握している主治医ならば、そのことが持つ意味をよく理解しているはずだ。

 ここ最近、私は体調を崩すことが多い。

 と同時に、わずかずつ、しかし確実に回復が遅くなっている事実も自覚できていた。

 熱が引いたのに、気だるい気分が抜けない。食事の際、手に持つ箸に重みを感じる。体を起こしたとき、背骨が軋む。

 そうした何気ない事実の蓄積が、端的な一つの結論へとつながる。

 私の余命が残り少ないという、まったく当然の結論へと。

 だからこそこの老医師は、何かのついでで私の病室を訪れるという気まぐれを起こしたのだとわかった。

「宮野先生」

 唐突に、周防が口をはさんだ。

 宮野、というのが、老医師の名であることに、気づくまでしばらくかかった。

 何故その名を知っているのか、と思いかけて、その馬鹿馬鹿しさに気付く。老医師の白衣の胸元には、「宮野慶吾」のネームプレートが付いていた。

「先生は、ずっとこちらに勤めておられるので?」

「は? ええ、まあ」

 世間話のつもりだろうか、随分意味のない問いかけだ。老医師は呆気に取られたようで、曖昧にうなずいている。

「どこかでお会いしましたかな? ああ、以前にうちで診察を受けられた?」

「そんなところです。かなり前なので、覚えておられないでしょうが。先生に診られているならば、従妹も安心ですね」

 ……白々しい。

 彼の本性を知る私からすればまったくそう思う他のない社交辞令だった。

 出会ってからこれまで、皮肉ばかり口にしていたくせに。私以外の人間に対してはまともな受け答えができるらしい。

 どこから見ても「礼儀正しい少年」を装いつつ、周防は腕時計を確認する仕草を見せた。

「おっと、もうこんな時間か。すまないね、葉月。そろそろお暇するよ」

 そういって、席を立つ。彼がまともに別れの挨拶をするのも、初めて聞いた。

「もう少しゆっくりしていかれては……」

「いえ、この後予定がありますので」

 引き留める老医師に、あっさりと、しかし柔らかくそう答える。

「では、若先生。従妹をよろしくお願いします」

 最後にそういって。

 彼は医師の脇を通り、ドアの向こうへ消えた。




「君の従兄さんには初めて会ったが、優しそうな人だね」

 周防が消えたドアを暫時見つめた後、老医師はひどく的外れな感想を漏らした。しばらく世間話をしていくつもりになったらしい。

「……本来はもう少し、口が悪い人です」

 好意的なイメージを壊すこともあるまい。私はひどく控え目な評価を口にした。

「そうなのかね?」

 医師は意外そうに訊き返してから、くすりと笑った。

「いや、それはつまり、君に心を許しているということなのだろうね。私も患者さんとは気兼ねなく物を言い合える仲になりたいと常々思っているよ」

 何と気楽な。率直にそう思った。

 周防のあれは、気を許しているとかいう次元ではなく――単に、私をどうでもいい相手だと思っているからだ。

 だからこそ、皮肉もいえば突き放しもする。気を使うべきいかなる理由も存在しない。私はそれほど人の機微について詳しいわけではないが、少なくとも周防が私に取る態度は友愛から生じるものでないことは判断できた。

「従兄さんは、学生なのかな? 君と同じくらいに見えたが」

「そんなところです」

「ふむ。私は一人っ子で、しかも親戚が遠くに住んでいてね。近所には同い年の人間も少なかったので、小さい頃は兄か弟が欲しいと親にねだってよく困らせたものだ」

「そうですか」

 私の返事は、控えめに見積もっても無愛想なものだったが、老医師は気を悪くした風もない。私のようなクランケの扱いに慣れているのだろう。

 どうも周防のことを私の兄代わりの親族と(実に善意に)解釈したらしい彼は、それからしばらく、取り留めのない話をした。やれ子供の頃は病弱で、だからこそ医者になりたくて本を読んでいたとか、やれ医学生の頃に助手のような身分でついた医師が頼れる兄貴分だったとか、そういう昔話だ。

 定年を間近に控えているのであろう老医師の半生はそれなりに興味深く、面白くもあった。しばしばいわれることだが、現実に勝る虚構は存在しない。ほんの何気ない平凡な人間にも、耳を引くエピソードはある。

 この老いた主治医とこれまで深く話をしなかったことに、私は初めて後悔めいたものを覚えた。

 話が一段落したところで、医師は腰を上げた。それなりに忙しい立場なのは間違いないのだから、私も引きとめなかった。

「葉月ちゃん、くれぐれも体調には気をつけて。もう少し回復すれば……、学校にもまた戻れるよ」

 今更のように付け加えられた言葉は、これまで何度も耳にしたもので、目新しさも何もなかったが。その「もう少し」とやらが、どれほど絶望的な距離であるかは、私も追及しなかった。例え当事者がどう思っていようと、医師やナースはほんの微かな希望を持ち続けるものなのだろう。そうでなければ、彼らの仕事がまるで無意味なものになってしまうから――というのは、いささか穿ちすぎか。

「そういえば――今さらだが――従兄さんのお名前は?」

「周防といいます。周囲の周に防ぐと書いて」

 名字については私は触れなかった。訊かれても、答えようがない。

「ほう、それはまた……いい名前だね」

 幸い、珍しい響きの名に老医師はいささか驚いた様子で、それ以上は追及してこなかった。

 私は「古臭いだけです」と答えて、会話を打ち切った。






 藤道病院、すなわち私の入院しているこの病院は、小高い丘の上に建てられている。周囲には小奇麗にまとめられた木々が並び、ちょっとした森のような趣がある。

 私は屋上のフェンス越しに、その光景を見下ろしていた。

 冷たい風が吹きつける。空は薄曇り。何とも図ったように、私にはお似合いの気候だ。

 灰色の森を見ながら数え上げる。この数ヶ月で、私が発作を起こした回数。発熱の頻度。数年前と比べての、回復の度合い。

 それらのすべてが負の領域を指向している。

 五年前は、発作を起こすのはせいぜい一ヶ月に一度あるかないかだった。

 三年前は、熱を出しても微熱がほとんどだった。

 一年前は、体調を崩しても翌日には食欲が戻った。

 でも、今は。今は。今は。

 掌に掴まれたフェンスが、以前より硬く感じる。ほんのしばらく立っているだけで、座り込みたくなるほどの疲労を覚える。

 覚悟はできていた。いや、覚悟云々以前に、受け入れていた。知らされていた。

 夜を怖れても日は暮れる。

 暑いのが嫌いでも夏は来る。

 老いを恐れても時計は回る。

 何をどうしようと、私は死ぬ。

たったそれだけのこと。

 誰が望んでもかなえられることはない。ヒトの思惑など知らずに地球は回る。

 運命を呪ったことはある。不条理に泣き叫んだこともある。恐怖の余り発狂しかけたこともある。

 それらすべてを通り過ぎて、今、私はこの光景を見下ろしている。

 おそらくすでに私は壊れている。とうに摩耗して、擦り切れている。それは健康に生きて普通に暮らす人間からはかけ離れた在り様だ。人によってはこれこそ狂っていると表現するかも知れない。

 だから、何だというのだ。

 私は私でしかなく、病は病でしかなく、死は死でしかない。

 下らない。すべてに価値はなく、すべてに意味はない。物事の値札など、暇人だけがつければいいのだ。そして私は暇人ではあるが、残る時間は限られている。何事か残すだけの時間もなく、力もなく、意思もない。

 遠くない未来にここから消え去り、どこかの墓地の片隅に埋められる。

 気楽といえばこれほど気楽なものもない。

 けれど。何故か。どうしてだろうか。

 諦観に占められたはずの灰色の中に、忘れ難い何かが残る。

 私に残された最後の人間らしさ。

 すべてが擦り切れた中になお残るほんの一欠片。

 それは少し前に過ごした学校での生活だったり。

 縁の薄れた父母との遠い記憶の残滓だったり。

 善良な老医師の示してくれた優しさだったり。

 他の入院患者との他愛ないやり取りだったり。

 周防としか知らない彼との、無味乾燥でしかないはずの会話の切れ端だったりした。

 埒もない。そう心から断言できても、しかしそれはたしかに残る。その存在を、否定はできない。なぜならそれはたしかな事実だから。

 矛盾というのか未練というのか、微妙なところだ。

 死人が迷って出るという理由も、わからないではない。

 十年に渡り丹念に摩耗され尽くした私ですらが、そうなのだから。

 私は森を見下ろして過去に――私が生まれるよりさらに以前に思いを巡らせる。

 ……それはもう、ずっと昔のこと。

 あの病室、私が馴れて親しんだあの病室で、クランケが一人死んだ。

 いや、死んだ、という表現は正しくない。

 死んだと判断するしかない、そう表現すべきだろう。

 もともとそのクランケは、余命残り少ないと診断されていた。

 実際に彼は、この世に生まれ落ちてから健康であった時期の方が少ないという、そんな人間だったらしい。どこかでも聞いたような話で、今さら同情もしないが。

 資産家であった親は、そんな絶望を病院で養い続けることで良心との折り合いをつけ、それですべてをすませたつもりになった。

 当然、病院の側でもそんなクランケの扱いには困った。

 ただ放置しているわけにはいかない。けれども、治る見込みはない。

 だから、ほんの新米の医師に一応の世話を押し付けて、後は朽ちて果てるに任せた。まったく、これまたどこかで慣れ親しんだような話ではある。

 白昼夢のように、ただ過ぎるだけの日々。

 終わりの見えた倦怠と、終わりを迎えるだけの諦観。

 ……けれども。

 そんな日々は、突然に終わる。

 余命いよいよ残り少ないと思われたクランケ。

 二十歳にもならぬ彼は、突然にこの世から去る。

 それはある夜のこと。

 そのとき何が起こったのかは知る由もない。

 院長も、世話役の新米医師も、もちろん彼の両親も。

 残された事実はただ一つ。

 ――翌朝、彼の病室を訪れた新米医師が、病院中に響き渡るほどの大きさで上げた絶叫。

 病室の床という床、壁という壁を塗り潰すかのような鮮血。

 わずかに残された毛髪や肉片、そして骨の欠片。

 地獄というにはあまりに生々しく、煉獄というにはあまりに凄惨な、惨劇の痕跡。

 何が起こったのかは知る由もない。

 たしかに言えるのは、病室を塗り潰した血の量は、間違いなく致死量であると断定できたこと。

 残された人体の欠片は、当時の法医学のレベルを勘案したとしても、正確な検死を行うにはあまりに欠落した部位が多く――ただ、血液型と推定された年齢だけが、昨夜までそこにいたクランケと一致したこと。

 ……何が起こったのかは、知る由もない。

 けれど、それはたしかに在ったこと。






 ――私はそれらの過去を、五十年近く前の日付の古新聞、雑誌から読み知った。愛すべき旧友の六堂甲斐君の差し入れだった。

 入院患者の噂話曰く、藤道病院のとある病室には亡霊が出ると云う。それは自らの全身を切り刻むという奇怪な自殺を遂げたクランケの亡霊。病室は血の海で、それはそれはひどい有様だったと――

 その、噂話の発端となったエピソードを知りたい。私はそう甲斐君に依頼したのだった。旧友の中では彼が一番その種のゴシップに強く、また読書量も半端でないことを踏まえた上での依頼だった。

 当然のように甲斐君は、趣味が悪いな、といいたげな顔をした。いや、表情だけでなく実際にそう口にした。たしかに、現実に今自分のいる病室を舞台にした怪談話など、詳しく知りたがるのはよほどの物好きだ。それがもし、現実の裏付けのあることならば尚更。

 しかし、なんだかんだとぼやき、愚痴りつつも、六堂甲斐君は頼れる友人だった。翌日にはそれらの古新聞・古雑誌の類をどこからともなく調達してきてくれたのだ。

「感謝の気持ちは形で表せよ。今度飯でも奢れ」

 とは、そのときの甲斐君がいかにも俗物的な表情でいった台詞だ。飯を奢る機会とやらが本当にあるものか、私の現状ははなはだ怪しいはずなのだが――彼は、その機会があって当然という表情をしていた。つくづく、甲斐君と一真君が親友である理由がよくわかる。

 ともかくも。

 おかげで、私は噂話の真相を知った。

 噂話の根底にある事実を知った。

 何とも現実離れして、しかし生々しい、そんなお伽噺ではあったのだけど――





 血と肉片を残してこの世から消えたクランケの名は周防といった。

 日下部周防。

 それが、彼の名前だ。







「――日向ぼっこには、不向きな季節と気候だと思うが」

 背後から、そんな声がかけられる。

 過去から現実へと。虚ろのような現実に。曇天に見下ろされ、森林を見下ろす現実に、引き戻される。

 私は驚かない。

 彼はいつでも、どんな場所でも現れる。亡霊とはそういうものだろう。

「曇天に雅を感じる趣味でもあるというなら、止めはしないがね」

 それは皮肉や遠まわしな気遣いではなく。珍しい生き物を論評するような、突き放した響き。

 私は振り返る。

 亡霊などよりもさらに死人らしい廃れた目つきで。周防はいつも通りにそこに佇んでいた。

「…………」

 私は答えない。

 無言のままに、彼に歩み寄った。

 ……後々になって思い返してみても、何故そのときの自分がそうしたのかはわからない。そうしたくなったのか、理解できない。

 ただそのときは、その衝動に疑問を覚えることはなく、その実行に躊躇を覚えなかった。

 静物を眺めるかのようにこちらを睥睨する彼のすぐ眼前まで歩を進める。

 間近で見た周防は思ったよりも背が高かった。その胸元を掴み、顔を引き寄せる。常になく戸惑った彼の表情が、無性に可愛らしかった。

 そして、ついばむようにキスをする。

 唇に感じた感触は、いつかたしかめたときと同じく、亡霊というにはあまりに確かで、ほのかな体温を感じた。

「……君とはそれなりに長い付き合いになるが」

 彼は呟いた。

「この行為は理解しかねるな」

 私はうっすらと微笑んでいたと思う。

 彼が私を見る眼差しに、人間めいた感情の揺らめきが見えたからだ。朽ちた骸が唐突に起き上がったのを目撃したような表情。

「欲情した?」

 いつか口にした言葉を、もう一度いう。彼は顔をしかめた。

「だからどこでそんな台詞を」

 みなまでいわせず、私は再び彼の唇を奪う。

 今度は、ちょっとだけ深いキス。

 都合よく開いていた口の中に舌を潜り込ませ、彼の歯をねぶり、舌と舌を絡ませる。

 深くはあるが甘くはない。衝動と、思いつきと、私の奥底に残る何かによって形作られた口づけ。

 息が苦しくなるくらいに深く唇を堪能してから、私は体を離した。

 柄にもないことをしたおかげで、少し体が熱い。

 彼の表情を確認する。

 口元に手をあてて、愕然とした表情だった。

 まったく、世の中は新鮮な驚きに満ちている。彼のそんな表情が拝めるなど、望外の極みというべきだろう。

「…………」

 ――と。

 ふと。

 何か、違和感を覚えた。

 初めてキスをした高揚感ではない。

 深い深い森の奥で、暗い暗い闇の中で、錆びついた廃屋のドアを開けてしまったような

 朽ちて廃れた骸が起き上がり、動き出すような。

 そんな感覚。

 私は周防に目を向ける。

 彼は、何か得体の知れないものを口に入れられたかのように凝固していた。

 不快感ではなく、嫌悪感でもなく、ただ凝然としていた。

 顎が、何かを咀嚼するように蠢く。

 その味を確かめるように、何度も何度も確認するように。

 やがて。

「――彩乃?」

 囁くような言葉が、彼の口から漏れて溢れる。

「……何の冗談だ? 何の偶然だ? 何の皮肉だ? こいつは――この味は――いやしかし――」

 ぎょろりと。

 周防の眼が、爬虫類めいた動作で私を捉えた。

 何かに憑かれたような、妄執よりもなお濃い情念を映した眼差し。

「天野葉月。天野。葉月。病か。そうか。たしかに。いや。必然か。そうか。ではあの医師も。そうだったな。そうだった」

 わけのわからないことを、ぶつぶつと呟き続けながら。

 彼は私を引き寄せると、顎を掴んで顔を上げさせた。それまでの彼からは想像もつかない、物凄い力だった。

 食い入るように私を見つめるその顔が近づいてくる。

 キスのお返しか。

 とっさにそう思った私の、剥き出しになった首筋に。

 彼は躊躇なく、噛みついてきた。

 犬歯に肌が破られる感触がある。

 血が噴き出すのが感じ取れた。

 何の冗談だろう。何の意味があるのか。何を、したいのか。

 私には何一つ、わからない。

 流れ出る血を周防が飲み下す。

 裂かれた傷口を舐められる。

 吸血鬼のような、というよりも。私の血肉を丸ごと食らい尽くしてしまいそうな。

 正しく獣じみた仕草。

 なのに、何故だろう。そのことが、ひどく気持ちよくて。悦ばしくて。愉しい。

 自分という存在がすべて彼のものにされるような、歪曲した恍惚と官能。

 頭の中がぐるぐる回る。

 脳髄が骨まで融け落ちて、蕩けて惚けて堕ちて往く。

 甘く、深く、痛くて、優しい。どんな薬よりも脳髄を揺さぶる。

 世界が歪曲し、意識は回転し、体は熱る。

 周防が。

 彼が。

 私という私を欲して喰らってむさぼり尽す。

 それが本当に嬉しくて。

 ――心地よい。

 やがてどれだけの時間が経ったのか。

 ようやくのことで解放されたとき、私はすべての力を吸い尽くされたようにへたり込んだ。比喩でなく、まったくそのままの意味で力が失せていた。

 肺が悲鳴を上げている。呼吸器は全開で冷たい空気を求めている。体は松明にくべられたように火照っている。

 発作や発熱とは明らかに違った、心地よい脱力感。

 満たされた上で、食らい尽くされる。

 澱んで潤んだ視界の中で、彼が笑っていた。

 弾けたように壊れたように満ちたように砕けたように、大気を震わせて笑っていた。

 悪夢というならばこれほどの悪夢はなく、幻というならこれほどの幻はない。

 あの周防が。亡霊のような彼が。これほどおかしなことはないといわんばかりに、狂ったように笑い転げている。

 頭の中で、その笑い声が幾多に反響する。彼の顔が名前が言葉が巡り巡る。

 私が彼に塗り潰される。

 ……自我よりも先に、脆弱な体がまず限界を迎えた。

 強烈な感情、凄絶な欲望、灼熱の執着に悲鳴を上げる。

 不甲斐無い体を罵倒し、激励し、叱咤する。

 まだダメ。

 もう少し。もう少し。……いえ、もっと、ずっと。

 けれども糸は切れる。漂白される。薄れていく。潮が満ちて波が足から腰までを浸していくように。

 こんなときに、私の体はすべてに疲弊して意識を閉じていく。

 自我が崩れ落ちる最後の瞬間に、私は問うた。

 貴方は何。私は。私は貴方の何?

「――かつての僕。かつての彼女。そしてあるいは僕らの――」

 最後に何を言ったのかは、聞き取れなかった。

 ただ、……これまでにない、深い感情を宿した彼の声音だけを記憶に刻んで。

 私の意識は闇に落ちた。







 病室の窓から覗く木々は、紅い葉を落して灰色に染まろうとしていた。

 昔、何かの本で読んだ。最後の一葉が落ちたとき、自分の命も朽ちて落ちると悲観する病人の話だ。

 まったく詩的というのか何というのか。私にとっては羨ましい限りだ。最後の一葉が落ちようが落ちまいが死ぬときは死ぬ、そう思い知らされてきた私には、真実羨ましい。

「世間ではとうに衣替えを済ませているが」

 その窓の光景を眺めながら、彼はいった。

「君も厚着したらどうだ、葉月」

「……空調が効いているから、いい」

 そうか、と彼は肩をすくめる。

 あの屋上での一日以来、彼は連日のように私の病室に姿を現す。

 そしてその態度も、以前に比べれば随分と変わった。

 丸くなったという言い方もできようし、もっと直接的に優しくなったという表現もできる。

 少なくとも以前の彼なら、私が薄着しようが何をしようが頓着はしなかったろう。いや、一度だけ、彼には全裸を見られていたか――何というか、今となっては気にしたくない。

「では、昨日の続きと行こうか。たしか、七歳の頃のエピソードまでだったと記憶しているが」

 私に向き直りながら、彼は言う。

「……そうだけど。本当に、どういう風の吹きまわしなの?」

「深い意味はない。僕の好奇心と理解してくれれば間違いはなかろうさ」

 薄く微笑して、促すようにうなずいて見せる。

 あの日から変わった点のもう一つ。周防は、やたらと私のことを聞きたがるようになった。

 どんな些細なことでもいいから昔のことを話して欲しい。それが彼の要望だった。

 そういわれても、物心ついて以来の私の過去など、ほぼすべてがこの病室で埋め尽くされている。波瀾万丈のエピソードなど望むべくもない。

 しかし彼は、それでもいいから、と言葉を重ねた。

 進んで時間を浪費したいなど物好きもいいところ――そう前置きしつつ、嬉しい気分がなかったといえば嘘になる。かつて冷淡という以外に表現しようのなかった周防の眼差しが、たしかに私に焦点を合わせていたから。

 だから、私は記憶にある事柄を一つ一つ、語って聞かせた。

 彼は意外なほどに聞き上手で、話すのが得意とはいえない私の言葉にいちいちうなずき、相槌を打ち、ときには(驚いたことに)愉快そうな微笑すら見せた。。

 懐かしい何かを見るように私を見るその表情は、どこか優しくて。

 それが、時折ひどく遠く感じる。

 何故なのかはわからないし、ただの気のせいかも知れず。

 しかし彼は、これほど私の身近にいて、私に焦点を合わせて、私の言葉に耳を傾けてくれても、どこか決定的なところで遠くにいる。そんな気がした。

 けれど、それでも。

 それでも私は、この時間を楽しんでいた。

 楽しんでいる自分に気づいていた。

 周防がいて。

 二人きりで。

 彼とずっと、話していられて。

 彼はずっと、側にいてくれて。

 彼はずっと、私を気遣ってくれていて。

 香坂君や甲斐君、遠野さんたちといた頃よりも、不思議に胸が高鳴る。

 小さな胸が、脆弱な体が、きっと高らかに鼓動する。

 時折、話し疲れた私が呼吸を乱すと、周防は自然な仕草で私を制して、ゆっくり休むよういってくれる。

 コップに水を注いでくれる。横たわる私に毛布をかけてくれる。

 ただそれだけのことが、嬉しかった。

 熱はないかなと額に当てられた掌の感触が、暖かかった。

 弱った体は、以前よりも確実に多くの睡眠を要求する。

 ごめんなさいと謝る私に、彼は軽く笑って、また明日、目が覚めたら、という。

 そして、当たり前のようにキスをした。

 彼と私の間でできてしまった、もう一つの習慣だ。

 意識の落ちる前には必ず口づけをする。

 舌を入れて唾液をねぶり、その味を確かめるようにして、おやすみ、という。

 今では私の方が、それがなくては眠れないような気がする。

 あの日――屋上で意識を失ったあの日、彼に食い破られた喉の傷は、まだ塞がっていない。

 彼は時折、そこに張られたガーゼを外し、傷口を舌で舐める。

 私は基本的に、傷の治りが常人より遅い。だから、大して深くもない喉の傷は、まだまだ赤黒い跡をさらしている。

 彼はそこを慈しむように舐めて、滲んだ血液を飲み下す。

 鈍く走る痛みが、何故か心地よい。

 ひどく歪で、どこか歯車の狂った。しかし私はきっと、幸せだったのだと思う。

 死に近づくためだけにあった眠りを、ひどく安らかなものにする、ささやかな儀式。

 おやすみなさい。

 そう囁くように呟いて、私は眠りに落ちた。




 二人で静かに本を読んで過ごすこともあった。

 十年近くの入院生活で貯めこまれた本の山に、彼が興味を示したのだ。

 読みたければご自由に。

 そういった声には、若干拗ねたような響きがあったようにも思う。

 我ながら驚くべきことに、私と話すより本を読むのが大事なのか、という気分があった。

 何とも腹立たしいことに、彼はそれを見透かしたようだった。

 幼児をあやすように笑うと、赤子に対するように私の頭を撫でた。

 ……それだけで気分が良くなってしまった自分が、まったく愚かしい。

 では、お言葉に甘えて。

 そういった彼がまず手に取ったのが、遠野さんの持ってきた恋愛小説だったのには、随分と意表を突かれたけれど。






 またあるときは、本当に他愛のない雑談で時を過ごした。

 そのときの議題は民話やお伽話の類だった。

 山一つ覆い尽くさんばかりに巨大と描写された八岐大蛇。

 大江山に君臨した酒呑童子。

 竹取物語でかぐや姫が求婚者たちに出した五つの難題。

 人魚の肉を食べて不老不死となった八百比丘尼。

 竜宮へ行ったとされる浦島太郎。

 寝物語に語ってくれた彼のお話は、まるで子守唄のようで。

 私はそれを聞くのが楽しかった。

 遠い、はるかな過去。

 私がいまだ普通の童女であった頃、母と呼べる誰かに同じことをされたのかも知れず。

 けれども、今の私の傍には彼がいてくれて。

 優しいキスも、彼がくれた。

 ……私にはそれで十分だった。





 一カ月に一度の割合で、私は診察を受ける。

 大がかりな機器を使った検査やら、血液を抜いての診断やら。

 おまけのように注射を打たれたりもするし、薬を処方されもする。

 それらが効果を上げた試しのないことをよく知る私にとって、まったく時間の浪費としか思えないことなのだけど、世にはそういうものが溢れかえっている。

 病院側の事情もあるのだろう。治る見込みがなかろうと、治療はしたという事実は必要ということだ。アリバイ作りといってもいい。あるいは精神安定剤というべきかも。医師やナースには治る見込みがなかろうと全力は尽くすのだという使命感を、クランケには治るかも知れないという希望を、それぞれ与えるための儀礼。そう考えると、まったく無意味なものではないのかも知れない。いや、人間の精神がそもそも無意味なものを欲するという証左か。

 ともあれ。

 そんな儀式をすませて解放された頃には、時刻は昼過ぎを回っていた。

 今や終の棲家と言い切ってもいい病室に戻る。その足取りが、ほんの少しだけ軽く感じる。

 無意味からの解放感から――いや、誤魔化すのはやめよう。それこそ無意味だ。

 きっと周防が、そこにいるから。

 病室のドアを開ける。

 やはり、彼はそこにいた。

 貯めこんだ本を読んで暇を潰しているかと思ったが、そちらの予想は外れた。

 彼は椅子に腰かけて、何枚かの書類の綴りを読みふけっていた。

 私の姿を認めると、おかえり、と軽く唇の端を上げる。

 ベッドに歩み寄り腰かけて、彼の手元を覗き込む。

 一瞬、訝しさに眉根が寄った。周防が手にしている書類の頭には、私の名前が刻まれていた。

 書式や記されている単語にも見覚えがある。私のカルテ、だ。

「……それは?」

「宮野先生がつけていた君の観察日記。訊きにいってもはぐらかされるのがオチだから、ちょいと失敬してきた」

 予想通りの返答を、彼はした。素直にカルテといえばいいようなものだが、たしかに観察日記というのも言い得て妙だ。あの善良な老医師の考えはともかくとして、現実として観察する以外のやりようがあったとは思えない。

 呆れた私の表情をどう解釈したのか、周防は、もちろんこいつはコピーで原本はしっかり返却済みだよ、とフォローにならないフォローをした。

 そして、

「天野葉月。七歳と五ヶ月で入院。症状は類を見ないほど激しい代謝異常。肝臓付近に健常とは異なる細胞変異を確認。F型悪性新生物と判定される」

 すらすらと、彼は私の処刑宣告を読み上げる。

「なお、F型新生物とは1812年にドイツのフランドール博士が報告したのが確認される最初の症例だが、その実態については今なお定まっていない。増殖もせず、ただ暴走とも称すべき代謝を引き起こす細胞が全身に転移していくため、発見されたときにはすでに手遅れとなっているケースがすべて――といっても、F型悪性新生物と判定されたケース自体が数えるほどだが。昨今では遺伝子異常の一種ではないかと考えられているが、サンプルが絶無であるため推論の域を出ない」

 彼はカルテから顔を上げた。

 私はきっと、無表情だったと思う。

 告げられたことは、何を今さらという現実ではあった。ただ、それが彼の口から語られると、それは奇妙な重みをもって、私の内面を平板にさせた。

「正直、よく生きていられると思うよ。F型特有の発作は、全身に転移したF型悪性細胞が、健常な細胞とせめぎ合う独特のもの……体中のそこかしこでヤスリがかけられているようなものさ。弱い人間なら発狂してもおかしくはない」

 笑わせる。

 私は実際に鼻を鳴らした。

 発狂だと。

 今の私が正気だとでも、いうつもりなのか。

 この身はすでに擦り切れて、摩耗し尽して。

「君は、もうすぐ死ぬよ」

 ――今また、丹念に削り取られている。

「もうすぐ死ぬ。もってあと半年。いや、それが明日でも驚くにはあたらない」

 彼は私の顔をじっと見つめている。

 まるで観察するように、そこに哀れみはなく。慈悲もない。

 正しく、既定の事実を読み上げる裁定者のような。

 音が聞こえる。

 耳鳴りのような。さざ波のような。何かが割れて崩れるような。

 それが自分の内面から聞こえることに、数秒してようやく気付いた。

 慣れ親しんだ感覚だ。どうということはない。絶望というものだ。

 何とも、今更過ぎて新鮮味も何もない。

 私は無言のうちに、彼の前に歩み寄った。

 だから何、と目で告げる。

 彼は薄く笑ったようだ。

 その眼が、人というにはあまりに冷たく、生き物と呼ぶにはあまりに無機的であることに、私は改めて気づいた。そう、彼はこんな人間だった。

 だからどうしたの。

 私は口に出して訊ねる。

「だったら貴方は何なの。――日下部周防」

 私はこのとき、はじめて彼のフルネームを呼んだ。

 それは怒りと呼ぶべきものだったかも知れず。

 あるいは失望だったのかも知れない。

 すべてにおいて気力も希望も失って久しい私には、どうにも判別ができなかったけれど。

 どう表情が変化するか、実は多少の興味を持っていたのだけれど、彼は眉一つ動かさなかった。

 その名を知られてもどうということはなく、その名が真実自分であったとしても何も変わらない。

 そんな表情で、私を睥睨していた。

 私は小さな手を振りかぶって、彼を殴りつけた。

 惨めなほどに小さく、馬鹿らしいほど幽かな音が病室に響く。

 きっと彼にとっては撫でられたようなものだろう。涼しい顔。いつもと変わらぬ顔。

 対して私は、ただ一度殴っただけで、息が乱れた。

 久々の運動――このていどの運動が、肉を血を骨を皮膚を臓腑を軋ませる。脆弱な体にはこのていどのことが荷が重い。

 これが悔しいという感情なのか。歯がゆいという感情なのか。

 知ったことか。

 そんなものは知らない。知りたくもない。

 もう一度、手を振り上げたとき、あっさりと全身が悲鳴を上げた。

 発作が始まる。

 彼が言うところの、全身至る所でヤスリがかけられ、発狂してもおかしくはないという発作が。

 足が崩れ落ちる。腕がねじれる。腹が揺れる。心臓が沸騰する。脳が泡立つ。

 赤子のようにうずくまり、襲い来る痛みに耐える。

 痛くて痛くて痛くて痛くてたまらない。

 でも、今はそれ以上に。

 この顔を。

 苦痛と苦痛と苦痛に歪み切った顔を、見られたくはない。

 浅ましい意地だけど、意味のないことだけど、だけど、だけど。

 医師ですらも逃げて近付かぬという、見苦しい顔を見られたくはない。

 唇を噛みしめる。歯が砕けるほどに食いしばる。口の端から血が流れるのが感じ取れた。

 彼はしかし、私の顎に無造作に手をかけ、顔を上げさせる。

 私は意地を張る。これほど意固地になったのは、生涯で初めてかも知れない。

 そうとも。私は絶望を供にして生きてきた。

 命の意味とか、生きる喜びとか、そういうものとは無縁に生きてきた。

 だったら死ぬときは。

 彼の前で死ぬときは。

 傲慢なほどに嘲笑って、そして逝ってやる。

 痙攣しかける口元の筋肉を酷使する。細胞の一つ一つが火花を上げるよう。

 ただ一つの表情を取り繕う、そのために全身に残されたわずかばかりの力を注ぎこむ。

 汗腺という汗腺から汗が吹き出すのが自覚できた。血管という血管が収縮するのが感じ取れた。

 けれど、それだけの甲斐はあった。あったはずだ。

 私は確かに口の端を歪めて、笑えていたはずだから。

 苦痛ではなく笑みを。

 それが嘲笑であったか別のものであったかはともかくとして、とにかく笑えた。

 彼は、周防は、そんな私の表情をしげしげと見つめていた。

 あの、冷たく醒めた眼差し。

 けれどもそこに、おそらくは彼と出会って初めて。

 純粋に面白がるような、興味を抱いたような――年頃の子供のような表情を垣間見たのは、果たして気のせいだっただろうか。

「天野葉月。君はもうすぐ死ぬ」

 彼はもう一度、囁いた。

 今度は宣告するのではなく。まるで何かにいざなうような。

 暗い暗い谷底に手招くような、そんな声。

「まるで――――過去映す鏡を見ているようだ。無意味に意地を張るところも含めて何もかも。実に心地よいよ、お姫様? その絶望と渇望は、ひどく懐かしくて馴染み深い」

 故に僕は選択しよう。

 故に此処に選択しよう。

 僕は君に託そうかと思う。託して、与えて、繋げようかと思う。

 君の生涯と、君の人格と、君の絶望に敬意を表し。

 僕は君を選ぶとしよう。君に捧げ、押しつけていくとしよう。

 ――何を? と、私はかすれた声で訊ねる。

「運命、という奴さ」

 と、日下部周防はいった。

















 周防は語る。


「遠い、遠い昔のことだ」


 一人の男の子がいた。

 物心ついて以来、元気であった試しがない。

 物心ついて以来、遠くない将来の確実な死を悟り続けていた。

 そんな男の子。

 十を迎える頃には摩耗して絶望して疲弊して諦観して達観してた、そんな子だ。

 親はそれなりに裕福な資産家で、息子に対して残り少ない余命を静かに過ごせるだけの環境を整えた。そしてそれが彼らの示せる愛情の限界だった。男の子は親の顔などとうの昔に忘れていたし、親たちは息子の存在そのものを忘れようとしていた。

 ま、可哀そうといえばそうなのかも知れないし、不幸といえば不幸でもあるのだろう。当人にしてみればどうだっていいことだがね。他人が自分をどう評しようが、それで自分がどうにかなるわけでもない……と、これは単なる余談。

 十五を迎えた頃、彼はひとりの少女と出会った。

 長い黒髪と、清楚で硬質な容貌をした少女だったよ。美少女、というと、本人は顔をしかめたものだがね。自分の顔が整っているのは否定しないが、少女などと呼ばれると馬鹿にされている気分にもなる、とかいってたっけ。

 少年が終の棲家と確信していた白い箱庭に、いつしか彼女は現れるようになった。

 まるで亡霊のように、気が付いたらいたし、気が付いたらいなくなっていた。

 彩乃。そう彼女は名乗った。

 姓を名乗ることはなかった。私を識別したければ彩乃とだけ呼べば十分、そういっていた。

 変わった娘だったよ。

 僕が言うなって? ごもっとも。だが、あの娘もいい勝負だったと思うがね。

 ……いや、そこで何故拗ねる。

 まあいい。

 ともあれ、彩乃はいつの間にかそこにいて、そしていつしかいるのが当然と思えるまでになった。

 あの娘と過ごした時間は、正味一年にも満たない時間だったが、楽しかった、そう評しても間違いじゃなかろう。

 たくさんのことを話した。大部分は今思えば馬鹿らしい雑談だったようにも思うが、それを楽しいと感じ得るのは紛れもない幸福といえるよ。人間に生まれた醍醐味といってもいい。

 自分の病についても話した。一年後に生きていられれば大した幸運、二年後に呼吸していればある種の偉業、三年後に意識があれば歴史の奇跡だ、なんてね。

 それをいうと、彼女は鼻で笑って、知ってるわよ、なんて答えたものだが。

 彼女はとても残酷で、冷酷で、冷淡で、淡白で、そして聡明だった。

 氷のような、というより、硝子のような、という印象だったな。あれほど透き通った空気をまとう人間を、僕は他に知らない。

 だから――彼女を、愛した。

 雛の刷り込みに近いものだったかも知れないがね。仮にそうであったとて、どうでもいいことだが。

 ……だから何故拗ねる。

 いやいい、続けよう。黙って聞くならこの際文句はない。

 本題だ。

 八百比丘尼、という話を前にしたね。

 人魚の肉を食べ、八百歳になるまで生きたという女性だ。

 伝説にいう人魚とやらが真実何だったかはこの際どうでもいい。

 ただし、実際、世界各地の伝説には似たようなものが結構ある。林檎だったり桃だったりと、いろいろだがね。

 ああ、そんな顔をしなくていい。たしかにこれは本題なのさ、お嬢さん。

 年を経るごとに成長し、年老いて、衰えて、死ぬ。瞬きの間にも命を費やす。それはまったく生物学的に。どれほどの努力と幸運を払ったとしても、まず百二十年ほどで人間は限界を迎える。生命活動という化学反応に、血と肉が擦り切れて果てる。

しかしときに……、その道理を覆す突然変異種が生じる。

 実のところ、そうしたはぐれ者は特に珍しくはないのさ。何百年何千年というスパンの中ではね。その多くは畸形として扱われ、忘れられていくが。それでも時に、特定の一において明らかに人を超越した突然変異種が現れる。場合によってそれは伝説として残り、異説奇説として語られる。

 彩乃はいった。

 私はその一種。生態系における異端。そして禁断の果実。

 ……少年には、彼女の言っていることは何一つわからなかった。

 ただ、彼女が好きだった。彼女とともにいて、彼女と会話して。残り少ない時間をそれだけに費やせるならそれでいいと……いや、悟ったような綺麗事はやめようか。そのとき少年は、物心ついて以来初めて生というものを欲した。

 一年、二年、三年などといわず。この先百年でも二百年でも三百年でもこの娘と一緒にいたいと。そう思えた。

 実際にそう口に出したこともある。彼女は驚いたように、でも、たしかに嬉しそうに微笑んでくれた。……そのとき、幸福というものの実在を、初めて知った。

 彩乃はいった。

 もしもそれが真実の言葉であるならば。

 ……それをかなえる術はある。

 かなえる術はあり、自分にもその意思はある。

 貴方になら。そう、僕にであれば。

 そうしてもいい。そうすることを望む。

 私は私を貴方に捧げ、そして続いていく。


「――彩乃は、そういった――」











 長い時を過ごした場所と別れるのには、思ったより手間がかかった。

 身の回りの雑貨。着替えの寝衣。奇特な級友たちが差し入れてくれた本の数々。

 それらすべてを備え付けの戸棚に押し込み、整頓する。

 身に馴染んだ白い病院着を脱ぎ、シャワーを浴びた。

 生まれてこの方、おそらくは初めてといえるほど入念に体を洗う。そのとき、ささやかな胸のふくらみが、本当にささやかなものである事実に、今更のように苦い気分になった。

 バスタオルで体を拭きながらシャワールームを出る。

 彼は、礼儀正しく窓を向いて――つまり私に背を向けていた。

「周防」

 私は呼びかける。

「早く服を着ろ」

 彼は背を向けたまま短く言った。

「周防」

 私はもう一度呼びかける。

 表情は見えないが、訝しげに顔をしかめる気配があった。

「こっちを向いて」

「…………?」

「こっちを向いて、といったわ」

 彼はようやくふり向いた。

 私は私を彼にさらす。

 彼は目を細めて微笑したようだ。

 これから先。

 どれだけの機会があるかわからない。

 だから私は、私のすべてを、彼に刻みつけておきたかった。

 風邪引くよ、と彼は苦笑し、いうことはそれだけ? と私は口を尖らせる。

「ならばこう表現しよう」

 彼は困ったようにいった。

「実に魅力的だと思う。目にやりどころに困るし、服を着てもらえるとありがたい」

 よろしい、と私は笑った。

 再び窓側を向いた彼の背後で手短に身支度を整えた。

 下したてのワンピースは、かつて過ごした長くもない高校生活の最中に、初めて自分で購入したものだ。長袖のものだが、この季節ではいささか心もとないかも知れない。そう思ってはいたのだが、周防はどこから調達したのか暖かそうなカーディガンを当然のように羽織らせてくれた。どうやら予測していたらしい。その気遣いが、素直にありがたかった。

 仕上げに大きめのつばのついた帽子をかぶる。深窓の令嬢でも通るよ。よく似合っている。そう彼はいった。

 ささやかな荷物を詰め込んだバッグは周防が持ってくれることになった。このていどは男の仕事というものだから、ということらしい。そんなものかと私はうなずいた。

 そして私は――私たちは、馴れて親しんだ病室を後にした。




 何気ない表情で廊下を歩く。

 ナースステーションに差し掛かる。

 横目で確認する。ナースたちは忙しげに駆け回っていた。私たちに注目している者はいない。

 いや、一人だけ。あの初老の医師――宮野先生が、ナースたちに何か指示を出しているのが見えた。顔をあげて、私たちに気づく。

「おや、これは……」

「従妹に散歩させてあげようかと思いまして」

 周防が先回りするかのようにいった。

 まったく堂々として、悪びれない表情だ。

「そうですか、いや無理はしないように」

 宮野先生は戸惑ったように、しかしいくらか嬉しそうにうなずく。

 中庭の散歩ていどなら大丈夫だから、たまには外の空気を吸ってみるのもいい――とは、以前からこの老医師が勧めてくれていたことではあった。私はその都度、興味なさげにうなずきを返すだけだったのだが。

「……いいお従兄さんだね、本当に」

 宮野先生は孫を見るかのような表情で、私に笑いかける。

 そんなんじゃないです、と私は小さく答えた。老医師はさらに笑みを深めたようだ。

「それでは」

 周防が話を打ち切るように割って入った。

「――ありがとうございました」

 若先生。そう彼が小さく呼びかけたのを、私だけが聞き取っていた。

そうして私たちは、最後にもう一度老医師に頭を下げた。






 病院の門をくぐり抜けるとき、どこへ行くの、と私は訊ねた。

 遠いところ、と彼は一言答える。

 誰もいない地の果て、ならば気が利いているんだがね。残念ながらそうもいかない。そうもいった。

 まあ、道理だ。

 あまりに遠くてはたどり着く前に私の体力が尽きてしまう。それは何ともしまらない話だ。

 三十分ほどをバスに揺られた。

 乗客は私たち以外に誰もいなかった。

 彼は私の横に座って、頭を抱くように引き寄せた。自然、彼の胸に引き寄せられる。思ったより逞しい胸元からは、とくん、とくん、と心臓の音が聞こえた。

 命の音。

 彼の鼓動。

 それを聞きとるだけで、心が安らいだ。もっと聞きたくて、顔を寄せる。

 とくん、とくん。

 面白いものかい、と周防はいう。

 ええ、とても、と私はいった。

「変わった趣味だ」

 彼は笑い、まぁいいさとうなずいた。

 この音も、君のものとなるからね。

 バスは静かに揺れながら進む。

 途中、見覚えのある街並みに差し掛かった。

 閑静な丘の中に建つ校舎が見える。私立海都学園。私が唯一よく知る学校。

「もう少しだよ」

 彼はあやすようにいった。

 もう少しで。君は君の得るはずだったものを。得るべきすべてのものを。

 私は答えず、ぎゅっと彼にしがみついた。

 とくん、とくん。

 肌に感じる彼の音は、いささかの揺らぎもない。

 やがて彼が手を伸ばし、降車ボタンを押す。

 バスは当たり前にたどり着く。

 私と彼の、終着点へ。




 それは一言でいうならば、よく整理された廃屋だった。

 山道を五分ほど歩いた丘の中。

 そこに建てられた瀟洒な建物。

 造りは洋風で、ひどく古びている上に周囲は雑草に覆われている。

 ほんの短い山道でも息を切らせている私を、彼はそれこそ娘か妹に対するかのように背中に背負い、その扉を開けた。

 昔、この一帯が華族の別荘地だった頃の名残。彼はそう説明した。

 今となってはほとんどの別荘は破棄され潰されてしまったが、この建物だけはどういうわけか残ってしまった。さして市街から離れてはいないけど、役所ですらここが残っていることは把握していないだろう。そんなことをいった。

 玄関を抜けると、外見に比して意外なほど小奇麗な内装が目に入った。驚いたことに、生活臭すら漂っていた。調度品の類にも埃は積もっておらず、スイッチを入れれば電灯までついた。

 一通り中を見回し、周防を振り返る。彼は肩をすくめて、僕とて霞を食って生きていたわけではないよと苦笑した。そういうことらしい。

 部屋の南側には大きな窓があり、そのすぐ傍にベッドが備え付けられていた。私は迷うことなくその上に寝転がる。大した遠出でもなかったのに、疲労が染み込んでいるのが自覚できていた。

 周防は荷物を置いてから、ベッドの縁に腰かける。

 ふわり、と頭に微かな感触が感じ取れた。

 見上げると、周防が私の髪を透いていた。

「がさがさしてない?」

「いや。綺麗な髪だ」

 さすがにそれはお世辞だと思った。ずっと入院していて、体調もよかった試しのない、手入れすらもしていない髪なのだ。それでも、褒められると素直に嬉しくもあったので、私は黙っていた。

 私の形を確かめるように髪を撫でられていると、気持ちがよかった。

 本当に、ひどく気分がいい。眠気すら覚えた。

「少し眠るといい。疲れただろう?」

 私の様子を察したのか、彼はそういった。

 いいえ、と私は首を振った。

「ねえ、何か話して」

「……特に面白い話なんてないよ」

「私は私のことを貴方に話して聞かせたわ。なのに、貴方は貴方のことをほんの一部しか話してない」

 だから、聞かせて。

 貴方のことを。貴方の生きた時間のことを。

 この、数十年のことを。

 何故なら、天野葉月のすべては日下部周防のもので。

 日下部周防のすべては天野葉月のものなのだから。

 困った娘だ、と彼は笑う。

 最後まで子ども扱いなの、と私は口を尖らせる。

 彼はさらに、声を立てて笑った。

 それからずっと、彼と私は語り合った。

 柔らかな彼の声は、鼓膜に染み込むようで。

 千年も前からこの身に馴染んでいたような気がした。

 日が西に傾いて、世界が朱に染まる。

 その世界の中で、私と彼は一緒にいた。

 そして、夜になって。

 私は初めて、彼に抱かれた。

 壊れ物を扱うように優しく胸に触れ、キスをしてくれた。

 最後の段になっても、彼は躊躇していた。

 こんなに細かったんだな、と呟いて、壊してしまうかも、と恐れる周防を、私は可愛いと思った。

 大丈夫だから。……もう、今夜しかないんだから。

 そう囁いた私に、彼はうなずいて。

 そして、私の体は日下部周防の形を覚えた。




「はるか昔、人魚の肉を食べた一人の娘が、不老の体を手に入れた」

 ……それは、夢現の中で彼と交わした言葉の断片。

「彼女は八百年を生き、彷徨い、この国の至る所にその足跡を残し、そして消えた」

 人魚なるものが真実何であったのか、今となっては知る由もない。

 だが、世に妖怪や悪魔、神と伝えられているものには、それなりのルーツがある。

 F型悪性新生物。それは人魚の肉の欠片。

 僕らは、人間のなりそこないであり、人外のなりそこないなんだよ。

 異端の中のさらなる異端。

 人間として生きるには、人外の部分がありすぎて。

 人外となるには、人間の部分が残り過ぎている。

 その末路は二つに一つだ。

 なりそこないのままに死ぬか。それとも人外となって生きるか。

 ああ、人間として生き残るというのはちなみに無理だ。

 こいつは普通の癌患者でも同じことだがね。

 体内の悪性新生物を死滅させるか切除するかしか方法はない。

 そしてそれができるのは、体内の悪性細胞が一定以上広がっていないことを前提とする。

 しかし、F型の場合は発見が遅くなるのが常であって――これ以上の説明はいらないな。

 F型の症状の進行は、人間であるべき部分が人外の部分に侵食されることと同義だ。

 そして、人間の体には本来あるべきでない異物を排除する免疫機能が備わっている。

 人間の部分は人外の部分に可能な限り対抗しようとし、人外の部分はその機能に従って浸食を続ける。

 結果、双方の機能が擦り減り続け、やがては確実な死に至る。

 ならば、何とする。

 ――話は、簡単なことなんだよ。

 欠片でしか持たない人魚の肉を、大量に取り込んでしまえばいい。

 体内の均衡を崩してしまう。天秤の秤を傾ける。崩壊に向かう調和を食い破る。

 僕は彩乃にそれを教えられた。僕はそれをもって彩乃に続くことを選んだ。

 それが僕たちの生態であり、僕たちの生殖なんだよ。





 永遠とも思えた――永遠を願った夜が明けた。

 私はまどろみから浮上する。

 周防は既に起きていて、私の顔を見つめていた。

 目が合うと、優しく微笑んでくれる。

 そろそろか。

 そういった彼に、私は無意識に体を震わせる。今さら怖気づくのか、そう自分自身を叱咤する。

 周防は起き上がり、手早く服を身につけた。

 いつも見ていた、学生服のようなシャツとズボン。

 私は裸の胸にシーツを抱きよせて、ぎゅっと握りしめた。

 彼は窓に歩み寄る。

 薄地のカーテンを透かして白い光がこぼれ出ていた。

「君は、随分少食だが――努力してもらって一週間、そんなところだろうな」

 僕と彩乃のときも、そうだったし。

 そんなことをいって、笑いかけてくる。

 どこから持ち出したのか、彼の右手に大ぶりのナイフが握られていることに、ようやく気付いた。

 体に走る震えは止まらない。

「長かったよ」

 そう、周防はいった。

 長い、永い時間を、漂い続けていた。

 得たものもあり、失ったものもある。

 楽しくもあり、悲しくもあり。

 希望もあれば、絶望もした。

 意味を問うことの無意味を知り、価値を計ることの無価値を知った。

 そして今。

 僕は久々に満足しているよ。

 彼女に続いてきた僕の生は、君へと継がれていく。

 子供はいなかったが、おそらく、それができたときの気分というのはこういうものなのかも知れないな。

「あなたはそれでいいの?」

 無意識に、震える声が紡がれていた。

 あなたは私でいいの。あるいはそう訊ねたかったのかも知れない。

「むろん」

 返答に間はなく、迷いはなかった。

 同病相哀れむ、などと自惚れないでくれ。きっかけがそうであったことは否定しないが。僕は君を知り、君と触れて、それを決めた。

 君の血肉となり、君と供にあり、君に継がせよう。

「それが、僕の選択だ」

 彼は笑って、そして私の名を呼んだ。

 葉月、と。

 何の悔いもない、綺麗な笑顔だった。

 ――語ることはもはやなく、記憶すべきことはすべて記憶した。私は私に彼を刻印した。

 周防が手にした刃を白い光の中にかざす。

 それがまるで朝起きて服を着るのと同義であるかのように何気なく、その切っ先を自分の首筋に当てる。

 ――突き立て、切り裂く。

 柔らかな布地が裂かれるような音。内から何かが噴き出る音。

 自分自身の首から流れ出た血飛沫に全身を洗わせながら、彼はなおも笑っていた。

 これは終焉ではなく、通過点なのだと。

 新たな形で続いていく命があるのだと、笑っていた。

 やがて支える力を失ったのだろう、彼の膝が崩れて落ちる。

 木造の床に血が広がっていく。

 彼の瞳が、光を失っていく。

「――――きだよ」

 囁くような声が、何かを告げた。

 私に告げられたものか。思い出の中の何かに告げたものか。

 ――それが、日下部周防という少年の、最期の言葉だった。





 物言わぬ躯と化した彼に歩み寄る。

 全身の震えはいつしか治まっていた。

 投げ出されたナイフを手に取る。

 まだ体温の残る彼の体を引き起こした。

 満足そうな、本当に満足したような、そんな笑顔をしていた。

 ……ばか。

 小さく毒づいて、私は彼に口づけた。血の味と、これまで何度も知った、彼の味。

 ふと、思い出す。

 いつかの病院の屋上。

 私は彼に喉を食い破られて、でも、奇妙な恍惚を感じた。

 彼に貪られることに、歪な幸せを感じていた。

 何とも、今となっては皮肉ではある。それが私たちの生態の一つ、そういうことなのだろうか。

 ――最初をどこからにするかはすでに決めていた。

 心の臓。

 あの心地よい鼓動を生み出していた源を、まず最初に。

 次に、私を抱いてくれた腕を。

 それから、それから、それから……

 沢山の事柄が頭を回り、より以上の想いが脳髄を満たす。

 そして、私はナイフを振り上げて――



























 空は忌々しいほどに晴れていた。

 季節が春に向かいつつあるこの時期、頬に当たる風は微かな熱を帯びている。

 街ゆく人々は忙しげで、まるで何かに生き急ぐよう。

 ふと、以前テレビで見た熱帯魚の群れを思い出した。

 ――葉月。

 そう、名前を呼ばれた気がして、私は足を止める。

 あの日の、言葉を交わした最期の時の彼を思い出す。

 否、忘れたことなどない。忘れるはずもない。

 私は振り返る。

 当然ながら、日下部周防がいるはずもなく。

 つい先日より、再び同じ時間を過ごすようになった級友たちの姿が、そこにあった。

「何をぼけっとしてやがる。今日の主役が」

 そういって笑うのは、六堂甲斐君。悪戯好きの少年がそのまま成長したような顔に屈託はなく、見ているだけで何とはなしに口元がほころぶ。

「――ええ、はい。急なんですけど、今から三十分後に四人。予約できますか?」

 携帯電話を片手に、これから向かう予定のレストランに予約を入れているのは香坂一真君。

「大丈夫? 気分が悪いとか」

 こちらを気遣う表情でいってくれる、遠野遥さん。

 我が愛すべき級友たち。

 失われて還ることはないと思っていた時間。

 自分がただの学生として制服を着ていることに、今でも奇妙な感覚を拭えない。

 日の当たる道を大手を振って歩いていることに、どうしようもない違和感を感じる。

 けれども、それが楽しくて、嬉しいことも事実であって。

 私は級友たちの所に駆け寄りながら、何でもない、と笑った。

「よし、今日は食って飲むぞ。快気祝いという大義名分があるのだ、誰にも文句はいわせん」

「食うのはともかく飲むって何だ、飲むって。いっとくけど、私の目の届くところで未成年飲酒ができるなんて思うなよ。というかそもそも学生服に飲酒を許す店なんてあるか」

 遥さんがポニーテールの黒髪を揺らしながら甲斐君の頭を叩いた。ぶっきらぼうなようで世話好き、そしてしっかり者なのは相変わらずだ。

「堅いことをいうなよ、ハっちゃん」

「誰がハっちゃんだ誰が」

「ハーちんの方がよかったのか?」

「勝手な愛称をつけるなといってるんだ、私は!」

 そういって、ハーちん、もとい遥さん――ちなみに私も「はづき」なので、その愛称ではどちらを呼んでいるのかわからなくなってしまうのだが――は、甲斐君の腹に見事な肘打ちをめり込ませた。

 ぐえ、と甲斐君が呻き、問題なく予約を取り終えた一真君がそれを見て笑う。

 つられて私も笑った。

 本当に、この人たちは。

 この空気は、居心地がいい。

 笑いながら歩きかけたとき、ふと、街並みの向こうにあの山が見えた。

 日下部周防という名の少年と最後の時間を過ごした、あの山だ。

「んー? どした?」

 甲斐君が私の視線を追い、そして思い出したようにいった。

「ああ、あの山か。何でも、この春から再開発がされるって話だぜ。昔は金持ちやら華族やらの別荘地だったらしいがな。今でも廃屋とかが残ってるって話も聞くが、それを整地して、道路を通すんだと。ゆくゆくは住宅地もできるらしい」

 らしいわね、と私はうなずいた。

 別段、感慨はなかった。

 彼の言葉は記憶の中にあり、彼の形はこの体が覚えている。

 そして彼の存在は、この身と共に在る。

 だから、寂しくは、ない。

 歩みを進めながら、級友たちと言葉を交わし、笑みを交わす。

 ちょっとした戯れでじゃれ合い、軽い口喧嘩。

 何とも。呆れかえるほどささやかな幸せと希望。

 いずれこの周囲の人たちとも、別れを迎える日が来る。

 歳月とともに年を重ねるであろう彼らと、今の私とでは、過ごすべき時間が異なる。

 伝承にある八百比丘尼とやらはどんな気分で各地にその足跡を記したのか、後輩として興味深いところだ。

 だが、そんなことは悩むようなことでもない。

 私は私として。

 人外は人外として。

 ただ今この時を、楽しむとしよう。

「葉月」

 級友たちが、私の名を呼ぶ。

 日下部周防が呼んだのとは、また違った響きで。

 だから私は、歩き出したのだった。





 is that all...?

 もとは某掲示板に思いつきで書き始めた作品です。

 ちなみにそのときにはえっちい描写ありの18禁なものとして書き始めたものでしたが。

 それを全年齢対象にして書き直したのが本作です。……ま、多少その名残が残ってはいますが。

 某携帯小説サイトでも掲載してますー。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  淡々とした文章と葉月の心理描写が、物語の世界観を際立たせており、素敵でした。  PC画面から見た時の余白の使い方もお上手で、作品の間を感じる事ができました。 [一言]  こんにちは。  …
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