12.アデルバート様
そんな私に頑張りを認めてもらうチャンスがやって来た。
六歳の頃、双子の姉がよりにもよって王太子のアデルバート様との顔合わせの前日に、転んで顔にけがをしてしまったのだ。
その顔合わせはアデルバート様とリディアが婚約をするかどうかを決める重要なものだった。
王子の婚約者候補はほかにもたくさんいる。顔にけがをした状態で王太子と顔合わせをするのは避けたいが、きれいに治るまで待っていてはほかのご令嬢に後れを取るかもしれない。
そう危惧した父は、リディアの代わりに私を顔合わせに向かわせることに決めた。
「リディア。リディがけがをした。王太子との顔合わせはお前に代わりを務めてもらう」
執務室の机の上で手を組みながら、父は厳しい顔で言った。私に選択肢などあるはずもなく、素直にうなずく。
父も母も兄妹たちも、双子の姉のことは親しみの込もった口調でリディと呼ぶ。彼らにとってのリディア・クロフォードは「リディ」以外にいない。
「アデルバート殿下と婚約できるかどうかがかかった重要な顔合わせだ。絶対にリディの顔に泥を塗るような真似はするなよ」
「……わかりました」
父はそれだけ言うと、書類仕事に戻ってしまった。もうちらりともこちらを見ることもない。
「リディアお嬢様。戻りますよ。早くしてください」
私をここまで連れて来た使用人は苛立たしげな口調で言った。使用人にあるまじき態度だが、父が気に留めることはない。
「ごめんなさい……。すぐ行くわ」
「本当に辛気臭くて嫌な子だこと。リディお嬢様は明るく可愛らしくていらっしゃるのに……」
自室まで向かう途中も、使用人はまだぶつぶつ言っていた。
きっと、普段は地下室に閉じ込められているもう一人の娘なんて気味の悪い存在の世話を命じられたことが不満なのだろう。
使用人のこんな態度にはもう慣れっこだった。
次の日、私は浴室で頭のてっぺんから爪先まで磨かれて、綺麗なドレスを着せられた。仕上げにお母様の開発した美容薬を塗って、うっすら化粧まで施される。
鏡に映った私は、いつも地下室の古ぼけた鏡で見るみすぼらしい子供ではなくて、貴族の令嬢そのものだった。
(私、本当にリディアと双子なのね……)
元は同じはずなのに、暮らしが違うからか双子の姉と私はまったく違う外見をしていた。
綺麗なドレスを着て、いつもつややかな血色のいい肌をしているリディアと、ぼさぼさ髪に粗末なワンピースを着た青ざめた顔の私。
普段ならとても双子に見えないだろうけれど、今日の私は確かにリディアそっくりに見えた。
これならば、リディアに双子の妹がいると知らない者には入れ替わっているなんてわからないだろう。
「リディア様。支度が済んだならぼうっとしてないで早く来てください」
年かさのメイドが苛立たしげに言う。私は急いで鏡の前から離れて、そのメイドの後に続いた。
***
初めて訪れた王宮で、私はすっかり緊張しきっていた。
何しろ、普段は双子の姉の代わりをする場面以外では、外に出ることすらないのだ。
それが突然王太子と顔合わせをするなんて、プレッシャーで胃が重くなる。失敗したらどんな罰が待っているのか、考えたくもない。
けれど、これは少しでも認めてもらうチャンスなのだ。
私が無事に乗りきって王太子様に認めてもらえば、お父様もお母様も褒めてくれるかもしれない。なんとか頑張らなければ。
自分にそう言い聞かせて、王太子様が待っているという庭のテーブルのところまで足を進める。
テーブルの横に人影が見える。
私と同じ年ごろの銀髪の男の子に見えた。あの方がアデルバート王子だろうか。
そう思って見つめていると、ふいにその子が顔をあげて、目が合った。その子は大きく目を見開くと、こちらに駆け寄って来る。
「君がリディア・クロフォード?」
「は、はい。あなたはアデルバート殿下でしょうか……?」
「ああ、僕が第一王子のアデルバートだ。よく来てくれたね」
アデル様はにこにこと嬉しそうに笑う。王太子様というのはこんなに気さくなものなのだろうか、と驚いてしまった。
「君の目の色はとても綺麗だね。草原の色みたいだ」
アデル様は私の顔を覗き込んで、そう言った。思わず顔が熱くなる。そんな風に褒められるなんて初めてのことだった。
アデル様は私をテーブルのところまで案内して、椅子を引いてくれる。まだ六歳だというのに、まるで大人の紳士のようなエスコートだった。
けれど、席に着くとアデル様は、まるで市井の子供のように無邪気な顔で話し始める。
庭の池に小さなドラゴンが迷い込んできた話。お城の中が退屈だと言うと、執事がこっそり街まで連れだしてくれた話。乳母が寝る前に話してくれた遠い国の伝説……。
アデル様が語ることは皆私にとって新鮮なものばかりで、目を輝かせて聞いていた。もっと聞きたいと言うと、アデル様は得意げになって、さらにたくさんの話を披露してくれる。
さっきまでの緊張が嘘のように消えて、私はただ楽しくアデル様の話を聞いていた。
「なんだか僕ばかり話してるね。今度はリディアの話を聞かせてよ」
得意げにしゃべっていたアデル様が、急に我に返ったように恥ずかしそうな顔で言った。しゃべり過ぎたと思ったらしい。
けれど私は困ってしまった。
私にはアデル様のように街まで連れだしてくれる執事や、お話を聞かせてくれる乳母はいない。外に出て何かを体験したこともない。
私にあるのは、ただ地下室で淡々と過ごした日々の記憶だけだ。
「ええと……」
「リディアは何が好き? 女の子は人形遊びをしたり、アクセサリーを集めたりするのが好きなんだっけ。僕のお姉様たちもそうだよ」
「私はお人形やアクセサリーのことはよくわからないんです……。あまり遊ぶ機会がないから……」
「うーん。じゃあ、どんな食べ物が好き? 僕はメイドのキャリーが焼いてくれるマフィンが好きなんだ」
「食べ物も、何が好きかとか考えたことなくて……」
地下室で出されるのは、固くなったパンや薄いスープくらいのもので、何が好きかなんて考えたこともない。
その後もアデルバート様は、今まで行った街は? だとか、好きな絵本は何? だとか、色々質問をしてくれたけれど、私はろくに答えられなかった。
私には人が当然持っている経験が不足し過ぎている。
「ごめんなさい。私、アデルバート様にお話しできるような楽しい思い出がなくて……」
せっかくさっきまで楽しそうにしてくれていたのに、私の目をきれいだと褒めてくれたのに。このままではアデル様を不快にして、お父様にも怒られてしまう。
そう考えて私が泣きそうになっていると、ふいにアデル様は立ち上がって私の手を引いた。
「リディア。少し散歩しよう。お城の庭はとっても広いんだよ。さっき話した小さなドラゴンが溺れてた池を見せてあげる」
「え……?」
「行こう。楽しい思い出がないなら、僕と一緒にこれから作ろうよ。僕がリディアに楽しいこといっぱい教えてあげる」
アデル様はそう言って笑った。胸にじんわりと温かさが広がっていく。
さっきとは別の意味で泣きそうになった。
この人は、なんて素敵な言葉をくれるんだろう。
結局、その日は当初の顔合わせの時間を大幅に過ぎるほどアデル様と二人でお庭を駆け回った。あんなにたくさん笑ったのは、初めてのことだった。
王宮の執事がやって来て「もう約束の時間はとっくに過ぎていますよ」と怒ると、アデル様はいかにも遊び足りなそうに不満げな顔をしていた。
それから私に向き直って「ぜったいにまた遊びに来てね」と念を押した。
私は笑顔でうなずく。
家に帰って地下室に戻されてからも、頭の中はアデル様のことでいっぱいだった。
「また会いたいなぁ……」
ベッドの上に寝ころびながら、思わずそんな声がこぼれる。
けれど、本心ではわかっていた。こんなチャンスが巡ってくることなどそうそうないと。
次に私がアデル様と会えるとしたら、本物のリディアがまたけがをしたり、病気になったりしたときだろう。
それは一体いつのことになるだろう。もしかしたら、そんな機会は訪れないかもしれない。
私は本来、アデル様に会っていい存在ではないのだ。
考えたら辛くなったが、そんな考えは振り払って、ただ楽しかった今日のことを思い浮かべながら眠りについた。