1.婚約者の噂②
「陰で嫌われているリディア様に比べて、アデルバート様の人気は相変わらずすごいんですよ。彼のことを口に出す人は、皆目を輝かせて誉めています。大変優秀だとか、正義感が強いとか、彼が王位を継ぐのが楽しみだとか」
「……そうね、知っているわ」
『陰で嫌われているリディア様』という失礼な言葉は聞き流すことにして、素直に同意する。
このメイドの言う通り、アデルバート様はみんなから愛されている。頭脳も魔力も高く、身分に関係なく誰に対しても優しい。
その上外見まで美しい王子は、学園の女生徒たちの憧れの的だった。
しかしアデル様は、私にはとても冷たい目を向ける。
「いっそリディア様なんてやめて、フィオナ様と婚約し直してくれたらなんていう方もいるくらいです!」
『フィオナ』という言葉に思わず肩がぴくりと揺れた。
「ねぇ、アデル様とフィオナ様がつき合っているんじゃないかって噂が流れているのは本当の話なの? 周囲が勝手に言っているわけじゃなくて?」
「うーん、でも聞く限りだと勘繰られてもしょうがないなって感じですよ」
「どういうことよ」
「それはもう、フィオナ様はアデルバート様に婚約者がいることなんかおかまいなしにべたべたとくっついているそうで。
話している最中にフィオナ様がアデルバート様の腕にしがみついたり、生徒会室を貸し切って何時間も話し込んでいたりなんて話も聞きました。アデルバート様もはっきり拒否していないそうで……」
メイドはあけすけに報告してくる。本当に彼女には遠慮というものがない。
「……本当に? それで反感を買わないのかしら」
「婚約者がいる方にそんな接し方したら普通は買いますけどね。なにせ、婚約者がリディア様ですから」
メイドはあっさりと言った。
まったく失礼なメイドだが、事実だろう。
皆、婚約者がリディア・クロフォードのような嫌な女であれば、別の女性に気が逸れるのは仕方ないし、近づこうとする女性にも罪はないと見なしているのだ。
それにしても、フィオナ嬢は随分とアデル様に接近しているらしいが、この国の王子で仮にも公爵家の令嬢の婚約者に近づくことに恐れはないのだろうか。
公爵家がその気になれば、男爵家の娘一人くらい簡単に消し去れると言うのに。
アデル様もそのフィオナ嬢をひいきして、公爵家の不興を買う覚悟はできているのだろうか。
思わず物騒なことを考えてしまう。それもこれも、こんな噂が流れるまで放っておくアデル様のせいだ。
幼い頃に初めて会ったときの彼の顔を思い出し、思わずため息を吐く。
アデル様はほんの小さな子供の頃から利発で思いやりがあった。
だから軽率なことをして周りを危険に晒すような方ではないと思っていたのだけれど……。もう彼は変わってしまったのだろうか。
私はしばらく俯いて考え込んだ後、決意を決めてメイドに言った。
「フィオナ様が現れてから数ヶ月、黙って様子を見守って来たけれど……。これは放っておくわけにはいかないわ。二人の実際の関係がどうであれ、つき合っているとまで噂が流れてしまうような状況は見過ごせないもの」
「ええ、お嬢様! 私もそう思います。それでどうする気です? みんなの前で糾弾してつるし上げちゃいますか?」
「馬鹿なことを言わないで。今はそんな大騒ぎを起こす時期じゃないわ。アデル様にお話をうかがって、対応を改めてもらうよう話し合うのよ」
「聞き入れてくれますかねぇ」
「……どうでしょうね。でも、全く聞き入れてもらえないようなら……婚約解消してもいいと思っているの。だって、男爵令嬢といちゃついている王子の婚約者を続けるなんて、屈辱でしょう?」
私がそう言うと、メイドは両手で口を覆ってにやにやし始めた。よっぽど私の決断が愉快なのだろう。それにしても、慎みというものがない。
「いつにします? アデルバート様との話し合い」
「そうね……。明日の夜なんてどうかしら。大事にしたくないから、家族には内緒で抜け出して」
「随分急ですねぇ。わかりました。抜け出す手配はしておきます」
「頼んだわよ」
メイドは元気よく片手を上げて「お任せください!」と返事をした。
こんなメイドだが、彼女は私が抜け出すのを手伝ってへまをしたことは一度もない。そういうところは優秀なのだ。
メイドを下がらせると、私は窓辺に立って外の景色をじっと眺めた。目に映るいつも変わらない景色に、思わず目を閉じる。
目を瞑ると、今でも鮮明にアデルバート様と初めて会った日のことを思い浮かべられた。
明るい太陽の下で開かれた初めてのお茶会。
王子様と会うなんて絶対に失敗をするわけにはいかないと緊張していた私に、アデル様は顔を綻ばせて笑いかけてくれた。
『君の目の色はとても綺麗だね。草原の色みたいだ』
何気ない一言だったのだろう。これから婚約者になるかもしれない令嬢に、社交辞令を口にしただけなのかもしれない。
けれど、厳しい環境で褒められることなく育ってきた私は、その言葉と笑顔にすっかり心を奪われてしまった。
……けれどそれは十年も前のことだ。
今の彼はもうリディア・クロフォードへの興味を失っている。
時折二人で話す機会があっても、私に冷たい視線を向けるばかり。早くこの時間が終わってくれないかとばかりに何度も時計を眺めては、ため息を吐いている。
アデル様が変わってしまった理由は想像がつくとはいえ、面と向かって冷たい視線を浴びせられるのは胸が痛かった。
「昔のことなんて忘れないとね」
自分に言い聞かせるようにわざと声に出して呟いた後、私は静かに窓から離れた。