第1話:古代人とケモノビト
雲一つない快晴に、桜の花弁が美しく舞っていった。
街を吹き抜ける微風は暖かくて、露出した肌を優しく撫で上げていく。
一つに終わりにして、同時に新たなる始まりをも告げるこの季節に心が自然と浮かれてしまうのはきっと人としての性なのだろう。
これに基づくならば、自分は当てはまらない。
いや、かつてはそうだったのにいつの間にか変わってしまったと言うべきか。
「あの、どうかされましたか? なんだかお気分が優れないようですが……」
少年――祓御雷志の小さな溜息を聞き逃さなかった運転手が、心配そうに彼へと尋ねる。
「……いえ、大丈夫です。お気になさらないでください」
「……心中お察しします。目覚めた場所が自分と異なる世界であったのですから、その驚愕と絶望は計り知れない物でしょう」
「…………」
運転手なりに気遣ってくれたのだろう、ぴょこぴょこと元気よく動いていた獣耳も今ではしゅんと垂れ下がっている――余計なお世話だ、などというつもりは雷志に毛頭ない。
心配してくれている相手の優しさがわかるないほど、祓御雷志という男は愚鈍ではない。
殆どが的を外れているが、それを丁寧に訂正する気も更々起きなかった雷志は沈黙をもって返した。
ぼんやりと窓の向こうを見ることに専念した彼にまたしても運転手が何か言いたそうにしていたが、その口から言葉が紡がれることはなかった。
下手に話を振らない方がいい、そう判断を下してくれた運転手に雷志は胸中にて謝礼を述べた。
祓御雷志は至って普通の少年だった。
名前こそあまりにも珍しいすぎるから、何か特殊な……面白いものだと陰陽師の家系だと疑う輩もいたが、どれも外れ。
父は中小企業のサラリーマンで、母は週三のパートをしている。
当の本人に至ってはそれなりに偏差値の高めの学校に通っている高校生二年生だ――これらを複合すると、即ち一般家庭で裕福とまではいかずとも、平凡にしてそれなりの幸せの中で育ってきた。
それが今や、遥か古代に絶滅したとされる伝説の種族……“ニンゲン”などと言われているのだから、雷志が驚きを隠せないのも無理はない。
雷志の最後の記憶にあるのは、大きな事故に巻き込まれる自分自身。
それを最後に記憶が一切更新されていないということは、ずっと目覚めるまでの間気を失っていたからということ。
(昏睡していて目覚めたら全然違う世界でした、か……)
ケモノビト……この存在が雷志にこの世界が自分の知る世界ではないとたらしめる。
古くから人間と共に共存をしてきた彼女らは、いつしか人間にとって代わってこの国――世界を牛耳るようになったという。
その名が示す通り、外見そのものは人間と大差はないが獣としての特徴をも兼ね備えている。
例えば背中に翼を宿す者、鋭い牙を持つ者……後は、獣耳と尻尾を生やしている者。
知識の中から引用するのであれば、彼女らは俗に言う亜人――獣っ娘ともいうし、こっちの方がかわいらしくある――という表現がしっくりくる。
つまり、獣耳やら尻尾やらを生やしている中で、自分だけが人間だという事実を、雷志はまだ完全に受け入れられずにいた。
(本当に、どうしてこうなってしまったのやら……わけわかんないよー、なんてな)
ふん、と雷志は鼻で自嘲気味に小さく笑った。
この手の事象について、まったく知らないというわけではない。
だがそれはあくまで創作という話であって、現実ではまず起こり得ないことだ。
そうだったはずだったのに、現にこうして自分が当事者となっているのだから、雷志は笑うしかない。
どうして俺だけがこんな目に遭う、と雷志は空を仰いだ。
窓を開けば町の喧騒に混じって、幾重にも重なった車の走行音が車内に入り込んでくる。そして穏やかで優しい春風もまた然り。
祓御雷志は奇跡的な生還を果たした、それについてはまず間違いないだろう。
しかし自分が知っている者が何一つない世界で目を覚ますことは果たして、本当に幸せなのだろうか。
真に喜んでくれる者は誰一人としていない。
友人も、親や兄弟も。この世界で祓御雷志を真に知る者は誰一人として存在しないのだから……。
だからこそ、雷志はこの時ばかりは普段信じてもいない神という存在を魂から呪った。
こんなことだったらいっそ永遠に目覚めなければよかった、と。
「ライシ様、学校に到着しました」
「……ありがとうございます」
雷志は思考をそこで切り替えると、車から降りた。
よもや学校の登下校で送迎してもらえる日がやってくるとは思ってもいなかった。
しかしながら一般家庭で育ってきた身故、本来であればもっと驚愕するべきであろうリムジンの乗り心地については、とりあえず高級車に乗ったという極めて単純な回答しか出せない。
そんな語彙力のなさに若干の自己嫌悪に陥りながらも雷志は校舎へと歩を進める。
古代人だから学校になんて行く必要はない――そうと言われてしまったら反論する余地がないのだが、じっとして怠惰にすごすのも雷志の性には合わなかった。
かつては学生だったのだから学校に通うのは至極当然だろう――表向きの理由としては。
今や雷志は全世界の学者が注目する貴重な研究材料だ。
右も左もわからず言われるがままに従っていれば、どのような実験をされるかわかったものではない。
現に目覚めてから早々に、有名な大学の教授が是非研究させてほしいと雷志の元にやってきている。
どうして起きたばかりの自分が協力しなければいけないのか、と追い返してみたものの彼が……否、彼らが雷志を諦める姿勢は一切見せなかった。
生きた古代人でしかも男性……国宝とさえ匹敵すると断言するぐらいならもっと丁重に扱えよ、という駄目元で言い放った雷志のこの要望は、彼自身が驚くほどすんなりと聞き入れられた。
その見返りとして、相手側から指定されたのがここ……【聖ペルブランティノス学園】。品行方正の生徒達が多くて、唯一少ないながらも共学制度が許されているこの学園で番を見つけてくる――できればたくさん、なんなら一クラス丸ごとと、とんでもない要求には卒倒しそうになってしまったが……――のを条件に指定された、今日から通う学び舎へと雷志は歩を進める。