シャチ公爵はクラゲ令嬢を追いかける
ふわふわ。ふよふよ。
今日も私は海中を漂う。はー・・・平和だ。気持ちいい。
「こんにちは、カリーナ。今日も気持ちよさそうね」
「こんにちは、エルサ。貴女も元気そうで何よりだわ」
アザラシのエルサとすれ違いながら、挨拶を交わす。ふわふわと漂っているだけの私と違い、エルサは自分の意思で泳いでいるようで、すぐに見えなくなってしまった。
ふわふわ。ふよふよ。
エルサと別れてからも、私は変わらず海を漂う。今日は海が穏やかだから、海任せに漂うのに最適だ。力なんていれなくてもこの体は簡単に移動ができるし、呼吸もできる。前世では考えられないことだけど。
そう、前世。これが本当に前世の記憶なのか、私の夢物語なのかはわからない。それでも、私は前は陸の上で生活していたし、水の中では泳げなかった。夢物語だと思うには、あまりにもリアルすぎるもう一人の自分の人生。
その人生の中、テレビという機械で見た海中の生き物の生存競争は、血で血を洗うものだった。エルサのようなアザラシなんて、白熊やシャチに簡単に食べられてしまう。小魚の大群だって、大型の肉食の魚に追い回されて、吸い込まれるように食べられていっていた。
幸いにも、私はクラゲ。しかも毒もち。簡単には食べられないとわかっているから、こうやって無防備に海中を漂っているわけだ。
「はー、気持ちいい」
前世は泳げなかったから、今の状態はとても気持ちいい。海の中を漂うのは、もはや趣味のようなものだった。
目を閉じて、ふわふわ、ふよふよ。どれだけ漂っていたかわからない。そろそろ漂うのをやめないと、家に帰れなくなりそうだ。うーん、だけど気持ちいいからもうちょっと・・・
「きゃっ!?」
また目を閉じた時。急に何かに足を掴まれ、思わず悲鳴が零れた。それだけじゃない。足を掴んだなにかは、力の限り私を引っ張って移動している。
速い。速すぎて、抵抗する余裕もない。水圧に負けないよう、意識を保つので精一杯だ。
かと思ったら、急に水圧がなくなった。と、同時に、ぺしゃんと冷たい床に放り投げられる。
「よ、カリーナ」
「・・・・・・」
気軽に声をかけてきた男に、心の中でため息をつく。ああ、やっぱり。こんな乱暴なことをするなんて、ヴィクトルしかいないと思った。
抗議するように、足で床をペチンと叩く。けどヴィクトルは不満そうな顔で、
「早く人型になってくれ。そのままじゃすぐに呼吸できなくなるぞ」
誰のせいだ、誰の。
そう突っ込みたいけれど、海の中じゃないから会話もできない。仕方なく・・・本当に仕方なく、体中に魔力を回した。
手足の形が変わっていく。と、同時に体の機構も変化する。すぅと息を吸えば、肺の中を空気が満たしていくのが分かった。
「・・・このギャングめ」
ぽつりと呟いた言葉に、ヴィクトルはなぜか満足そうに笑っていた。
ヴィクトルはギャングだ。正確には、ギャングと呼ばれるシャチ公爵家の跡取りだ。ここは海の中に立つ彼の屋敷。海中だというのに、海水のない場所なんてどうなってるんだと思う。魔法で何かしてるらしいけど・・・詳しくは私もわからない。
ただ、海中じゃないから、海洋生物である姿だと呼吸ができない。魔法で人型になれる貴族以外は、立ち入ることさえできない場所だった。
そう、人型。この海には、魔法を使える生物と、使えない生物がいる。魔法を使える生物は、海の国の貴族であることが多い。ヴィクトルはもちろん、私もその一人だ。
魔法を使える貴族は、陸上で暮らす人たちと似たような姿をとることができる。その姿は魔力の素質により様々で、半分だけしか人になれない人もいれば、私やヴィクトル様のように完全に人になれる人もいる。
私はクラゲの姿が気に入っているから、ほとんど人になることはない。けどまぁ、これも完全に趣向の話だ。今のように、呼吸方法が違う場所でない限りは。
「で、何か用ですか?」
楽しい散歩を邪魔されたから、今の私は機嫌がよくない。ぺしぺしと床を足で叩いたけど、ヴィクトルは動じすらしない。
「今度、城でパーティーがあるだろ。クラゲ子爵が欠席の届けを出したと聞いたから、お前はどうするのかと思ってな」
パーティー。何かあっただろうか。それはわからないけど、お父様が欠席にした理由は心当たりがあった。
「私も出ませんよ。明日・明後日には領地に戻ると聞いています。お爺様が体調を崩されたそうなので」
あのお爺様のことだ。命に係わるようなものじゃないだろうけど、領地の仕事が滞るのは困る。王都にいても子爵家の私たちにはあまり仕事はないし、だったら帰ろうか、というのがお父様の考えだった。
私としても、反対する理由はない。お父様が帰るなら、一緒に帰ることに抵抗もなかった。
なかったのだが。
「・・・なんて顔をしてるんですか」
なんでヴィクトルが泣きそうな顔をするのかなぁ・・・
ヴィクトルと私の関係は、私がまだまだ小さな子クラゲだったころまで遡る。ヴィクトルもまだ子シャチだったけど、すでに圧倒的な体系差があった。
そのころから私は、海を漂うのが好きだった。ヴィクトルと会ったのも、ふよふよと当てもなく漂っていた時だ。このシャチ、あろうことか私を食べようとしてくれやがったのだ。
もちろん、食べられていない。私は今も生きている。食べられそうになった私は、全魔力を毒に変換してヴィクトルに流したのだ。子供のクラゲとはいえ、毒は毒。ヴィクトルは動けなくなり、その隙に逃げたのだが・・・
・・・まぁ、ね。大問題になったね。公爵家のヴィクトルと、子爵家の私。確認せずに食べようとしたヴィクトルも怒られたが、魔力の毒を流した私も怒られた。
簡単に言うと、どっちも殺人未遂だからね。まぁ、怒られるで済んだだけいいよね。
もちろん、最終的には悪いのはヴィクトルということで落ち着いた。こっちは命がかかってたんだ、正当防衛だ。私が死んでいたら、ヴィクトルは罪人になっていただろうし、そもそも彼が普通のクラゲと勘違いしなかったらこんな事態は起きていない。上位貴族としての自覚が足りない、と散々怒られたらしい。
そんな出会いをした私たちだが。今の仲は決して悪くはない、と思っている。
あの後も懲りずにふよふよ漂っていることが多かった私。ある日、シャチ姿のヴィクトルが近寄ってきたときは、流石に最初は警戒した。
でも、ヴィクトルは私と同じように海中を漂うだけ。一緒にフラフラして、私が家に帰るのを見届けると、ヴィクトルも帰っていく。そんなことを何回か繰り返しているうちに、ふと私は気付いた。
また変な人に食べられないように、傍で守ってくれているのでは?
と。本人に確認したことはないけど、たぶん合っていると思う。現に、ヴィクトルと一緒にいる時に、怖い目にあったことは一度もない。態度とは別に、根は優しい人なのだと思う。
それ以来、ヴィクトルといても警戒しなくなったし、一緒に遠出もするようになった。平たく言えば、幼馴染みたいなものだ。
だからまぁ、そんな顔をされては、流石に放っておけないわけで。
「寂しい?」
「・・・いや、そんな簡単な感情じゃない」
思いついたことを言えば、苦々しそうに吐き捨てられた。見たことのない顔だ。見てるこっちが苦しくなる。
ヴィクトルが手を伸ばして、私に触れる。大きな手のひら。シャチの姿だと、クラゲの私なんてヒレに収まるくらいに小さいけど、今はさすがにそこまでじゃない。それでも私の顔くらいはある手が、優しく頬を撫でていく。
「・・・お前だけでも残れないか」
「別に生涯の別れというわけでもないですよ。お爺様が元気になれば、お父様もこちらに戻って来る気になるでしょう」
「それはいつだ」
「さぁ・・・1ヶ月先か、2ヶ月先か、1年先か・・・約束はできません。ごめんなさい」
私の返事に、またヴィクトルの表情が歪んだ。と同時に、強い力で抱きしめられ、今まで見えていた表情が見えなくなる。
「俺は我慢強くない」
「知ってます」
「気も長くない」
「そうですね」
「お前以外に、俺に付き合える奴なんていない」
「それはわからないですよ」
「わかる。俺たちはギャングだからな」
会話の間も、私を抱きしめる力が徐々に強くなっていく。苦しくなってきたけど、それでも抜け出そうとは思えない。
シャチというのは、海中で天敵がいない・・・らしい。これは前世の知識だから最初は疑っていたけれど、ヴィクトルの傍にいたら嫌でもわかる。
シャチは、時にはサメやクジラさえも捕食する。あの大きな巨体でさえも噛み砕く牙と顎を持っている。スピードも速いし、先ほど私を連れてきた時のように乱暴な仕草もしょっちゅうだ。
だから、同じ海中の生物の中でも孤立してしまう。実際に会って話せばそれだけじゃないとわかるのだが、「会って話す」というハードルがかなり高い。みんな怖がって、近寄ろうとも思わないのだから。
彼らの事情は分かっている。分かっているけど、私としてはお爺様が心配だから帰るのは帰りたい。そして、守れない約束もしたくない。さて、どうするべきなんだろう・・・
「・・・カリーナ、俺に誓いを残してくれ」
「誓い?」
約束ではなく?
不思議に思っていると、目の前にヴィクトルの端正な顔。真剣な顔に、思わず魅入ってしまった。
「お前は俺のものだ。必ず俺のところに帰ってきてくれ」
言葉と同時に唇に感触。一度だけじゃない。何度も何度も施されるそれに、思考が完全に停止した。
え、何。何をされてるの。え。・・・え?
混乱している間にも、ヴィクトルから降って来るキスは止まらない。終いには、
「抵抗しないなら、このまま最後まで食うぞ」
「っ!!」
衝撃的な言葉とともにひょいと抱き上げられたところで、やっと我に返った。本能的な危険を感じて、つい魔法を使ってしまう。
バチン、と音がして、ヴィクトルの腕から力が抜ける。それを待たずに、私は彼の腕を抜け出して、全力で屋敷の外に逃げてた。
何が起きたかはわからない。わからないけど、ここにいてはいけない事だけは確実にわかる!
走って走って、屋敷から海中に逃げ込む間際。
「そうこなきゃな」
楽しそうなヴィクトルの声と、近づいてくる足音を聞きながら。
もっと強い毒を流してやればよかったと、心の底から後悔した。
「小兎令嬢は肉食公爵たちに狙われる」と同じ世界の、海の中の話でした。
いつも通り書きたいところだけ書き殴ったので、短めですみません。
補足
カリーナは海中では完全にクラゲの姿です。
ヴィクトルはシャチだったり、人魚のように上半身だけ人の姿だったりします。カリーナを捕まえた時は、上半身だけ人の姿で、手でカリーナを掴んでます。