第5話
「俺が倒した? 」
「そう。とんでもない魔術をぶっばなしたわけ。で、意識を無くした」
サンドラは荷造りを終えて、ロバートに立ち上がるように促す。彼女はお古の外套を彼に着せて、優しく宣言する。
「だから逃げるわよ」
足取りのおぼつかないロバートを連れて、サンドラは家の裏口に行く。彼の魔術は強すぎた。何故、始まりの神ウーヌスは彼に普通の幸せを与えないのだろうか……。
「まだ、よくわかってない」
「うん、そうだね。落ち着いたら説明する」
サンドラは内心かなり焦っていた。ロバートに焦った姿を見せるわけにはいかないと思っているだけだ。衛兵隊を追い払った事に後悔はない。だが、だからこそ早く逃げなくてはいけない。
裏道を通りながら、カラハタスの西門を目指す。
西門の関所では普段見られないような行列が出来ていた。
「手が回ってるな……」
「……サンドラ? 」
「大丈夫。当てはある」
サンドラはロバートを連れて裏道を戻って行く。
「何処に行くの? 」
「ちょっと品が悪いとこ」
途中から来た道とは違う道へ入り込んで行く。既にロバートの知らない道だ。入り組んだ道を進んで出た先は、凄く甘い香りが漂っていた。
「何か気持ち悪い……」
「ごめんな。ここにいる人に用事があるのさ」
そう話ながら一軒の店に入る。奥まった処にあったその店は酒場だった。昼前で客のいない、古びた酒場。店主すらいない、その酒場の奥へ進んで行く。
「勝手にいいの? 」
「問題ない」
奥にある階段を二人は上る。ロバートは大分目が覚めてきたのか、歩く分には問題なかった。サンドラの背を見ながら進む。
二階の一番奥の部屋の戸をサンドラが軽く叩く。
「開いてるよ」
戸を開けると、中には赤髪の女性がいた。黒いローブを纏ったその女性をロバートは見る。ロバートが彼女の顔で印象に残ったのは赤髪ではなく、左目の傍にある涙ボクロだった。
「仕事かな?」
赤髪の女性の語り口は静かで抑えられたものだった。
「カラハタスから脱出したい。出来る限り早く」
「門から普通に出れないってことは、手配されてると? 」
「……あ、手配はされてる。二人ともな。ただこの子の顔はあまり知られていない」
ロバートは黙って話を聞いていた。流されている。その彼に向けて赤髪の女性が目を向ける。
赤髪はくしゃくしゃで、顔の右半分くらいはその髪で隠れている。左目は灰色の瞳で深い知性を感じさせる。
「優先事項と報酬をどうぞ」
「マリア、頼む。この子、ロバートの命が最優先。報酬はこのペンダントで」
サンドラは首に下げていたペンダントを外して、マリアと呼んだ黒いローブの女性の手に握らせる。
「これは失敗出来ないなあ。奥で少し打ち合わせしようか」
「ああ」
サンドラはマリアの言葉に頷いてから、ロバートへ顔を向けて話す。
「ちょっと、ここで待ってて」
ロバートは頷く事しか出来ない。彼の英雄がここまで頼りにするマリアという女性。彼女は一体何者だろうか……。二人が隣の部屋に行くのを見ながら、彼は考える。
ペンダントをマリアに報酬として渡していた。ロバートには金額的な事はわからないが、あのペンダントをサンドラが大事にしていたのは知っている。
「力になりたいって思ってたのに……」
そう呟いて、ロバートは思い出した……
サンドラと魔物狩りに行ったこと……
彼は自分の強さ、賞金稼ぎに必要な心の強さを確認したくて、魔物狩りを選んで……
巨大猪が、そして、その中で黒と緑のさらに巨大な……。
※ ※ ※
恐怖。
ロバートの意識は恐怖のあまり固まってしまった。
ただただ顔を背け、手のひらを恐怖に向けた。
恐怖はすぐそこにある。だが、恐怖は立ち止まる。
「小僧! 」
その声にロバートは顔を向けてしまう。黒と緑の何かを纏った化け物がいる。鈍い光を見せる牙が口元からのぞいている。
「小僧、その愛を何処で手に入れた? 」
ロバートは今度こそ動けなかった。頭も回っていなかった。人語を話す魔獣、つまり、魔獣を統べる悪魔だ。愛? こいつは何を語ってる?
「悪魔の言葉に惑わされるな! 逃げろ! 」
そうだ。サンドラの言うとおりだ。ロバートは意識を現実に引き戻す。今、出来る事を考えるんだ。
黒と緑の巨大な、ロバートを呑み込むような大きさの猪は舌打ちをする。そう、先程、サンドラとフレディが倒した巨大猪とは比べものにならない圧迫感を放つ、魔獣を越えた魔獣、悪魔。そして、その悪魔は自分の話を邪魔したサンドラへ顔を向け、大きく口を開く。禍々しい闇が産まれ、それが放たれる。
サンドラは闇の奔流から身体を転がして避ける。闇が流れた部分の生命が奪われた。そこにあった草花は枯れ落ち、死の世界が現れた。
続けて闇を放とうとする悪魔の懐へ、サンドラが入り込む。細いが、鍛え抜かれた剣を悪魔の腹へ斬りつける。表面を確かに斬るが、緑色の体液が滲む程度の傷しかつけられない。
悪魔はその頭を武器にして、サンドラの身体をぶっ飛ばす。サンドラが吹っ飛び、倒れた彼女目掛けて、悪魔が突進していく。彼女はギリギリのところで躱す。だが、躱した後の彼女に余裕はなく、悪魔は逆に笑顔を見せた後、再び大きく口を開く。
大きな牙の間から、膨れ上がっていく闇は、ロバートにサンドラの死を感じさせた。枯れた草木に、緑を失う大地に、心を圧迫してくる闇に、彼の心は押し潰されそうになる。
ロバートは叫んでいた。彼はただ願ったのだ。
サンドラの生命を護ること。
恐怖を滅すこと。
ロバートの身体を流れる何かが、彼の右手から一気に放たれた。
そして、森は悪魔とともに業火に包まれた。