第4話
甘い香りがする。花の香りではない、果物の香り。何の果物だろう?
ぼんやりとする意識の中で、ロバートが感じたのは香り。そして、次は光。瞼を閉じていても明るい。ああ、寝ているんだ。
瞼を開けると、サンドラが部屋の窓を開けているのが見えた。
そうだ、この香りはサンドラの部屋の香り。忘れていた。ロバートは、もう数年間この部屋に入っていなかった。小さい頃を懐かしく思いながら、身体を起こす。
「あ! 」
サンドラがロバートの方へ振り返る。サンドラは驚きの声をあげた直後に溜め息を吐く。そして、ニッコリと微笑んで、ロバートに優しく声をかける。
「私の英雄くんが起きた。身体は大丈夫? 」
「えい……ゆう? 」
「そう、英雄よ」
「何でサンドラの部屋で寝てんの? 」
「私の家には薬草とか、色々揃ってるから」
ロバートは久しぶりのサンドラの部屋を見回す。それを見たサンドラが立ち上がり、静かに窘める。
「こら、こら。乙女の部屋をじろじろ見るな。お茶持ってくるから目をつぶって待っときな」
サンドラが部屋を出ていく。台所で飲み物を用意してくれるのがわかる。ロバートは必要ないと思いながらも、言われた通りに目をつむる。お手玉をした事、特訓の真似事をした事、ここは甘い部屋だ。
ロバートの素敵な時間を終わらせたのは、外から聴こえた男性の高い声だった。少し早口で気忙しい音。
「私は第三衛兵隊隊長グレッグである。ここにいるロバートなる者を連行しにきた」
「ロバートを連行? グレッグさん、何言ってんの? 」
サンドラの声が聞こえる。その口調は呆れたような声で、当然、信じていないからこその声音だ。
「サンドラ。貴様が有名な二つ名持ちの賞金稼ぎだというのは知っている。だが奴は犯罪者だ。匿うと貴様も罪になるぞ」
「疲れてるから、ごめんなさい。あんまり冗談には付き合えないの。で、何か依頼? それとも事件? 」
「ああ、事件だとも。帝国でも最高峰の魔道具が盗まれたんだ。これは国家反逆罪に当たる」
サンドラはため息をついてから、ゆっくり答える。
「それって、最高峰なんて言うんだから国か侯爵様のモノでしょ? 私なんかが動かなくても、衛兵隊でも、侯爵様の私兵でも、総動員で取り返せばいいわ。何か情報があれば伝えるから。本当にごめんなさい。大変だったのよ、昨日は」
衛兵隊隊長のグレッグは地面に唾を吐く。
「何のためにこの人数で来てると思ってるんだ? 」
グレッグの後ろには10人の衛兵が立っている。サンドラは特にその10人を意識していなかった。当然だ。サンドラに疚しいことはないのだから。
「ロバートが犯人だ。引き渡せ」
「ロバートはそんな事しない。だいたいどうやってあんな子供が帝国最高峰の魔道具を盗めるって言うのさ? 」
「それは彼に直接聞けばいい」
「渡すかよ」
サンドラは剣を引き抜く。
「衛兵隊に剣を向けるのか? 帝国に剣を向けるのか? 」
グレッグは下がりながら吠える。サンドラの剣の輝きに下がりはするが、10名の衛兵がついている。グレッグも剣を抜き、それにあわせて衛兵達も剣を抜く。
「この私に剣を向けるのかい? グレッグ。そんなに自信があるのかい? たった10名かそこらで、この私とやりあえると思ってんの? 」
「そこらの盗賊と、我々衛兵隊を同じだと思うなよ。行け! 」
ロバートは玄関先での大声の会話を聞きながら、ベッドから抜け出していた。サンドラを止めなくては、サンドラに迷惑をかけてはいけないと……。
衛兵隊に楯突いて、良いことなんてありはしない。ロバートは連れて行かれても、きちんと説明すればいいと思っている。何せ彼は魔道具なんて盗んでいないのだ。
ロバートはふらふらして思うように歩けない。ロバートの耳には剣の打ち合う音が聴こえてくる。始まってしまった。始まってしまった。
玄関まで辿り着いた時には終わっていた。
「疲れてるから、これ以上やるなら命を取るよ」
ロバートは開けた玄関から現場を見る。衛兵達の腕には切り傷が多く見られ、剣をまともに握れている者はいなかった。少し大柄な男の首にはサンドラの剣が当てられている。その大柄な男が言葉を発する。
「一度、退く。だが、サンドラ。貴様は愚か者だ! 帝国の命に従わぬ愚か者だ! 反逆者だ! 」
サンドラはグレッグの首筋から剣を外す。そして、蹴り飛ばす。彼女は剣を仕舞うことはなく、衛兵隊が去って行くまで隙を見せない姿勢を示していた。
「グレッグさん。帝国は偉大で強いかも知れんが、お前さんはそもそも帝国ではない、ただの帝国の犬さ。それも袖の下をもらって、涎を垂らしているな」
グレッグはそれ以上は何も言わず、部下を引き連れて帰って行った。
「サンドラ、大丈夫? 」
「楽勝よ。それより、ロバートが大丈夫なの? 」
楽勝だったのは確かなようだと、ロバートも思う。死体は一つもなく、サンドラ自身も怪我一つない。
「うん。……でも、サンドラが、サンドラが悪者扱いされちゃう」
サンドラはロバートを支えて部屋に連れていく。
「そんなの怖がってない。何の為に、衛兵にならずに賞金稼ぎになったのかって話よ」
サンドラはロバートをベッドに座らせると、荷物を準備し始める。サンドラの動きには無駄なものがなく、ロバートを見たり、質問したりしない。
「俺、何も盗んでないよ」
「気にしないでいい。私が普段から衛兵隊の言うこと聞かないから、難癖をつけに来たのさ。自分達より遥かに活躍してる賞金稼ぎが目障りなんだろ」
珍しく自分の事を誇らしく話すサンドラの姿に、ロバートは嬉しくなる。彼女はもっともっと認められていい。
「実際の話ね、ロバートの魔術は素晴らしかったよ。今まで腐らずに、どうにかして賞金稼ぎになろうと頑張ってきたロバートが凄いのさ。私はね、ロバートの事を以前から認めていたんだ」
「? 」
「自分じゃわからないかな? ロバートを認めているのは、自分の弱さを認められること、その上で諦めないこと、工夫すること。私には無理よ」
ロバートは苦笑する。
「サンドラは元から強いし、優しいし、俺の目標だ」
そう、物語や記録の世界に残る、過去に存在した英雄のような人だ。
「私は強くて弱い。ロバートは弱くて強い」
ロバートには、サンドラの言うことがちっともわからない。
「さあ、出発するよ! ロバートの冒険譚は始まったばかり」
「ごめん。サンドラ、ちょっと何言ってるのかわからない。……まず何処へ何しに行くの? 衛兵達は何で俺を犯人だと疑ってるの? そもそも、何でサンドラの部屋で俺は寝てたの? 」
「あなたが倒したの。だから逃げなくちゃいけないの」