お風呂
「あの、綾乃さん。本気ですか?」
家族に怪しまれないよう、自然とその声は小さくなる。
「もちろんですよ。私一人で入ってる間に誰か来たら大変なことになっちゃうじゃないですか」
「それはそうですけど。なにも一緒に入らなくても……。ここで待ってるのはダメなんですか?」
「それはもっとまずいですよ。もし誰かここに入ってきたら、中に私がいることをどうやって説明するんですか? 悠介くん以外は私が見えないんですよ?」
からかったりする時とは一転して、本人は至って真面目で、言うことは筋が通っている。
降参の意を示すように、掌を綾乃に見せる形で手を上げた。
「……分かりましたよ」
「ふふ、ありがとうございます。では早速」
目の前に悠介がいるにも関わらず、綾乃は全く気にすることなく純白のワンピースをスルリと脱ぎ去った。
「ちょっと! 何してるんですか!」
「何してるって、脱がなきゃ入れないじゃないですか」
「そうじゃなくて! もう少し自重してくださいよ……」
「あんまり大きな声を出すと気付かれちゃいますよ」
一瞬にして一糸まとわぬ姿に変身した綾乃を直視することができず、悠介は慌てて後ろへ向く。
「照れてるんですか? 悠介くんも男の子なんですね」
少しだけ弄ぶような口調からは、彼女がこの状況を楽しんでることを表していた。
「綾乃さんがおかしいんですよ。羞恥心とかないんですか?」
「ない、と言えば嘘になりますけど。裸を見られるのにそんなに抵抗はありません」
痴女だ、と悠介はボソリと呟く。
「何か言いました?」
「いえ、何でも……」
「では、私は先にシャワー浴びてますね。悠介くんは好きなタイミングで入って来て下さい。いなくなるのはなしですからね。そしたら呪っちゃいますよ?」
本気か冗談か分からないような言葉を残して、彼女は長い髪を揺らしながら浴室へと姿を消した。
一人更衣室に取り残されてしまった。
中からはシャー、とすでに綾乃が身体を流し始めている。
「好きなタイミングって言われても、むしろそっちの方が緊張するんだけど……」
衣服を脱いでいると、先ほどまで彼女を唯一守っていた真っ白なワンピースが目に入る。
そこで、あることに気付いた。
「綾乃さんって、下着つけてないのか」
下心は全くなく、純粋に疑問だった。
幽霊として生きるというのは、そういうものなのだろうか。
幽霊なのに生きているという表現は矛盾しているような気がするが、彼女はそれくらいピンピンしている。
裸を見られることに抵抗がないというのは、どういう意味だったのか。
たった一つのワンピースから次々と疑問符が生まれ、悠介は探偵のように思案していた。
しばらく考えていると、なぜだか浴室から聞き覚えのある鼻歌が聞こえてきた。
「これって!」
考えるより先に、悠介は浴室の扉を思いっ切り開く。
そこには、後ろ髪をくの字に結ぼうとしている綾乃が、口にゴムを加えながらこちらを見ていた。
「そんなに勢いよく入ってきてどうしたんですか? びっくりしちゃいましたよ」
「い、いえ。綾乃さんが好きなタイミングでって言うので……」
全くの嘘だ。
しかし、彼女の言葉を上手く利用して、あたかも普通に入ってきたように取り繕った。
鏡を見ると彼女の前身が映っていて、そのことに酷く動揺した。
体温がみるみる上昇していく。
それはこの浴室のせいなんだと信じ、悠介は綾乃のことを可能な限り見ないようにして湯船に浸かった。
綾乃を視界に入れないようにするため、悠介は後ろを向いて体育座りをする。
しかし、好奇心には結局勝てず、チラリと彼女の後ろ姿を盗み見てしまった。
頰はほんのり赤くなっていて、真っ白な肌が色付く様は扇情的な気分にさせる。
結ばれた髪の毛からは、先ほどのイメージとは異なって見る人に爽やかな印象を与えた。
身長はそれほど高くないが、線が細い肢体はまるで芸術品のようだ。
顔より下の位置にある膨らみの部分は、服を着てる時よりも何故か大きく見えた。
自分に向けられる怪しげな視線に気付いたのか、綾乃がゆっくりとこちらへ振り向いた。
そこはかとない気まずさを感じ、悠介は咄嗟に目を背ける。
「他人の身体をじろじろと見るのはあまり感心しませんよ?」
言葉とは裏腹に、彼女は全くといって隠そうとしない。
「い、いえ!すみません……」
「冗談ですよ。でも、私以外の人にしたらいけませんからね?」
どういうことですか?
突っ込もうとすると、背後からチャプンという音が響き渡った。
それと同時に、柔らかい感触が背中を覆う。
綾乃が湯船に浸かってきたのだ。
高校生男子にはあまりにも刺激が強すぎるシチュエーションに、悠介の脳味噌はショート寸前だった。
「あの……」
「お風呂に入ってるんですよ」
「それは分かってますよ」
「……もしかして、背中合わせじゃ嫌ですか?」
何を考えているのか、綾乃は体勢を変えるために身じろぎを始めた。
「そういうことじゃないですから!」
焦った勢いで振り返ると、至近距離に綾乃の顔が現れる。
「あ……」
彼女は少しの間目を丸くしていたが、すぐにいつもの穏やかな笑顔浮かべた。
「どうせだし、もうこのままでいいですよね?」
「……はい」
否定しなきゃいけないのは明らかだった。
しかし、綾乃のあまりにも落ち着いた姿に、一人テンパってるのがなんともおかしく思えた。
彼女が変な気を持っていないのは間違いないし、それなら自分も堂々とした方が自然だと考えたのだ。
だが、このままだと心臓が破裂してしまう。
そんな状況から逃げるように、悠介は背もたれに身体を預けた。
悠介の動きを見て、綾乃もそれに倣う。
距離が生まれ、顔以外の部分が視界に入るようになってしまい、これはこれで困る。
そんな状況にも全く動じず、綾乃は腕を上に伸ばしてリラックスしていた。
彼女の一挙一動に、心がザワザワと音を立てる。
意識しすぎないように別のことを考えようとすると、悠介は本来の目的を思い出した。
「あの、綾乃さん。聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」
「いいですよ。私に答えられる範囲のことでしたら」
「えっと。じゃあ、さっきの鼻歌は?」
何のこと?
と言わんばかりに、彼女の視線は宙をさまよう。
しばらくしてその答えを見つけたようで、拳を作って手のひらをポンっと叩いた。
その際に、ピシャッ、と水飛沫が上がった。
「あの歌は、私が小さい頃によく聞かされていたんでよ。懐かしくてつい歌ってしまいました」
「そうだったんですか。綾乃さんもあの曲知ってたんですね。俺も昔、母によく聞かされてたんです。だから、本当にびっくりしました。やっぱり年が近いから知ってる曲も被るんですかね?」
「私、年のこと話しましたっけ?」
「いえ、話してないですよ。年上なんだろうなーとは思いますけど、多分そこまで離れてないんじゃないかなって」
「悠介くんは、私がいくつくらいに見えますか?」
綾乃からその話題を振ってくることは意外だと思った。
女性は年を知られることが嫌なんだと思っていたから。
しかし、この状況で彼女がそんなことを気にするとも思えず、悠介は簡単に納得できた。
「多分二十歳は超えてる気がするんですよね。二十一くらいですか?」
その言葉に、綾乃はコクコクと頷く。
「凄いですね。悠介くんは人を見る目があるんですね」
「別にそんなんじゃないですよ」
この人といると、どうも調子が狂う。
素直に褒められることに慣れていない悠介は、こういう時どういう対応をすれば良いのか分からない。
そんな気持ちを隠すように、悠介は頰をポリポリと掻いた。
「年齢って不思議だと思いませんか?」
「突然どうしたんですか?」
「年齢って生き物によって数え方が違うじゃないですか。動物や植物のそれは、基本的に人間に換算されることがほとんどですよね?」
綾乃はこちらの疑問を鮮やかにスルーし、話したい内容だけを伝えてくる。
ここまで熱弁するのも珍しいと感じ、そのまま耳を傾け続けた。
「まあ、そうですね」
「でも、その生き物にとっても一年は一年なんです。ただ、相対的に見て寿命が長いか短いかってだけで」
何が言いたいんだろう、と悠介は思った。
そんな様子に気付かず、彼女は話し続ける。
「だとすると、同じ一年でもそれぞれが体験することへの感じ方って変わると思いませんか?」
「綾乃さん。話が難しいです」
悠介の指摘に驚いたように目を見開くと、綾乃は困ったように苦笑いを浮かべた。
「ごめんなさい。もう少し分かりやすく説明できればよかったんですけどね」
「でも、なんとなく言いたいことは分かりましたよ」
「さすがですね」
綾乃は悠介の頭を撫でようと手を伸ばす。
その反動で胸元がチラチラと見え隠れしていたが、彼女がそれを気にしている様子は無かった。
つまり、綾乃が言いたいのはこういうことだろう。
人間の年齢を基準にするなら、経験や考え方もそれと比例しなくちゃおかしいということだ。
実際にはそんなことはあり得ず、一年は誰にとっても同じものだ。
人間に換算すると、というのは所詮こちらが勝手に定義したものであって、本当は同じ日々を生きているということだろう。
でも、彼女の言うように、寿命が短い生き物の方がひとつひとつの出来事を濃密に感じるのかもしれない。
あくまで相対的に見たらという話だが、そういう考え方も面白いなと思った。
「あまり長く浸かっているとのぼせちゃいますし、そろそろあがりますか?」
話し終えていつもの冷静さを取り戻したのか、綾乃はこちらの様子を気にかけるようになった。
「まだ頭とか洗ってないんで、もう少し待っててもらってもいいですか?」
「いいですよ。その間じっと見てますね」
「見なくていいですから」
結局、シャワーを浴び続けてる間、綾乃は両手で頬杖をつきながらこちらを眺め続けていた。