家族
カツカツ、とローファーが一定のリズムを刻む。
裏拍のように、ペタペタという足音が合いの手を入れる。
先がほとんど見えないような夜道を、早くも遅くもない速度で歩いていく。
悠介には明らかに聞こえる二つの音も、周囲の人には一つしか聞こえていない。
綾乃に関する情報は、自分を除いて誰一人として干渉することはできなかった。
見ることも聞くこともできず、その存在は認識されることを許さない。
「綾乃さん、足痛くないんですか?」
「痛くはないですね。むしろ気持ちいいくらいです」
彼女の身体は実体がある。
あくまで悠介と綾乃の二人だけだが、本人も自分の身体を触ることが出来る。
そう考えると、幽霊ではなくて単に透明人間なんじゃないかとも思う。
しかし、今までの周囲の反応からして、そんな淡い期待は簡単に打ち砕かれた。
「日がある時はどうしてるんですか? 足の裏火傷しません?」
「その時間は涼しいところにいたり寝てることが多いですね。ただ、暑いのは苦手です」
「幽霊だからですか?」
「多分、それはあまり関係ないです。元からなので」
「そうですか」
「はい」
幽霊相手に人間と同じような会話をしていて、それが少し面白かった。
綾乃と一緒にいると時間があっという間に過ぎ、思ったよりも早く目的地に着いた。
中に入ることを悠介は躊躇う。
ここに入るのは、いつだって気が重い。
「悠介くん? 大丈夫ですか?」
「……大丈夫です」
悠介は、綾乃に心配をかけないように気丈に振る舞った。
「ただいま」
どうせ誰も聞いていない、望んでいない。
そんなことを考え、自然とその声は小さくなる。
返答が返ってこないことに少しだけ安心すると、悠介は綾乃と一緒に自室に向かおうとした。
しかし、リビングから母が現れ、悠介の行く手は呆気なく阻まれる。
「……悠介、あんたよく帰ってこれたわね。今何時だと思ってるの?」
「ああ?なんか文句あるのかよ」
「文句しかないわよ。学校に遅刻した上に喧嘩騒動まで起こしたんですって? いい加減にしなさいよ」
「別に関係ないだろ? 俺のことは放っておけばいいじゃないか」
「あんただけだったらそうするわよ。だけどね、圭吾がいるのよ? あの子は受験生でとても大事な時期なの。それが分からないわけじゃないでしょ?」
自分にとって一番出されたくない名前を出され、悠介は大きく舌打ちをする。
「また圭吾かよ」
「またって何よ。とにかく、あんたが余計な騒ぎを起こして受験に悪い影響が出たら困るのよ。少しはしっかりしなさい。圭吾に何かあったらあんた責任取れるの?」
痛いところを突かれ、悠介は言葉に詰まる。
チラリと玄関に突っ立ったままの綾乃を見ると、彼女は表情を動かさずただこちらを見返すだけだった。
言い返さないと負けた気がするので、悠介は必死に反撃する方法を考える。
ようやく辿り着いた言葉は、結局いつもと変わらないものだった。
「圭吾が一番大事なんだもんな。悪かったよ“余計”なことして」
悠介の物言いが神経を逆撫でしたのか、その顔はみるみる怒りに染まっていく。
そして、ついにはそれを爆発させた。
「あんたはどうして私の言うことを聞けないの! 勝手なことばかりして、その尻を拭ってるのは誰だと思ってるの!? 自分の行動に責任が取れないんだったら何もしないで! 大体“あの時”だって、あんたが一人で突っ走った結果でしょう!?」
母の余計な一言に、悠介も怒りを抑えることができなくなる。
「今そのことは関係ないだろ……! いちいち昔のこと引っ張り出してくんじゃねーよ! そういうとこがムカつくんだよ。何にもしてくれなかったくせにあーしろこーしろって、俺はあんたらの道具じゃねぇんだよ!」
騒ぎが大きくなってきたことに痺れを切らしたのか、リビングの奥からこの家の主が顔を出した。
「悠介。今何時だと思っている。近所迷惑になるから静かにしなさい」
有無を言わさぬ圧力で言い切られ、悠介の感情は行き場を失う。
俺が悪いっていうのかよ……
「そうは言っていない。母さんはこっちが何とかするから、お前も頭を冷やしなさい。いいな?」
苦し紛れで呟いた言葉を拾われた上にフォローまでされ、悠介は頷くしかなかった。
納得いかない様子の母は、父に向かって抗議し続けている。
しかし、力の差はどうやっても覆せず、やがて室内へ姿を消していった。
再び綾乃を見ても、やはり表情は変わらない。
何とも言い難い居心地の悪さを感じ、逃げるように自室へと足を運んだ。
階段を登り終えると、一番顔を合わせたくない人物がそこには立っていた。
「兄さん、何かあったの?」
「別に、何でもねーよ。ちょっと揉めただけだ。勉強の邪魔したか?」
「大丈夫だよ。ただ、ちょっと心配しただけ」
「そっか、わりーな。……じゃあ、俺は部屋に行くから」
「うん……」
圭吾が心配そうにこちらを見続けていたが、それを無視して悠介は綾乃を部屋に招き入れた。
何事も無かったかのように扉を閉めると、ようやく一息つく。
背後から何やら声が漏れている。
振り返ると、綾乃は肩をピクピクと震わせていた。
「綾乃さん?」
「えっ?あっ、ごめんなさい。笑うつもりはなくて」
そう言いつつも、彼女は口に手を当てながら笑い続けている。
こんな姿は初めて見るなと思いつつも、脳裏に浮かんだ疑問をそのまま彼女へぶつけた。
「そんなにおかしいことありましたか? っていうか、てっきり怯えてるのかと思いましたけど……」
「だって、お母さんと接する時の態度が私の時と全然違うんですものですから。でも、怯えてはいませんよ。何となく想像ついてましたから」
「そうなんですか?」
「ええ。最初からそのつもりでついてきましたから」
綾乃がここに来た理由。
そのことについて話したのは、あれからすぐ後のことだった。
✳︎
「悠介くんのお家にお邪魔しても良いですか?」
「えっ!? 何言ってるんですか!」
あまりにも突然の提案に、思わず声が裏返る。
「お手伝いするには一緒にいないといけませんから。それに、悠介くんも私が隣にいたら安心するんじゃないかと思いまして」
「それは助かりますけど、でも良いんですか?」
「もちろんですよ」
「いえ、その。そういう意味じゃなくて……」
「はい?」
「他にやりたいことはないんですか? 例えば、家族を一目見に行くとか」
何かまずいことを言ってしまっただろうか。
全く迷いの無かった彼女が、急に口を閉ざしてしまった。
謝罪の意を伝えようとすると、綾乃の方が少しだけ早く口を開いた。
「私に家族はいませんから。……それに、私が一番やりたいことは悠介くんの手伝いなので、それも問題ないですよ?」
「……家族がいないって、どういうことですか?」
思ったままのことを素直に聞くと、綾乃は苦々しい表情を浮かべる。
しまった、と悠介は思った。
考えてることが筒抜けだったのか、綾乃はこちらを気遣ってくれた。
「私のことは気にしなくても大丈夫ですよ。でも、どうしても知りたいっていうなら教えてあげてもいいですよ?」
彼女は右目を小悪魔っぽくウィンクし、唇の真ん中に人差し指を立てる。
その仕草は、悠介の心を揺さぶるには十分過ぎるものだった。
「い、いえ。俺も無理矢理聞き出そうとは思わないので、大丈夫ですよ」
「ふふ。賢明ですね」
そう言って、綾乃はいつものように笑った。
きっと、無理に聞き出そうとしなくても彼女はいつか話してくれるだろう。
何故だか、そんな気がした。
「というわけで、悠介くんのお家にお邪魔させてもらいますね?」
✳︎
というわけだ。
だが、綾乃を家に連れて来たことを悠介は少しだけ後悔した。
「悠介くん。私、久し振りにお風呂に入りたいです。一緒に入ってください」
頭に被っていた麦わら帽子を机に置きながら、彼女はこちらに選択肢を与えることなくそう言った。