幽霊
身体を動かす度に、節々が悲鳴をあげる。
殴られた部分に触れると、ジリジリと熱を感じた。
あの後、三人組は姿を消した。
相手に何発か攻撃を与えた気もしたが、それらの記憶は薄ぼんやりとしていて、全くと言って確信が持てるものではない。
ただ、こちらが与えたダメージよりも、悠介が負ったそれの方が大きいことは間違いなかった。
恐らく、悠介が力尽きるのを見て去ったのだろう。
悔しいが、それが一番筋が通っていた。
学校に行った時と全く同じ道を通り、自宅に帰る。
そのはずだった。
しかし、今日起こした不祥事を振り返り、家に帰る気待ちは一気に削がれてしまった。
それに、家にいたって俺に居場所なんてないからな。
と、悠介は一人心の中でごちる。
どこか時間を潰せる場所はないかと考えていた悠介は、ある場所を思い出した。
その存在がハッキリと輪郭を表すと、悠介は迷わずにそこへ向かっていた。
「全然変わってないな、ここは」
完全に闇色に染まった広場を眺め、悠介は素直な感想を漏らした。
周囲を見渡しても誰もいないことに疑問を覚える。
ふと携帯画面に映る時間を確認すると、その謎はあっさりと解決した。
悠介がやって来たのは、公園だった。
自宅から約十分で着くこともあり、幼い頃はここでよく圭吾と遊んでいた。
しかし、それも悠介が中学に上がるのと同時に無くなってしまったのだ。
懐かしい出来事を思い出しながら、悠介は公園内を一巡する。
周りに誰もいないこともあり、自分を取り巻く状況が体内に溶け込んでいくのを感じた。
砂を踏みしめればジャリっと音が鳴り、風が吹けばサワサワと木々が歌い出す。
所々にある街灯は薄暗く、その足下をほとんど照らしていない。
カラッとした空気は、夏特有の匂いがした。
身体が大きくなったからなのか、知らない内に歩くスピードが速くなっていたのか、五分もしない内に元の場所に戻ってきてしまった。
この年齢になって遊具で遊ぼうとは思えないので、ひとまずは見つけたベンチに腰をかけることにする。
座ると、膝がピキッという音を立てた。
静寂に満ちた公園にやたらとそれは響き渡り、そのことが少しだけ面白かった。
「……これからどうするかなー」
憂いを全て吐き出すかのように、悠介は嘆く。
もし周囲に人がいたら、きっとうんざりしていたことだろう。
その声に反応するものは、確かにいないはずだった。
しかし、その予想は呆気なく裏切られる。
「どうしたんですか?」
突然の声に驚き咄嗟に振り向くと、そこには一人の女性が佇んでいた。
見た目的に年上だろうか。
悠介より頭半分くらい低い身長。
頭には何故か麦わら帽子を被っている。
雪のような真っ白な肌。
肩と腰の間くらいまで伸びた真っ黒なロングヘアー。
安心感をギュッと詰め込んだような落ち着いた表情。
男女の性別を判断するであろう場所は、それほど主張が強くない。
装飾や柄のないシンプルな白いワンピース。
触っても抵抗感を微塵も感じさせないような綺麗な脚。
女性の姿を注意深く観察していき、最後に足元に辿り着く。
彼女は裸足だった。
夏とはいえ、なんだか不思議な格好をしていると感じた。
「どうしたんですか?」
同じ言葉を繰り返され、悠介はようやく正気に戻った。
きっと、その言葉の意味は初めて発されものとは違かったのかもしれない。
それほどまでに、悠介は彼女に釘付けになっていた。
「いえ、別に。なんでもないですよ。っていうか、いつから後ろにいたんですか?」
警戒を解けない悠介は、疑った声音で相手の目的を探る。
そんな思惑が通じたのか、彼女は優しい笑みを浮かべた。
「そんなに怖がらなくても大丈夫ですよ」
「怖がってなんかないですから」
「本当ですか?」
少しだけ挑発的な物言いに感じ、手の上で転がされている気がした。
そのことに苛つき、悠介は思わず口調を強めてしまう。
「なんなんですかあなたは。質問には答えないし、俺のことからかって馬鹿にしてるのか」
彼女にその意は無かったのか、無言のまま目をパチクリとさせていた。
少々間が空いてから、彼女は決心したように言った。
「ごめんなさい。そんなつもりはなかったんですよ。だから、そんなに怒らないでください。ね?」
こちらを労わるような優し過ぎる口調に、悠介は戸惑う。
しかし、不思議と嫌な気はしなかった。
「いえ。俺の方こそいきなり驚かせちゃってすみませんでした」
女の人相手に何したんだ俺は。
無意識の内にぼやいていたのが伝わってしまったのか、彼女は「聞こえてますよ」と微笑んでいた。
それとなく指摘され、少しだけ顔が熱くなる。
「質問ですけど、私はずっと後ろにいましたよ? ただ悠介くんが気付かなかっただけで」
会話の中に小さな違和感を感じたが、悠介はそれよりも彼女のことが気になった。
「ずっとって、それ本気ですか?」
「本気です」
彼女はニコリと笑う。
先ほどのやり取りを考えても、嘘を言っているようには思えなかった。
「ずっとって、具体的にいつからですか?」
「今日は悠介くんがここに来る時くらいからですね」
「“今日は”って、まるでいつも一緒にいるみたいな言い方ですよね?」
「見かけた時はってことですよ」
「へぇ」
「あ、もしかして疑ってます?」
「疑うっていうか、なんでそんなことしてるのかなーって。もしかしてストーカーですか?」
「違いますよ。……それは、秘密です」
身体を少しだけ前に傾け、彼女は人差し指を口の前に掲げた。
大人っぽい仕草に、ドキリと心臓が飛び跳ねる。
会話が終わり、悠介はそこでようやく違和感の正体に気付いた。
踏み込んだらまずいだろうか?
言うべきか悩んだが、彼女を信じて聞いてみることにした。
「……あの、俺たちってもしかしてどこかで会ったことありますか?」
「えっ?」
「いや、なんで俺の名前知ってるのかなって。もし忘れてたら申し訳ないと思いまして……」
しまった、という風に、彼女は両手で口を覆った。
さっきまでの余裕からは一転、彼女の表情からはほんのりと焦りの色が見える。
黙っているままでは誤解されると思ったのか、彼女は仕方ないといった様子で話し始めた。
「……会ったことはないですよ。私が悠介くんの名前を知ってるのは、他の人が話してるのをたまたま聞いたからです」
「そう、ですか。俺が勝手に忘れてるわけじゃなかったんですね。よかったです」
彼女はコクリと頷く。
その表情は帽子で隠れてよく見えない。
「あの、お姉さん。名前なんていうんですか?」
「名前……」
「どうしたんですか?」
さっきとは逆に、彼女の台詞を悠介が投げ掛けた。
「……なんでも。私の名前は文月綾乃です」
「じゃあ、綾乃さんでいいですか?」
「いいですよ」
「俺は如月悠介です。知ってると思いますけど、一応自己紹介しときます」
「はい。ありがとうございます」
お互いの素性が明らかになり、安心する。
しかし、悠介には心配なことがあった。
「あの、今の流れで言うのも変なんですけど」
「はい」
「綾乃さんがどうして俺についてくるのか分からないですけど、あんまり俺と一緒にいない方がいいと思います」
「それは、どうしてですか?」
「俺、学校でも嫌われてますし、それで喧嘩になることとかもよくあって。顔にある傷も、さっき喧嘩した時のやつです。それに、さっきみたいにキレちゃう時もありますし……」
言いたいことが上手くまとまらず、しどろもどろになってしまう。
伝わっているのかどうか分からなかったが、綾乃は何も言わなかった。
「あの、綾乃さん?」
返答がないのが不安で呼びかけると、彼女はようやく口を開いた。
「大丈夫ですよ。私はそんなこと気にしません。それに、私は幽霊ですから何も心配いりません」
あまりにも予想外なワードに、悠介は混乱する。
困惑したまま綾乃を見ても、彼女は何が楽しんでいるのか微笑を浮かべたままだった。
「幽霊……」
告げられた言葉を反芻する。
「そうです。信じられないですか?」
「えっ? ……あっ、はい」
「それじゃあ、私が幽霊だってことを信じてもらいましょう」
訳が分からない。
どうしてこうなったのか。
疑問符が頭をグルグルと駆け巡っている。
それに答えてくれる人は、誰もいなかった。
「見てください。あそこに人がいますよね? 今からあの人に話しかけます」
「はぁ……」
状況が飲み込めない悠介を置いてきぼりにしたまま、綾乃は悠介の手を掴んだ。
どうするのかと思いきや、彼女はそのまま颯爽と指定した人物に声をかけに行った。
本人は必死で走ってるつもりだったのだろうが、そこまで早くはない。
やはり女性なんだなと思い、そのことが自分より年上ながら可愛いと思う。
「悠介くんはここから様子を見ていてください」
一緒に行ったら幽霊と証明できないと思ったのだろう。
その意図を汲み取り、悠介は綾乃から五メートルほど離れた場所から言われた通りにすることにした。
「あのー、すみません」
「……」
「私が見えてますかー?」
「……」
話しかけたのは、スーツ姿の中年男性だった。
綾乃が何度話しかけても男性は応答せず、最初は仕事終わりで疲れているから相手にしてないのだと思った。
しかし、あまりにも無反応すぎることから、彼女の言葉が徐々に信憑性を帯び始めた。
最初から結末が分かっていたのか、綾乃は話しかける人をコロコロと変えていく。
何度話しかけても、彼女の言葉に反応してくれる人は誰もいない。
その光景にだんだん胸が苦しくなり、十人目になると同時に悠介は綾乃を無理矢理止めていた。
「もういいです綾乃さん!」
「……悠介くん?」
「もういいですから……」
「そんなに悲しそうにして、どうしたんですか?」
「こんな光景をずっと見られたら悲しくなるに決まってるじゃないですか! 綾乃さんは悲しくないんですか!?」
「……だって、私は幽霊だから」
興奮する悠介とは対照的に、彼女の表情は一ミリも動くことなく、当然といった様子で事実だけを告げる。
そんな姿に、悠介は何も言えなくなる。
それを肯定と捉えたのか、綾乃は悠介に再びこう問う。
「やっぱり、私のこと怖くなりました?」
「……そんなこと、ないです」
悠介の答えは変わらなかった。