暴走
悠介は走り続けた。
目的地は確実に近付いている。
冷静な顔をしたもう一人の自分が、「どうしてそんなことをしてるの」と問いかけてくる。
目的地は逃げたりしない。
それなのに何故そんなに急ぐのか、と。
分からなかった。
しかし、そうしなければいけないという強い使命感だけが悠介を駆り立てた。
「どこに、行くんですか……?」
手を引っ張られるようにしてついてくる綾乃の声は途切れ途切れで、疲労の色が滲んでいた。
質問には答えず、走る速度だけがみるみる加速する。
すでに、悠介は何も見えなくなっていた。
「ここで待っていてください」
「……急に、どうしたんですか?」
膝に両手をつき、綾乃は肩を上下させている。
いつもの落ち着いた彼女の姿は、もうどこにもない。
「綾乃さんはやっぱり“あの人”に会うべきです。今から俺がその人を連れてきますから」
「えっ……?」
弾かれたように、綾乃は顔を上げた。
全身に滝のような汗をかいていて、苦しそうに表情を歪ませている。
それが走り続けたことによるものなのか、自分が言ったことに対しての反応なのかは分からない。
そんな姿に、つい決心が鈍りそうになる。
迷いを断ち切るようにして綾乃に背を向け、悠介は触り慣れた扉に手をかけた。
「もう、決めたことだから」
自分に言い聞かせるように、悠介は呟いた。
「お疲れ様です」
「悠介くんじゃない。今日は休みだよね。どうしたの?」
「今、時間空いてますか?」
「うん……。空いてるけど、何かあったの?」
ただならぬ気配を感じ取ったのか、店長は気圧されたように後ずさった。
「店長に会わせたい人がいるんです。この前言ってた、幽霊の話です」
「ああ。あのことね。……とりあえず、一緒に行けば良いのかい?」
「そうしてくれると助かります」
観念したように、店長は早々と着替え始めた。
やけに飲み込みが早い。
きっと、彼自身もその存在を信じてるからだろう。
そうじゃなければ、笑われて一蹴されるだけだった。
こんな人だったからこそ、綾乃は救われたのだ。
店長が“あの人”で本当に良かった。
悠介は目の前の人物に素直に感謝した。
「お待たせしました」
「悠介くん……」
外に出ると、綾乃は右腕を抑えるようにして立っていた。
何か言いたそうにしては飲み込むを繰り返し、結局彼女が言葉を発することはなかった。
「そこに、いるのかい?」
「いますよ。店長はやっぱり見えないんですね……」
店長からすれば、悠介は何もない空間に話しかけてるようにしか見えないだろう。
それでも、彼は決して悠介を嘲笑しなかった。
「あー……。なんか、ごめんね」
「いえ、こちらこそ責めるような言い方してすみません」
「……これは、どういうことなんですか? 説明してください」
耐えかねたように、ようやく綾乃が話し始める。
その声は震えていて、彼女が少なからず動揺してるのが見て取れた。
「俺は綾乃さんに“あの人“に会って欲しかったんですよ。もしかしたら消えちゃうかもしれないのに、このままじゃあまりにも悲しいじゃないですか」
「それは、そうですけど……」
この話題になると、どうも綾乃は歯切れが悪くなる。
あれだけ大切だと言いながら、彼女はそれを避けるような選択を取る。
どうして自ら苦しむような道を歩むのか。
そんな彼女はもう見てられなかった。
「綾乃さんは“あの人”のことが好きなんですよね? だったら、ちゃんと会ってくださいよ! 相手のことばかり考えて、自分のことを疎かにしすぎなんですよ綾乃さんは!」
「悠介くん少し落ち着いて……!」
興奮した悠介を制止するように、店長はトンッ、と肩に手をかけた。
「僕にはよく分からないけど、そんな言い方したら驚いちゃうでしょ。女の子だったら特に優しくしないとダメだよ?」
親が子供をしつけるような言い方だった。
この人は良いお父さんになるんだろうと思う。
いや、もしかしたらすでにいるのかもしれない。
「綾乃さん、って言ったかな。君はあの時の子なのかい?」
その正体を掴もうと手探りしながら、店長は一歩、また一歩と綾乃の元へ歩んでいく。
「僕は、君を助けられなかったことをずっと後悔していた。だから、君に謝りたかったんだ。……本当にごめんなさい」
当の綾乃は、さっきから俯いたっきりで無言になっていた。
彼女の背中を押すように、悠介は付け加える。
「店長に相談してた時に、色々と話聞いちゃったんです。それに関しては俺も申し訳無いと思ってます。……勝手に秘密を暴いたみたいになっちゃって……。でもっ! 店長も綾乃さんに会いたがってた。だから、もう気にすることないんですよ! お互いに見えなかったら俺が仲介でも何でもしますから! だから、ちゃんと会ってくださいよ……」
「……めて……」
「えっ……?」
「もうやめてくださいっ!!」
その瞬間、激しく頭を打たれたような衝撃が走った。
こんな風に声を荒げることは今までに一度たりともなく、綾乃が感情を爆発させることなんてないと思っていた。
だって、彼女はいつだって落ち着いていたし、大人っぽかったから。
それに、今までずっと自分のことを導いてくれた。
だからこそ、目の前で起きたことを未だに信じられなかった。
あまりの出来事に身を固めていると、綾乃は逃げ出してしまった。
「待って!!」
綾乃がとんでもない速さで走り去っていく。
そんな体力はどこにも残っていなかったはずなのに。
今見失ったら、きっともう二度と会えない。
本能的な直感がそう叫んでいる。
会話が断片的にしか聞こえなかったとはいえ、なんとなく状況を察したようで、「僕、余計なことしちゃったかな……」と店長は苦笑いを浮かべていた。
「ごめんなさい! 俺、綾乃さんのこと追いかけます!」
「うん……。よろしくね」
振り返った時には、綾乃の姿はどこにも無かった。




