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めぐりめぐるその日まで  作者: たく
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決心

店長に相談してから二日が経ち、悠介は綾乃と水族館に来ていた。


何故二日なのかというと、今日が初の給料日だったからだ。


初めて間もないということもあり、その量は微々たるものだったが、自分の頑張りへの対価と考えれば感慨深いものがあった。


因みに昨日はといえば、ほとんどお金のかからないような場所を散策した。


それも、店長からのアドバイスを参考にしたものだ。


どうやら彼の意見は的を射ていたようで、綾乃は満足しているようだった。



「大きいですね」


そう言って指差す先には、自分の身体の十倍のサイズは余裕であるだろう巨大マグロがいる。


悠々と落ち着いた身のこなしをする魚たちを見て、ここはなんて平和な場所なんだろうと思う。


住んでいるだけでご飯を与えられ、飼育員が隅々まで世話をしてくれる。


何かあったとしても人目が多いため、大事に至ることは少ない。


まるで天国のような、非常に恵まれた環境だった。


「悠介くんは、ここにいる魚たちをどう思いますか?」


同じことを考えていたのか、綾乃は純粋な目を向けながらこちらに尋ねてきた。


彼女は麦わら帽子と白いワンピースといういつもの格好をしている。


しかし、今日はそれに加えて胸元に星型のネックレスが身に付けられていた。


これは、昨日悠介がプレゼントしたものだった。


給料が入るということもあり、残ったお金を全て使い切って選んだ品物だ。


やはり女性だったのか、とても気に入ってくれたらしく、渡してから今に至るまで一度たりとも外していなかった。


綺麗だな。


そう思っていると、質問の答えを催促するように綾乃に自分の名前を呼んだ。


謝罪をしつつ、先ほどまで考えていたことを素直に話した。


「平和だし、天国みたいな場所だなーって思いますよ」


「確かにそういった面はありますね。ここは良くも悪くも守られていますからね」


でも、と綾乃は続ける。


「私は窮屈そうにも見えます。動物というのは本来、自然に生きてるものです。こうしてここで生きているのは、果たして彼らが本当に望んだことなのでしょうか?」


訴えかけるように綾乃はこちらを見てくる。


そこで、彼女の話を思い出した。


昔、誘拐されかけたという話だ。


そして、彼女の両親がそれを防いでくれたという内容だった。


もしかしたら、綾乃は自分を魚たちに投影してるのかもしれない。


そう考えると、他人事のように見えて実は身近な問題な気がした。


「難しい問題ですね……」


動物の気持ちは分からない。


だが、ここにいれば健康に生きられる。


それはとても幸せなことのはずだ。


少なくとも、自分に置き換えればそう思える。


しかし、綾乃が言おうとすることも理解出来た。


恐らく、ここにいる動物たちは自然に戻ることはないだろう。


いや、正確に言えば戻れない。


動物というのは、人間も含めて環境に左右される生き物だ。


それによる影響は当然大きい。


そして、一度適合した環境から離れることは非常に難しい。


ここにいる魚たちにとって、今から自然に戻るのは死を意味する。


何故なら、そこで生きていく術を知らないからだ。


彼らは知らず知らずの内にこの狭い世界でしか生きられない身体にされてしまっている。


それも、単なる人間のエゴのために。


安全な一生を得る代わりに、彼らは自由を失った。


そして、その自由は二度と手にすることは出来ないのだ。


尋ねられた質問に真剣に向き合っていると、胃の中にドロドロとしたものが渦巻くのを感じた。


「……きっと答えなんてないですよ。自然は危険もたくさんありますし、そこで不幸な目に合うくらいならここにいた方が良いと考えるかもしれません。逆もまた然りです」


「じゃあ、どうしてそんなこと聞いたんですか?」


「悠介くんの考えを知りたかったからです。……あとは、考えて欲しかったのかもしれませんね」


そう言いながら水槽を眺める綾乃の瞳は、今までに見たことのない色をしていた。



日は傾き始め、空はすっかり藍色に染まっている。


館内を満遍なく回った悠介たちは、イルカショーを見に来ていた。


最後の公演ということもあり周囲に人はおらず、貸し切り状態になっていた。


周囲から見れば、男が一人でショーを見に来たという物悲しい風景に見えるのだろうと、悠介は客観的に見た自分を想像した。


ふと、左手に温かいものが包まれる。


綾乃が手を握っていたのだ。


「もうすぐ始まりますよ。ドキドキしますね」


声に釣られて横顔を覗き見ると、彼女の頰はうっすらと桜色に染まっていた。


こちらの視線に気付いたのか、パッチリと目が合う。


「そんなに見つめてどうしたんですか?」


「いえ、なんでも……」


バツが悪くなって、咄嗟に目を逸らしてしまった。


それを見てクスクスと綾乃は笑う。


「綾乃さんはすぐそうやって笑いますよね」


「それは悠介くんが面白いからですよ」


「違いますよ」


「えっ?」


「俺が言いたいのはそういうことじゃないです。……初めて会った時からずっと思ってました。この人はどうしていつもこんなに笑顔でいられるんだろうって。辛いこともたくさんあったはずなのに、それを全部吹っ飛ばすように綾乃さんは笑ってるんです。そんな姿に、俺は惹かれたんだと思います」


「……そうですか」


綾乃は視線を外し、これからイルカが戯れ始めるであろう水面を見つめる。


その先で、飼育員らしき人がショーで使う道具を準備しているのが視界に入った。


「……この二日間、私のために色々とありがとうございました」


そう言いながら、綾乃は胸元で光る星を弄ぶ。


彼女が触れるたびに、それは嬉しそうに身をよじらせていた。


「楽しかったですか?」


「もちろんですよ」


「大変長らくお待たせ致しました。これよりイルカショー夜の部を開演致します。お越しいただいたお客様には、誠に感謝申し上げます」


事前に録音していたらしきアナウンスが辺りに響き渡る。


スピーカーから放り出された声は、恐ろしいほどに無機質だった。



イルカが水中に飛び込む度に、大きな水飛沫が上がる。


ショーの盛り上がりと比例するようにして、それは徐々に勢いを増していった。


見やすさを考慮して後方に座っていたため、その波が悠介たちを襲うことは無かった。


陽気な音楽に合わせて華麗に踊るイルカの姿に、綾乃は珍しく興奮している。


「悠介くん悠介くん! あの子今こっちを見ましたよ!」


その言葉を聞いて、悠介は複雑な感情を抱いた。


きっと、その瞳が映していたのは綾乃ではなく自分の方なのだろう。


いや、もしかしたら、イルカは綾乃のことが見えてるのかもしれない。


動物は時に、人には見えないものが見えると聞いたことがある。


それはきっと、彼らも例外ではない。


しかし、そのことをわざわざ綾乃に言うのは野暮な気がして、悠介は曖昧に言葉を濁した。


唐突に、視界が鮮やかに彩られた。


ステージや客席に飾られていたイルミネーションが点灯したのだ。


眩しかった。


冬でもないのに煌めくイルミネーションも、活き活きと泳ぎ続けるイルカ達も、隣で微笑む綾乃の姿も。


その全てが、悠介には刺激が強過ぎた。


こんな時間がずっと続いたら。


何度そう願ってきただろうか。


変わらない日常は別れを見失わせていく。


しかし、その時は目に見えないだけで確実に近付いているのだ。


ふと、悠介の脳裏に店長の顔と幼い頃の記憶が過った。


綾乃は未だに頰を紅潮させながらはしゃいでいる。


「私、ここに来れて本当によかったです!」


首にかけられている星のような、そんな満面な笑みを彼女は向けてくれた。


それを見て、悠介はこれまでの葛藤に終止符を打った。



「ああいうのって、どうやって覚えてるんでしょうね?」


「ショーのことですか?」


「そうです」


思い出すような仕草をしながら、綾乃は視線を空へと羽ばたかせる。


「あれは、信頼関係が成せる技なんですよ」


どういう意味ですか、と尋ねるような視線を送ると、綾乃はそれを察したように言葉を紡ぎ始めた。


「信頼関係だと少し難しく感じるかもしれませんね。……相手への想いが通じ合ってるといえば分かりやすいでしょうか?」


水族館は閉館時間が近づいており、ただでさえ少なかった人たちは更に少なくなり、来た時とは程遠い静けさに満ち溢れている。


閉館までいたいという綾乃の意思を汲み取り、二人はゆったりとした速度で敷地内を歩いていた。


「想いというのは、何も同じ生き物同士じゃなくても通じるものなんですよ。例えば、私と悠介くんだってそうです」


「それは、俺が人で綾乃さんが幽霊だってことですか?」


「……まぁ、そんなところですね」


どこか納得していないような、そんな物言いだ。


「悠介くんは私のことが好きですよね?」


「いきなり何ですか!? ……確かにそうですけど」


こういうことを自分から言ってしまうのが、何とも綾乃らしいと思う。


「その相手に喜んで欲しいと思うのは、不思議なことじゃないですよね? ショーの話で例えるならば、イルカは飼育員のことを、飼育員はイルカのことをそう思っていたということです」


つまり、飼育員はショーをするイルカの姿を見たいと思っていて、イルカは自分がそうする姿を飼育員に見て喜んで欲しいと思っていたということだろうか。


「あのショーは私たちに見せるためのものではなかったんですよ。彼らの日常を、私たちが勝手に垣間見た。ただそれだけです」


「やっぱり、綾乃さんは先生ですね。そういう考え方、本当にすごいと思います」


「そうですか? 私はただ、自分の大切な人や好きな人に幸せでいて欲しいと思ってるだけですよ」


そうだ。


綾乃は本当にそう思っている。


何より、“あの人”のことを話していた時の彼女はまさにそんな顔をしていた。


だからこそ……。


「悠介くん?」


いつの間にか、綾乃と距離が生まれていた。


そこで、悠介は自分が立ち尽くしていたんだとようやく気付いた。


心配そうに、彼女はこちらを見ている。


そうさせないように気を使いながら、けれども確かな力強さを持って、悠介は言い放つ。


「……綾乃さん。もう少しだけ付き合ってもらっていいですか?」

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