香り
あれだけ降っていた雨は通り雨だったのか、すぐに止んだ。
びしょ濡れになりながらもある所へ向かうと、中から現れた明るい雰囲気の女性がタオルを渡してくれた。
きっと母なのだろう。
しかし、それにしては若過ぎる。
「ありがとうございます」
悠介と圭吾は口々に感謝の言葉を述べる。
やって来たのは、中学時代の後輩の家だ。
学年が二つ離れていてたのでほとんど関わりはなかったが、何となく聞き覚えのある名前だった。
そして、圭吾にとって数少ない友人でもあった。
その顔を思い返してみると、確かに一緒にいることが多かった気がする。
圭吾に事情を聞いたところ、どうやらここにお邪魔していたようだった。
相手の家の人には「遊びに来た」と事情を説明していたようで、今に至るまで何も知らなかったらしい。
友人とはその話を前々からしていたようで、親御さんも泊まりに来たことに疑問は抱かなかったようだ。
結局、事態を深刻に捉えていたのは如月家だけだったのだ。
「すみません。弟がご迷惑をおかけしました」
「そんなにかしこまらないで。私たちは遊びに来ていただけだと思ってたから全然迷惑なんかじゃなかったのよ。ただ、そんなことになっていたのは驚いたけどね……」
後輩の母は困惑したように苦笑いを浮かべている。
無理もない。
実は家出してました、なんて言われたら自分だって驚くだろう。
それだけならまだしも、捜索願まで出していたのだ。
万が一誘拐したなどと警察に虚偽の疑いをかけられていたら、取り返しのつかないことになっていた。
今回起きてしまった事件は、決して楽観視していいものではない。
「騙すようなことして本当にすみませんでした」
圭吾も悠介に続くように深く頭を下げた。
「……私たちは大丈夫よ。今度は本当に遊びに来てくれるのを待ってるわ」
大事になっていたかもしれないのに、目の前にいる女性は何でもないように笑っている。
それを見て、圭吾がなぜここに来たのか分かった気がした。
その懐の深さは、悠介にある人物を連想させる。
それを追うように右を見ると、彼女は「どうしたんですか」と言いたそうに首を傾げた。
後輩の母は、綾乃と似ていた。
きっと、悠介も綾乃がいなければ圭吾と同じことをしていただろう。
彼女がいたからこそ、今まで様々なことを乗り越えられた。
しかし、圭吾にはそういった支えてくれる相手がいなかったのだ。
もしかしたら、圭吾にとって後輩の母やその家族というのは、悠介にとっての綾乃と同じような存在だったのかもしれない。
そう思えば、こうなったことも容易に納得出来た。
「シャワー浴びていく? というか、浴びていきなさい」
濡れていることが哀れに見えたのか、後輩の母は半ば強制するように言った。
これ以上迷惑をかけるわけには……と悠介は反射的に否定してしまう。
「えっ、でも……」
「いいからいいから。風邪引いたら大変でしょう? それに、もしそうなったら圭吾くんのお母さんに怒られちゃうわ」
冗談っぽく言ってくれたおかげで、真面目な空気が一転、柔らかいものになった。
そんな風に言われてしまったら、断ることは出来ない。
渋々といった様子で、悠介は自らに与えられる善意を存分に享受した。
「じ、じゃあ、ありがたくそうさせてもらいます」
そう言うと同時に再び綾乃の方を見ると、彼女は「私は大丈夫ですよ」と言った。
どうやら、今度はこちらの意図が通じたようだった。
シャワーから上がると、後輩の母は車を用意していた。
「もう遅いから送っていくわ」と、先ほどと同様にこちらに選択肢を与えてはくれなかった。
ついさっきまで走り回っていて、身体の節々が悲鳴をあげている。
正直なところ、今回の提案には救われた。
申し訳なく思いつつも車に乗り込むと、あっという間に自宅に辿り着いた。
そこまで時間はなかったはずなのに、悠介はウトウトと船を漕いでしまっていた。
もう少ししていたら、きっと眠りについてしまっていたことだろう。
それほどまでに、彼女の運転は安全そのものだった。
「何があったかは分からないけど、ちゃんと仲直りするんだよ。またね!」
降りる時にそう言い残し、彼女は颯爽と来た道を引き返してしまった。
その後ろ姿が見えなくなるのを確認してから、悠介は玄関へと足を運ぶ。
家の灯りを見るに、恐らく二人は帰ってきている。
圭吾もそれが分かっていたのか、家に入ろうとすると裾を引っ張られた。
「……大丈夫だって。俺もいるから。ちゃんと話せばきっと分かってくれる」
励ましても気持ちがついてこないようで、圭吾は「ちょっとだけ待って」と言った。
「分かったよ」
沈黙が訪れる。
それと同時に、あることを思い出した。
「……あのさ、さっき言おうとしたことなんだけど」
「なに?」
「確かに俺は圭吾のこと羨ましく思ってたよ。いつもチヤホヤされてるし、みんなに求められてた。親からは毎回のように比較されるし、結構しんどかった。それだけだったらよかったんだけど、周りのやつからもそのことでよく嫌味っぽく言われてさ。それで大分荒れてたんだ。まあ、つまり、正直嫉妬してた」
こうして思ってることを直接相手に伝えるというのは、いくら身内といっても構えてしまう。
それは聞く方も同じようで、圭吾の表情はますます硬くなっている。
それをほぐすようにして、悠介は言葉を紡いでいく。
「でも、お前のこと嫌いだなんて、そんなことはないよ。むしろ弟とか関係無しに尊敬してる。圭吾は俺にないものたくさん持ってるから。他の誰が好き勝手言っても、俺はそう思ってる。だから、もう気にするなよ。……もし言われたとしても、『兄さんはそんなこと言ってない』って言い返してやれ」
「……ありがとう」
何だか照れ臭くなってきてしまい、最後の方は捨てるように言い放ってしまった。
それとは対照的に、圭吾は精一杯の笑顔を向けてくれた。
こんな表情を見るのはいつぶりだっただろうか。
今日は本当に色々な顔を見る。
きっと、もう大丈夫だろう。
そう確信し、悠介は静かにとってに手をかけた。
ひんやりとした感覚が肌に染み渡り、声が漏れそうになる。
扉を開き切った瞬間、嗅ぎ慣れた香りが一気に鼻孔を駆け抜けた。
なんだかんだ言いつつも、自宅の匂いというのは落ち着いてしまう。
五日ぶりに帰ってきた圭吾はどう思っているだろうか。
探るように視線を送ると、同じことを思っていたのか目が合う。
リビングに入ると、両親はようやくといった様子で胸を撫で下ろした。
シャワーを浴びる前に、電話で事情は説明していた。
なので、帰ってくることは知っていたはずだ。
それでも、実際に自分の目で確認するまでは信じられなかったのだろう。
「お帰りなさい、二人とも」
「……ただいま」
後ろめたさを前面に押し出すように、圭吾はボソリと呟いた。
安心、疑問、困惑。
様々な感情が入り混じり、部屋の空気はなんとも言えないものとなっている。
「とりあえず。詳しいことは明日話すってことでいいかな? みんな疲れてると思うし」
それらを汲み取るように場を仕切ると、三人はコクリと頷いた。
柄には合わないと思いつつも、不思議と嫌ではなかった。
こんな風になったのはいつからだろう。
記憶を辿ってみるも、答えは一向に見つからなかった。




