扉
アルバイトを始めて一週間ほどが経ち、仕事にも慣れ始めていた。
店長の人柄の影響なのか、相変わらず職場の人は優しく接してくれる。
居心地の良さが身に染みた悠介は、出勤日が待ち遠しく感じていた。
仕事する上で人間関係が一番大切と言う人の気持ちが、今なら分かる気がする。
自分たちが思ってる以上に、その効果は大きい。
悠介はフロアで接客を担当していて、お客さんと一番接するポジションについていた。
新人という肩書きは仕事ぶりからも滲み出てしまい、失礼や迷惑をかけることも多かった。
しかし、その人たちは寛容に許してくれるのだ。
それが新人だからという免罪符があったからなのか、本当にそんなことを気にする人ではないのか、悠介には到底想像できなかった。
だけど、そんなことはどうでもよくて、そういう風に接してくれるという事実が何よりも嬉しかった。
人は直接的にしろ間接的にしろ、必ずどこかで交わって生きている。
そんな当たり前なことを、この短期間で身をもって実感することができた。
八月に入り、暑さはまだまだ衰えることを知らない。
それどころか、日に日にそれは強さを増していく。
バイトを終え店から出ると、いつものように綾乃がポツンと突っ立っていた。
「今日も迎えきてくれたんですか? 暑いの苦手なんですから家にいてもいいんですよ?」
「いえ、私が好きでしてることですから」
あの日以来、電話のフリをすることはなくなった。
単純に疲れるというのもあるが、何よりも街行く人がそこまで自分たちのことを気にしてないと思ったからだった。
それならば、わざわざこんな煩わしいことをする必要はない。
事実、一度そうしてみた結果、気にかけてるような人はほとんどいなかった。
なんでもないような話をしながら歩いてると、景色が次々と流れ去っていく。
会話をしていると相変わらず一人でそうしてる以上に時間が早く、あっという間に自宅に着いていた。
玄関に入り、リビングには顔を出さず自室へ直行する。
それがいつもの流れだ。
しかし、今日はその流れを食い止めるかのようにある人物が待ち受けていた。
素通りしようとしたが、部屋まで来られると面倒だったのでここで対応することを決心する。
「悠介。あんたこんな時間まで何をしていたの?」
「別になんだっていいだろ。補導されるような時間じゃないんだし」
面倒くさい、鬱陶しいという感情を、存分に詰め込む。
「バイトしてたんじゃないの?」
母の台詞は、あまりにも予想外のものだった。
動揺を悟られないよう、毅然とした態度を取り続ける。
「だったらなんだって言うんだよ」
母はあからさまに溜息を吐き出した。
顔に微かに刻まれているしわが、一際濃くなる。
「困るのよ。ただでさえ圭吾の成績が下がっているのに、あんたに変なことされると」
気になる点は他にもあったが、それ以上に勘に触ることがあった。
「またそれかよ。変なことってなんだよ」
それが指すことを自分自身が一番分かっていたはずなのに、会話の流れでつい尋ねてしまった。
気付いた時には、もう遅い。
「あんたが昔、子犬を拾ってきたことよ」
気にかけている様子はまるでなく、 母はあっさりと言い放った。
軽蔑するわけでもなく、淡々と事実だけを述べる。
その表情は、限りなく無に近い。
背後から、綾乃が息を飲む音が聞こえた。
チラリと表情を覗くと、何故だか彼女は申し訳なさそうにしていた。
「私は散々『やめなさい』と言い続けた。でもあんたはそれを無視して自分勝手な行動をした。……その結果、どうなったか分かるわよね?」
そんなこと言われなくても分かってる。
喉まで出かかった言葉は、結局放出されることはなかった。
「あんたは私や父さんの言うことを聞いてればいいの。そして、私たちに黙って勝手な行動をすることはやめなさい」
示されたものは、束縛だった。
「ふざけんな。前にも言ったが俺はあんたらの道具じゃない」
捨て台詞のように言い放ち、もう話すことはないと悠介はその場を後にした。
冷静を意識したつもりだったが、その声は自分でも驚くほどに震えていた。
母も観念したのか、やがてリビングへと姿を消した。
激しく扉を閉める音が、家中に響き渡る。
その様子を確認し、悠介も階段へと一歩踏み出す。
トントントン、と気持ち良さそうにそれは音色を紡いでいた。
刻まれるテンポは、なんだかいつもより少しだけ早い気がした。
二階に上がると、いつかのように圭吾が部屋の前で立ち尽くしていた。
既視感だ。
「……また、喧嘩したの?」
恐る恐るといった様子で尋ねてくる。
その声は蚊が鳴くような声で、ほとんど何を言ってるのか分からない。
上目遣いで自分を見つめる瞳は、何かに怯えているようにユラユラと行き場を失っていた。
「ああ、したよ。『私たちの言うことを聞いてればいい』なんておかしいだろ?」
そう尋ねても、目の前の少年は何も答えない。
その様子に呆れ、髪の毛をクシャクシャと搔き回すと、諦めたように話題を変えた。
「それよりお前、成績下がってるんだって? どうしたんだよ」
親でもないのに、自分がそんなことを気にしてどうするんだろう。
そう思っても、浮かんだ疑問はその真実を求め続けていた。
「うん。ちょっとね……」
ハッキリとしない物言いに、苛立ちだけが募っていく。
「まぁいいよ。俺が言えたことじゃねーけど、しっかりしろよ。お前は俺と違って“天才”なんだからさ」
その言葉に、圭吾はピクリと身を震わせた。
圭吾は少し変わった。
昔から気が弱かったが、最近はそれに拍車がかかっているように感じる。
こうなってしまったのは、一体いつからだっただろうか……。
「そう、だよね。僕が頑張らないとダメなんだよね……」
下を俯いていて、圭吾の表情は分からない。
彼の喋り方からは、泣いてるようにも半笑いしてるようにも取れる。
そのまま、圭吾との会話は唐突に幕を閉じた。
さっきと同様に扉をバタンッと閉め出され、悠介は一人取り残される。
後ろを振り返ると、綾乃は無表情で手を組んだまま黙っていた。
入りましょう、と合図をして、ようやく自室に辿り着く。
綾乃が入ったことを確認し、悠介は静かに扉を閉めた。
「お疲れ様です」
部屋に入るや否や、綾乃はニコニコと笑い始めた。
「ほんとですよ……」
相槌を打つと、特に話が続くこともなく空気が静まり返る。
それを、突如として綾乃が打ち壊した。
「……悠介くんは、わんちゃんを拾ったこと後悔してますか?」
「いえ、してませんよ。……だって、あいつったら雨の中で倒れてたんですよ? 放っておけるわけないじゃないですか」
「……やっぱり、君は優しい人ですね」
綾乃の瞳から一筋の涙が零れ落ちた。
「ちょっと、大丈夫ですか?」
突然の異変に、思わず悠介は駆けつけていた。
大人びていながらも表情は豊かだったものの、こうして泣いてる姿を見るのは初めてだった。
もしかして、自分の発言が彼女を刺激してしまったのだろうか。
「大丈夫ですよ」と言って、綾乃は目元を拭っている。
「どうして、綾乃さんが泣くんですか?」
「悠介くんのあまりの優しさに感動したんですよ」
そう言う姿は、本心なのか冗談なのか見分けがつかない。
「……でも、結局ちゃんと世話できなくて死なせちゃいました。あの時、俺が遊びになんか行かないで一緒にいてあげれば、もっと色々なことができたと思うんです。……だから、そのことだけは後悔してます」
綾乃は特に口を挟むわけでもなく、話を聞き続けている。
彼女は少しだけ俯いている。
それを追うように視線をずらすと、ワンピースの裾がギュッと握っていて、まっさらな生地が不安げに歪んでいた。
「そして、その件があってから母はあんな風になってしまいました。さっきも見てましたよね? ああやってなんでも束縛しようとするんです。まあ、俺自身が悪いのも事実なんですけどね……」
悲観に暮れていると、彼女はいつも通りに助言をしてくれた。
「きっと、お母さんにも何か意図があるんだと思いますよ。時間や気持ちが落ち着いてからでも一度話してみるといいと思います。こうして話を出来る時間がいつまでも続くわけではありませんからね」
家族を失っている彼女に言われると、他の人が言うよりも説得力が段違いだ。
そう言われて、当たり前のように過ごしているこの時間が、実はとても大切なことなんだと気付かされた。
しっかりと向き合わなければ、また後悔してしまうかもしれない。
そんなことは、もうごめんだ。
そう決心すると同時に、悠介の中でもう一つの不安が着実と実を結び始めていた。
それは、今話している彼女とも、いずれ別れる時が来るのではないかというものだった。