ループ
自室に戻ると、綾乃はベットに腰をかけていた。
特にすることもなかったのか、部屋に入ってきた瞬間にバッチリと目が合う。
拾ってきたものに勘付かれないように、悠介は背中に写真を隠し続ける。
しかし、彼女の前でそんなことは通用しないようで、あっさりと異変を見抜かれてしまった。
「どうしたんですか? なんだか落ち着きがないように見えますけど」
「いやー、そんなことないですよ」
自分でも分かるほど声が上ずっていて、身体中から変な汗が噴き出している。
こんな様子では、綾乃でなくてもすぐに気付くだろう。
「誤魔化してもダメですよ。私には分かりますからね?」
「な、なんのことやら」
しらを切り続ける様子に呆れたのか、彼女は困惑した表情を浮かべる。
諦めてくれた。
そう思っていると、不意にタオルを渡された。
反射的にそれを受け取ると、写真はいとも簡単に手からすり抜けていった。
隠していた物の正体までは知らなかったのか、それを見た瞬間、綾乃が息を飲む音が聞こえた。
無言のまま、彼女は写真を見続けている。
その顔に浮かんでいる感情は、全くといって読み取れない。
ただ、それを見るのが嫌ではないということだけは伝わってきた。
悠介は自然と語りかけていた。
「そこに映ってるのは、俺が飼ってた犬なんです。いや、飼ってたなんて大層なものじゃない。俺はその子に対して責任を持てなかった。まだ幼かったなんて言い訳は出来ない。……俺のせいで、その子は死んでしまったんです」
ふと綾乃の方を見ると、彼女はこちらをただただ見つめていた。
その時になって、ようやく自分が独り歩きしていることに気が付いた。
「す、すみません! 急にこんなこと話しーー」
「幸せだったと思いますよ」
「……えっ?」
傍観し続けていた彼女が突然話し出し、そのことに悠介は面食らった。
困って頰を掻いていると、彼女はしっかりと想いを届けるかのように言った。
「私は、この子が幸せだったと思いますよ。……だって、こんなに楽しそうじゃないですか」
綾乃は、悠介の手に優しく写真を握らせる。
焦っていて気付かなかったが、所々茶色っぽく色褪せている。
それが、時の流れを無情にも実感させた。
そこには、微笑みながら左手でピースを作っている自分が映っている。
そして、そんな自分にベージュ色のチワワが抱えられている。
圭吾に撮ってもらった写真で、しっかりと被写体が真ん中に収まっていた。
この頃は悠介が六歳、圭吾が四歳の時で、当初は二人の身長がまだ同じくらいだった。
「ほら、笑ってるように見えませんか?」
綾乃はチワワの顔を指差した。
「これは暑いから舌を出してるだけですよ」
「では、ここを見てください」
そう言って、彼女は写真の中の身体をなぞるようにして指を這わせる。
「見づらいですが、尻尾を大きく振っているのが分かります。こうなっている時は、興奮していたり喜んでいる時が多いんですよ」
指摘をされ、その場所にゆっくりと焦点を合わせていく。
「……本当だ、よく気付きましたね」
「私の観察眼を甘く見ちゃいけませんよ?」
両手を腰に当て自信満々に振る舞う綾乃は、この上なく頼り甲斐があった。
「それはそうと、帰ってくるのが少し遅かったですよね。また何かあったんですか?」
唐突な話題の切り替えに、一瞬言葉が詰まる。
なぜそうしたのか分からなかったが、気を使ってくれたんだと思い、素直に流れに乗っかった。
「ちょっとまた喧嘩しちゃいまして。いや、喧嘩ですらないか……」
後半はボヤくような喋り方になっていた。
しかし、彼女は眼だけではなく耳も良かったようで、全て筒抜けになっているようだった。
「喧嘩するほど仲が良いとも言いますし、それはそれでありなのかもしれません」
「まあ、そうなのかもしれないですけどねー」
聞き流すような中途半端な返事をしてしまい、綾乃がジト目で視線を送り続けてきている。
「後は、家族にも私と接するような態度にしてみてはどうですか?」
「それは無理ですよ……」
「どうしてですか?」
そう言われると、明確な理由は思い当たらない。
強いて言えば、気に食わないとしか言いようがなかった。
「それは、悠介くんが他人を認めていないからではないですか?……悠介くんは認められ、頼りにされるような人になりたいんですよね?」
自分の想いを他人から発されるというのは、なんだか複雑な気持ちになる。
しかし、それは紛れもなく自分が口にした言葉だった。
肯定を示すように、悠介は頷く。
「それなら、まずは君自身がその人たちを認めた方が良いです。相手を受け入れ、認めることによって、初めて自分に返ってくるものです」
「それは、俺からじゃなきゃいけないんですか?」
どうにも納得がいかず、頭に思い浮かんだ疑問を咄嗟に尋ねていた。
綾乃は「うーん」と言いながら顎に手を添えている。
この仕草をする時は、彼女が思案している時だった。
何かを思いついたのか、綾乃はまるで授業をするかのような口調で話し始めた。
「例えば、自分が嫌なことをされたら悠介くんはどう思いますか?
「それはまぁ、嫌ですね」
「そうですよね。そこに対する反応は人それぞれだと思います。やり返そうとする人がいれば、そのまま泣き寝入りしてしまう人もいるかもしれません。しかし、いずれにしてもポジティブな気持ちにはならないですよね?」
「そうですね」
「では、その状態がずっと続いたらどうなると思いますか?」
綾乃は何が言いたいのだろうか。
一つ一つ段階を経ていくような回りくどいやり方に、焦ったさを感じる。
しかし、彼女が何の意図もなくこんなことをするとは思えない。
それを汲み取り、彼女の質問に対する答えをじっくりと吟味する。
「……戦争になる、とかですか?」
「正解です」
解答に満足したのか、綾乃は満面の笑みを浮かべている。
いつもの癖で、綾乃は悠介の頭を撫でようとした。
しかし、授業が終わってないことを思い出したのか、その手はすぐに引っ込められた。
「やられたらやり返すという思考は、争いの火種を撒くことになります。仮に当事者が行動を起こせなかったとしても、それを見ていた第三者が動く可能性があるからです。そうならないためには、必ず誰かがそのループを止めなくてはいけないのです」
「それはそうかもしれないですけど、それだと止めた人が辛いじゃないですか。その人はどうしたらいいんですか?」
「確かに、止めた人は様々なものを抱え込むことになってしまいます。その人の苦労は他の人の比にならないでしょう」
「それじゃその人だけが嫌な思いを背負うことになりますよ。そんなの理不尽すぎませんか?……それに、その人自身がずっとそのままとは限りません。何かの拍子に爆発してしまうかもしれないですよ?」
「それでも、そうなってしまった時はそうするしかありません。……ですが、それを未然に防ぐ方法ならありますよ」
「そんなことできるんですか?」
綾乃とこんなに真面目な話をしたのは初めてかもしれない。
いや、思い返せば、お風呂の時も似たような話をしていた。
それどころか、彼女の話は日頃から為になるような内容ばかりだった。
自分の考えに対してしっかりと反応してくれることが嬉しくて、悠介はすっかり会話に熱中していた。
「もちろんですよ。そこで最初の話に戻ります。今までの話で、物事はループするということが分かったと思います。そして、そうなってしまった時は誰かが止めなくちゃいけないということも」
うんうん、と相槌を打つ。
それに応えるように、綾乃も会話を展開させていく。
「では逆に、こうは考えられませんか? その特性を活かして、良いループを作ってしまえばいいんです。そうすれば、それを止める必要性もありません」
「良いループ? どういう意味ですか?」
「悠介くん、いつもありがとうございます。私は君と一緒にいられて毎日楽しいです」
突然のことに訳が分からなくなりつつも、何か言わなければと思い、綾乃の言葉に反応した。
「どういたしましてです。……俺の方こそ、いつもありがとうございます。今もこんな風に相談に乗ってくれて助かってます」
「と、いうことですよ」
「えっ?」
「悠介くんは私のことそう思ってくれてるんですね。とても嬉しいです」
真剣な表情から一転、綾乃はニヤリと笑顔を浮かべている。
ハメられた。
そう気付いたと同時に、身体が一気に熱くなるのを感じた。
「ちょっと意地悪なやり方しちゃいましたね。ごめんなさい。でも、百聞は一見に如かずで、実際に体験してもらった方が良いと思ったんです」
なんとも言えない気恥ずかしさを感じ、外の景色を眺めるように窓の外へ視線を移す。
「今みたいに感謝の気持ちを伝えると、相手も自然に感謝することができるんです。もっと言うと、“したくなる”という方が正しいかもしれません。これが、良いループです」
「なるほど……」
「これはさっきとは逆で、誰かが始めなくてはいけません。そうしないと、このループは始められないのです。でも、初めてさえしまえば良い関係を築き続けられます。その輪が広がっていけば、世界中がもっと幸せになると思いませんか?」
この人には敵わない。
改めてそう思わされた。
綾乃は、自分と違う次元を生きている。
人間と幽霊という意味でもそうだが、明らかに見てる景色が違う。
自分のことだけではなく、全ての人が平和に生きられるようにと、彼女は考えているのだ。
そんなに広い視野で、自分は物事を考えられない。
これも、“あの人”の影響なのだろうか。
「……先生って呼んでいいですか?」
「いいですよ」
綾乃は優しく微笑んでいる。
本当に彼女が先生になったら、不登校やいじめ問題は全て解決するのではないだろうか。
優しくて穏やかな彼女らしい考え方に、悠介はとっくに惹かれていた。
「悠介くんの悩みにも同じことが言えます。自分がこうなりたい、こうされたいと思うのであれば、まずはそれを自分がしてあげましょう。そうすれば、願いが叶う日も遠くはありません」
「ありがとうございます! 綾乃先生!」
冗談半分で、悠介は綾乃に敬礼した。
彼女はノリが良かったらしく、同じ方の手で敬礼を仕返してくれた。
自分たちの行動がおかしく思え、二人してお腹を抱えて笑う。
「先生ついでに、もう一つアドバイスです」
「何ですか?」
「確か、今日から夏休みでしたよね? 時間もあると思いますし、アルバイトをしてみるのはどうでしょう?」
「それは、どうしてですか?」
「理由は二つあります。まず一つ目に、家と学校から離れるという点です。悠介くんの主な悩みはこの二箇所から来ています。特に家族問題、こちらが大きいです。なので、一度家から離れて新しいコミュニティに属してみると良いと思います。色々な人と触れ合えば、自分の考え方を養うきっかけにもなります」
詳しく話したことはないのに、綾乃は全ての事情を把握している。
それどころか、その対応策までこうして提示してくれる始末だ。
彼女の察しの良さには、いつも驚かされてばかりだった。
「そしてもう一つが、さっきの話を体験してもらうためです」
「と言いますと?」
「仕事というのは、いわばニーズとニーズの交換です。ニーズというのはこうしてほしい、こうしたいという願望が具現化したものです。それを満たすことで対価を得ているのです」
やたらと世の中に精通していて、流石は年上だと思う。
それに対して、自分はどうだろうか。
こんな風に、弟を導けるような存在になれているだろうか。
少なくとも、今の自分がそうなっているとは到底思えなかった。
「それに伴って、感謝やお礼といったものを受け取ることができます。つまり、仕事をするというのは良いループを体験するのに手っ取り早く、かつ絶好な機会なのです」
力強く言い切る姿は、悠介に一ミリの迷いも与えない。
「それにお給料をいただくことができれば一石二鳥じゃないですか? そのお金で夏休みを満喫することもできます」
「俺、バイトしてみます!」
食い気味で反応する悠介に、綾乃は驚いたように目を開いた。
やがて、その表情はいつもの笑顔に戻る。
早速携帯の画面を開き、悠介は求人を探し始めた。
アルバムの時とは逆で、今度は綾乃が携帯を覗き込むようにして見ている。
初めての作業に勝手が分からず、納得できる条件をようやく見つける頃には、深夜二時を過ぎていた。