あの人
「どうでしたか? 私のお話は」
片目を拭いながら、綾乃は問いかける。
その瞳に灯る光には、どんな意味があるのだろう。
今の悠介にそれを知ることは、到底不可能だった。
「どうって、言われましても。正直なんて言えばいいのか分からないです」
その反応は予想通りだったらしく、彼女はうんうんと感慨深そうに首を上下させている。
「以前も話しましたけど、一人で変えられることには限界があると思うんです。当事者間だけではどうしても解決が難しいことってあるじゃないですか。私は、あの時助けられたから前に進めました。……だから、今度は私が悠介くんにそれをしてあげたいんです」
まるで昔の自分に語りかけるような口調だった。
過去を知った後にそう言われると、重みがまるで違う。
「ありがとうございます。……でも、いいんですか? その対象が俺なんかで。綾乃さんは、本当はその人にそうしたいんじゃないんですか?」
そう問うと、綾乃の表情から色が消え失せた。
そのまま彼女は黙ってしまい、ようやく地雷を踏み抜いていたことに気が付いた。
「……その人は、私のことが見えていませんでしたから。仮に見えていたとしても、死んだ私が目の前に現れたら驚いちゃいます」
淡々と事実を告げる姿は、初めて公園で会った時と同じものだった。
しかし、その時とは違って、綾乃はどことなく嬉しそうだ。
無理にでも明るく振舞おうとする姿に、キュッと心が締め付けられた。
彼女を見れるのが、どうして自分なのだろう。
この時ばかりは、そのことを呪った。
その人物に会わせてあげたいと思う。
しかし、彼女がそれを望んでいない以上自分がそんなことをするのはお門違いなのではないか。
それに、彼女がやりたいことは自分を手伝うことなのだ。
綾乃を唯一見えているのは自分だけ。
つまり、願いを叶えてあげられるのも自分しかいない。
彼女のことを考えれば、自分が取るべき行動はすぐに分かった。
「変なこと言ってすみません。俺も、綾乃さんに手伝って欲しいです。お願いします」
頭を下げると、綾乃は優しくそこを撫で始めた。
顔を上げることができず、視界には無機質な模様の海がひたすらに広がっている。
「綾乃さんって、それ好きですよね」
「それって、何ですか?」
明確に口にするのは何だか照れ臭くて、顔がほんのり熱くなる。
「……その、頭撫でることですよ」
「悠介くんは嫌ですか?」
「嫌ではないですけど、何か変な気持ちになるっていうか、ソワソワします」
右から左へ、左から右へ。
寄せては返す波のように、綾乃の柔らかい手は動き続ける。
気持ちのいいところに手が届く感覚がして、それが堪らなく心地良い。
ずっとこのままでいたい。
しかし、それをこちらから言うのはなんだか負けた気がする。
ジレンマに陥った悠介は何もできず、彼女の気持ちが変わらないことをひたすら祈るしかなかった。
「こうされるとすごく落ち着きませんか? 自分は一人じゃないんだって思えるんです。私が寝込んでいたり弱っている時も、あの人はずっとこうしてくれてたんですよ」
語る声は弾んでいる。
“あの人”が誰を指すのか、今なら分かる。
綾乃の考え方や性格は、その人によって構成された。
きっと、彼女の頭の中は“あの人”でいっぱいなのだろう。
自分の知らない彼女を、そいつは知っている。
そのことを考えると、なぜかモヤモヤした気持ちになる。
胃が軋み、言葉にできない何かがグルグルと渦巻いている。
初めて芽生えた感情を、悠介は処理することができなかった。
アルバムを元の場所に戻しに行くと、部屋の外から父と母がソファに座って真剣な面持ちで対談しているのが見えた。
圭吾の姿は見当たらない。
あの後どうなったか気になっていたが、なんとか落ち着いたようだった。
きっと、父がまた場を収めてくれたのだろう。
意を決して扉を開くと、母が驚いた様子でこちらに振り向いた。
父は自分のことが見えていたのか、特に変化は無かった。
「なんだ悠介か……」
溜め息混じりの言葉を吐かれ、聞いてるこっちまで気分が下がる。
こんな人とよく話していられるな、と悠介は父の忍耐力に感心した。
「なんだよその言い方。圭吾に聞かれたらまずいことでも話してたのかよ」
「別にそんなんじゃないわよ」
「だったらなんでそんなリアクションするんだよ。おかしいだろ」
「あんたには関係ないでしょう」
喧嘩をしないようにと心がけていたが、悠介にとってこの言葉だけは聞き流すことはできなかった。
「人には干渉してあーしろこーしろって散々命令してくるくせに、自分がそうされるのは嫌だっていうのかよ。自分勝手にも程があるだろ……」
呆れた様子を隠すこともなく、吐き捨てるように言い放つ。
間違いなく怒られると思った。
しかし、母のリアクションは悠介の想像していたものとは大きくかけ離れていた。
「……あんたには、親の悩みなんて分からないでしょう」
滲み出る諦めの色。
これ以上話すことはない。
明確な線引きをされ、言葉は行き場を失う。
母の示す態度、それは拒絶だった。
「なんだよそれ、ずるいだろ……」
そっちがその気なら、と悠介はさっさと目的を果たそうとした。
父は何か言いたそうな目でずっとこちらを見ている。
しかし、結局話しかけてくることはなかったので、こちらも気付かないふりを通し続けた。
苛立ちを隠しきれず雑にアルバムをしまうと、一枚の写真がこぼれ落ちる。
この写真は誰にも見られたくない。
心の奥底に閉じ込めておきたい、後悔の産物。
それなのにどうしても捨てることができなくて、仕方なくアルバムに残し続けていた。
急いでそれを拾い、二人に見られないようにして部屋を脱出した。




