アルバム
今日で一学期が終わり、学生待望の夏休みへと移行した。
綾乃が現れてから三週間が経ち、彼女がいる生活にも徐々に慣れ始めていた。
そして、それが当たり前になりつつあった。
あまりにも普通に生活するものだから、つい幽霊だということを忘れてしまう。
しかし、周囲の反応が嫌でも現実を思い出させてくれる。
そして、その度に悠介は複雑な感情を胸に溜め込んでいた。
「って……」
「動かないでください。じゃないと、口や目に入って危ないですよ?」
「それは嫌です……」
悠介は、綾乃に手当てをされていた。
こうして彼女に看病されるのが日常になってきていて、それが申し訳ない。
「あの、綾乃さん。いつも迷惑かけてごめんなさい」
「迷惑なんかじゃないですよ。あと、こういう時は『ありがとう』って言ってくれた方が嬉しいです。……それに、悠介くんは私のために怒ってくれたんですよね? 私はすごく嬉しかったですよ」
「ありがとう、ございます」
何に対して発したのか、自分でもよく分かっていなかった。
目をつぶっていても、綾乃がニコニコと微笑んでいるのを感じた。
それくらい、彼女は笑っていることが多い。
その笑顔に何度救われたのか、悠介はすでに数え切れていなかった。
屋上で綾乃にどうしたいのかを問われて以来、彼女はこれといった行動は何もしてこなかった。
それについて問うと、「私は悠介くんのお手伝いはできますけど、君自身にはなれないのですよ」と言い続けるだけだった。
言われてみれば当たり前のことで、自分の問題は自分で向き合うしかない。
しかし、彼女があまりにも頼り甲斐がありすぎるせいで、ついつい甘えてしまう。
兄である悠介にとって、自分より年上の存在は魅力的だった。
まるで姉ができたような感覚だ。
自分を変えることは簡単ではなく、あれからも因縁をつけられたり嫌味を言われることばかりだった。
その度に頭に血が上ってしまい、気付けば傷だらけになっていた。
そして、今日は綾乃のことで喧嘩をしてしまったのだ。
気付かない内に彼女と話しているところを見られていたらしく、そのことでちょっかいを出された。
もちろん、彼らに綾乃の姿は見えていない。
側から見れば、悠介は独り言を言ってるようにしか見えないだろう。
そして、挙句の果てには自分を馬鹿にするだけではなく、綾乃の存在をも否定するような発言をされてしまった。
そのことがどうしても許せなかった悠介は、いつも以上に怒りを爆発させることとなった。
そして、今に至るのだった。
「はい、終わりましたよ。もう目を開けてもいいですよ」
目を開くと、至近距離に綾乃の瞳があった。
その瞳は温かな色をしていて、自分なんかがそれを見続けていてもいいのか分からなくなり、悠介は目を逸らした。
そうしてる内に綾乃は救急箱をしまい、床にコロリと寝っ転がった。
うつ伏せで床に張り付く姿は、なんだかシュールだった。
何が楽しいのか、彼女は足を上下に動かしていて、その度にスカートの中身が見えそうになる。
そんな姿に、いちいち心を揺さぶられた。
それを悟られないように、平然を装いながら綾乃に語りかける。
「綾乃さん。そんなところで寝っ転がってると風邪ひきますよ?」
「私は幽霊なので大丈夫ですよ。でも、悠介くんの好意をありがたく受け取っておきますね」
そう言って立ち上がると、白いワンピースはフワリと波を打った。
まるで雲のようだと思った。
突如、綾乃は室内をグルグルと回り始める。
どうやら、何かを探しているようだった。
そこはかとない違和感を感じる。
それは、彼女は家に置いてある物の場所をほとんど把握しており、今更探すものなんてないと思ったからだ。
「どうしたんですか?」
「ちょっと探し物をしてるんですよ」
「聞いてくれれば教えますよ」
「それでは、遠慮なく」
そう言うと、室内の空気は一瞬静寂に包まれた。
そして、彼女はあまりにも予想外の言葉を発した。
「アルバムです」
「えっ?」
「写真を納めておく、あのアルバムです」
「それは分かりますけど、どうしていきなりそんなものを?」
「幼い頃の悠介くんが見たくなったんですよ。やっぱり嫌ですか?」
「いえ、そういうわけじゃないですけど……」
あれには、色々な思い出が詰まっている。
アルバムというのは楽しかった思い出をしまっておく場所だ。
でも、だからこそ、それが後の自分を苦しめるものになる可能性もある。
「あの頃は……」などと、否が応でも現在と比較をしてしまう。
そんなことに意味など無いというのに。
本音を言えばあまり気が進まなかったが、彼女のお願いならば断る理由も無い。
「ちょっと待っててください。下に行って取ってきますから」
「ありがとうございます」
「綾乃さんはここで待っていてください」
彼女がコクリと頷いたのを確認し、悠介はリビングへと向かった。
部屋に入ると、父、母、圭吾と、家族全員が揃っていた。
三人は、何やら進路のことについて相談しているようだった。
タイミングが悪いと思いつつも、その間を何事もないようにすり抜ける。
「兄さん、どうしたの?」
圭吾に話しかけられ、悠介は返答せざるを得なくなった。
「大した用じゃないよ。アルバムを取りに来ただけ」
「アルバム? あんたなんで突然そんなもの探してるのよ?」
圭吾が反応するよりも先に、母が話しに割って入ってくる。
今一番関わりたくなかった相手に話しかけられ、悠介は鬱陶しさを隠そうともせずに答える。
「別に。母さんに関係ないだろ」
自分でも棘のある言い方だと自覚しつつも、どうしても止めることはできない。
それに反応したかのように、母は怒りを露わにした。
「悠介、あんたねぇ。いつまでそんな風に反抗期を続けるつもり? もう少し大人になったらどうなの?」
「……うるさいな、放っといてくれよ」
室内の空気が徐々に重たくなっていく。
父は黙って様子を見守り、圭吾は何か言いたそうにオドオドしている。
蚊帳の外へと追い払われてしまった二人は何もできず、リビングは悠介と母の戦場と化した。
「呆れるわ。圭吾はこんなに優秀なのに、私ったらどこで育て方間違えたのかしら」
話題に出され、圭吾がビクリと姿勢を正した。
その表情はみるみる青ざめていく。
母はきっと、己に対する愚痴のつもりだったのだろう。
しかし、頭に血が上っている悠介にそう考える余裕はどこにもなかった。
「嫌味かよ。別にあんたに育てられたつもりはないけどな」
自分でも言ったらまずいということは、重々承知している。
しかし、母に対抗しようとするとどうしても厳しい言い方になってしまうのだ。
母の怒りはピークに達していて、今にも立ち上がりそうな勢いだった。
「あんたいい加減にーー」
「そこまでにしなさい」
母が言葉を発すると同時に、見守り続けていた父がようやく動き出した。
「母さんも悠介も少しは落ち着きなさい。顔を合わせては喧嘩ばかり、少しは周囲の迷惑も考えなさい」
父は正論のみを言い放ち、反論の余地を与えない。
こうした父の物言いに家族が冷静さを取り戻すのは、よくあることだった。
しかし、中立を取り続ける父の姿に、悠介はいつも煮え切らなかった。
「親父はいつもそういう態度だよな。確かに間違ってないよ。でも、あんたのそういう態度が俺は気に食わない」
いつもは無表情で寡黙な父が、この時ばかりはほんの少しだけ表情を険しいものに変える。
そこに映るのは怒りか、はたまた悲しみか。
とても想像がつかなかった。
悠介の一言によって、せっかく落ち着きつつあった空気もすぐに元に戻ってしまう。
いつもなら父が言葉を発した時点で騒ぎは収まるのだが、今回はそうではなかった。
突如、掠れそうな声で何かが呟かれた。
「……仲良くしようよ。僕、こういうの嫌だよ……」
今にも消え入りそうな言葉を放ったのは、圭吾だった。
圭吾は、普段は周りを意識してハッキリと意思を表示することが少ない。
そんな彼がこの状況で意見を申すことは珍しくて、悠介はそのことに心底驚いていた。
そしてそれは悠介だけではなく、両親もそのようだった。
その証拠に、室内は言葉を発した圭吾も含め、誰も何も言えなくなっていた。
そんな流れを断ち切るように、悠介は目的の品を探し始める。
和室に入り、様々な物が保管されている棚を開く。
ここには小学校や中学校の卒業アルバムや、部活動の寄せ書きなども置いてある。
そこから家族用のアルバムを引っ張り出し、逃げるように退室した。
部屋を出る時に後ろ目で状況を確認すると、そこは深い闇のような空気が立ち込めていた。




