こっち側とそっち側
学校に行き、惰性で授業を受ける。
いつもと変わらない日常だ。
ただ、一点を除いては。
綾乃は悠介の隣に黙って突っ立っていて、窓から体育の授業を受けている生徒を見守っている。
彼女の姿は、やっぱり自分以外には見えないようだった。
学校に着いても、彼女は存在しないものとして扱われ続けた。
安心半分、不安半分といったところだ。
自分にしか見えていないという事実は、悠介を無性に安心させた。
しかし、それと同時に、綾乃の心境を考えると心苦しいものもある。
周囲の人間に受け入れてもらえず、疎まれ、孤独に生きるということがどれだけ辛いことなのか、悠介は知っている。
状況は違えど、綾乃も孤立している。
だが、彼女がそれを気にしている様子はまるでない。
無論、この状況で綾乃の姿が周りに見えてしまったら大問題なのだが……。
悠介は、未だに綾乃という生き物が何を考えているのか理解できなかった。
昼休みを告げるチャイムが校内に響き渡った。
我先にと購買へ駆け出す者、グループを作りお弁当を広げる者、他クラスの人を誘い学食でご飯を食べる者、行動はバラバラだ。
四時限目を終える頃には、教室中の空気が浮つき出していた。
それを他人事のように、悠介はぼんやりと眺め続ける。
規定通りの行動しか許されない場所が、この瞬間だけはそんな鎖から解き放たれるのだ。
それを待ち構えていたかのように、校内の生徒達は思い思いの時間を過ごす。
まさに、自由時間だ。
そして、それは悠介も例外ではなかった。
綾乃にアイコンタクトを取り、いつもの場所へと案内をした。
三分ほど歩き、慣れ親しんだ階段を登ると、目的の場所へと辿り着いた。
扉を開くと、ゴォッ、と空気の塊に襲われる。
逃げ場を失ったそれは、風船のようにワイシャツを膨らませた。
やってきたのは屋上だった。
校則では立ち入り禁止なのだが、悠介のことを気にかける人は誰もいないため、この場所に足を運ぶことは容易だった。
適当な場所に腰を下ろし、登校時に寄ったコンビニの袋を漁る。
「他の人とご一緒しなくていいんですか?」
「いいんですよ別に。俺はこうして一人で過ごす方が好きなんです」
「本当ですか? それなら私を教室に置いてきてもよかったんですよ?」
「それは綾乃さんが可哀想じゃないですか」
「私は別に一人でも気にしませんよ」
「昨日は俺が見えなくなったら寂しいって言ってたじゃないですか」
「それはそれ。これはこれです」
自分の行動を否定されてる気がして、なんとなくモヤモヤする。
それが顔に出ていたのか、綾乃はやんわりと指摘をした。
「本当は、周囲の人たちの仲良くしたいんじゃないですか?」
「そんなことないですよ」
「私にはそう見えます。悠介くんは他人と交わることを望んでいる」
「どうしてそんなこと断言できるんですか?」
「女の勘です」
その言葉に、思わず肩を落とす。
その様子を見て、綾乃は言葉を修正した。
「というのは半分冗談でして、本当に一人でいたいなら私を誘わないんじゃないかと思ったからですよ」
「だから、それは綾乃さんが可哀想だったからですよ」
「確かにそれもあると思いますけど、本心では違うんじゃないですか?」
核心を突くような物言いに、顔が強張るのを感じた。
自分は今、間違いなく叱られた子供のような顔をしている。
そんな気がした。
「“私”が可哀想なのではなく、“自分”のことをそう思ってるのではないですか? 悠介くんは、私に自分を投影している。私という存在を使って、自分を正当化しようとしている。そんな気がしました」
彼女がここまで意見を主張することが意外で、どうしてそんなことを言うのか理解できなかった。
「綾乃さんは俺の味方じゃなかったんですか……」
「味方ですよ。だからこそ言いました」
落ち込む悠介とは対照的に、綾乃は毅然とした態度を貫き続ける。
汗がダラダラと滝のように流れてくる。
顔から落ちた滴は、地面を水玉模様に彩った。
この時期にここに来るのは、あまり得策ではない。
それが分かっていても来てしまうのは、彼女が言う通り、自分が傷付かないように正当化しようとしていたのかもしれない。
最初から一人でいれば、あいつは仲間外れにされたと後ろ指を指されることもないからだ。
「少し厳しい言い方をしちゃいましたね。責めるつもりはなかったんですよ。私はただ、悠介くんに幸せでいて欲しいだけです」
そう言って、綾乃は悠介の手を握る。
触れられた部分は恐ろしいほどに熱く、しっとりと湿り気を帯びていた。
「あの、一つ聞いてもいいですか?」
「何ですか?」
「綾乃さんは、俺に一体何をするつもりなんですか? 手伝ってくれるって言ってましたけど」
「それは、悠介くんが一番分かっているのではないですか?」
質問を質問で返され、具体的な内容は聞けない。
綾乃が言うことが正しければ、自分の中に答えがあるということだ。
そして、悠介はそのことに気付いている。
ただ、認めたくないだけで。
「でも俺、どうしたらいいか分からないです」
「大丈夫ですよ。そのために私がいるんです。私が、君を悩みや苦しみから救ってあげますから」
綾乃は握っていた手を自分の身体に手繰り寄せた。
「まずは、君自身がどうしたいか、ですよ」
「どうしたいか、ですか?」
「そうです。どうするべきかではなく、どうしたいかです。それはきっと、悠介くんの心の奥底にあるはずです」
綾乃にそう言われ、自分が今までそんなことを一切考えたことがないことに気付いた。
いや、それは少し違う。
考えなかったのではなく、“考えないようにしていた”のだ。
それは過去の行いから来るものだと、すぐに分かった。
何かを考え、行動に移すことは怖い。
責任は全て自分にのしかかり、言い訳をすることは許されない。
何より、自分がこういう人間だということが証明され、それを否定されることが怖いのだ。
自分に正直な人は本当にすごい。
他人の目など気にせず己の道を突き進む姿は、周囲に大きな影響を与えるだろう。
しかし、その裏で大きな葛藤もあるはずだ。
突き進んだ先に望んだ未来があるとは限らない。
そして、そうなった時に傍観していた人たちはこう言うのだ。
だから言ったじゃないか
と。
他人の不幸は蜜の味とはよく言ったものだ。
挑戦して落ちぶれていく姿を見ることは、それだけで快感になってしまうのだ。
傍観し続ける人間は、決して“そっち側”の人間にはなろうとはしない。
なぜなら、その方が楽で自分を守れるからだ。
かつては誰しも“そっち側”だったはずだ。
しかし、大人になるにつれ現実を見るようになり、自分を偽るようになる。
そうやって、自分を守ることでしか生きていけなくなるのだ。
そしてそれは、自分も同じだった。
だからこそ、己の道を突き進む人はすごいと、本気で思える。
目の前にいる彼女も、自分がやりたいことをしている。
そんな彼女になら、自分の想いを伝えても問題ないだろう。
なぜなら、“そっち側”に住んでいるのだから。
「俺は、周りから認められたいです。そして、もっと頼りにされたい」
「……よく言えました」
綾乃はゆっくりと握っていた手を離した。
そして、微笑みながら悠介の頭を優しく撫でた。




