Chapter-4
お昼の放送で、白鳥くんの声が流れていた。
おそらく、事はこういうことだ。
依頼人・宮山先輩は、仮入部に来た白鳥くんが置いていったノートを汚してしまった。白鳥くんを避けるため、宮山先輩は、磯崎に部室にいさせたかった。先輩が放送事故の件を知っていたとすれば、白鳥くんが来ても気まずさですぐ引き返すだろうと読んだのかもしれない。たとえ知らなかったとしても、磯崎が探偵としてさがし物中だということを口実に、白鳥くんを部室から追い返せると思ったのかもしれない。三年生不在になってから、お昼はしょっちゅう白鳥くんの声が流れていた。たぶん声が流れていない時も、放送室でスタッフをやっているに違いない。お昼休みは来る心配がない。放課後逃げ切ればいい。三年生不在の間、逃げ切れば……。
逃げ切れば、どうなるというのか。
磯崎の「実験結果」を見せてもらった。紙は真っ白でコーヒーのシミは跡形もなかったけれど、罫線は消えていたし、程度の差はあれどれも紙はごわっとしていた。汚くは見えないものだったけれど、何事もありませんでした、と言うには無理がある代物だった。白鳥くんがどんな反応を示すのか、それはわからない。宮山先輩を罵るかもしれないし、怒って入部を辞めるというかもしれないし、仕方ないですよ、気にしないでください、とあっさり許すかもしれない。わからない、けれど。
「そんなの、本人の問題なんだから。謝るしかない話なんだし、それ以外解決方法なんてないよ」
僕は言った。僕たちは昼食を食べ終えて、他の数人のクラスメイトとともに校庭に出ていた。制服を腕まくりしてバスケを始めた彼らを眺めつつ、僕たちは階段に座りこんで喋っていた。よく晴れていて、空が青い。
「大体、昨日本人に直接訊いたら話はもっと早かったんじゃないの。これは誰のノートですか?って」
「……それも考えた。だがそれを訊くと、依頼の意図についてまで話が進んでしまう可能性があった。それでは依頼人を追いつめてしまう。その前に、ノートがきれいになるかどうか試したかった。ノートがきれいになるなら、依頼人の悩みは完全に解決できるわけだし……」
「でもさ、そもそも仮定だって君も認めてたじゃない。まったくの見当ちがいで、依頼人はノートのことなんてかけらも気にしてないかもしれないよ。なのによくそこまでがんばるよね」
「いや沙原くん。シミ抜きというのはなかなか奥深いものだぞ。紙の乾かし方も、ドライヤー、冷凍庫、自然乾燥、いろいろ試したが……」
「いいよ説明しなくて」
その時、バスケをしているクラスメイトたちがこちらに参加を呼びかけた。授業中に寝たのかどうか知らないが、朝に比べて幾分すっきりした顔になっている磯崎は、「おうっ」と調子よく手を挙げて立ち上がる。ブレザーの上着を階段に残して、僕たちもバスケに加わった。磯崎はおそろしく運動神経がよく、中等部でのバスケの技術小テストなどでもすべてにおいて先生に褒めちぎられていた。そのくせ試合形式になると磯崎は、滅多にシュートをしたりしない。パス回しに専念し、ひたすらに、敵味方含めて全員が気持よく動けることだけに心を砕く。そんなだから、一部の奴らにはいやみだと言って過剰なほどに嫌われていた。僕自身、そんな磯崎にまったく反感を覚えないと言えば嘘になる。
「こっちこっち!」
上がった声の主に、磯崎のパスは気持ちいいほど的確に届く。今は休み時間だ。みんなが楽しければそれでいい、のかもしれないけれど。
「ほら、沙原」
考え事をしている僕に、誰かからのパスが回って来る。僕は何とか受け止めて、ちょっとだけドリブルをしてから、他の人にパスをした。
磯崎は敵チームだったけど、僕の正面でただ笑っていた。
放課後僕と磯崎は、詩歌研究部の部室に行った。部室の前でしばらく待っていると、宮山先輩が姿を現した。
「今日で三日目だけど、見つかりそうか、ボールペン」
ぶすっとした顔で、ほとんど目も合わさずに宮山先輩は言い、部室の鍵を開けた。
「それなんですが、今日はちょっとお話があります」
磯崎は、にこにこしながら言った。
「そうか」
宮山先輩はぶっきらぼうに言うと、「おまえら中に入っておけ」と言って、自分は元来た廊下を歩いていった。僕と磯崎は顔を見合わせつつ、先に部室に入る。片付けたから当然だけど、部室は一昨日足を踏み入れた時に比べるとかなりすっきりとしている。もちろん、床の隅には本や雑誌が積み上がっているしお菓子の袋もペットボトルも寄せてそのまま置いている状態ではあるけれど。テーブルの上は一昨日はあったパソコンも片づけられていて、何もない状態なので、それが大きいのかもしれない。
「このノートだ」
磯崎が手に取ったのは、例の茶色いシミのついたノートだった。
その時宮山先輩が部室に戻ってきた。足で扉を開けて中に入ってくる。
「ペンは見つからないが、部室を片付けてくれたし……」
両手に、自販機の紙コップを持っていた。
僕はぞっと首筋に鳥肌が立つのを覚えた。
はじめから、宮山先輩はそのつもりだったのだろう。僕たちに、紙コップを倒させるかどうかして再びノートを汚させ、罪をなすりつける魂胆だったのだ。
「お、そのノート……」
磯崎の手に例のノートがあるのを見て、宮山先輩はちょっと驚いたようだった。が、取り繕うように「ほら」などと言いながら、テーブルの僕と磯崎が立っている側に、買ってきた紙コップの飲み物を置く。
「ま、座れよ。話があるんだろう」
目の前に置かれたブラックコーヒーに、磯崎は一瞬戸惑うような表情をした。が、すぐに笑顔に戻ると、
「ありがとうございます。が、すみません、せっかくなのですが、僕、コーヒーが飲めないんですよ」
言いながら、先輩の側に紙コップを置き直す。
僕ははらはらしていた。
磯崎は頭がいい。が、妙に鈍感というか、たまにとんでもなく察しが悪い時がある。なぜそれがわからない、というような時が。だから磯崎が宮山先輩の魂胆を察しているのか、単に実際コーヒーが飲めないから辞退したのか、僕には判断がつかない。
「そうか。それは残念だな」
先輩はこともなげに言うと、自分の前に置かれた紙コップを手に取り、ひと口飲んだ。それから顔を歪めるように笑みを浮かべると、
「そのノートの中、見てみろよ」と言った。
「すみません、一昨日何を見ても構わない、と言われたので、実は見てしまいました」
磯崎はにこにこしながらそう言うと、いつもの調子で中に書かれていた詩の感想らしきことを語り上げた後、「これを書いたのは宮山先輩なんですか?」と訊ねた。
「ちがうんだ」
「あ、そうなんですか。じゃあ三年生の先輩ですか?」
「それもちがう」
「え、じゃあ」
しらばっくれて訊ねる磯崎に、宮山先輩は、「それは新入部員のものだ」と言った。
「あれ、部員入ったんですね。でも一昨日も昨日も来なかったですね」
「まあ、兼部だし。毎日必ず来なきゃならない部活でもない」
「でも先輩は毎日来てますよね」
「俺はサイトの更新があるから」
「あ、昨日の記事すごく面白かったです。詩の紹介、萩原朔太郎の『殺人事件』」
磯崎は、本心なのかおべっかなのか、先輩の記事を褒めちぎった。宮山先輩はまんざらでもない顔をしていたが、
「まあ、それはそれとして、な」
磯崎の持つノートに目を戻した。
「磯崎くんは詩に造詣があるみたいだから、ちょっとそのノートの中のある詩について、細かく意見を聞きたいな」
「どの詩についてですか?」
「ちょっとノート貸してくれ」
磯崎の正面に座っている宮山先輩は、片手を差し出しながら、もう一方の手でコーヒーの紙コップをさりげなく磯崎の方に押し出すようにした。
「このページの詩なんだが」
テーブル上に右手でノートを広げてみせながら、左手の方ではさらにカップを押し出す。磯崎は、結構激しい手振りで話をする。ちょうど磯崎の手が当たりそうな位置まで、カップは押し出された。僕は磯崎の右側に座っていて、ノートには手が届かない。咄嗟にカップを退けようと思って手を伸ばしかけた。
が、その前に、磯崎がカップをひょいっと取り上げた。
「危ないですよ先輩。『また』ノート汚しちゃいますよ」
言うと、僕の手にカップを押しつけるようにした。僕は大急ぎで、すでに自分の右側に置いていたカップに寄せるようにそのカップを置く。
「まあでも、文字が読めないほどじゃないし、汚れてると言ってもこの程度、大したことないと思いますけどね」
そのままの調子で磯崎は続けた。
「大したことないと思うか?」
鼻白むように先輩は言う。
「大したことないと思いますけど」
「そっか。じゃあ依頼内容変えるわ。おまえ、何でもやってくれるんだろ?このノート汚したの、おまえってことにしてくれる?」
目をそらすようにして、口許にどこか嘲るような笑みを浮かべながら、先輩は言った。
僕は思わず磯崎の顔を見た。