Chapter-3
次の日の朝、駅の改札に入ったところで僕は磯崎を見つけた。通勤通学の人たちでにぎわう中、壁にもたれるようにして立っている。僕の家の最寄り駅である。磯崎の家の最寄り駅は同じ沿線で、僕の家と学校の間にある。つまり途中下車ではなく、磯崎はわざわざ朝から学校とは反対方向の電車に乗ったことになる。
「おはよう沙原くん」
顔を上げてそう言った磯崎は、一応笑顔だった。が、寝不足がはっきりと見てとれた。くせ毛頭はいつもよりぐちゃぐちゃで、目許はやつれて顔色が悪い。いつもはピンとしている背筋がぐんにゃりと猫背になっていて、普段うっとうしいほどみなぎっている太陽のようなエネルギーがまるでない。
「どうしたの」
「聞いてくれ沙原くん。昨日……」
咳き込むように言いかけて、突然ことばを切ると、
「あ、昨日は申し訳なかった」
突然謝る。一緒に帰ろうという約束を自分からすっぽかし、メール返信すらしなかったことに、今さら思い至ったらしい。
「いいけど。何かわかったの?」
ホームへの階段を上がりながら僕は重ねて訊ねる。
「ノートが鍵じゃないかと思ったんだ」
ホームに着くと、磯崎は自動販売機に向かい、コーラを買った。ペットボトルを傾けて一気に半分ほど飲むと、少しだけ顔色がましになる。
「ノート?」
「詩歌研究部の部室にあった。茶色いシミのついたノートだ」
そう言われてみれば、薄汚れたノートがあった気がする。
「中を見たら、詩が書いてあった」
「そりゃ、詩歌研究部だからね」
「宮山先輩の字ではなかった」
「他の、三年生の先輩のノートだったんじゃないの」
「その可能性もあった。それで昨日は、中等部の時の文集で同じ字がないか探していた」
うちの学校の文集は、それぞれの生徒の手書きの文章が載っている。でも。
「外部生のはないよね」
「そうだ。だから見つからない場合は別の手を考えないといけないと思っていた。だが幸いなことに見つかった」
「誰だったの」
「白鳥ゆうき」
え、と思わず僕は声を出した。直接の面識はないけれど、僕は彼を知っている。磯崎も当然知っている。僕らと同学年、爽やかな声でアナウンスをする、放送部の有名人。中等部二年生の時、彼はちょっとした放送事故を起こした。ほんの数秒のことだったけれど。アナウンスと音楽の合間、本人はマイクが入っていないと思っていたのだろう。「磯崎めぐるっていう胡散臭い奴が……」彼のそのことばが、学校中に流れたのだ。磯崎は、まったく気にしていなかったけれど。
「白鳥くん、だったんだ」
「ああ」
「文芸部に見学に来たのも彼だったのかな」
野村先輩は、彼は書き溜めたものがあるらしいと言っていた。外部生である先輩が、白鳥くんのことを知らなくても不思議はない。
「で、文集を見ていたせいでそんな寝不足になったの」
「いや」
「白鳥くんについていろいろ考えていたとか」
「いや」
電車が来た。座れるほどではないけれど、ぎゅうぎゅう詰めになるほどには混んではいない。僕と磯崎は並んで吊革に掴まり、会話を続ける。
「実験をしていた」
「実験?」
「シミ抜きの実験だ」
「って、ノートの?」
「さすがにいきなり本物で試したりはしていない。ノートを勝手に持って帰ることは憚られたし。ネットで調べた方法を試した。シミはおそらくコーヒーだ。どんなコーヒーだと思うか、沙原くんの意見を聞きたいと思ったんだが。すぐに返信がなかったから、つい先に帰ってしまったんだ」
どうやら昨日は、詩歌研究部は早めに閉めて帰ったらしい。一昨日と違いまあまあきれいになった部室で「探す」場所なんて限られるだろうし、たとえ一時間程度でも磯崎が詩歌研究部で「探偵活動」できたのが、逆にすごいと思えたりする。
それはそうと。
「どんなコーヒーかなんて、シミからわかるわけないよ」
「そうか?沙原くんはよくコーヒーを飲んでいるだろう」
ちなみに磯崎はコーヒーが飲めない。けど、コーヒーが好きだからと言って、シミを見て種類がわかったりするわけがない。
「種類といっても豆の種類を当てろと言っているわけじゃない。ミルク入りか砂糖入りか、と言った程度だ。おそらく部室棟の自販機のものだろうし、範囲は限られている」
「いやそれでも、シミを見たところでわかるかどうか……だいいち、汚れたノートがあったのは何となく覚えてるけど、シミの色なんてはっきり覚えてないし」
「でも、ノートは見たんだろ?」
「いやだから、はっきりと見たわけじゃ」
寝不足でややぼうっとしている磯崎は、あからさまにきょとんとした。
ああ、こういうところが本当に、磯崎のどうかしているところだ。「ちらっと見ただけだからちゃんと覚えていない」ということが、磯崎にはよくわからないらしい。一体どういう脳をしているのか、磯崎はちらっと見ただけのものでも、「見た」ものはすべて画像として脳に納めているらしい。そしてどのくらい前のことまでそれができるのか知らないが、必要があればすぐさまそれを「確認」することもできるらしい。それでどうして容量オーバーにならないのか、僕には不思議でならないのだけど。それが磯崎の「当たり前」だから、たまにこういう、普通人をいらつかせるような反応をする。
とはいえ磯崎は、僕の表情から察したらしかった。
「ああ……そうか。まあ、そうか」
窓の外に目をやりながらばつが悪そうに言うと、話を続ける。
「ともかく僕は、昨日帰りに同じノートを購入してシャーペンで文字を書き込み、ブラック・ミルク入り・砂糖入り・ミルクと砂糖入りの四種類のコーヒーを用意し同じようなシミを再現してみた。濃さやミルク、砂糖の量がわからないので難儀したが、最も似たものがブラックコーヒーで再現できた。漂白剤とティッシュと割り箸を用意して、漂白剤を含ませたティッシュで……」
「ちょっと待って!」
コーヒーのシミ抜き講座が延々と続きそうに思えたので、僕は止めた。
「その、つまり君はコーヒーのシミを抜く実験をしていて、そんなに寝不足になったの?」
「そうだ。漂白剤というのは素晴らしいな。見事にコーヒーの茶色は消え失せた。しかし問題は、コーヒーだけではなく罫線も消えてしまうこと、そして濡れた紙をどのように乾かすか、それには複数の方法があるのだが……」
「それはいいから。ちょっと整理させてもらっていいかな。詩歌研究部の部室に、コーヒーのシミのついたノートがあった。それは部外者のものらしかった。で、どうして君がそんなにがんばってそのノートをシミ抜きしなきゃと思ったの?」
電車が途中の駅に止まる。僕と磯崎は並んで揺れ動く。寝不足の磯崎はやはり少し感じが悪い。
「さっき言っただろう。ノートが鍵だと思ったんだと」
「どういうこと?」
「昨日僕は詩歌研究部の部室で、一昨日の部室の状態を頭の中で再現して細部の観察をしてみたんだ。そうすると、わざと散らかされた部室の中で、あのノートの置かれ方にはほんのり気遣いの気配があることに気づいた。ぐちゃぐちゃに崩された本の上に、乱雑さの中に溶け込むことを意図されながらも、それだけ後でそっと置いたような……そういう違和感があった」
磯崎には、妙な観察力がある。僕は着ている制服のしわの状態から、通学途中座っていたか立っていたかを当てられたことがある。そんなことわかるわけない、別で得た情報を元にからかってるだけだ、としか思えない時もあるけれど……これについては、「よく当たる勘」のように受け容れるしかない。
「わかった。ノートが鍵だ、と思ったのはいいよ。でもだからってどうして、君が必死でシミ抜き方法を研究することになるの」
「問題を解決するのが探偵の仕事だからだ」
少し離れた場所に、見知らぬ女子高生の二人組が座っている。会話自体はほぼ聞こえない距離だったけど、なかなか可愛いその子たちから、「イケメン」という単語だけがぽろっと聞こえてくる。彼女たちの視線がこちらに向けられているのは、さっきから気づいていた。「イケメン」が磯崎のことを指しているのは重々承知している。ボロボロの寝不足で精気がないこの磯崎の、一体どこがイケメンなんだか。
「依頼じゃなくても?」
「まだすべて仮定の域を出てはいないが、時間がない。『ボールペンを探してほしい』という依頼が嘘であるなら、僕は依頼の裏にある本当の願いを探りだし、問題解決の努力をしなくてはならない」
「依頼に応えるのが探偵だよ。願いを叶えるのは別の存在だよ」
僕がそう言ったところで、電車は目的の駅に到着した。